詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高校国語問題

2019-10-22 10:49:53 | 自民党憲法改正草案を読む
高校国語問題
             自民党憲法改正草案を読む/番外295(情報の読み方)

 2022年度以降、高校の国語が再編される。「論理」重視にかわり、「文学」がわきへ追いやられる。このことについては、何度かブログに書いた。フェイスブックなどでも書いた。もう少し書いておこう。
 読売新聞2019年10月22日朝刊(西部版・14版)の三面、「スキャナー」に、こういう見出し。

高校国語 「論理」重視に波紋/「文学」選択性に

名作 触れなくなる恐れ/作家・研究者ら懸念

 その記事の中に、こういう部分がある。「論理」重視、「文学」軽視は、すでに実施されている。そして、その理由について書いている。

有力私大でも文学部以外の入試では近年、小説などがほとんど出題されていないこともある。ある大学関係者は「多様な解釈が可能な文学作品は、模範解答を作るのが難しい面がある」と明かす。

 ふーん。
 しかし、「文学の解釈」に「模範解答」などあるのか。「多様な解釈」があるからこそ、文学なのではないか。
 あの魯迅でさえ、なんだったか忘れたが、芝居を見た帰りにこんな感想をもらしている。悪党が処刑されるとき、「今度生まれてきたらきっと恨みを晴らしてやる」という部分で、ぞくぞくした。悪人に思わず共感している。しかもその悪人は反省しているのではなく、次はうまくやってやると宣言しているのである。ひとは、善人にだけ共感するのではない。悪人にも共感する。同情もする。作者が悪人の悪人たるゆえんを「今度生まれてきたら……」というセリフで証明したかったのかもしれないが、魯迅はそういうことは無視して、そこに生きている人間を発見し、共感している。こういうことも文学ではありうるのだ。そして、それは「悪い」ことではない。間違った解釈ではない。「多様な解釈」のひとつである。多様であるからこそ、「文学」なのだ。
 ここから、こんなふうに考える。
 憲法は「文学」ではない。法律の大本、基本である。その憲法の「解釈」さえ、多様化している。たとえば9条をどう読むか。安倍政権は、9条を無視して、軍隊を増強させている。もちろん安倍は「軍隊を増強させている」とは言わない。別の解釈をしている。
 「戦争法」が提案されたとき、国会で証言した憲法学者(自民党が推薦した学者を含む)の全員が、「戦争法は憲法違反である」と言った。それでも安倍は、その「解釈」を無視して「戦争法」を強行採決、成立させた。
 こういうことが、これからますます増える。つまり「多様な解釈」を許さず、安倍の「模範解釈」を押しつけるということが。「文学」ならば、まだ、そういうひともいるねえ。そういう気持ち、わかるなあ(魯迅の共感、わかるなあ)、で許容できるが、憲法や法律という「論理」だけでなりたっていることばの世界でもそういうことが起きるようになるのだ。
 「ひとつの解釈」だけで成り立つ世界。これは「独裁」に通じるが、そういうものが推進されるのだ。
 最近あったばかばかしい「解釈」に、こういうものがある。小泉が「環境問題はセクシー」と言った。この「セクシー」はどういう意味なのか。
 朝日新聞(2019年10月15日、デジタル版)によれば、

 政府は15日、気候変動問題をめぐる小泉進次郎環境相の「セクシー」発言について、「正確な訳出は困難だが、ロングマン英和辞典(初版)によれば『(考え方が)魅力的な』といった意味がある」とする答弁書を閣議決定した。「セクシー」の意味や発言の趣旨をたずねた立憲民主党の中谷一馬衆院議員、熊谷裕人参院議員の質問主意書に答えた。

 「セクシー=魅力的」を「模範解答」にした、「閣議決定」した、ということになる。この問題は、まるで笑い話だが、積み重なれば「笑い話」ではなくなる。
 環境問題を「セクシー」と考えるなんて、どうかしている、という「批判」は封じられる。それがすでに始まっているのだ。
 少し前には、安倍の「そもそも」は「基本的に」という意味であるというのを「閣議決定」したが、それが繰り返されている。二度あることは三度ある、になり、それが積み重なるとどうなるのか。
 「権力」が「ことばの意味(解釈)」を決定し、それ以外の「解釈」を許さないということが起きるのだ。

 読売新聞に登場する「ある大学関係者」とはだれのことか知らないが、「多様性(多様な解釈)」というのは「民主主義」の基本である。「多様な解釈」とは「多様な批判」ということでもある。
 ひとつの解釈しか許さないという姿勢は、批判を許さない、という姿勢にすぐに変わる。
 「文学の排除」は「多様な解釈の排除」であり、それは「多様な批判の排除」の先取りなのだ。
 「文学」とはもともと「多様な解釈」の世界、「多様な考え方、感じ方」をもった人間の出会いと、変化を描くものである。「ひとつの解釈」しかないなら、それは「文学」ではない。「模範解答(解釈)」というものを設定するからおかしいのだ。どんな解釈であろうと、それが「論理的」に語られていれば「正解」にすればいいのだ。問題なのは高校生の「論理力」ではなく、採点する大学の「論理力」と論理に対する「判断力」なのだ。「多様な解釈」を受け入れる力が大学に欠如しているということなのだ。
 そして、その「論理力」「判断力」を失った大学が、安倍に協力し、高校に授業に「大学入試の客観性」という基準をもとに介入していく、ということが、いまおこなわれていることなのだ。

 いま必要なのは、どんなときでも、自分自身のことばで世界を語りなおすという「個人の力」なのだと思う。「多様性」を世界にもちこむことが必要なのだと思う。
 世の中には「いいね」ボタンがあふれているが、「いいね」を押して、シェアすればそれが自分の意見になるわけではない。「いいね」だけではなく、それを同じことばになってもいいから、もう一度自分で書いてみる、声に出してみるといい。絶対に、そのままを繰り返すことはできない。句読点の位置(息継ぎの位置)や語順のずれ、いいにくいことばに出会うはずだ。その「いいにくさ」のなかに自分がいる。それを見つけ出して、そこからことばを動かしていけば、必然的に「多様性」が生まれる。「いいね」を押したけれど、この部分はちょっと違う。そのちょっと違うということを見つけ出す「訓練」のようなものを「文学」は教えてくれる。
 「文学」(個人的なことば)を排除することは、個人を否定することだ。全体主義を認めることだ。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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江代充『切抜帳』(2)

2019-10-21 19:50:57 | 詩集
切抜帳
江代 充
思潮社


江代充『切抜帳』(2)(思潮社、2019年09月30日発行)

 江代充『切抜帳』の叙事詩的抒情詩について書こうと思い、その過程で少し寄り道(脇道)をしたら、何が書きたかったのか、わからなくなった。わからなくなったのは、ほかに書きたいことが出てきたということでもある。
 きのう読んだ生田亜々子『戻れない旅』は歌集である。魅力的な短歌というのは、「うねり」がある。俳句だとあまりに短くて「うねり」を抱え込む余裕がないが、短歌には「うねり」がある。「意味」のうねりと「音」のうねり。

乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある

 この生田の短歌には「意味」のうねりというか、動きがある。「音」は、信じ「たい」、測ら「ない」、つ「かり」おり、「から」、は「から」ない、水深「がある」のなかに響きあうもの、うねりへつながっていくものを感じるが、「うねり」とまでは言えない。私の感覚では。「音」の好みは、「意味」の好み以上に「肉体的」なのものだから、ほかのひとはまた違った印象を持つかもしれないが。(生田の短歌には、もっと「暗い」うねりの方がいいかも、と私は感じる。たとえば、歌集一首目の「潮上がり来る」ではなく、「潮上り来る」という音の方が……。)
 この生田の「音のうねり」に比べると、江代の方が、「ぬるぬる」としていてつかみどころがない。そこに「音の肉体」を感じる。「音」が生きてきた「時間」を感じてしまう。「意味」もうねっているのだが、意識されない部分で「音」もうねっていて、それが「意味」を「ぬるぬる」させている。
 「ヴィオラ」の書き出し。

ここへ徒歩で来て川原の石をつたい
粗い盲壁のような土手の傾斜を見上げながら
かつてここにあったこの通りのことを
新来のようにし
わたしはふたたび語ろうとしていた

 繰り返される「の」によって、視線が先へ先へと押し進められていく。「の」の前のことばには決して戻らないという運動がある。「川原」から「の」を経由して「石」に視線の焦点が動く。「土手」から「の」を「経由」して「傾斜」に焦点が動く。途中に「の/ような」という比喩をつかったずらしがあり、「の/ように」というさらにずれていく。そういう動きといっしょに、「つたい」「みあげ(ながら)」「ようにし」と、終止形を避けて動詞が動く。それが絡み合って「うねり」をつくる。その「うねり」は「視線のうねり」であり「意味のうねり」なのだけれど、微妙な「音」の存在が「音のうねり」そのものとしてそこに存在しているの感じる。
 私は音読をしない。黙読しかしないのだが、「意味」よりも、妙に「音」の方が「肉体」のなかに少しずつたまってきて、それが私の意識をゆさぶって動いていると感じる。こういうことはほとんど直感的なものであって、非論理的なものなのだけれど。つまり他人とは共有しにくいものだと思っているけれど、この他人とは共有できない何かをこそ書いておきたいと私は思っている。

さっきから長い間
川端の草むらとすがり合って
後日になってようやく見付けられ得るような
柔らかな野良着すがたの
何かの母と覚しいひとの身柄がそこに横たわり

 このいつになったら「句点」があらわれてくるのかわからない文体。そこに、すがり合「って」、後日にな「って」という音の重なりがある。「ようやく見付けられ得るような」というもってまわった「もどかしい」音の連なりがある。それを引き継いで、ふたたび「の」を媒介とした視線の「ずらし」(突き動かし)が始まる。野良着すがた「の」、何か「の」、ひと「の」身柄。それが「横たわり」という中途半端なことばを経由して、こう展開していく。

