詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」

2018-12-10 10:49:56 | 2018年代表詩選を読む
倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 倉橋健一「そのときも」(初出「時刻表」3号、5月)には不思議なことばがある。

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
手を伸ばせばすぐ届くところに居ながら
あの人の姿はしぶとく
この自然の昏いきつい装いのなかに溶けていった
私はもう手当たりしだいに呼び続けるしかなかった

 三行目の「しぶとく」が不思議だ。「しぶとく」という副詞は「持ちこたえる」(維持する/変化しない)ということばと結びつくのがふつうだと思う。けれど高橋は「溶けていった」ということばへとつないでいっている。「溶けていかなかった」ではない。ここに、つまずく。つまずくけれど、倒れる、という感じではない。なぜ、「しぶとく/溶けていった」なのか。この、学校文法では否定されることばの動きで、倉橋は何を明るみに出そうとしているのか。
 「溶けていった」けれど、そこには「抵抗」があった。簡単に溶けていったのではなく、あらがいながら、時間をかけて「溶けていった」ということを予感させる。
 詩は、こうつづいている。

電線の音だけがびゅうびゅうと耳元を掠めていった
私は綾取り用の細いしなやかな組紐を買うために
臥った姉さん頼まれて町へ行った帰りだった
姉さん!セピア色のフィルムのなかにしか姿を残せなかった姉さん
私は山間の廃線トロッコ道を枕木を踏みながら急いだのだった

霧に被われたのはどのあたりだったか
今になってみればそれはもうどうでもいい気がするが
瞼に残るのは小さな琴、小さな鼓、小さな乳母車、月にむら雲、
ああ私の生きている分量の百分の一にも満たなかった
全身赤ん坊のままだった姉さん

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
なんといっても姉さん!霧に溶けていったのはあなただからだ
じわじわと霧は私の目、私の手、私の足、に襲いかかり
恐いことなんか少しもないのにまったく動けなくなってしまった
身近な彼方にでもあの人は(そのときも)居るはずだった

 最後の連に「動けなくなってしまった」(動けない/動かない)という動詞が出てくる。これが「しぶとく」と呼応している。「しぶとく/動けなくなった」とは、やはり、言わない。けれど「動けなくなった」けれども「しぶとく」そこに「居た」ということはできる。
 「居る」という動詞が何回か出てくる。この「居る」と「しぶとく」が深いところでつながっていて、その感覚が、ことばを貫いている。
 「しぶとく/溶けていった」「しぶとく/動けなくなってしまった」はつながりにくいが、その「溶けていった」「動けなくなってしまった」けれど、そのときの「時間」の「長さ」が「しぶとく/居る(存在する/生きている)」とつながる。「しぶとく」は「長い時間」という形で、そこに「居る」人を浮かび上がらせる。
 「私(倉橋)」が霧に囲まれて身動きできずにいたとき、姉は病床で死と戦い身動きできずにいたのかもしれない。「私」と姉は、「身動きできない」という動詞の中で「ひとつ」になり、それぞれに「しぶとく」その時間を生きたのだ。その「しぶとさ」を倉橋は思っている。さらに、その「しぶとさ」は、姉の場合は「恐さ」との戦いであったかもしれない。



 須永紀子「中庭へ」(初出「栞」7号、5月)の二連目。

踏み出した足が土中にめりこみ
なかなか上がってこない
象のように沈んでいく身体
〈重い〉感覚が思考を中断させ
脳に侵入する
〈重い〉苦痛が脳を占拠して
神経系を分断する

 「〈重い〉感覚」を「〈重い〉苦痛」と言いなおしている。「侵入する」は「占拠する」と言いなおされる。「中断させる」は「分断させる」と言いなおされる。ただし動詞の呼応は、「中断する/占拠する」「侵入する/分断する」という順序で書かれている。だから「侵入する/占拠する」「中断する/分断する」と読むのは、「正しい」読み方ではなく「誤読」なのだが、この「誤読」のなかには、倉橋が書いていた「私/姉」の交錯のようなものがある。交錯した瞬間に、瞬間的につかみ取る何かがある。



 中村稔「言葉について1」(初出、詩集『新輯・言葉について 50章』5月)の最終連。

言葉は質量をもたず、鋭利でもないけれど、
集落が頽廃したとき、集落を消失させるほど
威力をもつことに誰も気づいていない

 しかし、また、ことばは「消失してしまったもの」をも呼び出し、いのちを与えることもある。
 倉橋の詩では、姉は死んでしまっているが、その詩を読むとき、私が思うのは「生きている」姉である。須永の詩からは、「重い」と感じるときの「時間」そのものである。それらはいずれも、詩を読む瞬間の、「いま/ここ」に生きている。



*

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