詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana (番外30) Eduardo Muñozの作品

2018-12-19 18:06:40 | estoy loco por espana
Eduardo Muñozの作品。



つかわれなくなった鉄が組み合わされている。
つかわれなくなったけれど、死んでしまったわけではない。思いがけない形で生きている。どんな「いのち」を見つけ出し、形にするのか。そのとき、エドゥアルドの人間性(人柄)が出る。
エドゥアルドは、温かい人間だ。ユーモアがある。
鉄は硬くて冷たい印象があるが、エドゥアルドが組み合わせると、とても温かい。そして、なるよりも「丸み」がある。この「丸み」は強さである。負けない強さである。
このおばあさんは、猫背と手足の小ささがとてもおかしい。ハンドバッグにきちんと鍵がついているのも、笑ってしまう。
 もしかするとスペインでは絵本などに出てくる有名なおばあさんかもしれない。

El hierro que no se usa se combina.
Dejé de ser utilizada, pero no murió. Vivo en una forma inesperada. ¿Qué tipo de "vida" se encuentra y se forma? En ese momento, surge la naturaleza humana (personalidad) de Eduardo.
Eduardo es un ser humano cálido. Tener sentido del humor.
El hierro tiene una impresión dura y fría, pero cuando Eduardo lo combina es muy cálido. Y hay "redondez" en lugar de ser. Esta "redondez" es la fuerza. Es fuerza para no ser derrotado.
Esta abuela es muy extraña en sus pequeñas espaldas y pies. También sonrío que los bolsos están correctamente cerrados.
Tal vez sea una abuela famosa que aparece en libros de imágenes.



 犬を散歩させているのは、大人かもしれない。大人でもあつかい憎い猛犬なのだろう。口輪が、そう思わせる。人間の線の細さがそれを強調している。

 しかし、私たちはなぜ、簡略化された形から、その完全形を想像できるのだろうか。
 この問題も、エドゥアルドは提出しているかもしれない。
 そして、その抽象というか、比喩化の過程で、たぶん人間性というものが出てくるのだと思う。
 エドゥアルドは、どんな人でもあたたかく受け入れ、しっかりと抱きしめるにんげんなのだと思う。


Puede ser un adulto que esté paseando a un perro. Incluso los adultos son probablemente perros odiosos de odio. El anillo en la boca me hace pensar eso. La delgadez de la línea humana resalta eso.

¿Pero por qué podemos imaginar esa forma completa de una forma simplificada?
Eduardo puede haber presentado este problema también.
Y, en el proceso de figuración, tal abstracción, creo que la naturaleza humana se manifiesta.

Creo que Eduardo acepta calurosamente a cualquier persona y la sostiene con fuerza.





コメント (2)
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小林稔「一瞬と永遠」、浅見恵子「狂々」

2018-12-19 14:34:01 | 2018年代表詩選を読む
小林稔「一瞬と永遠」、浅見恵子「狂々」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 小林稔「一瞬と永遠」(初出『一瞬と永遠』8月)。いろいろ考えているうちに、この詩集の感想も書かずに置いてある。「現代詩手帖」のアンソロジーには「一、パリス、ノスタルジアの階梯」ともう一篇が収録されている。
 ギリシアをどう読むか。他の人のギリシアに関することばを読むと、違和感を覚える。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という思考でギリシアを見ていないか、と思ってしまう。精神と肉体、という「二元論」で見ていないか。

           少年たちの美しい形姿に似つかわ
しい魂を注ぐため、ノスタルジアの階梯をかつてわたしは
昇りつめたが、わたしは彼らに何を与え何を授かったので
あろうか。神象の視線は正面から捉えられ、一瞬の姿を永
遠の形相に変貌させた神の似像をまえに、わたしは精神の
羽搏きを感じて、しばらく立ち去ることを忘れた。