そのうじの涌き出した白い仮面のような顔立ちをみとめると
よこに置かれた空の編み籠から
途上を縫って這い出してきた柄のある二匹の蛇が
曲がりくねった背負いの細い帯のようになって
その日同じ夕刻の
日差しのもとへ舞い降りてきていたと

 末尾の「と」は最初に引用した部分の「わたしはふたたび語ろうとしていた」を受けている。「さっきから長い間」からつづく行は、すべて「語ろうとしていた」の「内容」になって引き返していく。うねりながらもどっていく。この「意味」の構造、「音」の構造が、きのう読んだ生田の短歌の影響(反作用?)で、まるで「和歌」のうねりのように聞こえてくる。響いてくる。肉体を刺戟する。やふこしくねじれているのに、古くからある古典的な「正しさ」をまとっている感じがする。それが美しい。
 「うじ」とか「蛇」とか、あまり気持ちがいいとは言えない「もの/意味」が書かれているのだが、その印象よりも、私には「音」のうねり、文体の「うねり(ねじれ)」の方が美しさとして印象に残るのである。

 山本育夫は自分の中にあるものを吐き出して健康になる、という感じでことばを動かしているが、江代のことばは奇妙な「うねり」を肉体の中に閉じ込めることで、「私の肉体は、こういう不健康さを抱え込むことができるほど健康・強靱である」と言っているようにも感じられる。
 私は子どもの頃から虚弱体質で病気ばかりしていたせいか、こういう「強靱さ」に触れると、どうしていいかわからなくなる。その強靱さが、怖いものとして迫ってくるのを感じてしまう。
 「抒情詩」とも「叙事詩」とは関係ないことを書いたが、きょう考えたのは、そういうことだ。



*

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生田亜々子『戻れない旅』

2019-10-20 18:46:40 | 詩集
生田亜々子『戻れない旅』(現代短歌社、2018年08月27日発行)

 生田亜々子『戻れない旅』は文学フリマ福岡でみつけた一冊。生田亜々子は、ホールの片隅に、壁を背にしてひっそりと座っていた。
 巻頭の連作は「生きているものだけに降る雨」というタイトルがついている。そして、その第一首。

流れとは逆に光は運ばれて汽水の川に潮上がり来る

 私は、いきなりつまずいた。
 情景はすぐに思い浮かぶ。満ち潮になって、川を潮が逆流する。その潮の動きを光の動きでとらえている。
 これはたぶん夕方だろう。詠い出しの「流れ」は水の流れを指しているのだが、それは「時」の比喩ともなっている。時が流れ、夕方になる。そのとき満ちてくる潮は、遠い夕陽の静かな光を運んでいる。やがて消えていく光である。やがて消えていくけれども、生きている証として静かに光っている。暗さを含むことで逆に印象的になる光だ。
 私がつまずいたのは「汽水」ということばを生田が選んでいる点である。わざわざ「汽水」という必要があるのか。それが、私の最初のつまずきである。そのあと「上がり」ということばにもつまずいた。私のことばには「潮上がる」はなかった。「上げ潮」ということばがあるから「潮上がり」でもいいのだろうが、私は「潮上がり」ということばをつかったことがなかった。私には「潮上る」しかない。なぜ「潮上がり」なのか。「汽水」と関係があるのかもしれない。「汽水」のなかにある「き」、つまり「か行」の音。な「が」れ、「ぎゃ」く、ひ「か」り、は「こ」ばれて、「き」すい、しおあ「が」り。生田の「肉体」のなかでは「か行」が響いているのだろう。そう理解した上でも、なお私は「潮上がり」についていけないのだ。
 生田は、この「しおあがり」の「が」を、どう発音するのだろうか。九州のひとだからたぶん破裂音の「が」だろう。鼻濁音の「が」として発音することはないだろう。私の「肉体」のなかに、その破裂音「が」が突き刺さり、ちょっとひるんだ、というのが第一印象なのだ。語中の破裂音の「が行」にはすっかりなれてしまっていたつもりだし、自分でも破裂音で発音するようにしているのだが(そうしないと、九州のひとには「な行」と勘違いされる)、耳慣れないことばなので、それについていけなかったのだ。音というのは、なかなか執念深い「肉体」を持っている。
 そういうことがあったので、ページをめくるのをすこしためらった。でも、何かがページをめくれ、次の歌を読め、と私の「肉体」を突き動かす。

流れとは逆に光は運ばれて

 この矛盾した「動き」のなかに、何かが隠れている。生田の書きたいことが隠れている、という感じがするのである。それは「時間」というものではないか、と感じたのだ。「時間」には「過ぎ去る時間」と「停滞する時間」がある。そしてその「停滞する時間」というのはただ停まっているというよりも、「満ち潮」のように遠くからやってくる「未来」によって引き起こされる。流れに棹さして「過去」から「いま」、さらに「未来」へと時間が流れていくのではない。「過去」から「いま」へ流れてくる動きとは別に、「未来」から「いま」へと押し寄せてくるものがある。それを聞き取れ、と私のなかの声が語りかけてくる。
 で、その声に押されるようにして、私は読み進む。

伝えたいことばかりあるいつの間に変わってしまった切手の絵柄

 「伝えたいことばかりある」のは「伝えていない」からである。ここにも「時間の流れ」の矛盾のようなものがある。なぜひとは伝えたいことを伝えないのか。そして伝えないのなら、なぜそのことにこだわるのか。「ほんとうは伝えたい」からだ。いまでも「つたえたい」と思っている。思ってしまう。そのせめぎ合う「いま」をそのままにして、「切手の絵柄」が変わってしまう。この変化は「過去」が動いてそうなったのか、あるいは「未来」がいまへやってきて、そのために起きたのか。「伝えたい」と思った時間を起点にして言えば、その変化は「満ち潮」のようにやはり遠い「未来」からやってきたのである。
 この歌でも、私は「絵柄」という音につまずいた。どうも、生田の「音」は私の「音」とは違う基準で動いている。私はふと九州へ初めてやってきたときに感じた「違和感」を思い出す。日本語だから「意味」は、わかる。でも、私はそうは言わないという「音」で満ちている。「共通語」で書かれた「文学」でさえ。これは、これ以上は説明がしにくいのだが。

つなぎたい手とつなぐはずだった手と静かな雨に包まれる夕

 「つなぎたい手」と「つなぐはずだった手」は「同じひとつの手」である。「つたえたいこと」と「つたえられなかったこと」が同じであるように。
 そうであるなら「川上から流れてきた水」と「海からのぼってくる潮」もどこかで「同じ」である。川の水は、海の潮にとかわっているのだから。
 「過去」と「未来」が、どちらがほんとうに「過去」なのかわからなくなる。「つなぐはずだった手」は「つなぎたい手」から見れば「未来」である。そして、その「いま」ここにある「未来」が、「過去」(つなぎたい)を「時間」をつきやぶり「現実」(事実)として噴出する。この荒々しい瞬間を「静かな雨」がつつむ。
 もう一首。

乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある

 「信じたい」の「過去」には「疑い」がある。そして、その「疑い」は「過去」にとどまっているのではなく、いつも「いま」を突き破って「未来」へと動いていく。まるで「疑い」が「未来」からやってくるかのようだ。
 「時間」とは、そういう矛盾を抱え込んだものなのだろう。
 どうするか。「測らない」と生田は動詞を動かしている。「測る」(はっきり数値化できるようにする、客観化する)のではなく、そういう運動を「ない」ということばで否定する。
 ここに強い「哲学(思想)」がある。自分のなかで動くもの、動くものは必然的に「時間」を生み出していくのだが、それを「ない」と否定する。それは「自己否定」というよりも「自己無化」ということかもしれない。自己を「無」にする。「無」にすることで世界を受け入れる。あるがままにする。そのとき「時間」は「過去-現在-未来」という垂直方向(と仮に読んでおく)の流れではなく、「いま」を「過去-現在-未来」という流れを水平に解放する。そういうおもしろさというか、広がりをもつ。
 と書いたので、もう一首。

●として持つ幼少の暗がりをこの休日の公園にまで
     (注・●は「火」ヘンに「奥」のツクリ。私のわーぶろでは表示できない)

 この「思想」を生田は「幼少の暗がり」と呼んでいることがわかる。「休日の公園」ではなく「幼少の暗がり」の方が、生田を支えているのだ。「休日の公園」にきて、生田は「幼少の暗がり」をじっと抱きしめ、抱きしめたことを確かめてから歩きだすのだろう。この歌の中に、一首目の「暗さ」に通じるものを私は感じ、ふっと息をつく。
 歌集を読み通したわけではないが、とても印象的なことばの動きである。




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白井知子『旅を編む』

2019-10-19 10:56:07 | 詩集
旅を編む
白井 知子
思潮社


白井知子『旅を編む』(思潮社、2019年09月30日発行)

 江代充『切抜帳』にもどる前に、ちょっと寄り道。白井知子『旅を編む』について書いてみる。寄り道が脇道になり、違う方向へ行ってしまうかもしれないが、歩いてみないとわからない。踏み外すことでしかたどりつけないところもあるだろうし、踏み外しそのものが「ほんとう」を気づかせてくれることもある。それは、私のことばは、ここまでしか動けないという「できないこと」の自覚ということもある。書いてみないと、わからない。
 というのは、私の「独白」。

