詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫書き下ろし詩集「野垂れ梅雨」十八編

2020-08-26 14:37:34 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書き下ろし詩集「野垂れ梅雨」十八編(「博物誌」48、2020年08月20日発行)

 山本育夫書き下ろし詩集「野垂れ梅雨」十八編。「野垂れ」ということばは、私は「野垂れ死に」くらいしか知らない。「野垂れ梅雨」ということばが一般的なものか、山本の造語か、それは考えないことにする。
 「02なあ、塩島」という作品。

しばらくの間合いだ
沈黙が話しかけてくる
耳を傾け
気持ちも傾けてみる
世界がこちらに傾いてくる
ランチタイムにもどってきた
喧騒
傾いた体で
午後の仕事に入るのは嫌だな
塩島のグチが

 ここまでが右のページ。左のページに

いまごろゆっくり
ここまで届く
こきまま仕事も傾けて
世界も傾けてしまおうか
なあ、塩島

 これは、二連目なのか。一連目と二連目の間に空いている「空白」は何行分なのか。よくわかならない。右のページと左のページが「対話」しているのか。
 そういうことを「保留」したまま、私は、詩を読み直す。
 一行目の「間合い」が不思議なことばだ。何の「間合い」? わからない。そのわからない「間合い」を山本は次々に言い直す。これは、私は「間合い」をわからないまま、それを意識しながら、次に現れてくることばへ向かって意識をひきずっていくということでもある。
 「沈黙が話しかけてくる」。詩だね。山本が最果の詩について語るときつかっていたことばを借りると、ここには詩がぷんぷん匂っている。「沈黙」と「話しかける」という相反するものが結びついている。手術台の上のこうもり傘とミシンのように。その強い匂いにそっぽを向け、私は別のことを考える。
 「間合い」は話と話の「間合い」、つまり「沈黙」のことか。意外と「論理的」な言い直しである。そのあとの「耳を傾け」も「話」に耳を傾け、同時に「沈黙」に耳を傾け、と論理的。これをさらに「気持ちも傾け」ると言い直す。なるほどね。たたみかけるリズムに、無理がない。そうすると何が起きるか。「世界がこちらに傾いてくる」。いいねえ。この感じ。これを「間合い」というかもしれない。自分が耳を傾ける、気持ちを傾ける、当然からだ(肉体)も傾いている。それにあわせにように、世界がからだを傾けてくる。これはもちろん比喩だが、「傾ける」という運動がすべてを統一する。気持ちがよくなる。
 「傾ける/傾く」という動詞のなかに、詩が動き始めている。「傾ける/傾く」という動詞が、世界を「分節/分化」し始めている。
 でも、これは「仕事中」のこと? 仕事とは、何かとの対話。何を造るしろ、それは機械(道具)、素材との対話ということができる。道具(機械)とも素材とも対話しながら何か新しいものをつくっていく。(詩の場合、「道具/機械」が「ことば」で「素材」は「できごと/書かれる対象」かもしれない。)
 それからランチタイム。対話が中断し、「喧騒」が塩島と山本をつつむ。対話とは無関係な喧騒のなかへ、仕事で傾いた肉体のまま塩島は戻ってきたのだが、ランチタイムでその「傾き」が修整される。この修整を、山本は「傾いた体」と逆に言っている。
 ここがいちばんのポイントだね。
 ここから、もう一度、午前中の「傾き」のなかへ入っていくのはつらい。こんなことなら、ランチタイム抜きに、そのまま「傾き」で一日を終わればよかったのに。まあ、そんなことはできないから、人間は悲しいんだけれどね。
 さて、どうする?

 左ページ。まるで、独立しているように、離れている。
 「いまごろゆっくりと」の「いまごろ」が、この詩のもう一つのポイントだね。塩島は、それまでも同じように仕事に体を(気持ちを)傾けてきただろう。そして、ランチタイムの休憩を挟んで、また午後の仕事に戻っていく。体を(気持ちを)傾けなおす。
 その「傾き」のことを、山本は「いまごろ」気づいたのである。「ゆっくりと」は「遅れて」を「いま」実感したままことばにしたものだろう。「ここまで届く」の「ここ」は山本の肉体のことである。
 いま、塩島の「体」はランチタイムのあとなので「傾いていない」。まっすぐである。でも、仕事(世界)は塩島が「傾く」のを待っている。嫌だねえ。いっそうのこと、仕事の「傾き」を修整する、まっすぐにする。つまり、やめてしまおうか、世界もまっすぐにつったままにしておけばいい。
 この対話はいいなあ。
 もちろん、そんなことは「仕事」だからできないのだけれど、そういうことができればいいね。
 気があったら、互いにことばを、肉体を傾けあい、一つのことをする。仕事をする。世界をつくる。でも、ときどき休んで、みんなが何もしないで突っ立っている。そういう瞬間も楽しいんじゃないだろうか。
 「しばらくの間」でいいのだけれど。







