詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八重洋一郎「白梅」

2019-10-12 09:31:01 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「白梅」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)

 八重洋一郎「白梅」は

ある夏 どしゃぶりの中を「ひめゆり記念館」を訪れた

 と始まる。「どしゃぶり」が「劇」を予想させるが、「散文的」な文体である。いいかえると「どしゃぶり」ということばのなかにかろうじて「詩」があるということ。
 八重は、そこで「叔父の写真」を見る。叔父は父に似ている。叔父は「石コロ」になって帰って来た。遺骨はない。「父が位牌に叔父の戒名を書いていた」ことを思い出す。「劇」はそんなふうに語られる。自分で語る「劇」に引き込まれ、八重は記念館を離れられなくなる。
 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。

思いきって外へ出ると瀧のどしゃぶり 急いで
タクシーを拾い 北へ向けて走り出す
何キロか過ぎた頃 突然運転手が小さな声をかけてくる
「見えましたか ホラ 左手の少し盛りあがったあのあたり」
「見えましたか 白梅の娘たちです こんなどしゃぶりになると
いつも身ぎれいにした娘たちが二人 三人と並んで立っているのです」
「かわいそうに アイエーナー」
「平凡な言い草ですが どしゃぶりは もっと生きていたかったことの
娘たちの涙です」
降り込められた車内は暗く 運転手さえ あらぬ姿に見えてくる
車は更に北へ向けて疾走するが いつまでも
目的地に着く気配はない--

 ここに書かれているのは「ことば」か「事実」か。
 きのう読んだ吉田文憲「残声の身」と比較すると不思議な感じがする。吉田は身の回り(?)の現実を書いている、いま起きていることを書いているのに、なぜか「リアル」には迫ってこない。むしろ「肉体」から離れた場所で起きていること、「肉体」がここにあるのに、ここが遠いという感じがする。吉田の詩は「ことば」だけがあり、「現実」がない。
 八重の詩は逆だ。どしゃぶりの日に、死んだはずの娘たちがあらわれるというのは「ことば」でしかありえない世界である。そこには娘たちはいない。娘をそこに「出現」させてしまうのは「ことば」なのだ。しかし、感じるのは、「ことば」ではなく、そこに娘たちがいるという「現実」である。ほんとうは存在しないものが「現実」として迫ってくる。

 これは、どういうことだろう。「ことば」と「現実」は、どんなふうに交錯しているのだろうか。

 別な言い方をしてみる。
 私は「抒情詩」について考え始めたのだが、この八重の詩は「抒情詩」か。ぱっと読んだ感じ、「叙事詩」に見える。八重が体験したことを淡々と「事実」を連ねて書いている。「感情」を書こうと意図している感じはしない。「どしゃぶり」が劇的だが、そのどしゃぶりにしたって、実際にあったことだ。「わざと」書いたわけではない。
 でも最後に残るのは「事実」ではない。「事実」かどうかわからないものが語られ、「こころ」はその「事実かどうかわからないもの」を「事実」にしようと動いている。その「こころ」の動きを「肉体」で感じてしまう。「こころ」の動きを感じるなら、それはやっぱり「抒情詩」と呼んでもいいのではないだろうか。

 さらにこんなことも考える。
 どしゃぶりの日に姿をあらわす白梅の娘たち。それを、ひとは、どんなふうに語ることができるのか。

平凡な言い草ですが

 この「ことば」に私は突き動かされる。何度か「劇」ということばを私は書いてきたが、「平凡」は「劇」とは対極にあることばだ。作為がない。
 「平凡」は、しかし、どうやって生まれて来るのだろうか。
 きっと何度も何度も語られ、少しずつ「劇」を振り落として「平凡」になるのだ。語りたいことは山ほどある。実際に、「娘たち」の両親、あるいは友人、彼女たちを知っているひとたちは何度も何度も語り合ったのだ。書かれていないが、そこには「叔父の遺骨が石コロになって帰って来た」というような「劇」もあったかもしれない。けれど、そういう「劇」を語っていると、「思い」が「劇」の方にひっぱられて、なんだか嘘っぽくなる。嘘ではないのだけれど、言いたいのは、もっと「単純」なこと、いつでもだれでも感じていること、という思いが強くなる。いつでも感じていること、それだけを言いたい。それが、

もっと生きていたかった

 なのだ。
 ここには「劇」がない。たとえば「叔父は石コロになるまで、国のために戦った」というような「美辞」が入り込めない。娘たちは「国のため」というような「名目」を求めていないし、「国のため」というようなことばで称賛されることも望んではいない。「いきたかった」。「もっと行きたかった」。
 それは娘たちを知っているひとから言わせれば、「もっと生きていてほしかった」である。「もっと生きたい」という思いを、ひとは「もっと生きていたかった」ということばに託し、「白梅の娘たち」になって、いまを生きるのだ。
 「叙事」を生きるとき、そこに「抒情」ではないもの、もっと「強い意思」が生まれる。

 私はまた、不思議なことを体験する。
 詩のなかのカギカッコのなかのことばは運転手が語ったものだ。しかし私にはそれが八重のことばとして聞こえる。運転手は何も言っていない。むしろ、八重が「こころ」のなかで運転手に語りかけている。私は、その八重の声をシャドーイングしながら、自分が運転手に語りかけている気持ちになる。八重になってしまう。


*

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吉田文憲「残身の声」

2019-10-11 10:22:24 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残身の声」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)

 吉田文憲「残身の声」は「抒情詩」と呼べるかどうか。きのう読んだ井上瑞貴「白い花はすべての光を反射する」に「私は記憶」ということばがあった。「記憶」は吉田の詩にも登場する。

飛燕草の記憶。

 この一語を取り出して云々するのは詩の感想を書くことにならないかもしれないが、私は、あえてこの一語を取り出して考えていることを書き始める。
 「飛燕草の記憶。」と書くとき、吉田は「記憶」をだれのものとして書いているのか。吉田が飛燕草を見た記憶、つまり「吉田(わたし)の記憶」なのか。それとも「飛燕草自身の記憶(どうやって芽を出し、花を咲かせたかという記憶)」なのか。
 こういうことはむずかしく考える必要はない。たいていの場合、前者である。後者の場合は、もっと「わざとらしい」文体になる。
 そうはわかっていても、私は、ふいに前者である、と考えたい衝動にかられる。前者の考え方は不自然だが、不自然だからこそ、ことばがその不自然につられて動きたがるのである。違うものに触れたい、という欲望がことばのなかで動く。
 こういう衝動が、私には非常に強くて、それが「抒情詩」というものを「分類」するときに働いていることを自覚しないではいられない。なんらかの「不自然なことばの操作」。この「不自然」を「頭による操作」と言い換えてもいい。
 ふつうなら(自然なら)ありえないことを、「頭」で動かす。つまり「自然」を、「頭」で切断し、さらに「接続」する。このときの「不自然な刺戟」のなかに「抒情詩」があると、私は感じる。
 と、書くとますます抽象的になってしまうが。
 「飛燕草の記憶。」は「作者(わたし/吉田)」の「飛燕草を見た記憶」であり、そこには「わたし(吉田)」が隠れているのだが、私は隠れている「わたし(吉田)」、あえて隠したままにしておく。むしろ、表に出てこないように押さえつけながら、それからつづく「もの(わたし以外の存在)」の運動、つまり「叙事詩」として読み続ける。

飛燕草の記憶。銀色のひれが空中で跳ねた。樹陰にエンジンをかけ
たままのライトバンが停っていた。家が白みはじめた記憶。レコー
ドのカートリッジが閃くフォークの切尖にみえた。それから耳に四
声のフーガが流れた。おまえは重ね棚の上に並べられた乾涸びた果
実を一つ手に取っていた。そこに同時に別の陰を運んでいるものが
いたのだ。残身が通ったあとの音域。テーブルの器に張られた水の
いつまでも続く小刻みな波紋。氷雨が窓ガラスを散弾のように叩き
続けた。

 「みえた」(見える)という動詞がつかわれている。「みた」ではなく「みえた」。ここには「意思性」がない。「わたし(吉田)」を隠している。存在しても「脇役」としての存在におしとどめている。これも「叙事」につながる。主役は「もの」(わたし以外の存在)なのである。
 おもしろいのは、この「みえる」という「主体」を感じさせることばは、その「主体性」を隠すようにして、つぎのことばを引き寄せている点である。
 「それから耳に四声のフーガが流れた。」は、もっと「肉体」になじむことばで言いなおさば「四声のフーガが聞こえた」だが、吉田は「聞く、聞こえる」というこ動詞を避けている。「肉体」、あるいは「人間の感覚(五感)」を隠し、あくまでも「主役」を「わたし(吉田)以外のもの(存在)」に譲り、その動きとして提示する。
 そして、そこに書かれているものが「わたし以外のものの動き」であるにもかかわらず、それをひとつづきのものにする視点がどこかに存在する。隠されたまま存在する、この不自然な「私性」。
 これが、たぶん、現代詩の「叙事詩」なのだ。

 そうであるなら。(というのは、とんでもない飛躍かもしれないが。)

 そうであるなら、きのう読んだ井上の詩と、きょうの吉田の詩を比較したときに、私が受ける「感動」の強さは何に支配されているか。何に影響されて、どちらの詩の方がおもしろいと感じるか。
 感じ方はひとそれぞれだから、私とは違う判断をするひとがいるだろうけれど、私には吉田の詩の方がおもしろい。
 なぜ、おもしろいと感じるのか。より「抒情性」がつよいと感じるのか。
 「抒情」ということばとはうらはらに、そこに書かれている「もの(わたし以外の存在)」が多くて、さらに、その接続さかげんが「ばらばら」だからである。「飛燕草」に接続するものが「銀色のひれ(川魚?)」である必然性はない。それに「ライトバン」の「エンジン」の音がつながらなければならない必然性もない。そこには隠された必然性、「わたし(吉田)」が「いる」ということだけなのだ。「わたし以外の存在」が多く登場すればするほど、そしてその存在と存在の距離が隔たっていればいるほど、「わたし(吉田)」が「いる」ということが明確になってくる。
 いま「明確になってくる」と書いたのだが、この「なってくる」という感じのなかにこそ「抒情」があるともいえる。ほんとうは私(谷内)が勝手に、それを「明確にさせる」のである。思い込むのである。勝手に「連続した世界」を想像し、その「世界」に入っていくだけなのである。「叙事」の世界へ「感情」が入ってゆき、吉田の「感情」を無視して自分(谷内)の感情をつくりだすとき、「誤読」するとき、詩が誕生する。

