詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朝吹亮二「人の野」

2018-12-01 10:55:23 | 2018年代表詩選を読む
朝吹亮二「人の野」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 「現代詩手帖」2018年12月号に「アンソロジー 2018年代表詩選 130選」が載っている。はじめて読む作品が多い。少しずつ感想を書いてみる。

 朝吹亮二「人の野」(初出「文藝春秋」17年11月号)。

秋の、野の、ひろがり
人の野だから、小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する
颱風が去って、化粧する朝、乳香が煙っている
冷めた紅茶、燃えかす、ゆっくりしかすすまない時計
おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか
また風が、立って、逆まいて
やんで、波動が消える、朝
何かがさえずる、人の野、誰もいないのに

 わからないことがたくさんある。
 「人の野」がわからない。それだけではなく「人の野だから」の「だから」がわからない。もし「人の野」ではなく「野」だったら小鳥はさえずらないのか。「だから」は「理由」や「原因」をあらわしているとは思えない。
 「小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する」は「事実」ではなく、朝吹が「気づいたこと」なのだ。もちろん「客観的事実」と「朝吹が気づいたこと/認識したこと」は同じことを指すかもしれないが、朝吹が書いているのは「主観的事実」というものである。
 つまり、それは「比喩」であり、どんなに具体的であっても、具体ではなく「抽象」であり、まだ実現していない「概念」へ向けて朝吹をひっぱっていこうとすることばなのだ。
 「認識としてのことば」が交錯しながら(たがいに刺戟しながら)、ひとつのことばだけでは言えないものを「抽象化」する。いろいろな「名詞」があるが、「動詞」の方に私は注目して読む。
 「ひろがる」と「繁茂する」は似ている。「去る」と「冷める」にも共通項がある。それは「繁茂する」とは異質だ。しかし「ひろがる」には重なるものがある。そこにあったものが「去る」と「ひろがり」が残される。「冷める」は「あたたかいもの」が「去る」ことであり、それが去ったあとには「冷たさ」が「ひろがる」。「燃えかす」は名詞だが「燃えて、かすが残る」という具合に動詞にしてみることができる。それはやはり「冷える/去る」と重なる。
 これに「ゆっくりとしかすすまない」という副詞と動詞がおおいかぶさる。あるいは、それらのことばのなかから「ゆっくり」と「すすむ/すすまない」があらわれてくる。「すすむけれど、ゆっくり」という「矛盾」を印象づける。(ここには「煙る」も反映している。)
 「矛盾」は疑問を呼び覚ます。

おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか

 繰り返される「なのだろうか」。これが、この詩のキーワードだ。「おもいで」と存在(名詞)を提示しておいて、それを半分否定する。「室内」も同じ。その瞬間「おもいで」も「室内」も存在せず、疑問に思うという動詞だけが残る。ことばだけが残る、と言い換えてもいい。ひとはことばなしには「疑問」をもつことができない。
 人とは「疑問」をもつという動詞として存在するのだ。疑問は答えを抽出するためのものである。もちろん、それは「正解」というものではない。「疑問」と同様、人をある方向へ導くだけである。「方向」をあたえるにすぎない。

 こう読んでくると「人の野」が何なのか、わかる。もちろん、この「わかる」は、私は「誤読する」ということだ。
 朝吹は、この詩に書いてあるとおりのことを書いている。しかし、私はそれを朝吹が想定したとおりには読むことができない。書かれていることば、読まれたことば。それは、違うものである。私は読んだことばについて書く。つまり、私がどう読んだか。どう「誤読」したか。言い換えると、朝吹のことばを、どうねじ曲げたか。
 考える、疑問に思う。そのとき、考えや疑問といっしょに存在してしまう「野」、それを「人の野」と朝吹は呼んでいる。それは、いつでも存在する「物理的な野(地理的な野)」ではなく、ことばとともにあらわれ、「比喩」として動き始めたあと、その「比喩」を「抽象」に変えていく。何かしらの「意味」になろうとする。(「立つ」「逆まく」「消える」からも同じことがいえるが、省略する。)
 「野」といいながら、「野」ではないもの、「室内」ということばが出てくるのはそのためである。ことばによって存在させられ、比喩から抽象、意味へと動いていくものだからこそ、そこには「野」の対極にある「室内」が必要になってくる。

 「人の野、誰もいないのに」、そこには「ことば」が動く。「ことば」が「人の野」をつくりだす。詩をつくりだす。



密室論
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七月堂
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(146)

2018-12-01 09:17:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
146  塔 新倉俊一に 田代尚路に

 新倉俊一は知っているが、田代尚路は知らない。並列して書いているから英文学者なのだろう。

同胞どうしが憎しみあい 殺しあった 暗い時代
詩人が籠った塔について 私たちは語りあった

 詩人の「孤独(孤立)」をテーマに語り合ったということだろう。
 最後の四行。

(生きている私たちも ひとりひとり孤立した塔
その窓が他の窓への銃眼にならないよう 心しよう)
その扉は ひたむきに叩く拳には 開かれなければ
私たちに友でない敵はなく 敵でない友はない

 括弧の中の二行は誰の詩なのか。「同胞どうしが憎しみあい 殺しあった 暗い時代」の詩人のことばだろう。「銃眼」ということばは、たぶん、いま生きている詩人のつかうことばのなかにはない。「比喩」として理解できるが、その「比喩」がひきつれている「空気」は「文学」として理解できるだけで、「現実」には迫ってこない。いまは、そういう時代である。
 「ひたむきに叩く拳」は、いまも、いたるところにある。「ひたむき」のなかの感情、「叩く」のなかの肉体の動き。それが「敵/友」をつなぐ。「ひたむき」も「叩く」も「人間」の行為だからである。そのことばのなかで、「敵/友」は「ひとり」の人間になる。

 でも、こういう「読み方」は、正確ではないなあ。

 「孤立した塔」は扉をひたむきに叩くことはない。ひたむきに叩かれることはある。つまり、「塔」は動いてはいかない。自分から世界に対して働きかけはしない。だから「孤立」といえるのだが。
 だから。
 ここに書かれているのは、「孤立」を確立した人間のことばだなあ、と思う。そして、その「孤立」の仕方は「銃眼」のように、「わかる(知っている)」けれど、いまはなまなましい比喩、世界を作り替える力とはならないと思う。
 「比喩」ではなく「意味」になってしまっている。「意味」を壊していく「比喩」が必要な時代だと思う。



つい昨日のこと 私のギリシア
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