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「新」ということばの嘘

2020-08-26 08:49:04 | 自民党憲法改正草案を読む
「新」ということばの嘘
   自民党憲法改正草案を読む/番外381(情報の読み方)

 2020年08月26日の読売新聞(西部版14版)。1面の肩に「コロナ 新たな日常」という連載の2回目が載っている。25日から始まったものだ。(きのうは事情があり、書く時間がなかった。)2回目は「客席のないレストラン」(宅配専門料理店)を紹介している。
 これをはたして「新たな」日常と呼んでいいのか。「新しい」とは何なのか。
 こんなことを「定義」しようとするとややこしくなるので、簡単に「事実」を見ていこう。
 「新しい」ということばを安倍が最初につかったのはいつか。私の記憶では2016年の参院選の前である。消費税の10%引き上げを再延期する、その是非をめぐり国民の判断を仰ぐための参院選挙、と言った。このとき、安倍は、

「これまでのお約束とは異なる、新しい判断だ」

 と言った。
 私が記憶しているかぎり、これが最初だ。友人と、「今年の流行語対象は、これだね」と言った記憶がある。
 サミットの総括では、奇妙なグラフを突然提示して、「リーマンショックのときに匹敵する危険レベル」と言ったと思う。サミットではリーマンショックというようなことばは出なかったはずだ。つまり、嘘をつくときに「新しい」ということばをつかったのだ。「これまでのお約束とは異なる」という「猫なで声」でごまかしながら。
 このことばをジャーナリズムは徹底批判しなかった。「新しい判断」と言えば、それまでの公約は全部反故にできるということを追認してしまった。
 そして、その「新しい判断」を掲げた参院選は自民党の大勝利に終わった。これに味をしめて、その後の「新しい」ラッシュがある。何か困ったときは「新しい」を掲げて、状況をごまかすのである。その頂点ともいうべきものがコロナ時代の「新しい生活様式/新たな日常」である。
 昔なら、こういうとき、どういうことばをつかったか。
 「苦渋の決断」「苦肉の作戦」というように「苦しい」という漢字を含むことばつかって表現した。
 「これまでのお約束とは異なることをするのは、苦渋の思いである。しかし、そうせざるを得ない。苦渋の決断だ」と自分の立場を説明し納得してもらう。「苦しさ」を訴え、同情をかう、というのがこれまでの人間の行動だった。「新しい判断だ」というような、「大発明/大発見」につながるようなことばではごまかさない。「私はあたらしいことを思いついた、天才だ」というような宣伝の仕方はしない。
 レストランはお客さんあっての商売。つくったものを食べてもらい、喜んでもらう。その反応を確かめながら新たな料理に取り組む。それがシェフというものだろう。客が大勢はいるとコロナ感染の原因になるかもしれないから、客席なし、料理するだけ、というのは「苦肉の作戦」である。
 安倍の言っている「新しい」を「苦しい」と言い直し、現実を見つめるべきである。ジャーナリズムは、政府(権力)の差し出してくる「新しいことば」をただ宣伝するのではなく、その「新しいことば」がほんとうに「新しい」何かを示しているのか。それとも「嘘」を含んでいるのかを点検し、報道しないといけない。
 「新しいスタイル」がほんとうに「苦痛」を伴わないのか。
 たとえばリモートワーク、リモート学習。会社や学校現場ではどういうことが起きているか。「自宅で仕事ができる、通勤しなくてすむから楽になった」だけか。学生は、せっかく大学に合格したのに対面授業が受けられない、友人ができないと苦痛を漏らしていないか。さらにバイトができなくなり、学費が稼げなくなったと言っていないか。
 「新しい」ということばの影に「苦しい」がいくつもかくされている。それを拾い上げずに「新しい」「新しい」と「新しい」だけを強調してどうするのだ。