 「誤読」が「抒情」なのだ。いままで存在しなかった「誤読」を許してくれるのが「抒情」と言いなおすこともできる。


*

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井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」

2019-10-10 09:54:11 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」(「侃侃」32、2019年09月20日発行)

 井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」を読みながら、「抒情はどこへ向かうか」ということばが頭に閃いた。きのうフェイスブックで山本育夫の書き込みに「抒情病」ということばを見かけたせいかもしれない。山本の作品はまだ読んでいないのだが、抒情はたしかに「病」かもしれない。
 どんな病か。どんなふうにことばをむしばむか。あるいは、そこからことばはどんなふうに回復できるか。そういうことを、ちょっと考える。ことばにできるかどうかは、書いてみないとわからないが。
 で、井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」の一連目。

二行目から始まる詩を書きながら
背後の影に住む女に振り返っている
いつでもその日は間に合わないあくる日だけど
なんのあくる日なのかぼくはしらない
私は記憶
遠い耳にささやく雷鳴のような
日没化する日々の消された記憶

 書き出しの「二行目から始まる詩を書きながら」が、「いまの抒情」だともいえるし、かつての「モダニズムの抒情」だともいえる。歴史は繰り返す。どこに特徴があるか。「二行目」と書くことで、存在しない「一行目」を浮かび上がらせる。というよりも、それは「存在しない」ということを、つまり、「ない」ということを浮かび上がらせる。言い換えると、テーマにする。
 ふつうひとは、「ある」ことを書く。「ない」ことは書けない。はずだけれど、ギリシャの昔から「ない」ということが「ある」を発見したひとは、その「ない」を書かずにはいられない。矛盾が「頭脳」を刺戟するのである。
 これが「いまの(そしてモダニズムの)抒情」。「感情」ではなく、まず「頭」をゆさぶる。思考へ向けてことばを動かす。
 これは考えてみれば、ちょっとおかしなことである。
 「抒情」は文字を見ればわかるが「情(感情)」を描くものである。「感情」は「頭(理性)」とは別個のものである。でも、「感情」といわずに「感性」と言いなおすと、「感性」と「知性」はどこかで交錯する。そして、この交錯する「現場」が「いまの(そしてモダニズムの)抒情」ということになる。
 「頭(知性)」への刺戟が「感性(感情)」に反映する。そのときの微妙な動き。
 これは「背後の影に住む女に振り返っている」という古くさいことばをとおったあと、「いつでもその日は間に合わないあくる日だけれど」という、えっ、いま何て言った?と問い返したくなるようなことばになって「頭」を刺戟する。「間に合わないあくる日」というのは、何かに間に合わなかった「あくる日」ではなく、「あくる日」という時間そのものが何かに間に合わないのだ。「あくる日」というのは、まだ来ていない(現実になっていない)日なのに、それが「何か」という現実に間に合わない。これは「『ない』が『ある』」という定義と同じで、ことばの運動としては成り立つ。そして、ことばとして成り立つ以上、そのとき私たちは何かを了解しているのだが、その了解を「わかることば」で言いなおすのはむずかしい。「肉体」がかってに納得しているだけで「頭」は完全に「解明」していない。こういうことを「感性と知性の交錯」といえるかもしれない。「勘違い」かもしれないし、インスピレーションだけが教えてくれ「真実」かもしれない。
 まあ、ことばなので、何とでも言える。どうとでも「論理」にしてしまうことはできる。で、こういうことに深入りしてまうと、窮屈だし、何というか「危険」なものを含んでしまう。だから、私はこれ以上追いかけないし、また、井上の詩もそれを追いかけていない。
 「なんのあくる日なのかぼくはしらない」。「しらない」と突き放した上で、「私は記憶」と飛躍する。「ぼく」は「しらない」。それが「私」であり、「私」とは「記憶」なのだということは、これもまた、テキトウなところで切り捨てて、ここには「ぼく」と「私」が「記憶」というもののなかで交錯しているとだけ指摘しておく。「ぼく」と「私」のどちらが「知性」であり「感性」なのか、読者は好きに考えればいい。井上だって、そこまでは考えて書いていないだろう。ただ「ぼく」のままにしておきたくはなかった。かといった「他人」にしてしまうのもいやなので「私」と呼んでみただけだろう。
 書いている詩人にもわからないことがある。わからないから、ことばに身をまかせるということがある。そして、わからないものに身をまかせるというのが、「抒情」ということでもある。わかった瞬間に「抒情」ではなくなる。
 ここで終われば「いまの抒情」になると思う。でも、こうい中途半端なところでことばを終わらせるというのはなかなかむずかしい。どうしても「結論」のようなものを書きたくなる。「おとしまえ」をつけたくなる。「中断」(あるいは判断停止)ではなく、「結論」がほしくなる。
 詩は昔から「起承転結」が基本で、「知性」も「感性」も「結」を必要とするのかもしれないが、「結」で閉じてしまうと、とたんに「モダニズム」になってしまう。「知らない」はずが「知っている」ものとして存在してしまう。「ない」が「ある」ではなく、「あった」が再び「ある」としてあらわれる。
 あ、抽象的で、わからない? そうだねえ。
 でも、私は、井上の書いている「二連目」を引用したくないのだ。どこがつまらないか、ということも書きたくない。「一連目はおもしろかった」とだけ書いておきたい。別なことばで言いなおせば、「一連目は、現代詩でも抒情が再び動き出した」ことを感じさせるが、「その向かう先(行先)は二連目ではない」と私は感じている、ということだ。
 気になるひとは、ぜひ、「侃侃」32を読んでください。
 (私の書いていることは、新手の詐欺商法かもしれないし、詐欺予防かもしれない。)





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愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)

2019-10-09 13:26:48 | 自民党憲法改正草案を読む
愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)
             自民党憲法改正草案を読む/番外294(情報の読み方)

 前の文章(情報の読み方、294)でこういうことを書いた。
 愛知トリエンナーレで天皇の肖像を燃やすという作品に関連してである。たしかに天皇の肖像が燃えるのを見て不快感を覚えるひとは多いだろう。
 一方、次のような文章はどうか。
①天皇の写真が写っている新聞を犬のトイレにつかった
②犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかった
 たぶん、なぜ、わざわざそこで「天皇の写真」ということばをつかうのか、という問題が起きる。そのことに対して不愉快だというひとが現れることは簡単に想像できる。
 しかし、これが
③犬のうんちを拾うときヒトラーの肖像が載っている新聞をつかった
④犬のうんちを拾うときスターリンの肖像が載っている新聞をつかった
⑤犬のうんちを拾うとき毛沢東の肖像が載っている新聞をつかった
⑥犬のうんちを拾うとき金正男の肖像が載っている新聞をつかった
⑦犬のうんちを拾うときエリザベス女王の肖像が載っている新聞をつかった
⑧犬のうんちを拾うとき妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
⑨犬のうんちを拾うとき孫の写真が載っている新聞をつかった
⑩犬のうんちを拾うとき離婚した妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
 はたして、天皇の写真と同じように「だめ」というひとが日本人の何人いるか。なかには、「やれやれ」というひともいるかもしれない。
 ⑩という文章に出会ったら、笑いだしてしまうかもしれない。
 これは、どういうことだろうか。
 写真に写っているひとに対して自分が何を感じているか、どう感じているか、ということと「不快さ」(あるいは「快感」)の度合いは変化するということである。つまり、天皇の写真についていえば、日本人の多くは不快に感じるだろうが、他国のひとはなかには快感に感じるひともいるだろうということである。
 そして、⑩の例が、いちばんわかりやすいのだが、ひとは「わざと」そういうことをするときもある。それは自分の感情を解放するためである。離婚した妻(夫)は「何やってるんだ。私をバカにするつもりか」と怒るかもしれないが、それは怒らせるためにやっているのだから、怒る姿を見るのが快感でもある。  
 芸術は、ときにはそういう「作用」があるのだ。ひとをあえて不愉快にする。あるいはひとが怒る、眉をひそめるのを確かめるということが。人間の感情はどう動くか。そういうことを明確に知るのが芸術である。自分とは何ものなのかを知るのだ。そのために存在している面もある。
 美しい、気持ちがいいものだけが「芸術」ではない。
 もし、先にあげた①から⑩までの「表現」を規制するとしたら、それなりの「理由」が必要である。どうして、それが駄目なのか、理由と基準が必要である。「天皇」だから駄目、というのは、かなりむずかしい基準だろう。
 天皇は日本の「象徴」である。憲法に書いてある。しかし、国民には(個人には)、それを認めないという「権利」もある。否定し、批判する権利もある。そういうことも含めて考えないといけないのに、河村は、無条件に天皇を絶対視している。そこに非常に大きな問題点がある。
 河村が展覧会に要求しているのは、芸術の問題ではなく、「ある思想」の絶対視である。

 もう一つ考えたいのが「公金」の問題である。河村は「反日」(ということばをつかっていたかどうか、正確ではないのだが)的企画に公金を支出することは問題がある。公共施設をつかうことには問題がある、というような発言をしていたと思う。
 しかし、これは逆の言い方もできる。もしそこに「反日」的な作品があるとしたら、それこそ、なぜ「反日的作品」が存在するのか考えるきっかけになる。展覧会から排除する(見えなくする)ということで、「反日的思想」がなくなるわけではない。「反日」とひとくくりにされる思想とどう向き合うか、それこそ今の日本の課題だろう。
 いつの時代、どんな場所にも、あることがらに対して「賛成」と「反対」のひとがいる。ものの見え方・見方はひとによって違っている。違いがあることを前提にして考えないといけないのに、違うから排除してしまえでは何もはじまらない。
 安倍が都議選で「安倍辞めろ」と叫ぶ国民に対して「あんなひとたちに負けるわけにはいかない」と叫んでから、自分とは違う意見の人間を排除しようとする動きが非常に強くなっている。安倍は、そして、こういう動きを歓迎しているようでもある。河村の動きは、こうした安倍の姿勢に迎合するものである。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高塚謙太郎『量』

