詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(11)

2018-12-30 08:50:38 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
11 窓

しかし窓はなかった、あるいはわたしに
みつけられなかったのか。その方がよいのかもしれない。
外の光はまた別の圧制者かもしれない。

 この三行が印象に残る。「窓はなかった」と断定してしまうのではない。直後に「あるいは」と言い直し、「わたしに/みつけられなかったのか」と「わたし」の問題にしている。
 「あるいは」は単純に考えれば「論理」を動かすことばである。その「論理」の方向(ベクトル)を自分の方に向けている。
 そのうえで「その方がよいのかもしれない」と付け加える。
 窓はあった、しかしわたしはみつけられなかった。これを残念なこととしてではなく「よい」こととして理解しようとしている。カヴァフィス自身を納得させようとしている。そのために「かもしれない」という仮定がもういちど繰り返される。
 これが、この論理の動きが、カヴァフィスの「内」である。闇である。闇の中で動くのは論理だけである。というか、闇であっても論理は動かすことができる。あるいは何も見えなくても論理は動いてしまう。
 だからこそ、その「内」に向き合う形で「外」が描かれる。

外の光はまた別の圧制者かもしれない。

 これは、外からやってくるものは「制圧者」と決まっている、ということなのだが、このことばの響きのなかには、なにか「制圧されたい」という気持ちが隠されている。かき乱され、自分が自分でなくなる瞬間。そういう「暴力」を密かに期待している感じがする。
 これも「恋」の詩と読むことができる。
 いま、カヴァフィスは恋に苦しんでいる。何も見えない。出口もない。でも、もし、他の恋を見つけることができたとしても、やはり何も見えなくなる。苦しむだけだ。だから、いま、この恋に苦しんでいるということの方がいいのだ。そう言い聞かせているように思える。

 この詩に対して池澤は、こう注釈をつけている。

閉じ込められた精神を扱っているが、その精神は1「壁」などよりもまた一歩後退して、すでに脱出の意志を放棄している。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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