 江代の詩は、意識がつくりだす風景、ことばにすることではじめて具体的にあらわれてくる風景である。しかも、そうやって生み出された風景を否定するように、「ことば」だけが前面に出てくる。どうしても風景を見ているというよりも、「ことば」を読んでいるという印象が強くなる。つまり精神的風景を読んでいるという印象だ。風景を、情景を浮かび上がらせているはずなのに、浮かんできた情景はすぐに引き下がってゆき、「ことば」がうわずみのように「透明」になって、その存在を主張している。
 白井の詩は、印象がぜんぜん違う。旅、旅先で出会った情景、ひと、つまり白井にとっての「事件」を書いている。そこに書かれている風景、ものは、白井が書かなくても存在する。もちろん江代の詩でも、江代が書かなくても存在するのかもしれないが、書かなくても存在するというときの「書かなくても」の度合いが違う。なぜなら、白井が書いている「風景」「もの」「ひと」は、日本語では書かれたことがないものだからだ。白井は書くことによって、旅で出会ったものを「日本語」にしている。情景があらわれてくるのではなく、「日本語」が生み出されてくるのだ。「ことば」のうまれ方が違う。
 白井のことばが他の日本語のなかへ引き返すとき、そこには「断絶」がある。日本語で書かれているが、それは日本という「背景」をもっていない。江代の「ことば」はほかの「ことば」に引き返すとき、「断絶」ではなく「連続」を利用するのと大きな違いがある。江代のことばは日本語(の精神)という背景をもっていて、その背景と江代のことばを重ねるときに、重ねながら(連続させながら)、不思議な「差異(ずれ)」を感じさせ、読者を奇妙な不安に陥れるという性質をもっている。
 
 こんな抽象的なことを書いても、どうしようもない。抽象的だから、逆のことも簡単に言うことができるだろう。抽象はいつでも「後出しじゃんけん」のように完結へと「論理」を動かしていく。ことばを、そうやって閉じ込めてしまう。
 それにこんなことを書いていては、白井の詩に入っていけない。

 最初から、ことばを動かしなおしてみる。

 白井知子『旅を編む』の詩は、外国を旅したときのことを書いている。日本語で書かれている。その日本語を私は読むことができるが、その日本語の前に、まず「外国のもの」がある。意識(日本語)よりも前に、「もの」がある。「もの」には日本語ではないもの(外国語)がいっしょに存在する。だから、意識があるとすれば、その外国語のなかにある。白井は、意識を持った「もの」ではなく、意識を持たない「もの」に出会い、それを「日本語」という意識に変えている。白井によって、日本語の意識でとらえられた「もの」がそのたびに誕生する。「日本の意識」と断絶しているから、ごつごつした感じ、硬い感じが、そこから噴出してくる。「もの」に出会っている感じがする。
 「少年ヴォロージャ」という作品。

南コーカサス グルジア
昼餉は古都ムツヘタにある民家 リラさんのお宅で
玄関まで蔓バラが咲きこぼれていた

 ことばのひとつひとつが真夏の太陽に照らされた「もの」のように「陰」を持たずに、直接、存在している。「直接」という印象があるのは、白井のことばが、帰っていくべき「日本語の背景」を持たないからだ。「背景」を持たないまま、ここから動いていくしかないからだ。書かれていることばは、知っている。「意味」はわかる。だが、それは「ほんとう」ではない。私が勝手にそう思うだけで、私は白井が見たものを見てはいない。白井だけが見たものが、ここにことばとして生まれてきている。
 この生まれてきて、存在することばの強さについていくのはなかなかつらい。どうやって白井は、こういうことばの強さを手に入れたのか。なぜ、それがここに存在しているのか。
 白井は、こんなふうにも書いている。(いったん、「少年ヴォロージャ」から離れる。)

イスファハーン イマーム広場
イスラム教回廊バザール 読まれていくのは わたしだ

 生み出すと同時に、生まれる。それは「読まれる」(他人のことばで白井がとらえられる)ということでもある。そこには一種の戦いのような緊張がある。その緊張がことばのすべてを強くしている。「精神」にもどっている余裕はない。「肉体」そのものを動かし、自分を「存在」させるしかない。そういうことを体験してきて、はじめて手に入れることのできる「力」が白井のことばにはある。
 でも、それを支えるのは、ほんとうに「肉体」だけか。「肉体の体験」だけか。ここからもう一度「少年ヴォロージャ」にもどる。

中座し 玄関側の廊下へ
迷い込むようにして 民家の奥へとすすむ ノブに手をかけ 扉をおした
そこは 納屋から裏庭へ
逆光のなかから 少年の蒼い影が近づいてくる
わたしは手前の階段をのぼりきる
蜘蛛が走っていく
二階の部屋があいていた
少年がやってくる
階段を一段 そして 一段 あがってくる

 ことばを追いかけるとき、動詞にあわせて私の「肉体」は動く。「わたし」になったり「少年」になったりしながら、私は動く。これは江代の詩を読むときも同じだが。
 そして、動詞になりながら、ノブとか扉とか、裏庭とか階段とかに「もの」そのものとして出会っていく。そこには逆光だとか蒼い影だというような「もの」から少しはなれたものも含まれる。「もの」ではないけれど、それが「事実」であると感じる。
 どうして?
 知らない「もの」なのに。知らない「世界」なのに。なぜ「事実」と言える?

リラさんの民家が
十歳になる少年ヴォロージャの夏の家につながっていたなんて--

 ここまで読んで、私は、はっと気がつく。
 「つながっていた」。「つなぐ」という動詞に、そうだったのかと思う。
 白井はリラさんの家を訪問した。そして昼食のあと昼寝のため(?)、別な部屋に移動する。そうすると、その白井の動きのなかに過去がよみがえる。少年ヴォロージャに出会ったことを。「いま」が「過去」とつながること、「過去」が「いま」につながることを、「いま」を起点にして「思い出す」というが、「思い出す」と「隔たり」がなくなることである。
 白井は、すべてが「つながっている」ことを発見するのだ。

リラ家がバグダジ村から
菩提樹の薫る 四月のモスクワの通り ルビャンスキー横丁三番にまでつながっていたなんて--

 そのつながりは、時空を超える。あるとき、白井は「手袋」をなくした。どこで?

リラ家は もう一軒
陽炎の小道で
グルジアのゴリ市 靴職人の家につながることがあり
そこの椅子に落としてしまったのだ

 つながりは、自在である。まるで「精神」のようだ、と書くと、江代の、「うねる精神/ねじれる精神/立ち止まる精神」としての「ことば」重なってしまいそうだが、何かが違う。
 何が違うのか。

グルジアのゴリ市 靴職人の家につながることがあり

 この一行の最後にかかれた「あり(ある)」という動詞、「ある」を意識していることが違うのだと思う。
 「つながることがある」は「つながるものがある」でもある。白井は、その「ある」に引き寄せられて動いていく。「ある」そのものに「なる」。「つなげる」に「なる」と少しだけことばを変えてみることもできる。
 白井の詩は、行動としての詩、「行動詩」なのだ。「つなぐ」ことで白井自身がかわりつづける「叙事詩」なのだ。精神は、詩をもう一度読み直すとき、「肉体」のなかを動いていく。

 もちろん「つなぐ」という運動は精神でもおこなわれる。ある存在を別の存在に繋ぐことを「比喩」という。「君は赤いバラ」と言えば「君」と「赤いバラ」が結びつけられ、同一視される。そういう結びつけのなかに(比喩のなかに)、「抒情の芽」がある。精神にしかできない動きがある。
 と、書いて、私は江代の詩集へもどっていけば、また何か書けるかなあと考えている。




*

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山本育夫「抒情病」十八編(2)

2019-10-18 09:47:46 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫「抒情病」十八編(2)(「博物誌」41、2019年10月01日発行)

 江代充『切抜帳』から山本育夫「抒情病」に引き返してみる。

9 最近

紫陽花が咲いている
窓越しに見える
風に揺れている
色彩のない
ことばのかたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
ことば煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった

 視線が自然に動いていく。「見える」という動詞が二行目に出てくるが、一行目にも隠れている。書かないだけで、意識は「見える」を補っている。いたることろに「見える」を補うことができる。
 あるいは、こういった方が正しいかもしれない。

ことばのかたまり

 こんなものは、「見えない」。だからこそ、ここに「見える」を補うと山本の書こうとしていることがわかる、と。
 言いなおそう。
 この詩は、「見える」という動詞を消しても成立する。
 やってみよう。

紫陽花が咲いている
窓越しに
風に揺れている
色彩のない
ことばのかたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
ことば煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった

 何か変わりましたか?
 最初の詩を知っているから二行目から「見える」が消えたことに気づく。しかし、「原典」を知らなければ、これはこれで詩として成立する。「見える」がないぶんだけ「不安定」になり、「叙情性」が高まるかもしれない。「見える」があると、「見る」主体としての「肉体」を感じる。そのために安心する。「見る」肉体(山本)に私自身を重ねあわせ、自分で見ている気持ちになるのだ。「見える」がないと「ゆれる」。「感じる」を補って読むこともできるからだ。「感じる(感じ)」とは、とらえどころがなく「ゆれる」ものだからだ。

紫陽花が咲いていると感じる
窓越しに感じる
風に揺れていると感じる

 これでは「超抒情」になってしまう。
 「見える」ではなく「聞こえる」だと、どうなるか。

紫陽花が咲いているのが聞こえる
窓越しに聞こえる
風に揺れているのが聞こえる
色彩のない
ことばのかたまりが聞こえる

 一瞬とまどうが、こういうとまどい(なぞかけみたいなもの)を「わざと」押し込むと、一気に「現代詩」にかわってしまう。西脇が言ったように「現代詩」とは「わざと」書くもの、ことばを「わざと」動かして見せて、そこにいままで存在しなかったものを出現させる運動だからだ。
 でも「聞こえる」だと「ことばのかたまり」が妙にくっつきすぎる。べたべたする。おもしろくない。
 やっぱり「見える」でないといけないのだ。一度だけしかたなしに書かれてしまうことば、作者の「肉体」のなかにしみこんでしまっていて、無意識で動くことばを私はキーワードと呼んでいるが、この詩では「見える/見る」という動詞がキーワードである。
 「見えない」ものが「見える」。「ない」が「ある」というギリシャから始まった「哲学」(理性の運動)がここにある。そして、その運動のテーマは「ことば」なのだ。「見える」と緊密に結びついて「ことば」もキーワードになっている。「ことば」という表現を削除すると、この詩は成り立たない。
 もう一度やってみよう。

