詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブラッドリー・クーパー監督「アリー スター誕生」(★★★★★)

2018-12-26 09:45:56 | 映画
ブラッドリー・クーパー監督「アリー スター誕生」(★★★★★)

監督 ブラッドリー・クーパー 出演 ブラッドリー・クーパー、レディー・ガガ

 午前10時の映画祭「裸の島」を見る予定だったのだが、すでに上映が終了していた。それで、たまたま「アリー スター誕生」を見たのだが、これはたいへんな「拾い物」であった。
 予想以上にすばらしかった。
 ブラッドリー・クーパーは、この作品が初監督。監督術はクリント・イーストウッドから学んだというが、まさにイーストウッドのような手際のよさ。あらゆるシーンがしつこくない。感情をぱっと動かし、そこで断ち切ってしまう。余分に見せない。
 クライマックスはどこか、というと、レディー・ガガがスターになる瞬間。ブラッドリー・クーパーに誘われて、ステージで歌い始める。その歌声に観客が熱狂する。このときのレディー・ガガの不安と驚きと喜び。それに寄り添うブラッドリー・クーパー。これをステージの上から観客を背景に捉えている。まるで自分がブラッドリー・クーパーかレディー・ガガになって歌っている気分だ。観客の熱狂にあおられて、ふたりは歌の世界に没頭していく。観客に聞かせているというよりも、観客が見ている前で、ただ自分の世界に没頭していく。まるでセックスである。他人なんか気にしない。いまが幸せ。そういうエクスタシーの瞬間がある。
 レディー・ガガは歌手だから歌がうまいのは当たり前だが、ブラッドリー・クーパーもうまい。これにも感心した。
 それにしても、と思うのは。
 映画はやっぱり映像と音楽なのだ。セリフなんかは関係ないなあ。
 すでに知り尽くされたストーリーだから、ストーリーなんかに観客は感動しない。ストーリーをつくりだす映像と音楽にしか注目しない。そうわかっていて、オリジナルの音楽と映像をぶつけてくる。凄腕である。
 思えばイーストウッドは「センチメンタル・アドベンジャー」では歌手を演じ、「バード」や「ジャージー・ボーイズ」もつくっている。映像と音楽を親和させることに熟達している。
 「アメリカン・スナイパー」で一緒に仕事をするだけで、イーストウッドの最良の部分をすべて吸収している。ブラッドリー・クーパーは、イーストウッドの後継者になったといえる。どこまで世界を広げていくか、とても楽しみである。「ハングオーバー!」が最初に見た映画だが、そのときは軽い美形役者くらいにしか思わなかったのだが。あ、軽い美形役者のロバート・レッドフォードも初監督「オージナリ・ピープル」でアカデミー賞作品賞と監督賞をとっていたなあ。ブラッドリー・クーパーもとれるかな? 期待したい。応援したい。

(2018年年12月12日、中洲大洋スクリーン1)

 *

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池澤夏樹のカヴァフィス(7)

2018-12-26 09:05:56 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
7 第一弾段

 テオクリトスという詩人とエウメニスという詩人が対話している。テオクリトスは「紀元前三世紀前半の詩人。田園詩や牧歌の祖とされる」だが、エウメニスは「架空の人物」と池澤は注釈している。詩は、その架空の詩人のことばに対して実在の詩人がこたえるという形をとっている。実在の人物のことばもまた架空である。
 なぜ、カヴァフィスはテオクリトスに「架空のことば」を言わせたのか。

詩作の階梯は高く高く伸びていて
わたしが今いるのはその第一段目。
不運なわたしはこれ以上登れますまい」

 この若い詩人のことばに対して、先輩詩人は言う。

おまえが第一段にいるということことこそ
誇るべきであり、また幸運でもあるのだ。
(略)
第一段に立っているというだけで
平凡な人々から遠く距っているのだ。

 池澤はたぶんここに注目して「主題は、詩という困難な芸術に対する詩人の心がまえ」と書いているが、違うだろうと思う。ポイントはここにはない。
 若い詩人は、これに先立ち、こう言っている。

「これで二年間が過ぎましたが
書けたものといえば牧歌がただ一篇。

 架空のエウメニスそのひとがカヴァフィスにとっては「牧歌」詩人テオクリトスであり、その牧歌詩人をカヴァフィスは、「平凡な人々から遠く距っている」と評価している。
 ここにはカヴァフィスの「自負」のようなものがある。
 カヴァフィスは「牧歌」を書かない。「牧歌」は詩の「第一段」である。カヴァフィスは、もっと上の段にある詩を書いている。テオクリトスは「第一段」までしかのぼれなかった。のぼっただけでも評価に値するが、私はそういうところにはとどまらない。もっと違うものを書く、と宣言している。だからこそ「イデアの町」が後半に登場する。
 「田園詩や牧歌」ではなく、「都会の詩」「人事の詩」を書く。そうやって時代の精神を切り開いていくと宣言している。

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