2019-10-09 11:19:45 | 詩集
高塚 謙太郎
七月堂


高塚謙太郎『量』(七月堂、2019年07月15日発行)

 高塚謙太郎『量』はA4版の 250ページ近くある詩集だ。読む前にひるんでしまう。詩の組み方もさまざまで、手に負えない。だから、テキトウなところをパッと開く。そのページを読み感想を書こうと思うが、なかなかうまくいかない。つまり、高塚のことばと私のことばは、一緒に動こうとはしない。一緒に動かなくてもいいのだけれど。だから、正確に言いなおすと、私のことばが勝手に面倒くさがるのである。このページのことばについては書きたくない。これは、まあ、他のページとどうつながっているか考えないといけないかもしれないと思うからなんだけれど。そういうことを繰り返していると、だんだん私の方がいいかげんになってくる。最初からいいかげんではあるのだが。「組み方が嫌いだなあ」とか、「この詩は上揃えと下揃えが対になっているから引用がめんどう」とか。こういういいかげんな思いも感想ではあるのだが、と開き直って。
 えいっ。
 それが、58ページ。

何回目かの第二外国語のガラスを貫いてバイパスの朝と
始発の合図を知らないバイパスの朝と
カタカナ英語のディープキスの燃え滓の下で

 の「ディープキス」に「註釈(?)」がついている。これがおもしろい。

紙片の置かれたテーブルにカップを並べ、隣に座って
いる。温かい飲み物は言葉を奪う。近道を教えたこと
はない。どちらかが椅子を動かして出ていった。カッ
プが1つになっている。カップには小さな影がついて
いる。影には形があり、人の顔に見える。カップの中
には温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。

 これは「註釈」のほんの一部。ナボコフの「青白い炎」でも思い出せばいいのかもしれない。というようなことは書いてもしようがないか。
 私は、「どちらかが椅子を動かして出ていった。カップが1つになっている。」で一瞬立ち止まった。「カップが1つになっている。」を一瞬、ふたつあったカップがひとつに融合したと読んだのだ。よく読めば(よく読まなくても)、二人のうちのひとりがカップを持って去ったのでカップがひとつになったという単純な描写なのかもしれないが、ちょっと「ことば」というか「認識」が行き来するのである。たぶん「ことば(一文)」の短さが錯覚を誘うのである。
 そのあとの「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」でも、印象が奇妙に動く。「カップには小さな影がついている。」は、カップはひとつになったが影と向き合い「ふたつ」であることを意識している。ここには「ひとつ」と「ふたつ」、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯している。世界がばらばらになったり、くっついたり、そしてまた散らばっていく、「意識の流れ」みたいなものがある。
 「影には形があり、人の顔に見える。」というのは、まさにその「意識」そのものなのだが、ここで私の「ことば」は突然、「影なんかを人の顔として見るなよ」と叫ぶのである。その「ことば」の声を私は聞くのだ。この部分を、「わかる」けれど、「うるさい」と感じたのだ。
 そして、高塚の書きたいのは、「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」なのか、それともそのあとの「カップのなかには温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。」なのか、という謎の中に迷い込む。
 こんなことばを書くなよ、といいながら、次のことばで否定したはずのことばのなかへ帰っていく。高塚のことばが、前に書いたことば「温かい飲み物は言葉を奪う」に迷い込むように。(そういう「ことば」の運動が起きる。このときの、私自身の「わけのわからなさ」が、私は好きなのだ。
 ふーむ。
 「言葉を奪う」と書きながら、そのことを「ことば」にしている。「ことば」は「ことば」でなくなりながらも、そこに起きていることを「ことば」として存在させてしまう。「ことば」を奪われることで「ことば」が生まれる。もし「ことば」が奪われなかったら、次の「ことば」は生まれることはない。つまり、世界は違ったものになる。
 このあと、

                     顔が立
ち上がってテーブルに手をついた。最後のカップも運
ばれていった。紙片から一番近い場所に手をついた。
しばらく時間が経って新しいカップが並べて置かれ
た。光がなければ、カップがテーブルに置かれること
もなかっただろう。

 と、もってまわった「散文」(説明)がはじまる。「顔」「手」が「意識」の流れを切断して主役になって動く。「意識」の物体性(?)のようなものが消えてしまって、妙につらい。無理がある。という感想は、この部分だけを取り上げているから、そうなってしまうのかもしれないが。
 でも、「光がなければ、」というのは美しいなあとも思う。

 何を書いているか、わからない?
 そうだろうなあ。
 私も何を書きたいのか、よくわからない。
 こんなふうに、きょうはことばが動いた、という以外は何もいえない。

 もっと「体力」があるときでないと、読めない詩集だ。






*

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愛知トリエンナーレ再開

2019-10-09 09:40:41 | 自民党憲法改正草案を読む
愛知トリエンナーレ再開
             自民党憲法改正草案を読む/番外293(情報の読み方)

 愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」が再開された。2019年10月09日読売新聞朝刊(西部版・14版)の35面(社会面)では、よくわからないのだが、こういう文章が記事の最後にある。

再開に反対する実行委会長代行の河村たかし名古屋市長は8日午後、会場と県庁で抗議活動を行った。支援者らとともにプラカードを掲げ、「表現の自由という名の暴力だ」などと訴えながら、一時その場で座り込み、展示の中止を改めて訴えた。

 これまで伝えられていることから推測すると、河村は、
①「少女像(慰安婦像)」は河村の歴史認識と一致しない、日本の歴史を歪曲しているから許すことができない
②天皇の肖像を焼くことは許されない
 という観点から、「暴力だ」と訴えているのだろう。
 だが①の慰安婦については、「歴史認識」が河村と同一でなければならない理由はどこにもない。「慰安婦」は日本軍によって強制されたものという認識は、多くの人がもっている。その根拠も示されている。これは「表現の自由」の問題ではなく、歴史認識の問題である。
 ②の天皇の肖像も、実際を見ていないのではっきりしないが、どうも本を焼却処分をしたらそこに天皇の肖像が見えた(天皇の肖像が燃えるのが見える)というものらしい。もちろん、それは「わざと」そういうように撮影したのだろうけれど。
 問題は、人の肖像を焼くというのは失礼なことかもしれないが、怒りのために焼きたいという人もいるかもしれない。そういう感情はおさえられない。もし、そういう行為を禁止するなら、それは「表現の自由」ではなく、別の概念で規制するものだろう。
 だいたい「表現の自由」は、そのことばを単独で取り上げても意味はない。「表現の自由は、これを保障する」というのは「国民の表現の自由については、これを保障する。つまり、国家権力は、表現がどういうものであれ、それに介入し、表現する行為をさまたげない(妨害してはいけない)という規定であって、国民が何を表現してはいけないかという規定ではない。憲法は、国家権力を拘束するが、国民は拘束されない。
 憲法には、国民の義務として、教育、勤労、納税を上げているが、勤労していない人、働いていない人が憲法違反で罰せられることはない、ということだけを見てもわかる。
こどもに教育を受けさせなかったら、憲法違反ではなく、もっと具体的な法律が適用される。納税を怠ったときも憲法ではなく、法律が適用される。
 同じように、表現に問題があったとしたら、それは「憲法の概念(表現の自由)」ではなく、別の法で取り締まるべきである。そういう手続きを踏まずに、展覧会を中止するという行為が権力の越権行為(憲法違反)なのである。
 だいたい「慰安婦像」をつくること、展示すること、天皇の肖像を焼くことが、どの法律に違反するのか。
 天皇の肖像が焼かれるのを見るのは不愉快だ、ということはわかる。しかし、河村が不愉快だからといって、全員が不愉快とはかぎらない。私はわざわざ天皇の写真を焼きたいとは思わないが、思うひとがいるのも充分に理解できる。たとえばヒトラーの写真を焼く、スターリンの写真を焼くというのは、どうか。それを想像するといい。「教科書の歴史」ではどう書かれているか知らないが、昭和天皇を太平洋戦争の責任者、戦犯と考えるひともいる。怒りや憎しみからある人の写真を焼いてはいけない、特に天皇の写真を焼いてはいけない、焼くところを見せてはいけないというのなら、それを禁止するなら、禁止するための法律がないといけない。その法律を元に河村は主張しないといけない。河村の感情が法律であってはならない。
 河村にとって天皇は絶対的な存在なのかもしれないが、その絶対視を国民に押しつけるととんでもないことがおきる。天皇の写真が写っている新聞は犬のトイレにつかってはいけないとか、犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかってはいけないとか。さらには、こういうふうな文章に天皇を持ち出してはいけないとか。
 天皇ということばをつかうときは、天皇の尊厳に配慮すべきだというのなら、そう言うための根拠になる「法律」が必要である。昔は「不敬罪」というのがあったらしいが。と、考えると、河村のやったことは、単なる「抗議」をとおりこして、「2012年の自民党改憲草案」の先取り実施であることがわかる。そこでは「天皇」は明治憲法と同じように「元首」と定義されている。
 あ、少し脱線したか。いや、脱線ではないだろうなあ。
 どんなときでも、個人の感情が「法律」であってはいけない。特に権力者の感情が法律として他人の行動を規制するものになってはいけない。