 「形姿」と「魂」、「似像」と「精神」。この対比が、私にはわからない。何度か書いたことがあるが「魂」ということばの前で、私は途方に暮れる。私は「魂」の存在を知らない。理解できない。読むと、そこに「対比」があることがわかるが、それはあくまで「頭」でわかっているつもりになっているだけで、私には「現実味」がない。「数学」の数式を読んでいるような感じで、「具体的なもの」が見えてこない。
 「似像」は「神の似像」と書かれている。この時の「似」は「似ている」というより「似させた」だろう。「像」は人間がつくったもの。そうであるなら「似させて」つくった像ということだろう。「似させる」という「動詞」のなかに人間がいる。こういう「動詞」に触れたときに、人間にどういうことが起きるのだろうか。私の場合は、どうしても「肉体」が動く。私にはこういうものをつくれない、と思う。同時に、その像をつくった人間の「肉体」を感じ、「人間がいる」と感じる。私の「肉体」がそう判断する。「精神」は動かない。
 でも、小林は「精神」を動かしている。「精神の羽搏き」を感じている。このときの「精神の羽搏き」というのは、小林の精神ではなく、その像をつくった人の「精神の羽搏き」ということだろうが、それを感じることができるのは、同じように小林の精神が羽ばたいているからだろう。
 私は、そういうことを感じられない。
 「神」というのものも、どうも、よくわからない。ギリシアの「神」は「人間の欲望」そのものに思える。人間の行動の「典型」を純粋化したものに思える。「精神」ということばは、どうもぴんとこない。「精神」というのは、キリスト教の「神」が出現したあとのものではないのだろうか。「新約聖書」を読むと、キリストは確かに存在した。目撃証言が微妙に違うのは、キリストが存在し、キリストに出会ったひとがことばを動かしているからだ、ということはわかるが、キリストが神、あるいは神の子であるかどうかは、私にはわからない。「新約聖書」の登場人物は、キリストがいたと語ること、その行動を語ることで、「精神」を語り継ごうとしている。デカルトの「我」というのもキリスト教の「神」と向き合っている。そして、そのとき「肉体」は脇に置かれている、と感じる。「肉体」と「精神」の分離というのはキリスト教によって始まって、デカルトが追認したというように思える。あるいはデカルトによって、より洗練された(?)という感じかなあ。
 私の感想なんて、あくまで感想で、いい加減なものなんだけれど。
 どういえはいいのかよくわからないが、小林の書いていることは「ことばの運動」としては完結しているが、そのことばの運動の中に私は積極的に入っていくことができない。「肉体」が入っていかない。「頭」だけがことばを追い掛けて読んでいる気持ちになる。どう整理すれば、私のことばが動くのか、よく分からない。だから、こうやって、くだくぐとことばをつないでいるのだけれど。
 私の「肉体」のなかに、ごちゃごちゃ整理されないまま動いているものがあり、それが整うまでは小林の詩について感想を書くのはむずかしい。



 浅見恵子「狂々」(初出『星座の骨』、9月)はおもしろい。

花という花から毛が生えて
土という土から溢れている
流れるそれは
すでに香りではない

 では、流れているの何? 私は即座に「肉体」だと反応する。このとき浅見は「花」になり「土」になり、「生えて」「溢れて」「流れ」ている。つまり、「ひとつ」の形ではない。瞬時に変形し、瞬時に「ひとつ」のものから「複数」のものになっている。「花即土/土即花」という固く結びついた「変化」そのものが「浅見の肉体」なのだ。
 浅見の「肉体」から「目」が飛び出していく。花をつかまえる。土をつかまえる。浅見の肉体がつかまえたものが浅見なのだ。
 「花」になって、「土」になって、浅見は感じる。

肉の内側から肉がにじみ
虫によって運ばれる
花粉の油
泥水の腐り
ミミズの吐息
芋虫の排泄
土壌から湧きだし
皮膚から入りこむ
ぬめったニオイに包まれ
雉や雲雀が
耕された畑の土手で
浮かされていることにも
気づかないまま

ひとり転がった地面の
花という花から毛が生える
土という土から春が溢れている

わたしの許しなく

 地面に転がって、浅見は「春」そのものになる。そのとき「肉体」は「花」のような美しいものだけではなく、「ミミズ」や「芋虫」も含む。「吐息(息を吐く)」「排泄(排泄する/糞をする)」ということを浅見は浅見の「肉体」で追認することができる。
 最後の「許しなく」がとてもいい。
 こんな無軌道な「変身」(自己拡張)を「許している」のは誰? 浅見の「精神」? ああ、そんな面倒くさいものは、生きている世界には存在しない。「肉体」は「精神」の許可など求めたりはしない。自分の好き勝手にやる。それが「肉体」の喜びである。「精神」なんていうものは、「他人への配慮」にすぎない。
 ギリシアの神は「他人への背理」なんかしない。自分の思うがまま。「肉体」が命じるままに動く。「わがまま=精神」、「肉体=精神」がギリシアだと思う。そのイコールは、けっして分離できない。

 小林の詩よりも、浅見の詩の方に、私はギリシアを感じる。

*

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