紫陽花が咲いている
窓越しに見える
風に揺れている
色彩のない
かたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった

 ほら、単なる「風景」になってしまう。「抒情詩」というより「情景詩」か。この「情景詩」にすぎないものを「詩(あるいは抒情詩)」にしているのが「ことば」という表現なのである。
 ここがポイント。

 であるだけではない。
 このポイントを簡単に指摘できるのは、実は、山本のことばが非常に「論理的」な動線を描いているからだ。部屋の中から視線(見る、という動詞)は外へ出ていく。それは引き返したりはしない。停滞しない。突っ走る。そして、これは単なる私の思いつきでテキトウな印象になるのだが、この論理的なスピードの正確さは、吉本隆明のことばのスピードに非常によく似ている。
 ここに江代のことばの運動との違いがある。江代はスピードを正確に守るのではなく、「歩幅」を正確に守る。対象との「距離」の取り方を正確に守ると言いなおしてもいい。スピードというのはだんだん「加速」するが、「歩幅」は「加速」しない。広がったりしない。その、一種のじれったいような「停滞」が江時の「抒情」である。
 山本にもどって、加速する抒情、スピードを上げた結果、おいおい、どこへ行ってしまうんだとあきれかえさせる「脱線」の例を引用しよう。高く評価したいときは、一般に「飛翔」と言うのだが、私はあえて「脱線」ということばをつかっておく。その方が、今回の山本の詩の「暴力のやさしさ」に似合うからだ。

14 干し場

オオ!サンショウウオ
ことばの体力が
落ちている
謎解き探偵は
明け方の光を浴びながら
注意深く表皮に
巣食っているそれを
ピンセットで
つまみだす
(よくここまで成長したね
(たいしたもんだ
潮風をうけながら
静かに乾燥していく
ことばの
干し場

 強引にストーリー(意味)をつくれば、サンショウウオを見た。でも、それをどう詩にしていいかわからない。「謎解き」のように「答え(詩)」を組み立てられない。それでもそこにサンショウウオは「ある」。ことばにならないまま、ことばも「ある」。「ない」のは詩だ。で、「ある」ものをとりあえず動かしてみる。何が動くか。
 「(よくここまで成長したね/(たいしたもんだ」はオオサンショウウオに対する「感想」かもしれない。それはたまたまオオサンショウウオに向けられているが、ほかの対象でも言えることでもある。ことばの、使い回しだね。つかいすぎては汚れる。汚れたら洗濯する、洗濯物は乾かさないといけないと考えたのどうかわからない。単に水のなかにいるサンショウウオを見て、水とは反対のことを想像し、「干し場」を思いついたのかもしれない。
 この変な「結論」は、簡単に言えば、「暴走」である。悪口風に言えばデタラメである。でも、それをデタラメと感じさせないのは、ことばのスピードが加速していくという運動をとっているからである。ブレーキをかけたりしないのだ。デタラメであるからこそ、それを放り出してしまう。
 江代のように、引き返し、引き返すという行為を「肉体」の運動だけではなく、「内面」への運動に転換させ、そこに「抒情」(感情の深まり)を生み出そうとはしないのだ。
 あ、でも、こんなことを書くと、山本は引き返すという運動をしないのか、「引き返しの抒情」を書かないのか、というとそうでもない。「18 蝉しぐれ」は「いま」「ここ」から動き始めて、「遠く」へ行くことが「過去(記憶)」になり、それが「いま」噴出してきて世界が新しく輝くという感じの詩だ。どういう詩か。なぜ、それを引用しないのか。うーん、時間がなくなったということなのだが、「いい詩だから、みなさん、私のことばに汚される前に、博物誌で読んでください」と宣伝して終わりにしよう。


 



*

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高井 ホアン『戦前不敬発言大全』

2019-10-17 23:15:29 | 詩集
戦前不敬発言大全: 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説 (戦前ホンネ発言大全)
高井 ホアン
パブリブ



高井 ホアン『戦前不敬発言大全: 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説 (戦前ホンネ発言大全)』(合同会社パブリブ、2019年05月24日発行)


とてもおもしろい。
いまの人間は「言論の自由」を信じているが、昔のひとの方が「自由」だ。
憲兵に取り締まられたかもしれないが、そして実際に拷問で死んで行ったひともいるが、なんといっても「精神が自由」だ。
言い換えると、「批判力」がある。
いまの日本は「批判力」をなくした人間しかいない。
「批判」をしないから、圧力をかけられない。
それだけのことなのに「自由」だと思い込んでいる。
それは愛知トリエンナーレを見ただけでもわかる。
天皇と自分を同一視した画家が、他人に作品(天皇)が焼かれるのは我慢ができない。自分で焼いて「浄化」しただけなのに。
この本の172ページに、

天皇ハ一介ノ「オメコ」スル動物ナリ

という文言が書かれている。
こういうことを「文書」にするだけの「自由」が、いまの日本にはない。
天皇は人間である、という視点でみつめる「批判力」がなくなっている。
自分で自分の「自由」を捨てているのが、いまの日本人だと思う。
戦前(戦中)は、みんな死ぬか生きるかの「真っ只中」にいたから、真剣にことばを発している。
自分の考えたことを、自分でことばにしている。
そこに「精神の自由」と「批判力の健康」を見る。
いまこそ読まれるべき一冊である。

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「遠近を抱えてパート2」 について(再追加)

2019-10-17 22:55:24 | 自民党憲法改正草案を読む

「遠近を抱えてパート2」 について(再追加)

YouTubeでみた大浦信行の「遠近を抱えてPart2」には少しわからないところがあった。
山本育夫さんが紹介してくれたビデオで作品の背景が分かった。

https://video.vice.com/jp/video/nobuyuki-oura/59e0485e177dd454fe3412f1?fbclid=IwAR09Yk3YCqetKKcKkOrNjZrj4c6W5_yQc3XnMNUoEjTimF6Bjl6K9SZs_5E

「遠近を抱えてPart2」に先立つ作品がある。「遠近を抱えて」である。その作品は
①富山の美術館で展示された。展覧会が終わった後、富山県議会で作品が批判され、最高裁まで争った。そして、その後(?)、展覧会の図録が焼却された。
②「遠近を抱えてPart2」は、そういう経緯を踏まえて作られている。
なぜ、大浦は「遠近を抱えてPart2」で作品を焼いたのか。
理由は簡単である。大浦にとって天皇は大浦自身なのである。大浦はアイデンティティを天皇に直結させている。日本の感情、情緒、精神もすべての天皇を中心とした「遠近法」のなかにある。それが「遠近を抱えて」で大浦が表現したことだ。(ポエティックというようなことばを使って、大浦は「遠近を抱えて」を紹介していた。桜とか入れ墨とか、日本のポエジーが天皇の周辺で、一点透視とは違う遠近法、縄文の渦巻き、らせんで構成されている、というのが大浦の「哲学」だ。)
ところがその作品図録が焼却処分にあった。これは大浦には、大浦自身が否定されたように感じられた。きちんとした「批評」で否定されたのではなく、芸術を理解しない人間によって、無残に否定された。大浦自身だけではなく、大浦が「一体」と感じている天皇も「無知」によって踏みにじられた。理想の「遠近法」も否定された。)
何としても、天皇と大浦自身を「無知」から救済しないといけない。彼の「芸術」のすべ
てを救済しないといけない。
どうするか。
大浦自身の手によって、「完璧」に死へと昇華させる。「もの」ではなく、「精神(霊)」にまで高めるのである。それが焼くことであり、灰を踏みにじることなのだ。もう、「無知」な人間には「大浦自身である天皇」の作品など見せない。
大浦は、そう決意したのだ。そして彼一人で「儀式」をしたのだ。
天皇の「評価」はいろいろあるだろう。大浦は、天皇は日本人の精神を戦争によって高めたと感じているのだろう。稲田なんとかという国会議員のように。その「証拠」として従軍看護婦の少女の手紙を「パート2」の中に抱え込んでいる。大浦は、少女の手紙を紹介することで、彼自身が「少女」になって、天皇の命ずるままに戦地に行き、血まみれになって死ぬのだ。彼女の遺体(遺骨)は日本に帰ってきたか、たぶん帰ってこない。その少女も、同時に「美しい霊」にしてしまうのだ。天皇と戦争というものがなければ、少女の精神は「美しい霊」にはなれなかった。天皇のおかげで「靖国の霊」になれた。
この作品のなかで、大浦は、生きていながら「靖国の霊」になっているのだ。
とんでもない作品だ。
この作品を批判している人は、天皇の写真が焼かれている部分だけしか見ていないのかもしれない。もしかすると、その部分も見ていないかもしれない。
天皇の肖像は、写真のコラージュのようにも見えるが、大浦が描いたものにも見える。自分が描いたものが気に食わなくて、破ったり焼いたりする人は多いだろう。そうすると「完璧には描けなかった天皇」を焼くということは、不謹慎なことではなく、天皇を愛するひとなら当然のことかも知らない。「完璧な天皇の肖像」だけを提供したいと思ったから焼いたということもあるのだ。
「表現の自由」が話題になった作品だが、この作品を他の画家たち、この作品を実際に見た人たちはどう見ているのか。作品に対する感想を聞いてみたい。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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「遠近を抱えてパート2」 について(追加)

2019-10-17 06:40:48 | 自民党憲法改正草案を読む
「遠近を抱えてパート2」 について(追加)

