2 老人
池澤は、注釈する。
三十一歳という説明がなくても、私はこの詩を若い詩人が書いたと読んだ。「老人」を「彼」と読んでいるが、「彼」はカヴァフィス自身だ。自画像だ。
ここには具体的なことはほとんど書かれていない。「分別」がどういう分別なのか、はっきり指摘することはむずかしい。
わかるのは「明日は充分時間がある」とカヴァフィスはカヴァフィス自身に嘘をついたということだ。「明日は充分時間がある。だから、きょうそれをするのはやめよう」。したいことがあったのに先のばしにした。先のばしにすることが「分別」だったのだ。
カヴァフィスは同性愛者だと言われている。だれかに声をかけたい。でも、声をかけなかった。だれかの誘いを受ける。でも、応じなかった。ためらった。まだ、若い。明日は時間があるというよりも、まだ時間がある、と先のばしにした。先のばすことが「分別」だと思ったのだ。でも、もう、取り返せない。欺かれたのだ。
これは老人になってから思うことというよりも、まだ若いときの方が、強い後悔となって働くかもしれない。きのう声をかけていたら、きのう誘いに乗っていたら、きょう楽しむことができたのに。きょうだけではなく、明日も明後日も。そういう「思い」がカヴァフィスを「老人」にしてしまう。若いからこそ「老人」になることができる。
具体的なことが書かれていないのは、カヴァフィスが具体的な体験をしていないからだ。若いときに書いたから、そうならざるを得ないのだ。
三十一歳という「種明かし」は、つまらない。ことばの中に隠れている「若さ」を発見する楽しみを奪ってしまう。「分別にあざむかれた」ということばのなかにある悔しさを味わう愉悦を奪ってしまう。
老いたことを彼は知っている、感じている、見ている
それでも若かった日々はつい昨日のことのように思われるのだ。
それから今までのなんと短かったことか。
そして考える、分別にあざむかれたのだと。
いつも信じたのだ--愚かにも!--
《明日は充分時間がある》という嘘を。
池澤は、注釈する。
この時、彼は三十一歳だった。(略)若い日々と老いてからの毎日はあまりにもかけはなれているが、その対照を説明するはずの長い歳月は実感されず、欺かれたという印象ばかりが強い。
三十一歳という説明がなくても、私はこの詩を若い詩人が書いたと読んだ。「老人」を「彼」と読んでいるが、「彼」はカヴァフィス自身だ。自画像だ。
ここには具体的なことはほとんど書かれていない。「分別」がどういう分別なのか、はっきり指摘することはむずかしい。
わかるのは「明日は充分時間がある」とカヴァフィスはカヴァフィス自身に嘘をついたということだ。「明日は充分時間がある。だから、きょうそれをするのはやめよう」。したいことがあったのに先のばしにした。先のばしにすることが「分別」だったのだ。
カヴァフィスは同性愛者だと言われている。だれかに声をかけたい。でも、声をかけなかった。だれかの誘いを受ける。でも、応じなかった。ためらった。まだ、若い。明日は時間があるというよりも、まだ時間がある、と先のばしにした。先のばすことが「分別」だと思ったのだ。でも、もう、取り返せない。欺かれたのだ。
これは老人になってから思うことというよりも、まだ若いときの方が、強い後悔となって働くかもしれない。きのう声をかけていたら、きのう誘いに乗っていたら、きょう楽しむことができたのに。きょうだけではなく、明日も明後日も。そういう「思い」がカヴァフィスを「老人」にしてしまう。若いからこそ「老人」になることができる。
具体的なことが書かれていないのは、カヴァフィスが具体的な体験をしていないからだ。若いときに書いたから、そうならざるを得ないのだ。
三十一歳という「種明かし」は、つまらない。ことばの中に隠れている「若さ」を発見する楽しみを奪ってしまう。「分別にあざむかれた」ということばのなかにある悔しさを味わう愉悦を奪ってしまう。
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