 「ことば」の点検を忘れてしまったジャーナリズムはジャーナリズムではない。単なる「宣伝」である。

 ついでに書いておけば。
 いま、安倍の「体調」がジャーナリズムをにぎわしている。そして、その「にぎわし」のなかに「安倍はかわいそうだ」というものがある。安倍は「苦しい」、苦しんでいる。そこでは「新しい」は反故にされ、「苦しい」が前面に押し出されている。病気のひとを批判するな。同情しろ。
 たしかに病気のひとを批判することには問題がある。
 しかし、こう考えよう。それでは昔のひと(権力者)はどうしたのか。自分に病気があるとき、国民に同情してくれ、と訴えたのか。
 そうではなくて「途中でやめてしまうのは苦渋の決断だが、新しいひとにこれからの世界をリードしてもらいたい」というような形で引退したのではないのか。
 病気だから「これまでの感情(批判)」をやめよう。みんなから「新しい感情(同情)」で安倍を支えようというのでは、どうも、おかしいと言わざるを得ない。
 「新しい」に出会ったら「これまで」はどうだったのか、それをしっかり確かめてみる。ことばにしてみる、ということが必要なのだ。


*

「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 



*

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山本育夫「つづれ織り『詩の遠近法』」

2020-08-25 21:36:58 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫「つづれ織り『詩の遠近法』」(「博物誌」48、2020年08月20日発行)

 山本育夫「つづれ織り『詩の遠近法』」には「最果タヒさんの詩を読んでみた2」というサブタイトルがついている。最果の詩をどう読んだか。批評か、感想か。最果の詩を読んで山本がことばを動かしている。
 山本が読んだのは「本棚」である。「文節」ごとに読み進んでいる。そして、「悲劇を読んで、」ということばにつづく次の「文節」、

読んで強くなったり悲しくなったりするその悲劇の主人公の本棚に、

 ということばについて、こういうことを書いてる。

 悲劇の本を読んで、その本の中で強くなったり悲しくなったりする悲劇の主人公、の、本棚、に、と読めるけれど、本の中の主人公の本棚、なんてわかるのだろうか。その本の中にそういうくだりが登場しているのだろうか。

 私はびっくりした。まさかこんなふうに読むとは思わなかったのである。もちろん詩は(小説でもいいが)、どのことばをどう読むかは読者の勝手。作者にも口を挟む権利はないし、ましてやほかの読者が(つまり私が)、山本の読み方おかしいよ、という権利はない。しかし、私は、思わず「あっ」と叫んだ。「まさか、」とびっくりした。
 「本棚」を、山本は「本棚」と読んでいる。あたりまえのことなのかもしれないが、私が山本なら(この言い方はかなり強引だが)、この「本棚」は「本棚」ではない。「ことば」である。
 そして「ことば」は、最近山本が書いている詩の「テーマ」である。
 だから、びっくりした。
 というか、私はほとんど「山本」になって山本の書いた文章を読んでいるので、ここで「本棚」を「本棚」そのものとして受け止めるのはどうして? と、びっくりしたのである。いつも山本が詩に書いている「ことば」に置き換えれば、それはそのまま山本の詩になるじゃないか、と思ったのである。
 なんだか変なことを書いているようだが……。言い直すと、この「本棚」を「本棚」と読むのが、ほかのひと、たとえば今号の「博物誌」に書いている田野倉の感想なら、そんなに驚かない。山本が書いているから驚いたのである。

 別な言い方をしてみよう。山本は「書き下ろし詩集『野垂れ梅雨』十八編」を書いている。その最初の詩。

01音色(ねいろ)

放っておけばいい
その辺りに
背後に彩られた物言いなど
そのまま滑り落ちていけばいい
バイク修繕屋のこじんまりした空間に
押し込められた密接なことば
くっつきあって淀んでいる
店先の油に染みた土や布切れ
その臭い