 これは河村に直接関係することではないが。
 多くの「嫌韓派」のひとが、河村と同じ意見を主張している。朝鮮半島を日本軍が侵略し、植民地化したことを無視している。「慰安婦像」は日本人を傷つける、不愉快だ、と主張している。撤去しろと訴える。その一方、韓国人が「旭日旗」は不愉快だ、オリンピック会場へ持ち込む(応援につかう)のはやめてほしいと訴えると、何をつかって応援するかは自由だ、と言う。韓国人がどれだけ不愉快に思い、不安に駆られるかは気にしない。
 これは、おかしい。
 「嫌韓派」のひとにとって不愉快なことは許さない。しかし韓国人にとって不愉快なことを「嫌韓派」のひとがするのはかまわない。自由だ。
 こういう態度が、「日本は太平洋戦争を反省していない。韓国に対して充分な謝罪をしていない」という批判につながるのだ。二度と外国に侵略しないという反省と誓いの気持ちがあれば「軍旗を応援につかわない」というのは当然のことだろう。
 何回か書いたが、「謝罪」というのは「申し訳ない、ごめんなさい」というだけではないのだ。すぎたことは、どんなにしても取り戻せない。だからこそ、「もう二度としません」と言うこと、将来同じことをしないと誓うことが大事であり、それが「謝罪」なのだ。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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天皇と象徴の定義

2019-10-08 22:23:04 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇と象徴の定義
             自民党憲法改正草案を読む/番外292(情報の読み方)

 2019年10月08日朝日新聞朝刊(西部版・14版)の28面(社会面)に、作家・赤坂真理の「考 令和の天皇」を読みながら、やっと、という思いがした。天皇と象徴についてのインタビュー記事である。そのなかで赤坂は、天皇と象徴について長い間考えてこなかった。しかし、2016年のビデオメッセージを見て考えるようになった。天皇のことばに共感した、と書いている。そのあと、

でも、よく考えると、おかしくないですか。象徴の主体である天皇自身が、象徴のあるべき姿を語る。本来、私たち主権者が考えるべきことでしょう。

 「やっと」と書いたのは、この問題は私はすでに何度も書いてきたからである。
 「天皇の悲鳴」(象形文字編集室)の前書き(3ページ)で、ビデオメッセージについて、私はこう書いた。

 タイトル(象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば)が明らかにしているように、天皇は「象徴」について体験を語り「象徴とは何か」を定義したのだが、政治問題にならなかった。「退位」を求めることが憲法に触れるなら、憲法で定義されていない「象徴」について語ることも憲法に触れる。
 政府はなぜ問題にしなかったのか。「生前退位」に意識が奪われ、「象徴の定義」を見落としたのか。大問題とわかったから触れないようにしたのか。

 私は、前者だと思う。天皇を強制的に生前退位に追い込むことができた。それが実現して有頂天になってしまった。
 この生前退位騒動(籾井NHKをつかった情報操作)がうまくいったために、安倍は暴走する。
 いろいろブログに書いてきたが、その「頂点」は令和の天皇が即位するときの「象徴」というこことばの定義に「2012年の自民党改憲草案」でつかっている定義をそのまま言わせたことである。安倍もおなじことばをつかっている。安倍と、令和の天皇が同じことばで「象徴」を定義し、それは「2012年の自民党改憲草案」の文言である。
 多くの人が見逃しているが(私は、その問題を指摘する文章をいままで読んでいない)、これは大問題である。
 たぶん、平成の天皇が「象徴」を定義したことの重大さに気がついた誰か(安倍の側近)が、今度はそういう失敗をしないように、周到に天皇のことばを検閲し、修正したのだろう。そして、この「2012年の自民党改憲草案」の「先取り」が批判されなかったことで、さらに浮かれてしまった。
 何でも思いのままにできると浮かれている安倍は、徴用工問題で嫌韓ムードをあおり、それが一部で歓迎されていることをいいことに、暴走をつづける。所信表明演説では、大東亜戦争ということばは避けているが、大東亜戦争の「理念(?)」を持ち出している。(このことは、すでにブログで書いた。)これは、「生前退位騒動」の延長線にある暴走なのだ。
 私たちは、もっと安倍のことば、その周辺のことばのひとつひとつを厳しく点検しないといけない。天皇のことばも、きちんとチェックしないといけない。そこに安倍の意向がどう反映されているか。マスコミの取り上げ方も含めて、そこから多くのことが見えてくる。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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朝日カルチャーセンター福岡「谷川俊太郎の世界」・10月07日

2019-10-08 11:34:59 | 現代詩講座
朝日カルチャーセンター福岡「谷川俊太郎の世界」・10月07日の講座

 受講生の作品を読んだ。

再生  池田清子

いつからはじまったのか
思い当たるふしがある
なぜそうなったのか
思い当たるふしがある

何度崩れても
どれだけ壊れても
また 再生

何ていじらしい
我が細胞
我が組織

フレー、フレー、フレー!

青柳「一連目が音楽性があっていい。三連目の、我が細胞、我が組織というのは意味はわかるが、もっと具体的な方がいいのでは。何ていじらしいとかいている、そのいじらしいを活かしていくといいのでは。最後の、フレー、フレーもいい」
谷内「いま、具体的に、という指摘があったけれど、我が細胞、我が組織を具体的に言いなおすと?」
池田「免疫細胞、皮膚細胞」
谷内「うーん、具体的とは言えないかもしれない。私も一連目はとてもいいと思った。思い当たるふし、というのは、どういうことですか? 具体的に言いなおすと」
池田「細胞が崩れていくはじまり」
谷内「あ、私は、まったく逆に読んだ」
池田「えっ」
谷内「何かが崩れてしまう。思い返すとあのときが崩壊のはじまりだったというのは、多くの人が言う。私は逆に、あのときから再生がはじまったのだ、と読んでいいなあと思いました」
池田「それは考えたことがなかった」
 というようなことをきっかけに、私が話したのは、「再生」をどんなふうに具体的に言いなおすか、「再生」ということばをつかわずに表現するか。再生ということばから何を連想するか。新芽、卵、生き物ということばが聞かれた。新芽は希望の象徴、とも。
 再生に似たことばに(再生ほど強くはないが)回復ということばがある。免疫細胞という説明が池田さんからあったが、免疫細胞は病気を連想させる。病気が治る。回復する。それも再生というものだと思う。だから、たとえば麻痺していた指が動くようになったとか、頬に赤みがさしてきたというのも再生といえるかもしれない。そういった「自分の肉体」そのものを「いじらしい」ということばをつかわずに具体的に書けば詩の世界はひろがるかも。
 再生は感情でも起きる。不孝があって泣き暮らしている。そこから立ち直るというのも再生だし、また逆に、泣き暮らしのあと平常な生活にもどり、そのあとふっと悲しみを取り戻す、泣いてしまうというのも「再生」かもしれない。悲しむことができる、悲しみに堪えるだけの力がついた、という証拠になる。
 そういうことを具体的に書けば、とてもいい詩になる。そういう「再生」が「いつからはじまったのか」、いろいろ考え「あ、あのとき、花の美しさに驚き、笑ったな」とか、「家に帰り明かりをつけた瞬間に泣いてしまった」とか。
 そういう詩を読んでみたい。


そよぎ  青柳俊哉

夕雲の森には
雪をかぶったブナやケヤキにまじって
シダ類のようなものも低く波うっていて
それらがそよぐたびに
雪の光のつぶがただよっている
ただよう松の実のきらめきも
葦の葉のうえでゆれている月の光のつぶも
月の光の中にきえていく水鳥の翼の
くらい藻のようなそよぎも
雪の森をさまようアゲハ蝶の羽の
黄色い波つぶもようの
ほたるの光のようなものもただよっている
それらがただよいながら
永遠に休らうようにしずかにねむっている 
あまりにもしずかすぎる
夕雲のそよぎである

池田「感性に感心した」
谷内「感性に感心したという抽象的なことばよりも、もっと簡単なことばで感想を言った方が、いろいろいえると思う。私には書けない、とか。どこがいちばん気に入りました?」
池田「(笑い)それらがそよぐたびに、それらがただよいながらと繰り返されていて、そのあいだを風がそよいでいるように、イメージが漂っている感じが、いろいろなことばで書かれている。夕雲というのは夕方の雲のことですか?」
青柳「冬の夕暮れの雲です。他の季節とは違った美しさがある。この詩は実は一枚の絵を見て思いついた。雪をかぶった木が海の底でそよいでいる。気持ちがいい。やすらぐ。巨大な樹木のうねりを感じた。何篇かの詩を組み合わせてみた。以前の詩では抽象的なことばだったものを具体的なことばに書き換えた」
谷内「私は葦の葉のうえでからの三行が好きです。とくに月の光の中に消えていくの、消えていく動詞が印象的。存在するものが書かれているのに、消えていくということばがあると、そこにあるものが強くなる」
青柳「西脇の詩に、末尾を「の」で繋いでいく作品がある。それを意識して「も」を繰り返してみた」
谷内「それはおもしろいですね。いま、「の」をつかっている部分も「も」にしてみるのもいいかもしれない」

ただよう松の実のきらめきも
葦の葉のうえでゆれている月の光のつぶも
月の光の中にきえていく水鳥の翼も
くらい藻のようなそよぎも
雪の森をさまようアゲハ蝶の羽も
黄色い波つぶもようも
ほたるの光のようなものもただよっている

谷内「「の」を「も」に変えてしまうと意味が違ってしまう部分が出てくるけれど、池田さんがイメージが漂っているといったけれど、この詩は意味よりもイメージが強い。そうだったら、意味にならないように最初から最後までイメージにしてしまうのも楽しいかもしれない。ちょっとそういう練習みたいなものをしてみましょうか。ただよう松の実のきらめきもという行を利用して、末尾をかならず「きらめきも」で終わる行を書いてみる」
 そうやってできたのが、次の九行。

ガラスの器のきらめきも
テーブルに落ちた影のきらめきも
ふやけた皮膚のきらめきも
小さなこどもたちの顔のきらめきも
あわてて逃げる蝶の怒りのきらめきも
詩を書いているペン先のインクのきらめきも
遠くに見える星のきらめきも
ことばにならない悲しいきらめきも
永遠の悲しい詩のきらめきも
 詩になっているとはいえないけれど、そうやって書いたものを削ったり、動かしたりしていると、イメージ同士が呼び合ってひとつの世界になっていくことがあると思う。
谷内「青柳さんの詩のイメージを中心にして言うと、私は雪の森にアゲハ蝶が出てくるのはいいと思う」
池田「冬に蝶っているんですか?」
谷内「凍蝶、ということばもありますね」
青柳「イメージとして書いたものだから、何が登場してもいいと思う」
谷内「私も何が登場してもいいと思う。ただ、蝶という夏の生き物を出した後、ほたるが出てくる。これはイメージの飛躍、攪乱、拡散という感じを邪魔してしまう。夏を感じさせないものの方がイメージが自由になると思う」





