朝吹亮二「人の野」(「現代詩手帖」2018年12月号)
「現代詩手帖」2018年12月号に「アンソロジー 2018年代表詩選 130選」が載っている。はじめて読む作品が多い。少しずつ感想を書いてみる。
朝吹亮二「人の野」(初出「文藝春秋」17年11月号)。
秋の、野の、ひろがり
人の野だから、小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する
颱風が去って、化粧する朝、乳香が煙っている
冷めた紅茶、燃えかす、ゆっくりしかすすまない時計
おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか
また風が、立って、逆まいて
やんで、波動が消える、朝
何かがさえずる、人の野、誰もいないのに
わからないことがたくさんある。
「人の野」がわからない。それだけではなく「人の野だから」の「だから」がわからない。もし「人の野」ではなく「野」だったら小鳥はさえずらないのか。「だから」は「理由」や「原因」をあらわしているとは思えない。
「小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する」は「事実」ではなく、朝吹が「気づいたこと」なのだ。もちろん「客観的事実」と「朝吹が気づいたこと/認識したこと」は同じことを指すかもしれないが、朝吹が書いているのは「主観的事実」というものである。
つまり、それは「比喩」であり、どんなに具体的であっても、具体ではなく「抽象」であり、まだ実現していない「概念」へ向けて朝吹をひっぱっていこうとすることばなのだ。
「認識としてのことば」が交錯しながら(たがいに刺戟しながら)、ひとつのことばだけでは言えないものを「抽象化」する。いろいろな「名詞」があるが、「動詞」の方に私は注目して読む。
「ひろがる」と「繁茂する」は似ている。「去る」と「冷める」にも共通項がある。それは「繁茂する」とは異質だ。しかし「ひろがる」には重なるものがある。そこにあったものが「去る」と「ひろがり」が残される。「冷める」は「あたたかいもの」が「去る」ことであり、それが去ったあとには「冷たさ」が「ひろがる」。「燃えかす」は名詞だが「燃えて、かすが残る」という具合に動詞にしてみることができる。それはやはり「冷える/去る」と重なる。
これに「ゆっくりとしかすすまない」という副詞と動詞がおおいかぶさる。あるいは、それらのことばのなかから「ゆっくり」と「すすむ/すすまない」があらわれてくる。「すすむけれど、ゆっくり」という「矛盾」を印象づける。(ここには「煙る」も反映している。)
「矛盾」は疑問を呼び覚ます。
おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか
繰り返される「なのだろうか」。これが、この詩のキーワードだ。「おもいで」と存在(名詞)を提示しておいて、それを半分否定する。「室内」も同じ。その瞬間「おもいで」も「室内」も存在せず、疑問に思うという動詞だけが残る。ことばだけが残る、と言い換えてもいい。ひとはことばなしには「疑問」をもつことができない。
人とは「疑問」をもつという動詞として存在するのだ。疑問は答えを抽出するためのものである。もちろん、それは「正解」というものではない。「疑問」と同様、人をある方向へ導くだけである。「方向」をあたえるにすぎない。
こう読んでくると「人の野」が何なのか、わかる。もちろん、この「わかる」は、私は「誤読する」ということだ。
朝吹は、この詩に書いてあるとおりのことを書いている。しかし、私はそれを朝吹が想定したとおりには読むことができない。書かれていることば、読まれたことば。それは、違うものである。私は読んだことばについて書く。つまり、私がどう読んだか。どう「誤読」したか。言い換えると、朝吹のことばを、どうねじ曲げたか。
考える、疑問に思う。そのとき、考えや疑問といっしょに存在してしまう「野」、それを「人の野」と朝吹は呼んでいる。それは、いつでも存在する「物理的な野(地理的な野)」ではなく、ことばとともにあらわれ、「比喩」として動き始めたあと、その「比喩」を「抽象」に変えていく。何かしらの「意味」になろうとする。(「立つ」「逆まく」「消える」からも同じことがいえるが、省略する。)
「野」といいながら、「野」ではないもの、「室内」ということばが出てくるのはそのためである。ことばによって存在させられ、比喩から抽象、意味へと動いていくものだからこそ、そこには「野」の対極にある「室内」が必要になってくる。
「人の野、誰もいないのに」、そこには「ことば」が動く。「ことば」が「人の野」をつくりだす。詩をつくりだす。