遠くから帰ってきた若い呼気たちが
満ち満ちた明け方
バイク音はしばらくの間
そこら辺を漂っていて
その寂しく激した音色はどこか
永遠に描かれている

 この詩のなかの「ことば」は、最果の書いている「本棚」とどれくらい違うのか。私は同じものに見えてしまう。
 だから、驚いたのである。
 山本の書いている「ことば」は正確に言い直そうとすると、とてもむずかしい。あれやこれや。語られたけれど、「要約」からこぼれおちている何かである。山本はそれをまず「物言い」と言っているが、まあ、語り口である。また「呼気」というものであり、「寂しく激した音色」と言い直されているものが「ことば」だろう。
 「ことば」は意味を伝えるが、同時に「意味」にはなりきれない、めんどうくさいものをまとっているのが「ことば」である。私はこういう意味になりきれていない「ことば」を「無意味」ととらえている。「意味」が分節されていない(あるいは、未分化の状態にある)、つまり「無」である、ということを指して「無意味」というのだが。
 山本はそれを、たとえば「物言い」と書き、最果は「本棚」と書いたのだと思う。
 「物言い」が「呼気」「音色」というものにつぎつぎに姿をかえていくとしたら、「本棚」はそういう様々に姿をかえたことばの「集合体」(未分化/融合してくっついている)ものである。そのなかから、ひとはときに応じてなにごとかを「分化/分節」する。その「分化/分節」が「読んで強くなったり悲しくなったりする」ということだろうと思っている。何になるか、わからないのだ。山本の表現を借りて言えば「ことば」が「物言い」になるか「呼気」になるか「音色」になるかわからないように、最果の「本棚」はひとを「強くする」か「悲しくする」かわからないが、「分化/分節」の前の「感情のかたまった宝庫」なのである。山本は「わかるのだろうか」と疑問を投げかけているが、「わからない」存在が「ことば(山本)」であり、「本棚(最果)」なのだろう。

 さて。

 私は「分節」と書く。山本は「文節」と書いていた。「音」にすると同じだが、「意味(指し示す世界)が違う。ここが、私と山本の「読み方」の違いなのだが、こんなことは書き続けるとややこしくなるので、「分節/文節」とは別のことから、私と山本の違いを書いておこう。

だれのことも覚えていないけれど、
必ず需要はあるはずよ、
わたしが生きているのはどうしてかってわざわざ聞いてくるひとはいないから安心している、
本当はだれもが気になっているはずなのに。

 この部分について、山本は「詩の匂いがまったく感じられない」と書いている。けれど、私は「だれのことも覚えていない」に詩を感じる。「覚えていない」は「わからなくなった」でもあり、私にとっては「未分節/未分化」の状態に還元されることである。
 それはまた、詩の書き出しの、

階段だったかドミノだったかわからないものをまだ上り続けて、

 の「わからない」に通じる。「わからない」けれど「階段」「ドミノ」と仮に「分節/分化」できる。「ことば」を「物言い」「「呼気」「音色」と「分節/分化」できるように。あるいは、それに「くっつきあって淀んでいる」や「油に染みた土や布切れ/その臭い」に「分節/分化」できるように。
 「分節/分化」への動きを感じるけれど、「分節/分化」できないもの。それが私にとって詩ということになるのかもしれない。

 でも、こういうことは、ある「文脈」のなかでだけ言えることで、別の文脈の中では逆の言い方しかできなくなるだろうと思う。
 だからこそ、私はいつも、前に書いた「結論」を破るようにして(叩き壊すようにして)、新しく書き始めるだけ、とつけくわえておく。









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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(97)

2020-08-25 12:29:06 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (何の傍らだからぼくはじつとしていられるのか)

一つの声で
次ぎの用途でことがはこばれている

 「一つの声で」と「次ぎの用途で」は同じ意味だろうか。「一つの声」を「次ぎの用途」と言い直したのだろうか。
 私は、それにつづく「こと」を「ことば」と読み間違え、しばらく考え込んだ。
 おもしろいと思ったのだ。
 具体的な「ことがら(用途)」ではなく、ただ「ことば」だけが運ばれていく。そういう世界があってもいい。
 動いているのは「ことば」だけ。そして、「ことば」とは「認識」のことである。「認識」が確実にあれば、「ぼくはじつとしていられる」と、私は読みたがっていると、私は気づいた。




*

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破棄された詩のための注釈13

2020-08-25 08:59:52 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈13
                         谷内修三2020年08月25日

 いかがわしい俗語を発した瞬間、顔つきが変わった。美しくなった。自覚しているのか、振り返りぎわに視線を流してきた。真昼の光よりも強いものがあった。
 そうなのか。そうかもしれない。

 美は、唐突に現れる抽象ではない。具体に潜む瞬間的な絶対である。ことばにすることは不可能である。

 そうなのか。そうではないかもしれない。

 耳の奥に、遠い山の中を流れる川の音がした。裸で泳いだ、あの夏。巨大な石の上に座って、私は何を振り返ったのだったか。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(96)

2020-08-24 12:46:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ある一日)