*

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スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(★★★★★)

2019-10-07 20:26:15 | 午前十時の映画祭
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マルコム・マクドウェル,パトリック・マギー
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント


スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(★★★★★)

監督 スタンリー・キューブリック 出演 マルコム・マクダウェル

 「暴力」とは何なのか。この問題を考えるとき、まっ先に思い浮かぶのがこの映画。暴力描写がとてつもなく美しい。しかし、同時に、隠れさている暴力が、とてつもなく醜い。ふたつのものがぶつかりあっている。
 冒頭の老人に対する暴力は冷酷だ。冷酷としか言いようがないが、これは私が被害に遭う老人の年齢に近づいたせいか。このシーンは、美しいとも醜いとも感じない。ありふれた暴力だ。これは私が暴力というものになれてしまった、感覚が麻痺しているということか。
 しかし、次の廃墟になった劇場での対立グループとの格闘は、ほんとうに美しい。わくわくする。音楽が鳴り響き、まるでバレエである。このままずっとつづいてくれたらいいのに、と思う。
 これは、私のなかの「いかがわしい」感覚である。「いかがわしい」快感である。そうわかっているが、この美しさを私は否定できない。あんなふうにして、自分の肉体の中にあるものを外に出してしまいたいという欲望を刺戟される。セックスよりも、もっと快感だと思う。
 それにつづく郊外の作家の家でのレイプも、不謹慎といわれるかもしれないが、美しい。体にはりついた赤い服。おっぱいの部分を鋏で切ると丸い穴があく。そこにおっぱいがはみ出る。丸い穴を押し広げるようにして。女性は被害者なのに、まるでおっぱいが暴力をふるっている、世界をかきまわしているという錯覚に陥る。つまり、じわーっと自己主張してくるおっぱいなんかに負けないという欲望がマルコム・マクダウェルを突き動かしている感じが、まるで私自身の欲望のようにわかるのである。
 グループの主導権を奪われそうになったマルコム・マクダウェルがテムズ川沿いを歩きながら、三人と戦うシーンもいいなあ。スローモーションが美しい。サム・ペキンパーから盗んだのか。いや、違うな。やっぱり、バレエなのだ。音楽と一体の動きなのだ。
 この、少年のわかりやすい暴力だけではなく、陰湿な、つまり見えにくく暴力、隠された醜い暴力も丁寧に描かれる。
 強制更生の拷問(?)もすごいが、まだマルコム・マクダウェルに手を下す場面が直接描かれているので、「半分見える」感じが、醜さを見えにくくしている。強制更生を終えた後、マルコム・マクダウェルが警官になった元の仲間に殴られ、かつて女性をレイプした作家の家にたどりついてからの部分がぞくぞくする。最初は、あのときの少年とは作家は気がつかない。作家は強制更生に反対しているので、マルコム・マクダウェルを利用しようとする。その過程で、マルコム・マクダウェルが「雨に唄えば」を歌っているのを聞き、あのときの少年と気がつく。復讐を思いつく。このときの表情がなんとも不気味である。暴力の犠牲者であり、暴力を否定している。その暴力の否定は強制更生という暴力に対しても向けられているのだが、自分の肉体の中から燃え上がってくる暴力の欲望をおさえきれない。でも、実際に手を下すわけではない。殴るとか、蹴るとか、という直接的な暴力をふるわない。だから見えにくく、醜い。(醜いは、見にくい=見えにくい、から派生したことばか、と思ってしまう。)強制更生のときつかわれたベートーベンの第九がマルコム・マクダウェルを苦しめると知って、音楽を大音響で鳴らすのだ。これは、愉悦なのか、苦痛なのか、よくわからないまま私の肉体の中に入り込む。マルコム・マクダウェルが苦しんでいるだろうと想像する作家の、手を下さない暴力の残忍さに、不思議な快感を覚える。醜さに、こころをひっかきまわされる快感というものもあるのだ。
 さらに、さらに。
 強制更生プログラムを指示した閣僚が、第九に苦しみ自殺しようとしたマルコム・マクダウェルを尋ねてくる。そして、マルコム・マクダウェルに、強制更生プログラムのせいで政権が倒れないように協力してくれ、と申し込む。これも非常に醜い。権力にしかできない「暴力」の醜さがある。なんだか、すっごくご都合主義な政治がらみの暴力に、しかし、マルコム・マクダウェルはどうも協力するらしいのである。協力しながらどんな形で復讐するのか、それは描かれていないのだが、何を思っているのかわからない不気味さのまま映画が終わる。この暴力性にも、なんだか圧倒される。暴力がこんなに醜くていいのか、と思ってしまう、と言えばいいのか。
 でも、これは正直な「最後の感想」ではない。
 約三〇年ぶりに見直してみて、「あれっ、最後は、こうだっけ?」と、私は実は驚いたのである。私は、「強制更生」から復活し、元の暴力的な少年にもどったマルコム・マクダウェルが街で暴力をふるっている(あるいは、仲間を連れ歩いている)シーンが最後にあったように記憶している。その最後の幻のシーンは、三〇年前の私の欲望だったのか。その欲望を私はいまでも覚えているのか、ということにも驚いたといいなおすこともできる。私は「美しい暴力」が、人間らしい「肉体」をつかった暴力が復活してくることを祈りたい気持ちなのである。

 今回見た映画の「結末」に、私は驚いた、とも言える。私の三〇年、何があったのかなあ、とも思ったりした。
 そして、最後に。
 この三〇年でいちばん変わったのは「性」の描写である。最初に書いた暴力バレエの前には、対立グループの女性をレイプするシーンがあるのだが、そのとき女性の性器(陰毛)が映る。三〇年前は、ぼかしというか、引っかき傷が入っていて見えなかったものが見えるようになっている。作家の家でのレイプも同じだ。日本での「性描写」の許容範囲は、そこまで広がってきた、ということになる。
 そういうことを思いながら、では、「暴力」に対する感覚はどれくらい変化しただろうか、と考えるとなかなかむずかしい。

 と書いて。
 なんだか、まだ書き漏らしたことがある、と私は思う。まだ書きやめるな、と私のなかの誰かが言っている声がする。
 だから、ちょっと映画からずれるが、書いておく。
 私は先日「ジョーカー」を見ながら、最近の「嫌韓のうねり」を思い出していた。「嫌韓派」の中心に「ジョーカー」はまだ存在していない。「嫌韓派」の動きは、何か自分の中に鬱積しているものを吐き出したいという欲望だけで成り立っている感じがする。行動の基準は「嫌韓」というだけである。「ジョーカー」はほかにいる。それは、もう誕生しているとも感じる。この「ジョーカー」は世間にあふれる「嫌韓派」のなかにではなく、外にいるという感じが、非常に、嫌韓派のひとたちのことばを醜くしている。
 そういうことをいちばん感じるのは、嫌韓派のひとたちが韓国人の行動や韓国政府の行動を批判する一方、「平和憲法では日本は守れない。中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してきたらどうするのか」と主張することである。戦争を抑止するためには核武装が必要だという人までいる。
 この「論法」になぜ醜さを感じるか。「幼い」からである。
 戦争が実際にあったとき、いちばんの武器は「拳銃」とか「戦車」とかではない。「土地」である。どこまで「占領」しているか。つまり、「陣地」はどこまでか。「領土」が問題になる。土地があれば、そこに「基地」をつくれる。戦争の拠点である。だからこそ、ロシアは北方四島を日本に返そうとしない。中国は尖閣諸島を中国の領土だと主張する。
 そのことを考えるなら、中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してくるとき、韓国は、その「前線基地」をになうことになる。中国も北朝鮮もロシアも、まず陸続きである韓国を支配し、そこを足場に日本への攻撃をしかけるだろう。逆に言えば、韓国が韓国として成立しているかぎり、日本の脅威はずいぶん弱まる。これはアメリカの世界戦略とも関係している。アメリカが米韓同盟を結んでいるのは、そのためだ。韓国に米軍が基地を持っているかぎり、中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。同じように、韓国に米軍があるかぎり、米軍は中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。その結果として日本は危険を回避できる。韓国は日本にとってもとても重要なのだ。嫌韓などと言っていたら、言うだけ中国、北朝鮮、ロシアからの「脅威」は強くなる。それに気づかずに、嫌韓派のひとたちは安倍の「嫌韓」というかアジア蔑視に利用されている。そこに「無知の醜さ」を感じるのだ。
 だれの中にも「暴力性」はあると思うが、その「暴力性」を権力に利用されている。それに気づかないというのは、暴力の醜さ以上に、もっと醜いものを持っている。あるいは考えない人間の醜さを利用して、嫌韓をあおる権力の智恵の醜さにぞっとするといえばいいのか。実際に手を下さない醜い暴力(見えにくい暴力)が絡み合って、醜さを増幅させている。
 「時計じかけのオレンジ」の奇妙な終わり方を見て、ふいに、そういうことを思ったのだ。もし私が三〇年前に見た「幻のラストシーン」だったら、そういうことは思わなかったかもしれない。暴力がはっきり目に見えるものだったら、こんなことは感じなかったかもしれない。
 個人の暴力を利用して、権力は動いている、権力はいつでも個人を利用するだけだというようなことを考えてしまうのである。安倍はきっというだろう。「私は嫌韓派ではない。しかし多くの人が韓国を嫌っている。私は多数派に従ったのだ」と言って逃げるのだ。「私ではなく、官僚が勝手にしたことだ。私は知らない」という醜い手法だ。安倍の手法は、いつでも醜さだけで成り立っている。

