詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中上哲夫「叔父さんと叔母さん 父の兄弟たち」、広瀬大志「風景の機会」

2018-12-06 09:55:49 | 2018年代表詩選を読む
 中上哲夫「叔父さんと叔母さん 父の兄弟たち」(初出「space 」 138号、2月)には「言い換え」がたくさん出てくる。
 一連目には「叔母さん」が描かれているが、そのなかの「棘の塊を踏んだり」の「棘の塊」はウニのことだろう。比喩である。この叔母さんの名前は明らかにされていない。結婚して「船橋の叔母さんが清水の叔母さんになった」。名前ではなく、地名で呼ばれる。
 二連目には岡山の叔父さんが出てくる。「手に球状の物体を重々しくぶらさげて」やってくる。「球状の物体」とはスイカである。この言い換えも比喩である。岡山の叔父さんがくると、いつも鰻重をとった。「で、ぼくらはいったものだった。鰻の叔父さんがきたと。」この「鰻の叔父さん」という言い換えは、いわゆる換喩である。比喩ではない。この叔父さんは名前ではなく、換喩で呼ばれる。
 そして三連目。

ぼくらにはもう一人叔父さんがいた。ヒデちゃんという名前の。間違いなく、祖父母にもっとも愛された人間だった。とても勉強ができて、とってもやさしい子だった、と。でも、ほんとに、ほんとうだろうかとぼくらは思った。叔父さんはとっくの昔に亡くなっていたのだ。ぼくらが生まれるずっと前に。結核で。

 ここには比喩も換喩も出てこない。「言い換え」はない。でも、「ほんとう」が書かれているのか。「ぼくら」は疑っている。けれど、疑いようのない「ほんとう」が書かれている。「祖父母にもっとも愛された人間だった」。
 「清水の叔母さん」も「鰻の叔父さん」も嘘ではない。ほんとうである。でも、その「言い換え」は、ヒデちゃんの「ほんとう」とは少し違う。
 この詩は、それを明らかにしている。
 詩は、比喩でも換喩でもない。言い換えが不可能なところにある。

 広瀬大志「風景の機会」(初出「みなみのかぜ」3号、2月)は「言い換え」かどうかは、ちょっと言いにくいところがある。比喩とはっきりわかるものもあるが、そうではなく抽象的としか言えないものもある。でも、具体的なことを言わない、抽象的に指し示すという点では「言い換え」の一種だろう。

客観性のない避難場所
(そこでの薔薇)が
図星によると
おれの必然的な遅延であり
複製された時間の中で
次の衝突が起きるまで
絶望的な選択肢に
自慰する谺だ

 「自慰する谺」は何のことかわからない。完全な「暗喩」である。それまでの抽象的なことばを引き継いで、抽象を一気に「意味」に転換するための暗喩だと「解釈する」ことができる。どういう「意味」かはわからないが、「意味」を浮かび上がらせようとしている、広瀬の意図を感じる。
 作為、と言った方がいいかな?キザったらしくて、そのキザをあえてぎくしゃくとしたものにみせている。
 で、どこに詩がある?
 よくわからないが、この「作為」が詩なんだろうなあ。西脇は、わざと書くのが詩と言っていた。「わざと」というのは「作為」を持って、ということだ。
 そんなふうに「理解」する(頭で、なんとか考える)のだが、私の「肉体」がついていかない。私には教養がないので、広瀬のことばがどんなことば(出典)と交流しているかわからない。わからないなら読むな、という怒りが聞こえてきそうだが。
 中上の詩を読んでいたときは、具体的には書かれていないのだが、おじいちゃんおばあちゃんの「声」が聞こえてくる。「ほんとうだろうか」という中上の声も聞こえてくる。はっきり聞こえるので、それを「詩」と感じる。



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(151)

2018-12-06 09:25:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
151  ヘレニスト宣言

 「ヘレネスとはヘラスの教養を頒ちあう人」というイソクラテスのことばを引いたあと、こう書き始められる。

何者かと問われたら ヘレニスト
ただし 黄色いヘレニスト
ついでに 老いぼれの と加えよう

 「ヘレニスト」「ヘレネス」が「教養」というものと関係しているとしたなら、「黄色い」とか「老いぼれ」とは関係ないだろう。そういうことばをひきずって「ヘラス」へ近づいていく限り、ヘレニストにはなれないというのは、「論理的」な批判になってしまうだろうか。

ヘレニスムが ヘラスに始まり
ヘラスを超えて 若さなるもの
みずみずしいものへの 永遠の憧れ

 という行を挟んで、詩は、こう閉じられる。

二十一世紀の 盛りの若さのヘラスびとよ
窮極の恋の切なさは 十八歳の肉の輝きに
ではなく 八十歳の魂の闇にこそ

 「若さ(十八歳)」と「老い(八十歳)」、「肉の輝き」と「魂の闇」が、「恋」のなかで交錯する。でも、私はそれを「論理」としか読み取ることができない。「切なさ」を感じることができない。
 また「論理」が「教養」であるとも思わない。「教養」が「論理」を含むということはあるだろうが、「論理」が「教養」を含むとは思えない。



 私は一度、アテネへ行ったことがある。古代の市場あとを歩いた。ゆるやかな坂があった。坂だと気づいたとき、プラトンの対話篇に、人が「坂道を降りてくる」という描写があったことを思い出した。あ、坂は(地形は)プラトン、ソクラテスの時代から変わらない。変わらないものがある、ということが、私のアテネ体験だった。坂か変わらないように、精神の地形も変わらない、と私は思っている。私はプラトンが伝えているソクラテスが好きだ。

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