消えたランプを持つて 目的地を失い ぼく自身を失い
それでもぼくは砂地を急ぐ どこまでも

 このとき「消えたランプ」こそが「目的地」であり「ぼく」というものだろう。いや「持つ」という動詞が「目的地」であり「ぼく」と言った方がいい。
 「動詞」を失うことができない。それが人間だ。
 だから「急ぐ」という運動も「目的地」「ぼく」と言い換えることができる。
 「消えたランプ」や「砂地」は青春が呼び寄せる「抒情」である。

 この姿は、他人から見ても「不可解」である。なぜ消えたランプを「持つ」のか、なぜ「急ぐ」のか。「ぼく」にも「不可解」であるが、「不可解」は「ぼく」を動かす力なのである。「不可解」(わからない)が「ある」ことを確認するのが「詩」である。


*

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読売新聞の嘘とほんとう

2020-08-24 08:53:14 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞の嘘とほんとう
   自民党憲法改正草案を読む/番外381(情報の読み方)

 2020年08月24日の読売新聞(西部版14版)が「連続在職最長政権(政策点検)」という記事を1面、4面で展開している。
 1面の見出しは、

アベノミクス コロナで失速

 記事中には、こういう文章もある。

 公明党の山口代表は(略)「アベノミクスが政権最大の成果だ。日本経済を立て直した。でも、こうなった。正直、かわいそうである」

 首相がかわいそうか。国民はどうでもいいのか。
 だいたい、アベノミクスは本当に成功したのか。
 4面の見出し。

幻の「戦後最長景気」/3本の矢 成果は限定的

 記事中に、2012年の安倍返り咲きと同時に始まった景気回復が戦後最長のいざなみ景気(73か月)の記録を更新した、と政府が19年1月に発表した、とある。
 しかし、これは嘘だった。
 記事は、こう書いている。

 今年7月、(略)内閣府の「景気動向指数研究会」(略)が、実際には18年10月に景気は景気後退に転じていたとの判断を下した。アベノミクスによる「戦後最長景気」は、幻だった。

 注目しないといけないのは、2点。
 ①安倍が「戦後最長景気」と発表したのが「19年1月」と、「景気後退」の判断できる時期が「18年10月」という点。時差が「3か月」ある。「景気動向」はいろいろな発表があるが、毎月の他に「4半期」という単位がある。「3か月」ごと。「3か月」もあれば、かなり「傾向」がはっきりする。「18年10月」から「19年1月」までちょうど「3か月」。この段階で「戦後最長ではなくなっている」ということは専門家ならだれでもわかっていることだろう。経済ジャーナリストなら、それなりに資料をもっているから、それを分析すれば、「戦後最長ではない」と判断できただろう。しかし、そういうことは読売新聞をはじめ、マスコミは書かなかった。もちろん安倍もわかっているはずである。それなのに、安倍は嘘をついたのだ。


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つづきは、下のリンク先へ。
https://note.com/yachi_shuso1953/n/n8068f51f407b

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 ②「景気動向指数研究会」の「18年10月に景気は後退に転じていた」と発表した時期も問題だ。「今年の7月」。7月に何があったか。コロナ感染が拡大し、景気が悪くなっていることがだれにでもわかる状態だった。安倍は、もう嘘をつけない。そして、この「嘘をつけない」という状況を利用して、実は景気後退は「18年10月に始まっていた」と本当のことを言ったのだ。7月の状況は、「景気後退がいつ始まったか」を判断するというようなのんびりしたものではない。だれもが苦しんでいた。つまり、「景気後退の時期をどうこう問題にするよりも、いま、これからどうするか、それを決めてくれ」という状態だった。どさくさにまぎれて、「実は嘘をついていました」と言ったにすぎない。そして、どさくさに追われて、ジャーナリズムも安倍の嘘を追及することを忘れてしまった。
 これは言い換えれば、安倍は「コロナ拡大」問題を利用して、アベノミクスの失敗をかくした、ということである。「戦後最長景気」は「幻」ではなく「大嘘」だったのに、「嘘つき」と追及されることをさけるために、コロナ不安の最中に、「判断が間違っていました」と言ってごまかしたのだ。その「ごまかし」にジャーナリズムは乗ってしまっている。
 「嘘」を「幻」と言い換える読売新聞の手口は、安倍の情報操作を後押しするものである。「幻」は「錯覚(現実誤認)」と言い換えることができるが、「嘘」は「現実誤認」ではなく「情報操作」である。
 安倍は「大嘘」をついた。この段階で、国民はすでに被害を受けている。それなのに、山口は安倍のことを「かわいそう」と呼んでいる。国民がかわいそうとは思わないらしい。