 ここまで書いて、私はあらためて「ジョーカー」の悪の美しさを思い出すのだ。ジョーカーは、明確な個人である。個人が、個人をないがしろにする社会に対して怒り、暴力を生きる。それは美しい。自分自身の「悲しみ」を出発点としているからだ。
 しかし、権力の暴力は醜い。安倍は、せいぜいが「民主党政権時代、自分への企業献金が少なかった」という国民とには無縁の「悲しみ」しか持っていない。憲法を改正して、戦争をしてみたいという「欲望」しかもっていない。なぜ、戦争をしたいか。戦争になれば、みんな戦争を指揮する人間に従わないと生きていけないからである。独裁と戦争は一体になっている。こんな安倍に「嫌韓派」のひとたちは、あおられている。
 あおる方も、あおられる方も、醜い。

 (2019年10月07日、中洲大洋スクリーン2)

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新保啓『朝の行方』

2019-10-06 20:11:18 | 詩集
朝の行方
新保 啓
思潮社


新保啓『朝の行方』(思潮社、2019年09月30日発行)

 新保啓『朝の行方』を読みながら、私が詩を感じる部分と新保が読んでほしいと思っている部分は違うかもしれないなあ、と感じた。
 たとえば「池の夏」の最初の部分。

いつも見慣れている
かんがい用水池では
夏になると
一部に 砂浜が現れる

そのほとんどを
水の底で過ごしていたが
新しい生命を貰ったように
現れる

 新保は二連目の「水の底で過ごしていたが」を丁寧に書いている。たぶん、ここがいちばんの読ませどころ。この一行があって「新しい生命を貰った」ということばが強く響いてくる。
 そう理解した上で書くのだが、私は、一連目の方が好きなのだ。

夏になると
一部に 砂浜が現れる

 事実が事実として、ただほうりだされている。この瞬間、池と、水が少なくなって現れた「底」が見える。まだ「底」ということばが出てこないのに。こういう部分が、私には美しく感じられる。「水の底で過ごしていたが」は、ことばでしかたどりつけない世界、つまり詩なのだが、その詩がはじまる前の事実を簡単にとらえてしまうところに、新保の正直な時間(それまでの生き方)が凝縮されていると感じる。
 あとは、その正直さを言いなおしたものである。
 「雨上がり」の前半。

詩のためのノートに
「朝から雨が降っている」
と 書く
雨も地面に何かを書いている
お互いに書くことは違うけど
雨はやがて上がる

「朝からの雨が上がった」
と 書く
あとはもう 書くことがないので
私は
そこからいなくなる

 「「朝から雨が降っている」/と 書く」「「朝からの雨が上がった」/と 書く」の二行は、もうこれ以上正直に書きようがない。事実がそこにあるだけだ。
 事実を出発点とするから、それを引き継いで動くことばが自然だ。

あとはもう 書くことがないので
私は
そこからいなくなる

 「そこからいなくなる」がとても強い。「そこ、って、どこ?」と問いかける前に「そこ」が存在している。そして了解してしまうのだ。「いなくなる」と同時に消えてしまうのが「そこ」だ、と。
 で、この「そこ」を読んだ後、「「あ」と「こ」のちがい」という作品を読む。巻末の作品だ。

「あの世」と
「この世」のちがいは
「あ」と「こ」がちがうだけ

 指示詞を「こそあど」というが、この詩では「その(そこ)」ではなく「あの」と「この」が比較されている。
 「あの」は遠いところにある、「この」は近くを指す、「その」はその中間? そんな具合にぼんやり考えるが。
 「あの」には不思議なつかい方がある。
 「またパスタ食べに行こうか」「駅前の、ワインがうまかったあの店がいいなあ」というような会話。こういうとき「この」でも「その」でもなく「あの」がつかわれる。それは今いる場所から遠いというだけではなく、ふたりとも「知っている」という意味を含んでいる。会話しているふたりはそこに行ったことがある。だから「あの」というのだ。
 そうすると、「あの世」というのはただ遠いところにあるだけではなく、もしかしたら知っているところ? でも、どういう具合に知っているのだろうか。
 これは説明がむずかしい。
 その説明がむずかしいものを探しながら新保のことばは動き、こんなふうに展開する。

世が世であれば
あのひとと会えるかもしれない

 ここに「あの」が出てくる。「あの世」は「あの人」が教えてくれるものなのだ。「あの人」は、あなたにとって何人いますか? 「あの世」を教えてもらいましたか? ふいに、そう問いかけられたような気持ちになって、私は驚くのである。
 新保には「あのひと」はたしかに存在するのだ。その突然の告白のようなものに、私は新保の正直を感じる。









*

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谷川俊太郎「ヨンダルビナ」

2019-10-05 15:01:43 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「ヨンダルビナ」(朝日新聞夕刊=西部版・4 版、2019年10月03日発行)

 谷川俊太郎「ヨンダルビナ」は五連から成り立っている。

言葉が詩に化けるのを待ちながら
書きかけている今
外で車がアイドリングしている
唐突に死んだ友人を思い出す

「な」というひらがなに
名や菜を幽閉しているのは
よろしくないと息巻いていた
何年も前のことだ

心は言葉の泡立つ水脈をひいて
どこへ旅するつもりなのか
つかの間詩を放下して紅茶を飲む
私という実体!

オーライオーライと
男が大声で叫んでいる
彼奴は今夜何を食すのか
詩も言語以前の事実に拠る

ヨンダルビナという
聞いたこともない地名
そこの天気予報をウエブで探す
意味のない小さな悦び

 ばらばらで、ばらばらな気持ちのまま読み進む。というのは、変な感想か。さっと読んで、あ、ばらばら、と思った。詩を書きかけていると、外から車のアイドリングの音が聞こえる。ふたつの間には関係がない。偶然だ。アイドリングをしているのを聞く(見る?)ことと友人を思い出すことの間にも関係が見出せない。どんな脈絡があるのか、説明されない。たが事実だけが、ばらばらに並べられている。そのあと、いったん詩を書くことをやめる。外から声が聞こえる。やめたはずの詩が、どこからかふっと顔を出す。ここにも読者を納得させるだけの脈絡がない。ばらばら、がつづいているのだが、四連目の最後のことば、「詩も言語以前の事実に拠る」を受けて、

ヨンダルビナ

 ということばが動く。これも唐突だが、唐突すぎて脈絡があるかないかということさえわからなくなる。一瞬、これまで脈絡があるとかないとか考えていたことを忘れてしまう。これまでの思いがたたき壊される。
 「ヨンダルビナ」という地名がほんとうにあるのかどうか、知らない。あったとしても、私には関係がない。これまで考えていたことを吹き飛ばされたまま、私は「拠る」と「ヨンダルビナ」か。濁音が、不思議と気持ちがいい。その音に惹かれる。「ヨンダルビナ」か、美しいなあ。楽しい音だなあ、と。しかし、タイトルを読んだときは、そんなことは思わなかった。「拠る」を読んだ直後だから楽しいと感じたのだ。
 こういうところに「言語以前」というもの、あるいは「詩」というものがあるかもしれない。うだうだと考えてしまう「脈絡」とは無関係に。

 それにしても。

 「詩」ということば、「言葉/言語」ということばが目につくなあ。短い詩なのにねえ。なぜ、何度も書いたのだろう。
 さらに不思議なのは、二連目、

「な」というひらがなに
名や菜を幽閉しているのは
よろしくない

 というのは「友人」のことばだね。ことば、と書いたけれど、ほんとうにことば? というのは四連目に「大声」ということばがあるからだ。友人は、どんな声で言ったのだろう。私は、谷川が「友人の言葉(詩)」を思い出しているのか「声」を思い出しているかということの方が気にかかる。
 最終連の「聞いたこともない」ということばのせいかもしれない。「聞いたこともない」は、この場合、ほんとうに「聞いたことがない」というよりも「知らない」という「意味」である。「意味」だけれど、それを「聞いたことがない」と「肉体」にかえしてつかみとっている。こういうことも、友人の「言葉」を思い出したのか、「声」を思い出したのかということにつながっていく。
 まあ、そういうことは、どうでもいいんだけれどね。

 どうでもいい、と書くと谷川は怒るかもしれないけれど、私はこういうどうでもいいことを書いておきたい。それは、それこそ

意味のない小さな悦び

 なんだけれど。
 と、書いて……。

 この「意味のない小さな悦び」というのが、きっと詩なのだと思う。「意味のない」は「言語以前の事実」ということだね。
 きっと「友人の言葉(声)」もまた「言語以前の事実」だね。「言葉(声)」になっているけれど「言語以前」。だから、ほんとうは二連目こそ書かずにはいられなかったものかもしれないなあ。無意識に溢れ出てきた谷川の「思想」かもしれないなあ、と思ったりする。







*

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安倍の所信表明演説を読む

2019-10-05 11:02:39 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の所信表明演説を読む
             自民党憲法改正草案を読む/番外291(情報の読み方)

 安倍の所信表明演説には、どんな問題点が隠れているか。いま起きていることの何を隠しているか。
 3点だけ書いておく。(引用は読売新聞、2019年10月05日朝刊、西部版・14版=全文は9面・12版、丸数字は私がつけた。)

①「みんなちがって、みんないい」
 新しい時代の日本に求められるのは、多様性であります。みんなが横並び、画一的な社会システムの在り方を、根本から見直していく必要があります。多様性を認め合い、すべての人がその個性を活かすことができる。そういう社会を創ることで、少子高齢化という大きな壁も、必ずや克服できるはずです。

