詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(3)

2018-12-22 09:56:22 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
3 アキレウスの馬

死にも老いにもわずらわされぬおまえたちが
たまさかの災厄におびえるとは。人間どもの
苦労におまえたちが巻き込まれるとは」--けれども
二頭の高貴な動物たちが沛然と涙を流し続けたのは
死というの永遠の災厄を思ってのことだった。

『イーリアス』を下敷きにした詩の、終わりの三行について、池澤はこう注釈をつけている。

馬たちがパトロクロスその人の死を嘆いて泣いたのではなく、人間すべてに課せられた死というさだめに同情して涙を流したのだという部分は、カヴァフィス独自の考えであって『イーリアス』にはない。

 この注釈がないと、どこまでが『イーリアス』で、どこからがカヴァフィス独自の考えかわからない、ということなのだろう。
 しかし、こういうことは、わかる必要があるのだろうか。
 『イーリアス』を下敷きにした部分にはカヴァフィスの「考え」は含まれていないのだろうか。そんなことはない。どこを省略するかは、どこを強調するかと同じ意味を持つ。省略と強調の運動の結果、ひとつの「考え」が浮かび上がるとき、それはカヴァフィスの「考え」であると同時に『イーリアス』の「考え」でもある。
 カヴァフィスの「考え」を「誤読/拡大解釈」と指摘することはできる。『イーリアス』はほんとうは違うことを語っていると指摘することはできるかもしれない。けれども詩は(あるいは文学は)、「正しい解釈」のとも生きると同時に、「誤読」によっても生き続ける。
 池澤は、「正しい」と「誤り」を示そうとしているわけではないのだが、私は、こういう指摘には何か「つまらない」ものを感じる。教えられて、詩がおもしろくなる訳ではない。
 私はむしろ、池澤はこう読んだという「誤読」の方を読みたい。

 「新約聖書」はキリストの目撃証言である。証言者によって、内容が少しずつ違う。ことばが違う。そして違うからこそ、キリストが本当にいたのだという証明になる。証言者が違えば、証言のことばに違いが生まれるのは当然のことである。違いがなければ、それは証言ではないだろう。
 同じように、詩の感想が「同じ」ものになってしまえば、その詩は最初から「意味」を押しつけていることになる。そういうものはつまらない。

カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タケイ・リエ「みとりとみどりと」

2018-12-22 09:20:31 | 2018年代表詩選を読む
タケイ・リエ「みとりとみどりと」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 タケイ・リエ「みとりとみどりと」(初出『ルーネベリと雪』9月)。二連目、三連目がおもしろい。

あらしのまえにみんなを抱え
黙々とかくれ
ぬくぬく育ったみどりのなかを駆ける
完熟ライム
あまいにおいの夜
窓は濡れて意味を灯した

温度にふれる
みみべりをすべる
枝のおもしろさを手折って
肌と話しあった
ゆびがゆるりほどけ
ひとりでもふたりでもおなじあかるさ

 音が交錯する。「抱え」「かくれ」「駆ける」という具合に、行を越えて響くことばがある。その「か」の音は「完熟」という名詞のなかで結晶する。その瞬間「完熟」は「完熟する」という動詞にかわる。これが「あまい/におい」という迷路を通って、「意味を灯した」という、それこそ「意味/象徴」に変わる。
 どんな「意味」か書かれていないが、詩(文学)なのだから、これでいい。ひとはそれぞれの「意味」を抱え込んでいる。作者の「意味」につきあわなければならない理由なんかない。こういう瞬間にも「意味」は生まれるということをつかみとればいいのだと思う。
 タケイは意図していないかもしれない。私が勝手に、ここに「象徴」というか、「抽象」のようなものが動いていると思うだけなのかもしれない。
 「みみべり/すべる」「枝/手折って」「肌/話し」「ゆび/ゆるり」にも音が交錯している。これは一行のなかで動いている。「ひとりでも/ふたりでも」も同じ。
 だから、どうした、と言われると困るのだが、私はこういう音を聞くとなんとなくうれしくなる。
 「肉体」が音に誘われて動く。
 特に「みみべり/すべり」がおもしろい。「みみべり」ということばを私は知らないのだが、「みみ」の「縁」だと思って読む。「へりをすべる」か。確かに耳の縁はつるりとすべりそうだ。ひっかかるものがない。
 「肉体が動く」というのは、説明が必要かもしれない。
 私そのものが、何か大きな「耳」のへりを滑り台をすべるみたいにすべっていく感じがする。そういう「感じ」を「肉体」そのものとして感じる。「思い出す」というと語弊があるが(そんなことをしたことがないのだから)、でも「想像する」というよりも「思い出す」という感じが近い。
 ほかのことばも、想像するというよりも「思い出す」という感じで「肉体」で反復してしまう。
 そしてこの「反復感(?)」が「ひとりでもふたりでもおなじあかるさ」のなかで、「意味」になろうとする。反復することで「ひとり」と「ふたり」が「おなじ」になる。違うひとであっても、反復するということで、「おなじ」動きになる。その「おなじ」の感覚が「あかるさ」につながる。

 私の書いていることはあまりにも抽象的すぎるかもしれない。私自身にもよく分からないことを書いているからだ。「予感」のようなものを書いているからだ。
 こういう形でしか書けない感想もある。おもしろい詩は、たいていそうである。あとになって、ああだったかな、こうだったかな、と思い返す。それが少しずつ「肉体」のなかにたまっていって、私を動かす力になる。
 「正解」はない。


*

「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。



「詩はどこにあるか」10・11月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074787


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


ルーネベリと雪
クリエーター情報なし
七月堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする