詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

貞久秀紀「松林のなかで」

2018-12-03 12:28:32 | 2018年代表詩選を読む
貞久秀紀「松林のなかで」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 貞久秀紀「松林のなかで」(初出「カルテット」4、17年11月)は、どう読まれているのだろうか。
 読んだあと、私のことばは、どう動いていくことができるか。

松林のなかの道を歩いていたひとで
この子もまたわたしと歩いていることにいくどか気づくようにみえたのは
松ぼっくりにかけ寄り
近くしゃがんでこわごわ触れてもどるたび
あいた目でわたしをさがしては
とらえた一果を分けあたえてくれるときだった

 「主語」は何だろうか、「述語」はどれだろうか、何だろうか、と問うことは詩の読み方として適切ではないかもしれない。しかし、私はいつでも「主語/述語」を探して読む。
 私は「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読む。「気づくようにみえたのは」の「気づく」の「主語」は「この子」かもしれないが、私は「歩いていること」と「誤読」する。「わたし」とか「子ども」とか、「人間」ではなく、「動詞を含むできごと」と読む。「動詞(できごと)」が「主語」となって、別の「動詞」を「述語」へと動かしていく。「人間」は「わたし」も「子ども」も「ことばの運動」を成立させるための「方便」であり、また、「論理(意味)」を攪拌させる手段にすぎない。
 ここに書かれているのは「歩く」「気づく」「かけ寄る」「しゃがむ」「もどる」「さがす」「とらえる」「分ける/あたえる」という「動詞」であり、その「動詞」の方便として「わたし」や「子ども」がつかわれている。「きみ」でも「老婆」でもいいのだ。もちろん「子ども」と「わたし」がいれかわってもいい。「子ども」は「記憶の子ども」、「わたし」が「想像のわたし(未来のわたし)」であってもいい。というか、そういう不確定な「入れ換え」を促すために仮に書かれている。人は(読者は)、誰に自分を重ねて読むか。作者の指示にしたがう必要はない。作者自身も、自分を作品の登場人物に重ねているわけではない。たとえそれが「私小説」であっても。
 しかし、読者は「動詞」を自分の「肉体」で反復しながら、ことばの世界へ入っていく。「歩く」という動詞にであったとき、走りたくても走れない。泳ぎたくても泳げない。車で移動したくても移動できない。もちろん飛行機でも行けない。「動詞」のなかで、読者は作者と出会い、また登場人物と出会う。それ以外に、出会いようがない。
 で。
 (ここから、かなり飛躍する。私自身、まだ、考えていないことを、これから書くので、飛躍するしかない。私は「結論」というものを想定して書いているわけではなく、ことばがどこまで動くかを知りたくて書くからである。)
 で、「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読むとき、「主語」と「述語」のあいだに入り込んできたいくつもの「動詞」が気になる。「動詞」というのはとても簡単な仕組みをもっている。「動く」。そして「動き(動詞派生の名詞)」というのは「時間」を必要としている。「ときだった」は「とき」という「名詞」と「ある」の「過去形」がくっついたもので、正確には「述語」とは呼べないものかもしれないのだが、私は国語学者でも国語教師でもないので、テキトウにそう呼んだ「ツケ」みたいなものに直面する。そして同時に、この「とき」こそが問題なんだよなあ、とも思う。
 ここが、飛躍だね。
 そして、飛躍してしまうしかないところに、実はこの詩のキーワードがある、とも思う。一回限り、強引に「ことば」にしないことには動かせないものに出会う。私自身は「わかっている」が、それを「他人にわかる形」で書くために、どうしてもつかわないといけないことばがある。
 たぶん、貞久も、無意識というか、どうしようもなくてつかったことばが、ここに隠れている。「とき」が。
 それが証拠に(?)、貞久は、この「とき」をすぐに言いなおす。言いなおすことで隠そうとする。隠そうとすることは、あらわしてしまうことでもあるが。
 どう隠すのか。どう、あらわすのか。

ある日

 このほとんど無意味な一行を挟んで、詩のことばは反復する。

ある日
この子が松ぼっくりをたづさえ
あたえようと来てさがしはじめているところに小さな余地がひらけ
触れうる固さをもつわたしが待っていた
それを子はともによろこび
ひらかれてゆくこの手のひらの途中に
乾いた松を置いた