 これは「れいわ」の船後さん(私のワープロでは漢字が表記できないので、「船」をつかった)を引き合いに出して語った部分である。金子みすゞも引用している。
 ここに書かれている「ちがい」とは身体的なことである。さらに広げれば、性差や年齢を超えた主張である。そこに「多様性」ということばがつかわれているが、安倍は「多様性」をほんとうに認めるつもりはあるか。
 最近話題になったことに「あいちトリエンナーレ」の問題がある。名古屋市長が批判し、「平和の少女像(慰安婦像)」の公開中止になり、文化庁が補助金を撤回した。このことと関係づけると何が見えてくるか。
 「多様性」と言えば、「身体的特徴」や「病気」のことよりも、まず、一人一人の「思想」こそ「多様性」に満ちている。(障害や病気をかかえていることを「多様性」ということばでくくっていいのか、という問題は、とりあえずは「わき」においておく。)
 「少女像」をつくり、展示することで日本軍がやってきた行為を批判する、というのは、ひとりの思想である。それに対して、「慰安婦は存在しなかった。像は日本軍をおとしめるためにつくられている」と批判するのもひとりの思想である。どちらに与するか、それを権力は問うてはならない、というのが憲法で言う「表現の自由」だ。権力が、どちらかの「表現」を気に食わないと排除してはならない。ひとりひとりの主張が「ちがっていていい」というのが憲法から導き出される哲学である。
 名古屋市長、文化庁のやったことは、「みんなちがって、みんないい」を否定している。「政策」は矛盾していると実現出来ないが、「芸術」や「思想」は個人のものであるから、それがどんなふうにちがっていても、国(権力)が関与する問題ではない。もし「芸術表現」に問題があるとすれば、それは「憲法」の「表現の自由」ではなく、「法律」を適用し、制限する問題である。こどもの裸体写真を展示すれば、「児童ポルノ禁止」など、法律にもとづいて処理されることである。
 安倍が「みんなちがって、みんないい」というのなら、率先して、あいちトリエンナーレ再開を支援すべきだろう。
 安倍がここで語っているは、「芸術」や「思想」の問題ではない、というかもしれないが、私は、「射程」をあえて広げて、隠されているものを指摘するのである。金子みすゞの詩も引用されているので、「芸術」の場合はどうするのか、と、質問を投げかけておくのである。

②アベノミクスによって(略)正社員は130万人増えました。

 統計というのはいつでも「罠」を隠している。たとえば労働者が100人の会社がある。子会社をつくる。本社に「3人」残し、子会社で「97人」再雇用し、さらに「3人」社員を雇い入れる。このとき、正社員の総数は「103人」になる。でも、給料は? つまり給料の総額、会社の支出総額は? 子会社で再雇用したときは、給料は本社にいたときと同じかもしれない。けれど別会社になったのだから昇給は同じにする必要はない。労働時間や、福利厚生もちがってくるだろう。「平等」でスタートしても、「差」が生まれ、拡大する。そして、その「差」は「本社」の利益としてどんどん内部蓄積されていくのだ。高齢者が退職し、若い人をいままで以上に低賃金で雇用すれば、「差益」はどんどん拡大する。(こういう話は、私の身の回りで実際に体験したことである。同じ体験をしている人がきっといるはずである。)
 「総数」のなかの「ひとりひとり」を見ていかないと、現実は見えない。
 「ひとりひとり」の現実を隠して、つごうのいい「総数」だけアピールする安倍の手法を信じてはならない。
 いろいろややこしい「現代経済学」が新聞やその他のマスコミをにぎわしているが、(山本太郎もなにやら似たことを語っているが)、経済を「カネ」の流れだけでとらえるのではなく、人間とむすびつけて見つめなおす必要がある。労働時間、労働の質、賃金と「商品」との関係から見つめなおし、現実を再構成する「新しいマルクス」が必要なのだ。社会に蔓延している「トリック」を暴いて、生きている労働者に「システム」を還元しないといけない。
 社会では「現金」から「電子決済」へと、「カネの流れ」がかわりつつある。カネはますます抽象的になる。この「抽象性」は「カネ」がもっている暴力性を見えにくくする。現金と商品(ほしいもの)を交換しているときは、まだ手元から消えていく現金を見ながら、自分自身の「労働」がどう評価されているか思い描くことができるが、電子決済になると、よほど自覚が強くないと、いま自分の「労働」が何と対価なのかということなど想像しなくなる。
 こういうシステムの中で、経済弱者が、どういう問題にぶつかるのか。搾取は起きないのか。「ポイント還元」というようなことばにだまされて、不要なものまで買わされる(企業の利益になる)というようなことが起きないのか。「自己責任」という名で、破綻した個人が排除されていくというシステムができあがってしまうのではないか。そのとき「統計」は、その事実をきちんと「数字」にできるのか。
 「老後2000万円」問題では、麻生は「報告書」を受け取らない。そして、そういう「報告書」はなかった、「老後2000万円」問題は存在しないという形の処理をした。きっと、これから、それがもっと増えてくる。
 「消費税」は総額いくらなのか。それはどこにつかわれたのか。「ひとりひとり」の家計簿とは関係ない場所で、「ひとりひとり」を無視するシステムが動いていく。「ひとりひとり」を無視した方が「数字がきれいになる」からである。

③1000万人もの戦死者を出した悲惨な戦争を経て、どういう世界を創っていくのか。新しい時代に向けた理想、未来を見据えた新しい原則として、日本は「人種平等」を掲げました。
 世界中に欧米の植民地が広がっていた当時、日本の提案は、各国の強い反対にさらされました。しかし、決して怯むことはなかった。(略)
 日本が掲げた大いなる理想は、世紀を超えて、今、国債人権規約をはじめ国際社会の基本原則となっています。

 抽象的な言い方だが、いわゆる「大東亜戦争は、欧米の植民地化からアジアを解放するための戦いだった」という説を展開している。
 「世界中に欧米の植民地が広がっていた当時、日本の提案は、各国の強い反対にさらされました」というのは、欧米が「人種平等」に反対したというよりも、「人種平等」を旗印にして、日本が欧米と同じ植民地政策に乗り出してくることに反対した(自分たちの権益を守ろうとした)ということだろう。
 日清、日露戦争のときから、日本は欧米の「植民地政策」をまねしてきただけである。台湾など、一部しか植民地にできない(一部の地域に対する植民地化だけした欧米の国から認めてもらえない)ことが不満で、武力をつかって侵略し「既成事実」にしようとしただけにすぎない。
 「人権平等」というようなことばをいまごろ持ち出してきて、太平洋戦争を正当化するのは、あまりにも時代錯誤だ。
 レーガンが日系人を強制収容したことに対して謝罪したのはいつだった。オーストラリアの首相が先住民に対して謝罪したのはいつだったか。世界は「人権平等」をとおりこし、「人権尊重」へと動いている。「人権」はあらゆるものに優先する。アメリカの映画界からはじまったセクハラ告発は、その顕著なものだ。こういう時代にあって、「慰安婦」の存在を否定し、謝罪しない、徴用工の賠償請求を拒絶する(徴用工は、日本政府に対してではなく、企業に対して請求している)ということをやっている。「人権無視」が安倍の政策である。都議選で安倍批判をする市民に向かって「こんなひとたちに負けるわけはいかない」と市民排除の演説をした。安倍に「人権感覚」はない。

 ①②③は違う問題に見えるかもしれないが「人権」ということばを規定にしてみつめなおせばひとつの問題だとわかる。
 ある出来事をどう認識するか、そしてそれをどう表現するかは個人の権利である。「表現」は「ひとりひとりの固有の権利」である。労働に見合った賃金を要求し、その賃金で生きていくというのは「ひとりひとりの固有の権利」である。被害を受けた人が賠償を求めるというのは「ひとりとひりの固有の権利」である。被害を与えた人は謝罪する、償うというのは、加害者の責任である。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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トッド・フィリップス監督「ジョーカー」(★★★★★)

2019-10-04 19:24:47 | 映画
トッド・フィリップス監督「ジョーカー」(★★★★★)

監督 トッド・フィリップス 出演 ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ

 間違いなく2019年のベスト1。ここ数年のなかでもベスト1になる作品。
 映画は映像と音楽だが、その両方に圧倒される。
 映像は、色彩計画がすばらしい。ホアキン・フェニックスのダークな髪(映画では、さらにダークになるように染めているようだが)と目にあうように、街全体が黒をひそませた色でできている。つかいこまれて、生活が積み重なった黒い陰り。ゴミ袋の黒は当然といえば当然の黒だが、黒にも光を反射して輝く瞬間があるが、そういうことがないようにしっかりと黒の中に沈み込ませている。ホアキン・フェニックスが着るピエロの赤い服さえ、その赤には黒がまじっているのだろう、静かに全体の中に溶けこんで行く。けっして浮き上がらない。「群集」の衣装にも浮いたところがひとつもない。
 街の風景では、何度かホアキン・フェニックスが昇り降りする長い石の階段がとても魅力的だ。新しさというものが全然ない。それに合わせるように街全体にも新しさがない。高層ビルがあってもひたすら古い。車が走るトンネルの「距離感」も、とてもすばらしい。閉塞感に満ちている。室内の調度も同じだ。新しくすることもできず、ただつかってきたという感じだけが、ぐいと迫ってくる。
 これを別なことばで言いなおすと、すべての存在が「過去」を持って、「いま」「ここ」にある、という感じだ。
 「音」も同じ。「音楽」になれずに、うごめいてるノイズ。あまりにも長い間、そこでノイズであり続けたために、もう「肉体」のなかにしみこんでしまっている。まるで「肉体」からもれだしてきたようなノイズ。いや、もともとノイズというようなものは、「外の世界」にはなくて、「音楽」が「肉体」を通り抜けていくときに、「音楽」になりきれずに残して行った「傷」がもらしてしまう「うめき声」のようなものか。この暗さが、画面の、暗いけれど、しっかり自己主張する色彩と非常によくあっている。
 さらにホアキン・フェニックスの「肉体の暗さ」がすごい。顔(表情)の演技もすばらしいが、痩せた上半身の、背中の、正面からの、脇腹の、いや、骨が浮きでるような、うねるような「暗さ」に思わず吸いよせられてしまう。「健康」というものを少しも感じさせない。こういう言い方がいいとは思わないが、「奇形」の強い歪みを秘めている。生々しいいのちが、生々しいままうごめいている。触りたくない、近づきたくない。もし近づくことがあるなら、この映画に何度もあるように、殴る、蹴る、という暴力の捌け口として接触することになるだろう。そう、思わず、殴ってしまいたいような怖さがある。蛇を見たときの怖さのような。だから殴る、といっても手で殴るのではなく棒か何かで殴ることになる。そういう不気味さがあるためか、ホアキン・フェニックスが殴られる瞬間というのは、何というか、うーん、よく殴ったなあ、殴った奴は偉い、という感じさえするのである。よっぽど怒りがこもらないと、ホアキン・フェニックスを殴ることはできない。(蹴る、というのは、これとは少し違う。)
 で、この殴られたときの痛み、怨念みたいなものが、ホアキン・フェニックスの「肉体」にとどまるのではなく、「街」全体の中にしみこんでいくような感じがまたすごい。こういうことを感じさせるのは、やはり「色彩計画」が完璧なのだと思う。ホアキン・フェニックスの目の色が何度もかわる。狂気を秘めて、悲しみに沈む。ああ、この色はきっと街のどこかを映している、この色と街はどこかで完全につながっている、と感じさせるのである。
 しかし、ストーリーの山場の、ホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロのシーンは、あまりよくない。「ことば」が説明しすぎるからかもしれない。ロバート・デ・ニーロの「形だけの演技」と組み合わさったとき、ホアキン・フェニックスの「肉体の過去」がうまく動かない。ロバート・デ・ニーロの「過去」が噴出して来ないので、二人がいることによって生まれるはずの「化学反応」のような変化が不発に終わっている。テレビ放映中の殺人という、生々しいはずのものが、妙に紙芝居みたいに見えてしまう。ロバート・デ・ニーロは損な役回りなのだけれど、損な役だけに、もっとしっかり演じればとても目立つのになあ。ホアキン・フェニックスに圧倒されて、演技するのをあきらめたのかもしれない。
 でも、まあ、そのロバート・デ・ニーロの傷を抱え込むことで、他の部分がいっそうすばらしく感じられるのだから、これはこれでいいか。
(2019年10月04日、ユナイテッドシネマももち、スクリーン9)
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河野妙子『クロノスとカイロス』