この作品の印象は先に書いたが、どうにもわからないことがある。
この作品の天皇の肖像は、たしかに昭和天皇をかたどっているが、それは「写真」なのか、それとも「描いたもの」なのか。そして、「描いたもの」だとしたらだれが描いたのか。
作者自身が描いたのだとしたら、この作品は「逃げ道」を用意している。
「天皇の肖像を焼くのは許せない」という批判に対して、「天皇を描いたが、うまく描けなかった。だから失敗作を焼いた」と言い逃れができる。失敗作であっても、天皇の肖像であるかぎりはそれを大事に保存しなければならない、というのはあまりにも無理がある。批判するひとは「しかし、焼いているところを公開しなくてもいいじゃないか」というかもしれない。これに対しては「失敗作をごみとして他人の処理にまかせるのではなく、自分で責任をとって処理していることを明確にするため公開した。自分の作品に責任を持っている」ということもできる。論理はいつでも、どんなふうにでも完結させることができる。論理というのは「後出しじゃんけん」なのである。
こういう「後出しじゃんけん」を用意しているものは「芸術」としては「うさんくさい」ものがある。
そういうところにも、私は、かなり疑問をもつ。

そして、これから書くことは作品そのものとは関係がないが。「天皇崇拝」思想に関する疑問である。
天皇制は正しく言えば「父系天皇制」である。
正妻のこどもであっても女子は天皇になれない。側室のこどもであっても男子なら天皇になる。そこには「男尊女卑」の思想がある。
男子を生んだ側室は、「歴史」にきちんと書かれるかもしれない。正妻の生んだ女子も「歴史」に書かれるだろう。しかし女子を生んだ側室、側室から生まれた女子はどうなるのだろうか。
私は「歴史」にはうといのでよくわからないが、たとえ書かれたとしても「父系天皇制」の脇に追いやられ、名前がふつうのひとの口にのぼるということはないだろう。
「男尊女卑」を前提とした「家」制度が、ここに隠されている。そういう「家制度」をそのまま「理想」として受け入れることに、多くのひとたちは納得しているのか。
とくに「天皇制」を支持する女性は、このことについて「理不尽さ」を感じないのだろうか、と疑問に思ってしまう。

で、先に「これから書くことは作品そのものとは関係がない」と書いたのだが、「男尊女卑」を出発点にして考え直すと、いま書いたことは作品と深い関係を持っている。
この作品では、従軍看護婦の手紙が朗読される。どうも死んだらしいことが暗示される。さらにチマチョゴリを着た韓国女性らいしシルエットが「紙人形」で表現されている。背後に韓国語らしい歌が聞こえる。
女性の死と天皇が結びつけられている。
女性の死は「必然」のように描かれている。
でもそれは「必然」と認めていいのか。
もちろん、戦闘で死んだ男子以外の犠牲者に目を向けさせるためにそうした、という論理は成り立つ。
しかし、やっぱりよくわからないのである。
「論理」というよりも「情緒」を刺戟しているだけなのではないか、という「うさんくささ」が残るのである。

また別の疑問も残る。
私はあるブログで、この作品は「どんど焼きのとき燃やした新聞にたまたま天皇の肖像が写っていたようなものだ」というような感想を読んだ以外には、「批評」を目にしていない。
感想、批評さえも、そこに天皇が登場するのは問題なのか。
天皇について語ることは、なぜ、問題なのか。
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江代充『切抜帳』

2019-10-17 00:00:00 | 詩集
切抜帳
江代 充
思潮社


江代充『切抜帳』(思潮社、2019年09月30日発行)

 江代充『切抜帳』は「叙事詩」か「抒情詩」か。感情の動きというよりも、肉体の動き、視線の動きに重心を置いているので「叙事詩」ということになるかもしれない。
 「木切れの子」という作品。この作品については書いたことがあるかもしれない。でも、書いてみよう。前に書いたことと、まったく違うことを書くかもしれない。

出掛けたあと
一面に畑地の見える
目先にちかい所に仮小屋があった

 なんでもないような書き出しだが、とても「くせ」がある。「出掛けたあと」とあるが、だれが出掛けたのか。これはたぶん、作者が外に出たということだろう。ふつうは自分のことを「出掛けたあと」というような奇妙な言い方で「客観化」しない。
 そのあとの「一面に畑地の見える」というのも、「くせ」がある。「見える」という動詞をつかうにしても、ふつうは「畑地が見える」だろうし、わざわざ「見える」とは言わないだろう。「一面に」ということばもとても奇妙だ。わざと「一面」「見える」と言って、「視線」を広げた上で、その動きをねじまげるように(引き返すように)「目先にちかい」ということばを動かす。ことばにあわせて、私は「肉体(視線)」が奇妙にねじれるのを感じる。ことばが「感情」ではなく、「肉体」の動きをなぞるように動いていると感じる。

一度その前を過ぎ
山へ向かう奥の草地のほうへ抜けてしまうと
遠くなった小屋の正面は見うしなわれ
こちらに傾いた小さな屋根の上に
拾われた細枝のバラ束がおおまかに敷かれていて
その内から所所
間を置いて跳ね上がる小枝の列が
上方へななめに傾き
か細い茎の柱のように突っ立っていることが分かる

 「動詞」が非常に多い。「その内から所所」以外にはかならず「動詞」がある。そのなかには「傾いた小さな屋根」のように修飾語として働いていることばもあるが、そのひとつひとつが「動詞」であるがゆえに、「肉体」をひっぱりまわす。それにしたがって「正面」は「見うしなわれ」、「正面」ではないものがあらわれる。つまり、普通は意識しないもの「内」(内面)が、内面ではなく「外面」としてあらわれる。いや、逆か。ふいにあらわれた「正面」以外の「外面」が「内面」として「肉体」のなかへもぐりこみ、往復する。出たり、入ったり。行ったり、引き返したり。往復だ。それを繰り返していると「見える」「見うしなわれる」が、「分かる」にかわる。「分かる」とは「意識化される」ということである。「肉体」のなかに、それが入ってくるということだ。
 「分かる」というのは、「予兆」のときもあるし、「現在」のときもあるが、過去になってから「分かる」というものもある。
 だから、こんなふうに言いなおされる。

あとになって
遠く空にいるヒバリがしずかに先を越し
わたしもそこへ引き返すとき
牛やうまや飼い葉桶のある
あの仮設小屋の内側に宛てがわれている
新しく設えられた
よろこびの素材の板の一つに触れようとする

 「見たもの」が「肉体の動き」にあわせて「肉体」のなかにしまいこまれる。この「しまいこみ方」は、先日読んだ山本育夫の「抒情病」とはずいぶん違う。山本は「知性」でととのえた。それを内部にためこむのではなく、外へ出しつづけ (ことばにしつづける)、肉体と感情の健康を保つ。一方、江代は「知性」を遠ざけ、「肉体」の動きにこだわっている。「先を越す」「引き返す」「宛てがう」「設える」、そして「触れる」。「触れる」は「目で見る」ではなく「手で見る」ということだな。そのとき、肉体の内部にためんこんだものが、ふいに「よろこび」、つまり「感情」となってあふれる。
 「叙事」が「抒情」に転換するのだ。

 この奇妙な文体は、山本育夫の『ヴォイスの肖像』の切断と接続の感覚に似ていないこともないが、いちばんの違いは、山本の切断と接続が「意識」の運動であるのに対して、江代の場合は、どこまでも「肉体」であるということだろう。「肉体」はけっして切断されないし、接続できない。あえていえば「接触」しかできない。その運動のなかで、「意識」はゆっくりゆっくり、ときには滞ったり引き返したりしながら、「自己」を守る。そして最後に、息をするように「抒情」を吐き出すのだ。

 ここから、また山本育夫へ引き返してみるのもおもしろいかもしれない。これは後日の課題だ。


*

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愛知トリエンナーレの「問題作」

2019-10-16 19:09:17 | 自民党憲法改正草案を読む
https://youtu.be/WSM9PSOsOFY

「遠近を抱えてパート2」をユーチューブの画像で見た。

どうしてこれが天皇を侮蔑していることになるのだろうか。
たしかに天皇の肖像はバーナーで焼かれている。
だから、天皇を蔑視している?

私はまったく逆にとらえた。
天皇を崇拝するな、というか、天皇を批判しないで戦争を語れないじゃないか、と怒りを感じた。

途中に少女が出てくる。従軍看護となって戦地へ行く。その手紙が読み上げられる。
海のなか(波打ち際)に立っている。海のいろは砂で濁っている。まるで血のように赤い。それは少女が死んだことを暗示している。
この少女、何の罪もない少女が戦争に奉仕させられて死んだのだ。
そのことを「美化」するために、天皇という存在が利用されている。少女の手紙のことばは「天皇の存在」ぬきでは成立し得ない美しさである。
それなのにその戦争を引き起こした天皇は、炎で焼かれてまるで存在しなかったかのように、消えていく。
「焼く」という行為のなかに、どんな「批判」も感じられない。

後半に、少女が砂浜で焼け焦げた写真を拾う。その写真は天皇の写真ではなく、見知らぬ少年(?)のものだ。
それを少女は慈しむようにかざす。
だれか、同じように、遠い戦地で死んでいった少女の写真を手に取って、少女のことを思うひとがいるか。
おそらく「肉親」だけである。「肉親」以外のひとは、少女のことを思い出さない。

これは「理不尽」だろう。
「天皇の肖像」は日本中にあふれ、みんなが「天皇」のことを知っている。そして、多くのひとが「天皇陛下万歳」と言って死んでいった。
その天皇が生き残り、なお敬われている。
少女のことは、だれが敬うのか。何人が敬い、思い出すのか。

「焼く」という行為には、「火あぶり」というものがある一方、その存在を別の次元に高めるというものもある。
「火葬」というのは後者であるだろう。
ここでは作者は「天皇の火葬」をしている。
火葬することで、犯罪者である天皇を「霊」に高めている。
そこにはどんな「批判」も「憎しみ」もない。

この少女は、きちんと火葬され、その「霊」を清められたのだろうか。
そのことを想像するだけで、「天皇」と「少女」の違いの理不尽さに怒りが込み上げてくる。

名古屋市長や、この作品を批判しているひとは、いったい何を考えているのだろう。
私は天皇崇拝者ではない。天皇制度はなくすべきだと考えている。
もし私が天皇崇拝者なら、この作品に感謝するだろう。
親元を離れて死んでいった少女を、「美しい手紙」という形閉じ込め、その「手紙のことば」をととのえる力としての「天皇」を讃美し、その存在を「焼く」という行為を通して、批判の彼方へ消してしまっている。
これでは、いったいだれが、どうやって天皇を批判すればいいのか。
批判封じの作品ではないか。

