詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(4)

2018-12-23 08:55:00 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
4 祈り

海がその深みへ一人の水夫を連れ込んだ--
彼の母は何も知らずに聖母のところへ通い

 と始まり、息子の安全な帰港を祈るが、こう結ばれる。

聖母は厳粛に悲しげにそれを聞きながらも、
知っている、彼女の待つ息子がもう決して戻らぬことを。

 この詩について、池澤はこんなことを書いている。

神とキリスト教のほかに聖母や聖者たちまでが祈祷の対象になり、聖画(イコン)が重視される。東方教会は純正であると同時に、西側から見るとどことなく異教的でもある。

 「西側から見ると」に私はつまずく。なぜ「西側」なのか。なぜ「池澤側」からではないのか。どうして「西側」から見ないといけないのか。
 私はどの宗教も信じていないので、どう判断していいのかわからないが、カヴァフィスを、あるいはギリシアの母を、書かれていることを、「西側」から読み直すということが、どうしてもわからない。
 池澤は、こうつづけている。

古代の神神は人間を贔屓にはしても愛しはしなかった。その冷酷のかすかな残照がこの聖母の画像にあるのではないか。

 母親が祈ったのが、キリストだったらどうなるのだろうか。もしキリストだったら「冷酷」さは消えるのか。私は疑問に思う。池澤の注は、このことを説明していない。

 私はキリスト教徒ではないから、もっと自分に引きつけて読む。自然(人間以外のもの)は非情である。人間がどう思うかを気にしない。母親が祈ろうが、嘆こうが、息子のいのちを奪うときは奪う。そして、非情であるとわかっていても、人間は「祈る」。
 そして残酷なことを書いてしまうが、祈りは聞き入れられないからこそ、「祈る」という動詞(姿)が美しくなる。無意味さが、祈りを絶対的なものに変えてしまう。「共感」になるのだ。感情が共有されるのだ。

 「西側から見ると」という限定が、「祈る」という動詞の美しさをゆがめてしまわないか、とも疑問に思う。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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中村和恵「今後のあるまじろ」、野木京子「ウラガワノセイカツ」

2018-12-23 08:50:17 | 2018年代表詩選を読む
中村和恵「今後のあるまじろ」、野木京子「ウラガワノセイカツ」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 中村和恵「今後のあるまじろ」(初出「妃」20号、9月)。

食物連鎖の外で生きるのは
おそろしく孤独
よってわたし あるまじろは
漢方薬になりたい

 「あるまじろ」は「わたし」の比喩? あるまじろになったつもりで、あるまじろの気持ちを書いている? わからない。まあ、わからなくても、かまわない。
 「よって」というのは論理的なことばだが、あるまじろが「漢方薬」になるのは論理的かどうかわからない。ここからわかることは、ことばというのは「論理」を装えば、なんだって論理にできるということである。
 で、そういういい加減さ(?)というか、ずうずうしさ(きっと、こっちの方だな)を発揮してことばは展開していく。その部分はその部分でおもしろいが、引用すると長くなるので省いて。
 最後。

でね肝心なのはここんところなの
なにになってもならなくても
おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まっていても
あるまじろはまだ ここ にある
あるまじろのままある
聞こえなくても聞いてみて
ほら トキトキいってるでしょう

 「でね」というのも論理のことば。でも、ぜんぜん論理的じゃないね。論理を捏造しているだけ。
 それなのに。

おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まっていても

 この一行が「肉体」を誘う。
 「おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まって」みたくなる。つまり、あるまじろになってみたくなる。「肉体」で形をまねると、あるまじろになれる気がしてくる。私なんかは。ここには「ことばの論理」ではなく「肉体の論理」のようなものがある。
 道端で腹を抱えてうずくまっている人を見ると、「あ、腹が痛いんだ」と思うのに似ているなあ。
 いや、あるまじろは人間じゃないから、どう思っているかは想像がつかないけれど、なんとなくあるまじろが感じていること、あるまじろの「肉体」の感じがわかるような気がする。
 そして「トキトキいってるでしょう」。これは、どうしたって心臓の音、血液が流れる音。「生きてる」と感じる。
 「おしりとおでこをぴったり合わせ」ということはできないが、「肉体」をかぎりなく丸めるとき、自分の心臓の音が聞こえない? そうやって心臓の音、血液が流れる音を聞いたことって、ない?
 そのとき、不安というか、安心というものを思い出すなあ。



 野木京子「ウラガワノセイカツ」(詩集『クワカ ケルル』9月)は、山田小実昌の「ポロポロ」を思い出させるような書きぶり。

きょうぽこぽこがわたしのところにおりてきて
ぽこぽこ
響きもなく周りをまわっている

 うーん、でも、むずかしいなあ。「ぽこぽこ」が「人間」に見えない。中村の「あるまじろ」が人間に見えるのとはずいぶん違う。野木は人間を書いているわけではない、というかもしれないけれど。
 何を書いているにしろ、私は「人間」を読みたいので、言い換えると「肉体」を読みたいので、あまりおもしろくない。
 「ぽこぽこ」が「関係」を意味する(象徴する/抽象化する)ものだと仮定して言えば、「関係」を書くのは、詩にはむずかしい仕事だと思う。詩はあくまで「具体」だから。「関係」であっても、抽象ではなく「具体」的な「比喩/もの」として提示されないと、つかみようがない。
 私は頭が悪いせいかもしれないが。



*

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

詩誌「妃」19号
クリエーター情報なし
密林社
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