2019-10-04 09:56:42 | 詩集
詩集 クロノスとカイロス
河野妙子
書肆侃侃房
河野妙子『クロノスとカイロス』(書肆侃侃房、2019年08月08日発行)

 河野妙子『クロノスとカイロス』の巻頭の「ちょっと」。

ちょっとは一寸、小さいけれど
十倍するといっしゃくで、その六倍はいっけんです
いっけんの真四角には畳が二枚も入ります
ひとつぼです 一寸 一尺 一間 一坪
それがわかると、ちょっとばかにはできません

「いっすんの虫にもごぶの魂」
ひとつぼあれば 魂はいくつはいるのでしょうか

両手をせいいっぱいにひろげ
はるをまつこのごろです

 算数(数学)というか、論理をきちんと追った詩である。ことばが論理のなかでととのえられている。
 この詩で私が注目したのが、「わかる」という動詞。

それがわかると、ちょっとばかにはできません

 「わかる」はすぐに「ばかにできない」にかわっていく。この「ばかにできない」とは、どういうことか。「わからない」ということである。
 河野は、こう言いなおしている。

「いっすんの虫にもごぶの魂」
ひとつぼあれば 魂はいくつはいるのでしょうか

 これは、計算すれば「答え」が出せるかもしれない。でも、「答え」を出す必要はない。もし質問すれば、「すぐには答えられないくらい、いっぱいある」という「答えにならない答え」がすぐに返ってくる。そういうことは、「わかる」。直感的に「わかる」。
 私は、こういうことを「肉体でわかる」という。つまり、その人の「思想で、わかる」のである。こういう「答え」に間違いはない。




*

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阿部日奈子『素晴らしい低空飛行』

2019-10-03 10:35:37 | 詩集
素晴らしい低空飛行
宮本 隆司
書肆山田


阿部日奈子『素晴らしい低空飛行』(書肆山田、2019年09月30日発行)

 阿部日奈子の詩は「現実」を題材にしているというより「文学」を題材にしているという印象が強かった。しかも外国の「文学」だ。外国の匂いが緻密に張りめぐらされている。「外国文学」のなかで完結している、といえばいいのか。
 今回の『素晴らしい低空飛行』は、趣がかなり異なる。とくに前半の「日記」というか、日々の報告のような作品は、いままでの阿部の緊密な文体の印象からはかなりかけはなれている。「文学」というより「生活」を題材にしている。
 しかし、「文学」を「ことば」と置き換えれば、以前の通りとも言える。「緊密」の度合いがかわった。しかし「ことば」と「ことば」の「距離」を常に一定に保つ、その「一体の距離感」を「世界の構造」にするという点では同じだ。それまでの「文学」の舞台が「欧羅巴(と、私はあえて漢字で書いておく)」だったのに対し、今度の詩集では舞台が「あじあ・おせあにあ」(こちらは、あえてひらがなで書いておく)だから、「緊密度」も自然と変わってくるのである。「湿度」と「温度」が人と人の距離を変えるように、ことばとことばの距離を変えるのだろう。そういう「処理」をきちんとしている、という点では、阿部のことばはあいかわらず「文学」そのものである。

 その「日記風」の作品群の前に「詩・イカ・潜水夫」という奇妙な詩がある。こういう文体である。

あなたの詩が俺にとって何かと言えば……。焼津に来てから
俺には猫ジンクスというのがあって、三鷹で捨ててきた五匹
の猫と俺には天から割り当てられた食糧が決まっていて、俺
が肉を食べてしまうとそれだけ猫たちの取り分が減るような
気がしています。ここにはイカ料理がいろいろあるので、肉
類はできるだけ(一人のときは絶対に)避けて、なるべくイ
カを注文するようにしています。猫はイカを食べると腰が抜
けるから与えてはいけないと聞いたことがあるし、俺が食べ
れば猫たちが生ゴミの中からイカを見つける確率が下がるん
じゃないかと思うので。

 だらだらとしたことば(論理)である。焼津、三鷹という土地の「距離感」がそのまま「俺」と「現実(猫/イカ)」の距離感になったような……つまり、いったいそれがどうしたのだ、あんたの「意味(ジンクス)」なんか、私(読者)には関係ねえぞ、と言ってしまいたくなる「ゆるさ」である。もっとも、これはこれまでの阿部の文体を知っているから感じることなのかもしれないが。
 そう感じる一方で。

猫はイカを食べると腰が抜けるから与えてはいけないと聞いたことがあるし、

 この一文で、私は、ふっと立ち止まる。「文学全集のことば」ではなく「俗説(暮らしのなかの俗語?)」が入ってくるところが「ゆるい」といえばゆるいのだが、「聞いたことがある」というひとことが、あ、ここだな、ここに阿部節(阿部語)の痕跡があるぞ、と思うのだ。
 「文学」のように、すでにあることば(既存のことば)を利用して、ことばそのものをととのえる。「文学」をつらぬく何かと同じように、巷で語られることばには「巷のことば」をつらぬく何かがある。それはあらゆることばをつらぬく「何か」でもあるだろう。
 その「何か」とは「何か」。
 それを探して、詩集のことば展開する。

 前半は「さまよう娘たち」というタイトルでくくられている。「娘たち」と書かれているのだから、それぞれの「日記」に出てくる「女性」はひとりではなく「複数」かもしれないし、ひとりであるけれどその日その日で別の人格をもつということがあるので「複数」として表現できる、だからほんとうは「ひとり」と考えることもできる。
 書かれていることは、行く土地土地で違う男と出会い、わかれる、ということである。これは「娘」を「ひとり」と仮定したときのこと。「娘」が複数なら、それぞれの土地で男と出会うというよりも、その土地でたまたま男と出会うということになる。しかし、出会いによって「人」は変わると言えるから、出会いによって「ひとりの娘」が「複数の娘」になったと言いなおすこともできる。
 そういう繰り返しの結果、どうなるか。「ジョグジャ再訪」に、こういう部分がある。

 いつだったか、漁師街の詩を送ってくださったことがありましたね。狭い路地
には両側から庇が差し掛かり、濃い影を落としている。破れ塀や低い生け垣のう
しろに、あちこち傷んだ不揃いな家が並び、家と家との隙間からは砂浜が見えて
いる。何度も折れ曲がった先に、とつぜん視界が開けて海が見える空き地がある
ことを知りつつ(それとも「予感して」でしたっけ?)〈わたし〉は歩いている
……そんな詩でした。

 この〈わたし〉は、最初に引用した詩の「俺」かもしれないが、「娘」が「複数」なら「俺/わたし」も複数であり、また「ひとり」だろうから、それはどうでもいい。私が注目したのは、

ことを知りつつ(それとも「予感して」でしたっけ?)

 という部分だ。詩の「要約」なのだから「知りつつ」であろうが「予感して」であろうが、「大差」がないように思うかもしれない。しかし、そのどうでもいいような「細部」こそが、この詩を書いている「娘」には重要なのだ。「知る」と「予感する」はまったく違うことだが、一方で「知りつつ」だったか「予感して」だったか混同するくらいだから、区別がないと言えばないのだ。「意識」が動いていると言うことでは同じなのだ。
 たぶん、こういうことなのだ。
 何を書こうが、さらにどう書こうが、そこに書かれている「こと」は詩にとって重要ではない。文学にとって重要ではない。重要なのは「意識」が動いていること。ことばは意識を動かしている、ということなのだ。そしてそれはタイトルの「再訪」が示しているように「再び」くりかえすことで明確になる。「文学(ことば)」は繰り返されることで「ことば(文学)」になる。
 「詩・イカ・潜水夫」の後半。「俺」はイカや他の魚を食いながら、

ふっともの悲しい気分におそわれる……そういうときに思い
出すのが、あなたの詩、というより、あなたの詩を読んだあ
との余韻のようなものです。そして、いくらなんでももっと
別の読まれ方があろうとは思うけれども、イカを喰いながら
あなたの詩を想う奴がいてもいい、あなたの詩の深度を「イ
カの対極」とか「イカより遥か彼方に」とか「イカと同じく
らい孤独」とか、さまざまに測量する潜水夫がいて、海面を
ぴしゃりと打って躍り上がるボラみたいに、焼津港から気ま
ぐれな合図を送っていることを、あなたはあんがい面白がっ
てくれるかもしれない……と、最近になって考えています。

 「再び(繰り返す)」は、「思い出す」ということばのかに静かに隠れている。
 ことばはことばを思い出す。ことばはことばに触れて動く。そのときの動きは、ことばを発したものが意図したものとは違うかもしれない。違っていてもかまわない。ことばが動くとき、そこに詩がある。それだけが「事実」なのだ。




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