池澤夏樹訳『カヴァフィス全詩』(書肆山田、2018年09月25日発行)を読むのは、なかなかむずかしい。私は中井久夫の訳でカヴァフィスを知った。その印象が強烈にある。思い出さないようにして読む、というのがむずかしい。
少し違った読み方をしてみようと思う。
池澤の訳詩には「注釈」がついている。中井の本でも「注釈」はついていたが、中井の場合は本の最後の方にまとめて収録している。池澤は詩の下の方(余白部分)に書かれている。その「注釈」と「詩」を関係づけながら、詩を読みたい。詩よりも「注釈」を読む、という感じで読んでみたい。
実は、私は「注釈」というものを頼りに作品を読んだことがない。中井の訳詩の場合も、ほとんど参考にしなかった。「注釈」には、結局、私の知らないことが書いてあるだけであり、どれだけ読んでもそれは詩を読む感動にはならないと思うからである。
そういう私が、池澤の「注釈」をどう読むか。それを書いてみたい。
1 壁
池澤がこう書くとき、「ギリシア悲劇」のようなものを念頭に置いていると思う。どこがギリシア悲劇と違うのだろう。どこかにギリシア悲劇を感じさせるものがあるとしたら、それはどこだろう。
カヴァフィスの詩は
と始まっている。「厚く高い壁」は比喩である。ここには「ギリシア悲劇」は存在しない。「思慮」「慈悲」「恥」といういわば抽象的な概念が、「厚く高い壁」という比喩によって意味を補強されているだけだ。言い換えると、ここには他人は登場しない。ドラマはカヴァフィスの「概念」あるいは「観念」のなかだけで起きている。「彼ら」と書かれているが、カヴァフィス自身が築いたのだ。
つまりカヴァフィスはだれかに「反抗したわけではない」。自分自身と折り合いをつけただけなのだ。「対話」というものがあるとしたら、それはカヴァフィスとカヴァフィスの対話である。自己対話によって、カヴァフィスは、「観念」を純粋化しようとしている。これは、他者に共感を求めない、ということでもあると思う。
そうした彼が、最後の連でこう書く。
私は「石工の声を耳にはしなかった」という部分がとても好きだ。自己対話の「悲しみ」がここに集約されている。私はここに共感してしまう。自己対話はさびしい。そのさびしさが、ふっとした感じで、具体的なことばになっている。「声」が切ない。
カヴァフィスは「声」を生きた詩人なのだと、ここからわかる。
「彼ら」はカヴァフィスを批判したのではなく、カヴァフィスが批判されるかもしれないと恐れ、彼自身で壁を築いた。批判されないための壁を築いた。そして逃げ込んだ。もしだれかが直接カヴァフィスを批判したのなら、その「声」は実在し、カヴァフィスはそれに対して何事か反論しているだろう。つまり、こういう詩にはならなかっただろうと推測できる。
少し違った読み方をしてみようと思う。
池澤の訳詩には「注釈」がついている。中井の本でも「注釈」はついていたが、中井の場合は本の最後の方にまとめて収録している。池澤は詩の下の方(余白部分)に書かれている。その「注釈」と「詩」を関係づけながら、詩を読みたい。詩よりも「注釈」を読む、という感じで読んでみたい。
実は、私は「注釈」というものを頼りに作品を読んだことがない。中井の訳詩の場合も、ほとんど参考にしなかった。「注釈」には、結局、私の知らないことが書いてあるだけであり、どれだけ読んでもそれは詩を読む感動にはならないと思うからである。
そういう私が、池澤の「注釈」をどう読むか。それを書いてみたい。
1 壁
古代ならば、このような不運は神々の与える運命(モイラ)として解して耐えるところだが、近代にあってはこれは主人公の単なる被害妄想ととられかねない。彼自身あたうるかぎりの反抗をしたわけではなく、その意味では被害を運命にたかめるだけの努力を怠った。
池澤がこう書くとき、「ギリシア悲劇」のようなものを念頭に置いていると思う。どこがギリシア悲劇と違うのだろう。どこかにギリシア悲劇を感じさせるものがあるとしたら、それはどこだろう。
カヴァフィスの詩は
思慮もなく、慈悲もなく、また恥もなく
彼らはわたしの周囲に厚く高い壁を築いた。
と始まっている。「厚く高い壁」は比喩である。ここには「ギリシア悲劇」は存在しない。「思慮」「慈悲」「恥」といういわば抽象的な概念が、「厚く高い壁」という比喩によって意味を補強されているだけだ。言い換えると、ここには他人は登場しない。ドラマはカヴァフィスの「概念」あるいは「観念」のなかだけで起きている。「彼ら」と書かれているが、カヴァフィス自身が築いたのだ。
つまりカヴァフィスはだれかに「反抗したわけではない」。自分自身と折り合いをつけただけなのだ。「対話」というものがあるとしたら、それはカヴァフィスとカヴァフィスの対話である。自己対話によって、カヴァフィスは、「観念」を純粋化しようとしている。これは、他者に共感を求めない、ということでもあると思う。
そうした彼が、最後の連でこう書く。
しかしわたしは騒音や石工の声を耳にはしなかった。
知らぬ間にわたしは外の世界と切りはなされていた。
私は「石工の声を耳にはしなかった」という部分がとても好きだ。自己対話の「悲しみ」がここに集約されている。私はここに共感してしまう。自己対話はさびしい。そのさびしさが、ふっとした感じで、具体的なことばになっている。「声」が切ない。
カヴァフィスは「声」を生きた詩人なのだと、ここからわかる。
「彼ら」はカヴァフィスを批判したのではなく、カヴァフィスが批判されるかもしれないと恐れ、彼自身で壁を築いた。批判されないための壁を築いた。そして逃げ込んだ。もしだれかが直接カヴァフィスを批判したのなら、その「声」は実在し、カヴァフィスはそれに対して何事か反論しているだろう。つまり、こういう詩にはならなかっただろうと推測できる。