 この「ある日」は、いつ? 前半の部分よりも「あと」? そうではなくて、これはやはり「とき」のずれのなかで反復し、「とき」とは何かを「意味」にしようとしているということだろう。
 「わたし」と「子ども」の関係、松林のなかを歩き、松ぼっくりをみつけ、それを「分け/あたえる」ということが繰り返されている。繰り返すことで、動詞の意味と、時間の意味を、辞書には書かれていない意味にまで高めようとしている。抽象といってもいいし、概念といってもいいし、哲学と呼んでもいい。
 で。(再び、「で」であるが……)
 私は、こういう詩、こういうことばの運動が嫌いである。
 うさんくさい。(なんといっても、「あたえる」という動詞が「外国語」っぽい。)
 「ある日」を中心にして、「対称」の世界が描かれ、対称になった瞬間に「比喩」が「抽象」に変化し、「意味」が動く。その「意味」が「哲学」を指向する。たぶん「外国」の。
 この運動は、完結している。学者の「論文」のようだ。完結しているから矛盾はない。矛盾はないから「完璧」に見える。たぶん、その完璧さゆえに、こういう詩は評価される。「完璧」をうさんくさいという人は、たぶん、いない。でも、私はうさんくさいと感じる。身を引いてしまう。身を引きながら、遠くから、「違うぞ」と声を上げる。





*

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estoy loco por espana (番外28)

2018-12-03 11:45:36 | estoy loco por espana
 Joaquin Llorens Santa のマドリッドで個展が始まった。私は見に行けないのだが、ホアキンが写真を送ってくれた。少し紹介と感想を書く。(写真は、一部、ホアキンが撮ったものではないものを含む。)

 

 6月にアトリエで見た制作途中の作品は、赤く塗られていた。よく似た白いバージョンのものもある。赤い方が好きだ。
 ホアキンは黒い色の服がとても似合う。白い色も似合う。赤い色は似合わないかもしれない。だからこそ、赤い色の作品が強く響いてくる。もうひとりのホアキンという感じがする。
 6月にみたときは、制作途中だから、もちろん色はない。
 彩色された作品が何点かあったので「これにも色を塗るのか」と聞いた。ホアキンは「そうだ」と答えた。「赤」と答えたのか、「青」と答えたのか、忘れてしまった。「白」ではなかったと思う。「白」は純粋すぎて、彩色されていないものよりも素裸を見ている感じになるかもしれない。
 この作品をアトリエで見たときは、まるで素裸のホアキンを見たようで、少しびっくりした。素裸といっても、服を脱いだ素裸ではなく、服を着る前の素裸。つまり、生まれたばかりの赤ちゃんのような、はじけるような輝き。裸なのに旗かを意識しない「強さ」を強く感じた。見た瞬間、「あ、この作品が好きだなあ、これいいなあ」と叫んだことを思い出す。
 赤く塗られたいま、その作品は、とてもすましている。成長して、気取っている。
 ホアキンが客と話している。少し離れて「ぼくはここにいるよ」と、人が話しかけてくれるのを待っている。見てくれるのを待っている。そういう感じがする。
 横顔なのではっきりしないが、壁を背にした右側の女性はホアキンの連れ合い。そういうことも、この作品に反映して、私は「社会にデビューした子供」のように見てしまうのかもしれない。
 作品は、どこにおかれるか、誰に見られるかによって、表情を変える。この展覧会では、「無防備」な感じは消え、自分の存在を静かに、しかししっかりとアピールしている。うーん、マドリッドの会場で「見に来たよ(会いに来たよ)」と言えたらいいのになあ。

 6月の、制作途中の作品をアップしておく。
 ホアキンが隣にいるときと、私が隣にいるときでは、やはり違って見える。
 ホアキンが隣にいると、作品は安心した顔をしている。



 まず、これまで紹介してこなかった作品。


 ふたつの曲線が、あいだに空間を抱えている。空間は上部で開かれている。
 二羽の白鳥に見える。左側の白鳥は空を見ている。右側の白鳥は、左の白鳥の顔を見ている。もちろん、白鳥はこんな「線」ではできていない。けれど、それが白鳥に見える。あいだにある「空間」が白鳥のしなやかな「肉体」に感じられるのだ。
 ふたつの線が、いまそこにないものを、浮かび上がらせている。
 出会った瞬間、(あるいは別れた瞬間ということもあるかもしれない)、こころのなかにぱっとはじける何か。
 そういうものを感じさせる。

 