 どんな「情報」でも最後まで読んで、それが本当かどうか判断するひとは意外に少ない。たいてい最初の方に納得できることが書いてあれば、それで満足する。新聞は特に、最初に大事なことを書く、あとは付け足しというのが記事スタイル(見出しスタイル)なので、とっかかりが大事だ。
 
アベノミクス コロナで失速/安倍がかわいそう

 ということばを最初に読めば、多くの読者は、そう思い込んでしまうかもしれない。しかし、コロナの前にアベノミクスは失速していた(失敗していた)のである。経済が失速しているときこそ、経済対策が重要である。経済活動を阻害する要因とどう立ち向かうかが重要である。
 コロナ対策は、何よりも緊急の対策だったのだ。
 しかし、安倍は何をしたか。使い物にならないマスクを配っただけである。感染を拡大する「GOTOキャンペーン」を推し進めただけである。

不景気にコロナ拡大/安倍政策完全失敗

 この視点から、安倍政権がやってきたことを見直さないといけない。安倍を「よいしょ」するために、どういう書き方ができるか、というようなところに「知恵」(忖度)を傾けるべきではない。
 もっと根本から見つめなおさないといけない。アベノミクスの「嘘の経済成長」を支えたのは、「派遣」や「海外研修生」のような、「低賃金非正規雇用者」である。賃金をおさえることで企業の収益を確保した。法人税も優遇した。その結果、国民は自分の生活を安定させることができなかった。もしひとりひとりが充分な賃金を得ており(所得税が増えておれば/国庫が豊かであれば)、さらに貯蓄もできていれば、コロナ発生時に思い切った対策に、国も個人も耐えることができただろう。国民はある程度我慢できただろう。それができない状況は、いつから、どうして生まれたのか。ジャーナリズムは、そのことをこそ追及しないといけないのではないのか。

 


*****************************************************************(8月末までは、このページでも読むことができます。)

つづきは、下のリンク先へ。
https://note.com/yachi_shuso1953/n/n8068f51f407b

*****************************************************************(つづきは、以下に。)


幹事長続投・次期首相

 という路線が、ふたりの「思惑」であるだけではなく、その「路線」を読売新聞が支持しているということだろう。支持とまでは明確に言えなくても、すくなくとも「麻生首相」には反対しているのだろう。麻生がこの記事に対して、どう反応するか、それを確かめるために書いた「アドバルーン(観測気球)」なのだろう。そうでなければ、

 9月に想定される内閣改造・党役員人事を前にした両氏の緊密ぶりに、党内からは「二階氏の幹事長続投に向けた地ならし」(中堅)との見方がある。一方、菅氏を次期首相に推す声も根強く、「ポスト安倍レースに向け、二階氏と手を組もうという動きではないか」(党関係者)との臆測も呼んでいる。

 とまでは、書かないだろう。「ふたりの思惑」を超えて、「自民党の思惑」を固めようとしている。
 と考えれば考えるほど、「評論家」が気になる。こんな「欲」がからんだだけの「会合」に同席するというのは、いったい、だれなんだろうか。
 読売新聞の記事は明らかにしていない。しかし、「評論家」と書くだけで、政治家周辺にはすべてがわかるのだろう。すべてをわからせるために「評論家」が同席したということは、記事に残したのだろう。





*

「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(95)

2020-08-23 22:32:23 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (中間のあらしには少しの隙間もない)

おなじ夏のつづきのように ある意味 ある頂点 そして ひたひたと
どこまでもひろがつている

 「中間のあらし」とは何だろうか。
 私には「あらし」と「あらし」の中間、一休みしている「あらし」ではないかと思えてくる。
 予感だけが、そこにある。予感としての「あらし」。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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Estoy loco por espana(番外篇85)Joaquin Llorens Santa

2020-08-23 15:32:05 | estoy loco por espana


Drago’n espan’ol?
La cabeza cambia segu’n el a’ngulo de visio’n.
Al contrario, lo prueba la existencia absoluta del drago’n.
Tambie’n es interesante que el espacio en el que lo sostiene el drago’n se ve diferente segu’n la posicio’n de visio’n.
Cuando un pa’jaro vuela en la distancia, se ve diferente.
Por la noche, muestra una mirada diferente.