「現代詩手帖」2018年12月号に「アンソロジー 2018年代表詩選 130選」が載っている。はじめて読む作品が多い。少しずつ感想を書いてみる。
朝吹亮二「人の野」(初出「文藝春秋」17年11月号)。
秋の、野の、ひろがり
人の野だから、小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する
颱風が去って、化粧する朝、乳香が煙っている
冷めた紅茶、燃えかす、ゆっくりしかすすまない時計
おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか
また風が、立って、逆まいて
やんで、波動が消える、朝
何かがさえずる、人の野、誰もいないのに
わからないことがたくさんある。
「人の野」がわからない。それだけではなく「人の野だから」の「だから」がわからない。もし「人の野」ではなく「野」だったら小鳥はさえずらないのか。「だから」は「理由」や「原因」をあらわしているとは思えない。
「小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する」は「事実」ではなく、朝吹が「気づいたこと」なのだ。もちろん「客観的事実」と「朝吹が気づいたこと/認識したこと」は同じことを指すかもしれないが、朝吹が書いているのは「主観的事実」というものである。
つまり、それは「比喩」であり、どんなに具体的であっても、具体ではなく「抽象」であり、まだ実現していない「概念」へ向けて朝吹をひっぱっていこうとすることばなのだ。
「認識としてのことば」が交錯しながら(たがいに刺戟しながら)、ひとつのことばだけでは言えないものを「抽象化」する。いろいろな「名詞」があるが、「動詞」の方に私は注目して読む。
「ひろがる」と「繁茂する」は似ている。「去る」と「冷める」にも共通項がある。それは「繁茂する」とは異質だ。しかし「ひろがる」には重なるものがある。そこにあったものが「去る」と「ひろがり」が残される。「冷める」は「あたたかいもの」が「去る」ことであり、それが去ったあとには「冷たさ」が「ひろがる」。「燃えかす」は名詞だが「燃えて、かすが残る」という具合に動詞にしてみることができる。それはやはり「冷える/去る」と重なる。
これに「ゆっくりとしかすすまない」という副詞と動詞がおおいかぶさる。あるいは、それらのことばのなかから「ゆっくり」と「すすむ/すすまない」があらわれてくる。「すすむけれど、ゆっくり」という「矛盾」を印象づける。(ここには「煙る」も反映している。)
「矛盾」は疑問を呼び覚ます。
おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか
繰り返される「なのだろうか」。これが、この詩のキーワードだ。「おもいで」と存在(名詞)を提示しておいて、それを半分否定する。「室内」も同じ。その瞬間「おもいで」も「室内」も存在せず、疑問に思うという動詞だけが残る。ことばだけが残る、と言い換えてもいい。ひとはことばなしには「疑問」をもつことができない。
人とは「疑問」をもつという動詞として存在するのだ。疑問は答えを抽出するためのものである。もちろん、それは「正解」というものではない。「疑問」と同様、人をある方向へ導くだけである。「方向」をあたえるにすぎない。
こう読んでくると「人の野」が何なのか、わかる。もちろん、この「わかる」は、私は「誤読する」ということだ。
朝吹は、この詩に書いてあるとおりのことを書いている。しかし、私はそれを朝吹が想定したとおりには読むことができない。書かれていることば、読まれたことば。それは、違うものである。私は読んだことばについて書く。つまり、私がどう読んだか。どう「誤読」したか。言い換えると、朝吹のことばを、どうねじ曲げたか。
考える、疑問に思う。そのとき、考えや疑問といっしょに存在してしまう「野」、それを「人の野」と朝吹は呼んでいる。それは、いつでも存在する「物理的な野(地理的な野)」ではなく、ことばとともにあらわれ、「比喩」として動き始めたあと、その「比喩」を「抽象」に変えていく。何かしらの「意味」になろうとする。(「立つ」「逆まく」「消える」からも同じことがいえるが、省略する。)
「野」といいながら、「野」ではないもの、「室内」ということばが出てくるのはそのためである。ことばによって存在させられ、比喩から抽象、意味へと動いていくものだからこそ、そこには「野」の対極にある「室内」が必要になってくる。
「人の野、誰もいないのに」、そこには「ことば」が動く。「ことば」が「人の野」をつくりだす。詩をつくりだす。
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