詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(9)

2018-12-28 09:26:56 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
9 ……オオイナル拒否ヲナシタル者

 題は『神曲地獄篇』の第三歌第六〇行から取られている。点線の部分は“per vilta (怯懦ユエニ)”であるが、カヴァフィスはことを一般化するためにこれを故意にはぶいた。『神曲』の中ではこれは自信のなさゆえに教皇位をボニファキウス八世に譲ったケレティヌス五世を指すと解釈される。

 池澤はこう書いているのだが、これでは『神曲』の解説になってしまわないか。「一般化するために」というのも、よくわからない。詩は「一般的」なことを書くものではない。むしろ個人的なことを書くものだ。

また拒否するだろう。しかしその--正しい--拒否が
彼の一生をだいなしにしてしまうのだ。

 「怯懦」の意味はなかなかむずかしい。池澤は「自信のなさゆえに」と言いなおしている。「自信のなさ」は、臆病とか、気が弱いというふうにとらえることができる。
 私は、こう読む。
 「正しい」と「怯懦」を結びつけるなら、気が弱いので拒否することを「正しい」と判断したということだろう。拒否しなかったら「正しくない」と批判されるかもしれない。そう恐れて、世間的に「正しい」と言われている方を選んだ。
 でも、それが一生を台なしにした。
 これをカヴァフィスの「恋」と結びつけて読み直すとどうなるだろうか。
 カヴァフィスは「恋」を拒否したことがある。その恋が「正しい」恋とは呼ばれないものだからである。もし、その恋を拒まなかったら、一生はもっとすばらしいものになっていたかもしれない。そんなふうに後悔しているのではないのか。
 拒否したから、「間違っている」という批判は受けなかった。「正しい」人間と判断された。でも、それでよかったのか。運命の出会いを棄ててしまったのではないのか。カヴァフィスは、そういう思いを『神曲』を借りて語っている。
 いまでも同性愛は完全に受け入れられてはいない。「正しい」恋とは呼ばれることは少ない。カヴァフィスの生きた時代なら、なおさらである。
 ケレティヌス五世の心境を語るために、詩を書いたとは私には思えない。



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする