貞久秀紀「松林のなかで」(「現代詩手帖」2018年12月号)
貞久秀紀「松林のなかで」(初出「カルテット」4、17年11月)は、どう読まれているのだろうか。
読んだあと、私のことばは、どう動いていくことができるか。
「主語」は何だろうか、「述語」はどれだろうか、何だろうか、と問うことは詩の読み方として適切ではないかもしれない。しかし、私はいつでも「主語/述語」を探して読む。
私は「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読む。「気づくようにみえたのは」の「気づく」の「主語」は「この子」かもしれないが、私は「歩いていること」と「誤読」する。「わたし」とか「子ども」とか、「人間」ではなく、「動詞を含むできごと」と読む。「動詞(できごと)」が「主語」となって、別の「動詞」を「述語」へと動かしていく。「人間」は「わたし」も「子ども」も「ことばの運動」を成立させるための「方便」であり、また、「論理(意味)」を攪拌させる手段にすぎない。
ここに書かれているのは「歩く」「気づく」「かけ寄る」「しゃがむ」「もどる」「さがす」「とらえる」「分ける/あたえる」という「動詞」であり、その「動詞」の方便として「わたし」や「子ども」がつかわれている。「きみ」でも「老婆」でもいいのだ。もちろん「子ども」と「わたし」がいれかわってもいい。「子ども」は「記憶の子ども」、「わたし」が「想像のわたし(未来のわたし)」であってもいい。というか、そういう不確定な「入れ換え」を促すために仮に書かれている。人は(読者は)、誰に自分を重ねて読むか。作者の指示にしたがう必要はない。作者自身も、自分を作品の登場人物に重ねているわけではない。たとえそれが「私小説」であっても。
しかし、読者は「動詞」を自分の「肉体」で反復しながら、ことばの世界へ入っていく。「歩く」という動詞にであったとき、走りたくても走れない。泳ぎたくても泳げない。車で移動したくても移動できない。もちろん飛行機でも行けない。「動詞」のなかで、読者は作者と出会い、また登場人物と出会う。それ以外に、出会いようがない。
で。
(ここから、かなり飛躍する。私自身、まだ、考えていないことを、これから書くので、飛躍するしかない。私は「結論」というものを想定して書いているわけではなく、ことばがどこまで動くかを知りたくて書くからである。)
で、「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読むとき、「主語」と「述語」のあいだに入り込んできたいくつもの「動詞」が気になる。「動詞」というのはとても簡単な仕組みをもっている。「動く」。そして「動き(動詞派生の名詞)」というのは「時間」を必要としている。「ときだった」は「とき」という「名詞」と「ある」の「過去形」がくっついたもので、正確には「述語」とは呼べないものかもしれないのだが、私は国語学者でも国語教師でもないので、テキトウにそう呼んだ「ツケ」みたいなものに直面する。そして同時に、この「とき」こそが問題なんだよなあ、とも思う。
ここが、飛躍だね。
そして、飛躍してしまうしかないところに、実はこの詩のキーワードがある、とも思う。一回限り、強引に「ことば」にしないことには動かせないものに出会う。私自身は「わかっている」が、それを「他人にわかる形」で書くために、どうしてもつかわないといけないことばがある。
たぶん、貞久も、無意識というか、どうしようもなくてつかったことばが、ここに隠れている。「とき」が。
それが証拠に(?)、貞久は、この「とき」をすぐに言いなおす。言いなおすことで隠そうとする。隠そうとすることは、あらわしてしまうことでもあるが。
どう隠すのか。どう、あらわすのか。
このほとんど無意味な一行を挟んで、詩のことばは反復する。
この「ある日」は、いつ? 前半の部分よりも「あと」? そうではなくて、これはやはり「とき」のずれのなかで反復し、「とき」とは何かを「意味」にしようとしているということだろう。
「わたし」と「子ども」の関係、松林のなかを歩き、松ぼっくりをみつけ、それを「分け/あたえる」ということが繰り返されている。繰り返すことで、動詞の意味と、時間の意味を、辞書には書かれていない意味にまで高めようとしている。抽象といってもいいし、概念といってもいいし、哲学と呼んでもいい。
で。(再び、「で」であるが……)
私は、こういう詩、こういうことばの運動が嫌いである。
うさんくさい。(なんといっても、「あたえる」という動詞が「外国語」っぽい。)
「ある日」を中心にして、「対称」の世界が描かれ、対称になった瞬間に「比喩」が「抽象」に変化し、「意味」が動く。その「意味」が「哲学」を指向する。たぶん「外国」の。
この運動は、完結している。学者の「論文」のようだ。完結しているから矛盾はない。矛盾はないから「完璧」に見える。たぶん、その完璧さゆえに、こういう詩は評価される。「完璧」をうさんくさいという人は、たぶん、いない。でも、私はうさんくさいと感じる。身を引いてしまう。身を引きながら、遠くから、「違うぞ」と声を上げる。
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貞久秀紀「松林のなかで」(初出「カルテット」4、17年11月)は、どう読まれているのだろうか。
読んだあと、私のことばは、どう動いていくことができるか。
松林のなかの道を歩いていたひとで
この子もまたわたしと歩いていることにいくどか気づくようにみえたのは
松ぼっくりにかけ寄り
近くしゃがんでこわごわ触れてもどるたび
あいた目でわたしをさがしては
とらえた一果を分けあたえてくれるときだった
「主語」は何だろうか、「述語」はどれだろうか、何だろうか、と問うことは詩の読み方として適切ではないかもしれない。しかし、私はいつでも「主語/述語」を探して読む。
私は「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読む。「気づくようにみえたのは」の「気づく」の「主語」は「この子」かもしれないが、私は「歩いていること」と「誤読」する。「わたし」とか「子ども」とか、「人間」ではなく、「動詞を含むできごと」と読む。「動詞(できごと)」が「主語」となって、別の「動詞」を「述語」へと動かしていく。「人間」は「わたし」も「子ども」も「ことばの運動」を成立させるための「方便」であり、また、「論理(意味)」を攪拌させる手段にすぎない。
ここに書かれているのは「歩く」「気づく」「かけ寄る」「しゃがむ」「もどる」「さがす」「とらえる」「分ける/あたえる」という「動詞」であり、その「動詞」の方便として「わたし」や「子ども」がつかわれている。「きみ」でも「老婆」でもいいのだ。もちろん「子ども」と「わたし」がいれかわってもいい。「子ども」は「記憶の子ども」、「わたし」が「想像のわたし(未来のわたし)」であってもいい。というか、そういう不確定な「入れ換え」を促すために仮に書かれている。人は(読者は)、誰に自分を重ねて読むか。作者の指示にしたがう必要はない。作者自身も、自分を作品の登場人物に重ねているわけではない。たとえそれが「私小説」であっても。
しかし、読者は「動詞」を自分の「肉体」で反復しながら、ことばの世界へ入っていく。「歩く」という動詞にであったとき、走りたくても走れない。泳ぎたくても泳げない。車で移動したくても移動できない。もちろん飛行機でも行けない。「動詞」のなかで、読者は作者と出会い、また登場人物と出会う。それ以外に、出会いようがない。
で。
(ここから、かなり飛躍する。私自身、まだ、考えていないことを、これから書くので、飛躍するしかない。私は「結論」というものを想定して書いているわけではなく、ことばがどこまで動くかを知りたくて書くからである。)
で、「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読むとき、「主語」と「述語」のあいだに入り込んできたいくつもの「動詞」が気になる。「動詞」というのはとても簡単な仕組みをもっている。「動く」。そして「動き(動詞派生の名詞)」というのは「時間」を必要としている。「ときだった」は「とき」という「名詞」と「ある」の「過去形」がくっついたもので、正確には「述語」とは呼べないものかもしれないのだが、私は国語学者でも国語教師でもないので、テキトウにそう呼んだ「ツケ」みたいなものに直面する。そして同時に、この「とき」こそが問題なんだよなあ、とも思う。
ここが、飛躍だね。
そして、飛躍してしまうしかないところに、実はこの詩のキーワードがある、とも思う。一回限り、強引に「ことば」にしないことには動かせないものに出会う。私自身は「わかっている」が、それを「他人にわかる形」で書くために、どうしてもつかわないといけないことばがある。
たぶん、貞久も、無意識というか、どうしようもなくてつかったことばが、ここに隠れている。「とき」が。
それが証拠に(?)、貞久は、この「とき」をすぐに言いなおす。言いなおすことで隠そうとする。隠そうとすることは、あらわしてしまうことでもあるが。
どう隠すのか。どう、あらわすのか。
ある日
このほとんど無意味な一行を挟んで、詩のことばは反復する。
ある日
この子が松ぼっくりをたづさえ
あたえようと来てさがしはじめているところに小さな余地がひらけ
触れうる固さをもつわたしが待っていた
それを子はともによろこび
ひらかれてゆくこの手のひらの途中に
乾いた松を置いた
この「ある日」は、いつ? 前半の部分よりも「あと」? そうではなくて、これはやはり「とき」のずれのなかで反復し、「とき」とは何かを「意味」にしようとしているということだろう。
「わたし」と「子ども」の関係、松林のなかを歩き、松ぼっくりをみつけ、それを「分け/あたえる」ということが繰り返されている。繰り返すことで、動詞の意味と、時間の意味を、辞書には書かれていない意味にまで高めようとしている。抽象といってもいいし、概念といってもいいし、哲学と呼んでもいい。
で。(再び、「で」であるが……)
私は、こういう詩、こういうことばの運動が嫌いである。
うさんくさい。(なんといっても、「あたえる」という動詞が「外国語」っぽい。)
「ある日」を中心にして、「対称」の世界が描かれ、対称になった瞬間に「比喩」が「抽象」に変化し、「意味」が動く。その「意味」が「哲学」を指向する。たぶん「外国」の。
この運動は、完結している。学者の「論文」のようだ。完結しているから矛盾はない。矛盾はないから「完璧」に見える。たぶん、その完璧さゆえに、こういう詩は評価される。「完璧」をうさんくさいという人は、たぶん、いない。でも、私はうさんくさいと感じる。身を引いてしまう。身を引きながら、遠くから、「違うぞ」と声を上げる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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