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ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

2019-10-16 00:05:24 | 映画

ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

監督 ダニー・ボイル 出演 ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ

 これは何というか、イギリス以外では絶対つくることができない「味」を持った映画。どこが「イギリス味」かというと、みんな、相手がだれであろうが自分の「身分」を離れないということ。うーん、イギリスというのは徹底的に「階級社会」なのだ。自分の属する「階級」とは「親密」につきあうが、そうでなければ知らん顔。たとえ知っていても、知らない顔をする。これは逆の言い方をすると「分断社会」、「個人主義の社会」ということにもなるのだけれど。
 象徴的なのが、主人公ヒメーシュ・パテルの歌(といってもビートルズの歌)だけれど聞いたシンガー・ソングライターのエド・シーラン(本人/私は知らないけれど、有名人らしい)が主人公の家を尋ねてくる。主人公の父親は、彼を見ても「エド・シーランに似ているなあ」「本人だよ」「ふーん」という感じ。「階級(住む社会)」が違うから、何の関係もない。たとえ有名人だとしても、それがどうした?という感じ。主人公にとってはびっくり仰天だが、それは主人公とエド・シーランとの関係であって、父親とエド・シーランは無関係。言い換えると、究極の個人主義とも言える。(「ノッティングヒルの恋人」にも似た感じの味がある。大女優・ジュリア・ロバーツとイギリスの普通の男が恋愛するけれど、それでどうした、という感じで周囲が見ている。)
 だから、というと奇妙に聞こえるかもしれないけれど。
 ヒメーシュ・パテルが「新曲」と言って家族に「レット・イット・ビー」を弾き始める。でも最初の部分だけで、つぎつぎに邪魔が入って最後まで歌えない。家族や父親の友人は「聞きたい」とは口では言うが、真剣に聞く気持ちは全然ない。どうせ、つまらない曲、自己満足の曲だと思っている。思っているけれど、口にはしない。この「個人主義」もなかなかおもしろい。日本だと、「聞きたい」と言った手前、最後まで聞く。でも、イギリスは気にしない。聞く方には聞く方の「事情」がある。そっちを優先させてしまう。ヒメーシュ・パテルは「家族」だけれど、音楽という違う「階級」にも属していて、そんなもの私の知ったことじゃないと、両親も、その友人も、どこかで思っている。
 最後のコンサートシーン。父親が楽屋(といっても、ホテルの一室)を尋ねてくる。そこで何をするかといえば、皿に載っている手つかずのサンドイッチを見つけて「それ、全部食べるのか」と息子に聞く。ヒメーシュ・パテルは、父親に全部やってしまう。いったい全体、これはどういう親子? でも、これがたぶんイギリスの「親子関係」なのだ。一緒にいても、それぞれの「領域」があり、個人と個人の「つきあい(社交)」がある。それを優先する。つまりは「個人」を優先する。
 これが映画(ストーリー)と何の関係がある?
 とっても深い関係がある。この奇妙な「個人主義」(階級の分断)と共存こそが、この映画の神髄なのだ。
 ビートルズ。世界のアイドルだが、イギリス人にとっては世界と共有する音楽でとはなく、あくまで個人とビートルズの関係にすぎないのだ。「すぎない」と書くと語弊があるが。あくまでひとりの人間としてビートルズが好き。他のひとがビートルズが好きであっても、その「好き」はひとりとは関係がない。「個人」とビートルズが音楽を共有するのであって、「個人」が「大勢のファン」と共有するものではないのだ。
 このことをはっきりと語るのが、ビートルズを知っているふたり。ふたりは、ビートルズを知っていて、そのことをヒメーシュ・パテルに告げに来る。「盗作」というか「剽窃」だと知っているけれど、非難しない。逆に、「ビートルズを世界に広げてくれてありがとう」と言う。ビートルズと世界のひとりひとり(個人)がつながる。そのことに悦びを感じている。ちょっとイスラム教徒の神と個人の関係に似ているかなあ。そこにあるのは「個人契約」だけ。あくまで「個人」がビートルズを楽しむ。
 アメリカの音楽業界の「一致団結」してビジネスにしてしまう感覚とは大違い。
 ヒメーシュ・パテルはアメリカ資本主義が提供する大成功をほっぽりだす。全部の曲を無料ダウンロードできるようにして、ヒメーシュ・パテルは「自分」にもどって行く。みんなが好き勝手にビートルズを楽しめばいい。大勢で楽しむのはそれはそれで楽しいが、「個人」で楽しんでもいいのだ。みんなで楽しまないといけないというものではない。
 いいなあ、この「愛し方」。「階級」で分断されているから、「独立」というか「自立」の精神も強いのだ。「個人」でいることの「自由」を知っている。たしかに自由は「個人」であることが大前提だ。ダニー・ボイル監督は「私はこんなふうにビートルズが好き」と、自分のビートルズの愛し方を映画にしたのだ。
 ジョン・レノンとの出会い、会話の部分も、そういうことを語っていると思う。
 イギリスの「個人主義」はいつ見ても美しいと私は感じる。絶対に自分を離れない。生まれ育った世界に自己という足をくっつけて生きている。ヒメーシュ・パテルが、ビートルズの「ことば」を思い出せなくて、リバプールを尋ね歩くことも、そういうことを象徴している。知っていることしか、ことばにできない。(ということを、ビートルズを覚えているふたりが主人公に語る。)ビートルズが、なんとも不思議な形でスクリーンいっぱいに広がる。ビートルズを聞きながら、イギリスへ行ってみたくなる、ビートルズの歩いた場所を歩きたくなる映画だ。

 (2019年10月15日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン8)


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山本育夫「抒情病」十八編

2019-10-15 18:29:51 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫「抒情病」十八編(「博物誌」41、2019年10月01日発行)

 山本育夫「抒情病」十八編は、フェイスブックでタイトルを見かけ、とても気になっていた。「抒情」は病気か。と、書くと、とたんに「抒情病」という病気があるのか、という意識を破って「抒情が病気になっているのか」ということばが、私の「肉体」のどこかからか飛び出してくる。書くまでは、そんなことは一度も思ったことはないのに。
 さて、どっちのことを山本は書こうとしているのか。いや、私は、どっちを読みたいと思っているのか。

1 手術

(花鳥風月はあぶない
ことばに浸食してきたら
注意深く手当てをする)
かかりつけの医者は
声を潜ませてそういい
手術台にのせて
切開手術をはじめた
切り口からもうもうと
情緒があふれ出す
あぶないけど
魅了される匂いだ

 「花鳥風月」が「抒情」か。それが「ことばに侵入してきたら」「手当てをする」。こういう「論理」で読み取れば、「抒情」という名の病気があり、それはことばにとっては「あぶない」病気ということになる。
 そのあとも、同じ調子で読み進めることができる。「切開手術」をすると「情緒があふれ出す」。「抒情」は「情緒」と言いなおされている。「もうもう」というのは「抒情」とはとらえどころがないものだ、ということを意味しているかもしれない。とらえどころがないからこそ、「あぶない」。そして「魅了される」。「もうもう」はいつの間にか「匂い」にかわっている。「あぶない」は感染力の強さを語っていることになるが、一方的に病が襲ってくるのではなく、「ことば」の方も罠にかかったみたいに近づいていくということがあるのだろう。
 考えるとめんどうくさいが、こういうめんどうくささをひきよせてしまうのが「抒情」の特徴の一つである。「抒情」は「感情」をあらわしているようで、意外と「ととのえられた感情(知性によって整理された何か)」を指し示している。「ととのえ方」が「情緒」であり、「知的」でなければ「抒情」ではない、のかもしれない。だから「抒情病」というのは、もしかすると「感情」ではなく「知性」の病なのかもしれない。あからさまな感情、むき出しの感情を「抒情」と呼ぶことはないからね。あるいは、こんな風に「分析」してしまう私が「抒情病/知性で世界をととのえようとする病」そのものにかかっているのかもしれないし。
 問題は、そのあとだな。終わりの四行。
 
菌類まで届けば
抒情病はなおる
医師はそういって
ことばにそれをふりかける

 突然「菌類」ということばがあらわれる。同時に、ことばが大きく転換するのを感じる。「医者」が「医師」へとことばを変えていることからも、それがわかる。もっとも、この「医者」と「医師」の書きわけは、どこまで意識化されているか、疑問ではあるが。
 「切開手術」をしたのは「抒情」を取り出すため。「抒情」を取り出したのは「ことば」の病気(抒情病)を治すため。がんを手術で取り出すようなものだ。がんならば、取り出した段階で、いったんは「治る」。でも「抒情病」は、それだけでは不十分である。あふれ出した「情緒」が「菌類」に届かなければ、治らない。
 これって、かなり奇妙な「論理」である。
 で、そう感じた瞬間、最初に書いたことが思い出される。「抒情病」は病気の名前なのか、それとも「抒情」が「病気」という状態なのか。「抒情」そのものが「病気」であり、それを治療するために「菌類」をふりかける。このとき「抒情」は「ことば」と同じ意味を持つ。
 あれっ、そうすると、やっぱり「抒情」という名の病にかかっている「ことば」がなおるということにもどってしまう。

 私は、どこで間違えたのか。どこから「迷路」に迷い込んだのか。

 簡単だ。「論理」で詩を読み進めようとしたところから間違えている。「論理」をおいつづけたために「迷路」があらわれたのだ。
 これは逆な言い方をすると、「論理」を追いかけていけば、ことばは「抒情病」に簡単につかまってしまうということだ。先に少し書いたが、「抒情病」というのは、やっぱり「感情の病気」ではなく「知性の病気」なのだ。
 「知性」とは「ことば」とほぼ同じ意味でもある。「知性」は何かを明確にするために、ことばに圧力をかける。ことばが指し示しているものをありのままの状態ではなくしてしまう。「比喩」にしてしまう。
 この詩には「抒情病」をはじめ、それにつらなるようにいくつもの「比喩」がある。「手術」が「抒情病」のふたつが組み合わさって、その組み合わせのなかに「手当て」とか「医者」を抱え込み、構造を明確にしながら、同時に複雑化する。迷路化する。

