詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェフリー・アングルス「残るのは」、若松英輔「幸福論」

2018-12-07 07:52:15 | 2018年代表詩選を読む
ジェフリー・アングルス「残るのは」、若松英輔「幸福論」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 ジェフリー・アングルス「残るのは」(初出「ミて」 142号、3月)に印象深い行がある。

通りすぎるものはすべて消え
裏の風景だけが残存する
例えば 小学校の細やかな
出来事の代わりに残るのは
運動場の奥に連なる丘

「裏の風景」は抽象的だが、「運動場の奥に連なる丘」は具体的だ。「奥」というかぎりは「手前」がある。「前」が「表」になるだろうか。「表」はまた「出来事」でもあるだろう。日本の小学校ならば、たとえば「運動場」の「表」の「出来事」は運動会である。その記憶。運動会の風景そのものは消えたが、あのときもあった運動場の奥の丘は、いまも存在する。それは、いまの「出来事」だ。いま、ここにあらわれてくる。
その不思議な「関係」を思う。ジェフリー・アングルスが小学生のとき「運動会」というものを体験したかどうかわからないが。私は、作者の体験ではなく、自分の知っていることをジェフリー・アングルスのことばを読むことで確かめるのだ。
また、この詩では「例えば」ということばも、とても印象に残る。この「例え」は「比喩」ではない。「暗喩」「直喩」「換喩」でもない。あえて言えば、「見本」だ。「言い換え( ことば) 」ではなく、「実物 (もの) 」なのだ。「運動会」は「もの」ではなく「こと( 出来事) 」なのだが、そこには実際に動いた自分自身の「肉体」という「もの」がある。その「手触り」のようなものが、そのまま「丘」につながっていく。「実際にあるもの」。目の前にあるもの。
 「暗喩」「直喩」「換喩」のどれでもいいが、そのときつかわれる「ことば」はたいていの場合、「いま/ここ」にはない。けれど、ジェフリー・アングルスは、「いま/ここ」に、そして「永遠」に「ある」ものを語る。「例えば」ということばをつかって。



 若松英輔「幸福論」(初出、詩集『幸福論』3月)。

闇にあるとき 人は
もっとも 強く
光を感じる そう
言った 人がいます

あなたが わたしの
心に 残していった
この 暗がりも
光との 出会いを
準備する
ものなのでしょうか

 こういう抽象的というが、一種の宗教的なことば、その指し示す「世界」というのは、私は好きではない。「意味」が強すぎて、うさんくさい。
 でも。

でも わたしは
薄暗い 場所で
あなたと いられれば
それで 十分だった

 この三連目はいいなあ。
 「闇」ではなく「薄暗い」が「現実」なんだなあ。「闇」とか「光」だと「比喩」がそのまま「抽象」(意味)になってしまう。「薄暗い」は「抽象」になりにくい。あいまいだ。それが「現実」を感じさせる。
 「光」なんか、どうでもいい。重要なのは、「あなた」と「いる」という事実なのだ。「現実」なのだ。それを人が何と呼ぼうが関係ない。
 
明るいところで
ひとり
何をしろと
いうのでしょう

 「闇」と「光」が「対」なら、「あなた」と「わたし」も「対」である。「対」は向き合っているが、「対立」ではなく「出会い」である。
 「闇」と「光」がであったら、どうなるか。どちらにも「抽象」されず、「薄暗い」という、あいまいで、どうしようもないものになるのかもしれない。でも、それがいい。



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(152)

2018-12-07 07:40:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
 「殺したのは」はソクラテスを描いている。

あの男を殺したのは 誰か
滑稽な怪士の面相の 内側に
美しい魂 を匿し持った あの男を?

 と始まる。「滑稽な怪士の面相」は外側にさらけ出され、「内側」には「美しい魂」を「匿し持つ」という対比。この対比は三連目では、こうなっている。

学問と同じほど 体育にも励み
精神と等しく 身体も強健
氷の上も 素足で歩いた あの男を?

 「学問」と「体育」、「精神」と「身体」。一連目にはなかった「同じ」「等しい」が書かれている。
 この「同じ」「等しい」を「即」と読み直せば、「一元論」になるかもしれない。しかし、高橋は「一元論」をソクラテス、あるいはギリシアに読み取り、このことばを書いたのか。
 そうではなくて対比を明確にするために、両極を分断するために、そこに「同じ」「等しい」ということばを挿入したのではないのか。

 いくつかのソクラテス像を描いたあと、詩は、こう閉じられる。

あの男を殺したのは それは 私たち
あの男の高潔無比に 耐えられず
嘘の罪状を でっち上げた 私たち

いまは 激しく後悔し 彫像を押し立てて
広場で 慟哭の限りを尽す 私たち
私たちだ あの男を殺したのは

 ソクラテスと「私たち」が簡単に対比されている。「殺す」という動詞で「対比」を結ぶ。そして、このとき「殺す」は「同じ」「等しい」ではなく、明確な「分断」として働いている。「後悔する」「慟哭する」という動詞が、ソクラテスと「私たち」を結びつけている、と読むことができるかもしれないが、それを意図しているかどうか、私にはわからない。
 「殺す」にしろ、「慟哭する」にしろ、ソクラテスと「私たち」が、その動詞のなかで結びつくには、愉悦のようなものがなければならないと私は感じる。一種のエクスタシーがないといけない。
 プラトンの「ソクラテスの弁明」を読み、そのときの投票の結果を比較すると、あの裁判には「熱狂」がある。「混乱」がある。弁明に反発を感じ、有罪の投票をしたひとがいることがわかる。「反発」は理性の働きではない。「感情」が暴走している。憎しみが拡大している。わけのわからないものが、かってに動いている。
 その「熱狂」を「私たち」は、ほんとうに持っているか。「私たち」と書く高橋は、持っているのか。
 それが、この詩からは、わからない。私には、高橋の「熱狂」、その暴走がわからない。高橋は、単に「あの男の高潔無比に 耐えられず」という「説明」のなかに逃げ込んでいないか。

 これから書くことは、高橋の詩への感想から離れる。でも、書いておきたい。
 ソクラテスは、私には、どう考えてもわからない「謎」である。
 私にとって人間の最大の不幸は死である。死んでしまっては幸福というものはない。不幸もないかもしれないが、死んでしまえば、何もないということになる。
 あらゆる「正しさ」は人間が生きるためのものである。
 ソクラテスの論理はどこまでも正しい。高橋の書いている表現を借りれば、その「正しさ」は「高潔無比」という「比喩」になるかもしれない。
 その「正しい」が、なぜ、ソクラテスのいのちを守れなかったのか。いのちを守れなくて、それでも「正しい」と言えるのか。

 私には、それがわからない。

 私がソクラテス(プラトン)から学んだことは、「論理」は必ず間違いを含んでいるということ。「ソクラテスの弁明」のどこが間違いなのか、私は指摘することができない。けれど、ソクラテスが死刑の判決を受けたということは、弁明に間違いがあったからだ。市民の判決が間違っていると言うことは簡単だが、その間違いをソクラテスは正すことができなかったというのは「事実」なのだ。
 たぶん「完結している」ということに「原因」のようなものがあると思う。論理はいつも完結する。完結することが論理にとって正しいことだからである。でも、それは論理にとって正しいという意味であって、論理が正しいということではない、と私は考えている。
 「ソクラテスの弁明」は他の対話篇と違って、ソクラテスのことばしかない。ソクラテスの論理(ことば)が単独で完結を実現している。もしかすると、このあたりに間違いの原因があるかもしれない、とも思う。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社





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