 曲線のリズムがとてもいい。見る角度によって、強さも違って見える。こういう変化を見ると、やはり美術館に足を運ばないことには何もわからない、と思ってしまう。
 このダンスする彫刻の左右に、赤と青で、おなじシリーズの作品が見える。私は赤の方が好きだ。青の方は、私の知っているホアキンの印象とは違う。もちろん青の方が好きという人もいると思う。こういう「好み」の変化は、その日の気持ちによっても違う。それが、また楽しいのだが。

(日食を含む三点)

 作品は見る角度によって変わる。そのことをこの2枚の写真は教えてくれる。
 左のふたつの局面は、私は波だと思っていた。いまでも波だと思うが、その動きの印象は、以前、フェイス文句で見たときとは大きく異なる。絡み合い、戦っている。ただしその戦いは官能の戦いだ。より強い愉悦を求めて、激しく肉体をうねられている。
 「日食(月食)」に見えた作品も、単なる重なりではない。重なることで、隠していたものが見える。重なりを突き破って、官能が光りを発する。「出会い」は、かならず官能を呼び覚ますものなのか。
 奥の曲面の作品も官能的だ。女を背後から犯している。ペニスは女のからだを突き抜けてしまっている。女は男を振り返りながら、悦びとも苦しみともなづけられない瞬間の到来を告げている。(この呼応は、最初に触れた白鳥に似ている。)壁に映った影も美しい。
 この部屋の三点は、海(波)と空(月と太陽)と地上(男と女)がセックスし、命を生み出す部屋なのだ。



 半円と柱が組み合わされた作品は、何だろう。とても素朴だ。セックスと書いたあとだからかもしれないが、私は、子供を思い出した。三頭身の、やっと立つことができた子供。
 また、月に照らされて浮かび上がる木のようにも。その木は、半分闇に溶け込んで隠れている。木は月に照らされながら、月の形をあらわしている。対話している、とも思った。




 この作品は、子供の楽隊を思わせる。直線と曲線、面と線の組み合わせが楽しい。音楽が聞こえてくる。「子供の」という印象は、はやり全体のバランスが三頭身を想像させるからだろうか。

 ホアキンの作品の中には「血」が流れている。鉄が「血」として生きている。それが「子供」になったり、官能を追い求める「大人」になったりして動いている。「子供」を含むからかもしれないが、見ていると、いつもふっと笑いがこぼれてしまう。純粋さを感じるのだ。純粋さに、わくわくしてしまう。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(148)

2018-12-03 10:06:27 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
148  新年の夢

蟠る雲から一条の光が落ちる 長い海岸線
寄せては返す波打ちぎわに併行して 騎行する私
(現つの私は騎れないから 騎行するのは夢の私)

 私が夢を見ているのか、夢が私を見ているのか。
 この「錯覚」は「併行して」ということばのなかにすでに準備されている。波打ち際を走るというとき、人は基本的に波打ち際に沿って走る。つまり「併行(並行)して」しまう。だから「併行して」はなくても意味は通じる。でも、高橋は、書く。
 なぜか。
 「併行して」が錯覚を呼び起こすことを知っているからだ。それは「強調」である。度の強い眼鏡をかけたときのように、「もの(像)」が見えるというよりも、網膜に直接焼き付けられるような感じがする。その「像」から逃れることができない。
 目眩を引き起こす。

海岸線の途中ですれ違う 向こうから来る騎行の人
(その人のなんと私と似ていること 但し六十年前の)

 目眩は、単なる「併行/並行」から生まれるのではない。「鏡像」が目眩を引き起こすのではない。「同じ」であるものに「違い」が紛れ込み、「併行/並行」を攪拌するからだ。「すれ違い」と「過去」。「似ている」ものが瞬間的に出会う。
 どちらがほんもの?

それにしても何の予兆 八十歳の新年の目覚めの前に

 高橋は、そう書いているが、これはもしかすると二十歳の高橋が新年に見た夢なのかもしれない。二十歳の高橋が馬に乗って海岸線を走る。すると向こうから八十歳の高橋が走ってくる。
 「147  久留和海」もそうだが、書かれていることばを「老詩人」のものではなく、青春のことばと読み直してみるとおもしろいのだはないだろうか。
 話されたことばと、聞き取ったことばは違う。書かれたことばと、読み取られたことばは違う。
 私は、聞き取ったことば、読み取ったことばについて書く。それは話されたことば、書かれたことばとは違う。「違い」を書かなければ、すべては「意味」に収斂してしまう。「文学」ではなくなる。








つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社






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