 では、この「迷路」を抜け出すためにはどうすればいいか。蹴飛ばして、そんなものなどなかった、この作品は存在しない、ということにするしかない。禅問答のようだが。「考案」への禅僧の、ひとつの答え方のように。
 でも、わたしはもう、ここまで書いてしまった。書いてしまったことは、たとえ全部削除したとしても、私の「肉体」のなかに残る。
 だから、私は、それをかかえたまま、詩を読み続ける。

2 声

ギシギシと
クルミのからを脱ぐように心を脱ぎ
長い髪が漂う空に
身を潜めている抒情!
巨大なそれを袋詰めにして
つぎつぎにパンパンと割っていく

 あ、これでは、まさに「考案」を蹴飛ばして席を立つ禅僧ではないか。「そんなものなど存在しない」。「無」だけがある。「無」が答えだ、というような。

おおそれならわかる
それならわかると
遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる

 「無」とは何か。あるがままの「自然」である。私は禅僧ではないから、テキトウなことを考える。「わかる」とは受け入れることである。何もつけくわえずに、それを受け入れる。
 この詩には、そういう気持ち良さがある。禅僧の「悟り」とは、こういう感じかなあ。また、私はテキトウなことを書く。こういうとき、「無知」というのは都合がいいなあ、と自分のことながら感心してしまう。「禅」と向き合ったことがあるひとは、私のように簡単に(テキトウに)、こんなことは書けないだろうなあ。

3 猫とは

その朝
日だまりを見ると
驚いたことに
ことばが
ほっこり猫のかたちになって
吹きこぼれている

 ここにも「ことば」が出てくる。「ことば」が「対象」を指し示さず、「ことば」であること自体を問題にしている。
 山本は、こういうことを「抒情病」と呼んでいるのかもしれない。
 「ことば」は一義的に「もの」を指し示す。でも、「もの(存在)」を指し示さずに、「ことば」を動かしている「意識」そのものを指し示し、その指し示し方を問題にするというのが「抒情病(ととのえられてしまった感情)」である。これはもちろん「知性の病」である。「感情」は「感情」をととのえるとうめんどうくさいことをしない。「感情」は「感情」を暴走させるものである。
 「ことばが/ほっこり猫のかたちになって」までは、まだ「比喩」である。しかし、それが「吹きこぼれている」は「比喩」を逸脱している。「吹きこぼれ」たなら、そこに形はない。形を超えていくことが「吹きこぼれる」だからである。でも、「ことば」はそういう「ありえない」ことを語る(書く)ことができる。「ありえない」は「無」なのか、それとも「無」を超えた「絶対有」なのか。その「絶対有」こそが「無」かもしれないし。と、私は、またまたテキトウな知ったかぶりを書く。私のことばは「知ったかぶり」が好きなのである。
 ひとつ省略し、

5 こと橋

その橋は危(あや)ういことばでつくられているから疑うと
崩れおちるおたがいをつなぎあわせていることばしことば士
という仕事をしている三大さんは毎日ことば練機でことば
をねっているそれをポケットに入れて明け方の路地に放り投
げている

 「こと橋」は「ことば、し」であり、「ことば、士」である。「こと橋」には、「ことば」と「し」が隠れている。隠れながら、あらわれている。隠れているものを見るか、あらわれているものを隠すか。
 前号の書き下ろし詩集「ごはん」のときは「ノイズ」について書いた。今回の詩は「ノイズ」とは逆のものが書かれている。「ノイズ」が「有」なら、今回書いているものは「無」だ。「論理」が論理的であろうとして、解体してしまう瞬間というものがある。それを素早いスケッチのように「放り出している」。山本はこの詩では「放り投げている」と書いているが。

 で、ここまで書いて思うのだが、あれ、「抒情病」って、どこへ消えた?
 たしかに最初の作品では「抒情」も「病」と登場したが、山本のことばは、それを患っているようには感じられない。

遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる

 というような描写は「抒情」に似ているが、ぜんぜん違ったものだ。「響きわたる」が万葉のことばのように強い。古今、新古今のように「耳元」で聞かせる「音」ではない。ここには「健康」しかない。「抒情病」を蹴飛ばして生きているぞという宣言が「抒情病」ということばに込められているのかもしれない。




*

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宮せつ湖『雨がふりそう』

2019-10-15 00:00:00 | 詩集
雨が降りそう
宮 せつ湖
ふらんす堂


宮せつ湖『雨がふりそう』(ふらんす堂、2019年09月20日発行)

 宮せつ湖『雨がふりそう』は「抒情詩」である。たとえば「汀」の後半。

砂浜に群れる
白い小さな花は
特別な夜空が好きなのでしょう
閉じることを 忘れています

濁音が砕け 零れ散る音
同時に たくさんの私がよみがえる音
あなたとの 花火の時間
花火の時間 あなたとの

水、
水の音
花火と花火の間を打つ汀の水音に
どうして気づいてしまったのでしょう わたし

 美しいことばが丁寧にととのえられている。「濁音」ということばさえ「零れ散る」ことで美しい軌跡を残す。「たくさんの私がよみがえる音」とは高鳴る胸の鼓動だろう。もし「あなた」が「花火と花火の間を打つ汀の水音に」気づくなら、きっと「私の胸の鼓動の音」にも気づくだろう。「私の鼓動」は「花火と花火の間を打つ汀の水音」のように、それを聞くひとには聞こえるのだ。
 この聴覚の繊細さに私は驚くが、好きなのは「初蛍」。

蛍は月明りを嫌うという

闇に燈る蛍のいろは
月の光と同じいろ
ふぉろうふぉろうと祖先が零すいろなのに
どうして?

黄々々々黄々々々々
ほそく小さく蛍の声
黄々々々黄々々々々

 「ふぉろうふぉろう」という「音」が私にはわからない。やわらかくつかみどころがない。宮の他の詩にでてくるフルートの音がここに隠されているかもしれない。私にはわからないが宮には、それ以外のことばではあらわすことのできない「必然」としての音の形。それを感じる。
 そのあとの「黄々々々黄々々々々」も、とても変である。「ふぉろうふぉろう」が「音」から「形(蛍が飛ぶときの軌跡)」になるのだとしたら、「黄々々々黄々々々々」は蛍の明かりが消えたりともったりしながら「音」にかわる様子を描いている。
 どちらも「むり」がある。
 言い換えると、これはそのままでは他人につたわらない。つまり、そこに書かれているのは学校で習う「共通語」とは違うことばである。だからこそ、そこに詩がある。「共通語」ではいえない宮の必然としての、「宮語」というものがある。
 宮は、ことばをととのえ整理しているのだが、まだそこには整理しきれない「不純物」があり、そしてその「不純物」がもっとも透明であるという矛盾もある。この矛盾のなかに「抒情」がある、ときょうは定義しておく。


*

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今野和代『悪い兄さん』

2019-10-14 00:28:25 | 詩集
悪い兄さん
今野 和代
思潮社


今野和代『悪い兄さん』(思潮社、2019年09月30日発行)

 今野和代『悪い兄さん』の巻頭の「ひかる兄さん」は傑作である。

「かくめい は 腐りました」
暗たん色の失つい。うつろ。
じゅくと、きょだつと、もんどりを、
喉いっぱいにふりつもらせながら。

 書き出しの、この四行には「傑作」の予感がある。というのは、いいかげんな私の感想である。正確にいえば、「何が書いてあるかわからない」。しかし、何かことばになろうとするものが、ことばになる前の「声」として書かれている。
 「かくめい は 腐りました」と言ったひとは、革命を夢見ていた。しかし、失敗した。あるいは失望した。そのひとのなかには、いろいろな思い、感覚がうずまいている。そのひとつが「虚ろ」、あるいは「虚脱」。でも「じゅく」とは何か。わからないなあ。わからないから、ここには「ほんとう」があると感じる。私は、この詩に書かれているひとのことを知らない。だから「わからない」ことがあってあたりまえなのである。私が「わかったつもり」になっていることも、ほんとうは違うかもしれない。「うつろ」は「虚ろ」ではないかもしれないし、「きょだつ」は「虚脱」ではないかもしれない。「かくめい」だって「革命」かどうか、はっきりしない。
 こういう「はっきりしないもの」があるということを直接ぶつけるようにして始まる詩はすごい。まるで、まったく知らないひとの「肉体」そのものを、しかも裸の「肉体」を見せられたような気がする。まったく知らないといったって「肉体」だから、わかるところがある。わかると思ってしまうところがある。それが危険で、刺戟的なのである。
 道で腹を抱えてうずくまっているひとを見れば、「あ、このひとは腹が痛いのだ」と思ってしまうのに似ている。勘違いかもしれない。しかし、だれにだって「わかる」ほんとうが、そこにはあるのだ。そういうものを、「裸」のまま見せられている感じがする。
 この、ぎくしゃくした「文体」に。

 途中を省略してはいけないのだが、省略する。省略せずに書くと、私自身がどこへ行ってしまうのか、わからない。どこへ行ってしまってもいいのかもしれないが、そして、それこそが詩を読むということなのだろうけれど、それができるほど、私は強くない。
 おっかなびっくりしながら、私は読んでいるのだ。

たちまち、世界がなだれてきて、逆さに吊るされている。
「想像もできない!」この地上の、キガの、幻になる。
そのひとつの黙劇を生きる。
惨劇でつぶされ、くり抜かれた眼(まなこ)だけを揺らして射ぬく。
もう一歩も遠くへ行けなくなった、ぬかるみの男の、脚だけで走る。
処刑され、石を投げられ、引きちぎられ、炎上だらけの、手だけで掴む。

 「脚だけで走る」「手だけで掴む」。これは、ほんとうに走るときや、掴むときの「肉体」の動きではない。ほんとうに走るとき、掴むときは「全身」で走り、掴むものである。ほんとうは「全身」で走りたい、掴みたい。だが、もう「全身」が動かない。それで、最低限(?)必要な、脚、手を懸命に動かすのだ。その「必死」さが、ここにしっかりと書かれている。
 したいことができない。しかし、それをするしかない。「かくめい」とはそういうことかもしれない。「腐りました」と認識するとき、まだ「腐らないもの」が「肉体」のなかにはあって、それが最後の力となって、ことばにならないことばを動かしてしまう。それが「脚だけで走る」「手だけで掴む」という壮絶な力になって噴出している。

「あんにゃ」
(いや「ショコショコショウコー」)よびかける子どもの私を視た、
年老いたおとこの暗いまなざしになる。
一九一七年十月の、
一九五八年十月の、
一九九五年三月の、
二〇一九年五月の、
敗れを知らない人のはるかに遠い前方の記憶を裂いて現れてくるものを、
街路樹よりも傾いて待つ。
乳房を噛み裂かれ、群がる仔どもに埋もれながら、
「みんなあんたの種!」
微かに叫ぶ女の声を四つん這いになってきく。

 「あんにゃ」は「兄」だろう。「一九一七年十月」「一九五八年十月」「一九九五年三月」「二〇一九年五月」に何があったか。「みんなあんたの種!」ということばを手がかりにすれば、誰かが生まれたのだろう。このときの「あんた」はひとりではないだろう。「あんた」に象徴される「あんにゃ」だろう。
 そういう「わからない」けれど「わかる」(と勝手に「誤読」できる)ことばが、詩を貫いて疾走していく。それは「華麗な疾走」ではない。「肉体」まるだしの、醜い疾走である。醜いまま存在できる、全体的な美しさというものかもしれない。つまり、どんなにそれを「醜い」と呼んで否定しようとしても、同じものが自分の「肉体」につながっているという「連帯」が、最終的には「肯定」を引き寄せてしまうような「絶対」が、そこにあるのだ。
 それをなまなましく語るのが「年老いたおとこの暗いまなざしになる。」の「なる」という動詞だ。今野は「子どものわたし」にも「あんにゃ」にも「年老いたおこと」にも「四つん這いの女」にも「なる」のだ。なってしまうのだ。生きているから。「肉体」があるから。

 おなじ強さが「厄災の赤ちゃんを」にもある。

バスを待っているわたしに    バスがきた    ファミマの
角からヌッと曲がって  こっちにぐんぐん向かってきている  
バスを待つしかないので  ずっと待っていた    その我慢づ
よいうつむいた感情が  みぞおちあたりからスルッと弾けて
甘い安堵の唾液が  口いっぱいに広がった

 しかし、「わたし」はバスには乗れない、ということがこのことばのあとに続くのだが、ここにも「肉体」の「絶対」がある。「我慢づよいうつむいた感情が」「みぞおちあたりからスルッと弾け」るという比喩に私は打ちのめされてしまう。
 他の詩もいいが、他の詩は「ことば」そのものが「詩」を目指していて、言い換えると「詩」っぽくて、なまなましさに欠ける。といっても、いま引用した二篇に比べるとということだが。

 私の感想は乱暴である。「正確さ」に欠ける。もっと時間をかけて、「正確に」書いた方がいいのかもしれないが、「正確」を目指すとき、きっと「乱暴」に書いたときにだけ可能な何かが欠落する。
 だから私は「間違い」を承知で、乱暴なまま、この感想をほうりだす。
 私のことばは、今野の書いた二篇の詩と向き合うためのことばをまだ持っていない。おそらく、これからも持てないままだろうと思う。

*

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ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

2019-10-13 10:30:25 | 映画
ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、リャオ・ファン

 ジャ・ジャンクーといえば「長江哀歌」。あの映画の衝撃が強すぎて、他の作品はどうしても見劣りがする。「長江哀歌」は「日常」というものが「時間」をもっている。つまり「歴史」であるということをたいへん静かな映像でつかみ取っていた。「日常」というのは激変しているのだが、その激変はつねに静かさの中に沈んでいく。ちょうどダムの水底に集落が沈んで行くように。
 この映画では、女と男の「日常」が、つまり「時間」がとてもていねいに描かれる。
 「激変」というか、ストーリーを要約すれば、暴力団(?)のボスが対立する組に襲われる。女は男を救うために発砲する。銃の不法所持で服役する。出所してみると、男は他の女と一緒になっている。さて、どうするか。
 この十数年の「時間」をチャオ・タオとリャオ・ファンが演じる。しかも、ほとんど無表情に。あ、これは中国人の表情を私が見慣れていないために感じることかもしれない。日本人の表情は「能面のようにのっぺりしている」といわれるが、中国人もおなじだ。アジア人が表情に乏しいのかもしれない。
 事件を起こすまでは、まだ表情に活気があるが、事件の後、男をかばって(銃は男がもっていたものだ)逮捕されてからのチャオ・タオは、彼女自身のなかにとじこもる。財布を盗んだ女を問い詰めるところ、バイクの男をだますところ、列車のなかで知り合った怪しげな男についていくところなど、隠していたものがぱっと噴出するのだが、リャオ・ファンとの「絡み」になると、無表情に近い。とても静かになる。感情を滲ませる部分もあるが、とても静かである。たとえばアメリカ映画、フランス映画の女と男のように、ののしりあいやとっくみあいがあるわけではない。そんなことをしなくても相手の思っていることがわかる。相手の「過去(時間)」がわかり、「いま」の苦悩もわかる。わかった上で、そのわかっていることを語る。
 これが「日常」である。
 時代は変わる。そして女と男の考えも変わる。変わるけれど、変わらないもの、変えられないものがある。それを要約して、「渡世の義理」とこの映画では言っている。「渡世」とはひととひととの関係である。ひととひとが出会ったら、そこに義理が生まれる。
 男は、義理を捨ててしまうが、女は義理を守る。その義理に男は頼るが、頼りきることはできずにやっぱり出て行く。これを甘えというのだが。
 そういうあれこれを見ながら、私は「長江哀歌」のひとつの美しいシーンを思い出していた。「長江哀歌」で私がいちばん好きなシーンは、どこかの食堂のシーンである。テーブルが壁にくっついている。テーブルは食事のたびに拭かれる。そうするとテーブルが接している壁にも雑巾が触れることになる。テーブルと壁の接していた部分に、だんだん「汚れ」がついてくる。拭き痕が残る。食堂はダムのために立ち退きになる。テーブルが運び出される。すると、壁に雑巾の拭き痕だけが残る。「義理」とは、こういうものなのだ。繰り返し、積み重ねが残す、とても静かな「痕跡」。それは「汚れ」に見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、ほんとうは「美しさ(清潔さ)」を守り続けた「暮らしの痕」なのだ。私の、その短いシーンで思わず涙が出てしまったが。
 おなじものをチャオ・タオの振る舞いに見るのだ。かつて愛した男。いまは愛しているかどうかわからないが、あの愛にもどれたらいいのに、という思いが消えない。あの愛を守ろうとしている。それは、あのときの自分を守るということとおなじ意味である。テーブルに雑巾がけをしてテーブルをいつも清潔にするように、事件と呼べないような小さなあれこれが起きるたびに、それを片づける。ととのえ、清潔にする。つまり、あのといの自分自身にもどる。その繰り返しが、壁にではなく、チャオ・タオの「肉体」に残る。それは「汚れ」に見えるときもある。麻雀店を取り仕切る「女親分」に、とくにその「汚れ」が見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、暮らしをととのえる過程で積み重なった、どうすることもできない「時間」なのである。
 その重さと悲しさと苦しみと、それでも「義理」を生きる悦び(愛した男といっしょに「いま」を生きている、という実感)が交錯する。チャオ・タオの「姿勢」の「正しさ」のなかに、それがくっきりと見える。映画ではとくに、リャオ・ファンが脳梗塞から半身不随になっているので、「姿勢」の対比としてそれがくっきりと浮かび上がる。この「肉体」の対比は、こうやってあとから整理しなおせば、いかにもストーリーという感じだが、映画を見ている瞬間は、そういう感じがしない。チャオ・タオの「意志の強さ」がスクリーンを支配しているからだろう。そして思うのは、こういう「姿勢」の対比を見せる映画では、たしかに「ゆれ動く表情」というものは邪魔なのだ。無表情は選びとられた演技なのだ。「顔」で演技するのではなく、「全身(肉体)」そのもので演技する。「ジョーカー」のホアキン・フェニックスの「全身の演技」にも驚いたが、チャオ・タオの「静かな全身の演技」にも驚いた。引きつけられた。

 それにしても、と思うのは。
 どこでも、いつでも「日常」はある、ということ。その「日常」というのは「過去」をもっているということ。中国は経済発展とともに大きく変わっている。そういう大きな変わり方は目につきやすい。その一方、「日常」の感じ方も少しずつ変わっている。変わるものと変わらないものが絡み合って、うごめいている。この押しつぶされながらつづいていく「日常」の感じは、巨大なビル群や、経済活動だけでは見えない。なんといっても「大きい」ものは見えやすく、「小さい」ものは見えにくい。そういうことを感じさせてくれる映画である。チャン・イーモーは「紅いコーリャン」(日常)から「シャドウ(影武者)」(グローバル経済)へと激変したが、ジャ・ジャンクーは「日常」(いま、そこにいる人間)に踏みとどまっている。そういう点も、私はとても好きだ。

 (2019年10月12日、KBCシネマ・スクリーン1)

長江哀歌 (ちょうこうエレジー) [DVD]
リー・チュウビン,ハン・サンミン,チョウ・リン,ホァン・ヨン,チャオ・タオ
バンダイビジュアル
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