Tengo muchas ganas de verlo alli’.

スペインの龍か。
見る角度によって頭が変わる。
そのことが逆に、龍の絶対的な存在を証明する。見る位置によって、龍がかかえこむ空間が違って見えるのもおもしろい。
遠くに鳥が飛ぶとき、また違って見える。
夜には、また違った表情を見せる。

実際に、その場所で見てみたい。



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太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★)

2020-08-23 12:10:07 | 映画
太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★)

監督 太田隆文

 「ドキュメンタリー」というよりは「インタビュー」。沖縄戦を生き残った人たちの証言と、当時の記録フィルムを合体した作品。
 この証言から、私はふたつのことを学んだ。
 ひとつは、沖縄は「日本本土」の「捨て石」にされた。「防波堤」というよりも、時間稼ぎの「捨て石」。沖縄を守ろうという気持ちは日本軍には少しもなかった。
 その視点(沖縄はどうなってもかまわない、日本本土さえ守れればいい)は、そのまま現在の政権に引き継がれている。
 さらに、この「沖縄捨て石(沖縄防波堤)」の考えは、いまはアメリカと共有されている。当時アメリカが沖縄を拠点にして日本を攻撃しようとしたように、いまは沖縄を中国や北朝鮮を監視する拠点にしている。もちろん、いざというときは「捨て石」の戦場にするつもりでいる。沖縄を戦場にしているかぎり、アメリカ本土への攻撃は遅れる。
 ここには沖縄県民(民族、歴史、文化)への蔑視が潜んでいる。同等の人間とは見ていない。
 これは、私がこの映画から学んだ、もう一つのことへとつながる。
 同等の人間と見ない、というのは、一方的な「人間観」を押しつける教育になる。「理想の日本人」を育てる、という教育につながる。それは簡単に言い直せば「洗脳教育」である。
 天皇を絶対視する。ことばを強制的に統一する。(これは、沖縄だけではなく、朝鮮半島でも行われたことである。ほかの国に対しても行われたことである。)この「ことばの統一」は単に「共通語/強制的に使用させる」というだけではない。
 ことばは、どこの国にとっても(そこにすむひとにとっての)、思想の到達点である。ことばをとおしてしか、私たちは考えられない。ことばを奪われることは考えることを奪われること、批判する力を奪われることである。
 それに関して、非常に興味深いエピソードが紹介されている。濠に避難し、「集団自決/日本軍による強制死」を迫られたとき、アメリカに住んだことのあるひとが濠から出てアメリカ軍と交渉する。アメリカ軍が、住民に「殺さないから出てこい」と呼びかけたことからはじまる交渉だが、彼は、アメリカ軍と交渉する。その結果、その濠に避難していたひとたちは全員助かる。別の濠に避難していたひとの多くは「強制死」の犠牲になる。
 かれは、なぜ、交渉ができたのか。英語が話せる、というだけの理由ではない。他人のことばを聞き、それが真実であるかどうかを自分で考えることができたからだ。どちらの考え方が正しいか、自分で判断できたからだ。こういう考えが育つためには、人間はいろいろな意見を持っているということをまず知らないといけない。そのうえで、自分に何ができるか、どうすれば生きられるかを考える必要がある。そのとき、必然的に「批判」というものが生まれてくる。
 もうひとつ、これに関連して。
 「強制死/集団自決」が手榴弾をつかって、はじまる。しかし、不発弾が多くて、なかなかうまくいかない。そうこうするうちに、一人の母親が「どうせ死ぬにしろ、いまここで死ぬ必要はない。生きられるだけ生きよう、逃げよう」と子どもたちをつれ、「強制死」の現場を脱出する。母親の「本能」といえば本能なのかもしれないが、ここでも力を発揮しているのは、自分で考えること。そして、自分のことばで語ること。母親は自分のことばで、こどもたちを説得したのだ。
 「教育」と「洗脳」は、かなり似通ったところがある。そしてそれはいつでも「ことば」の強制と同時にはじまる。
 ここから、私はこんなことを考える。映画からかなり離れるが、考えたことを書いておく。
 いま、「国語教育」の現場で「文学」が排除され、「論理国語(?)」というものが幅を利かせようとし始めている。社会に流通している「文書」を正確に読み取り、ひととの交渉をスムーズにする、ということが目的らしい。
 だが、人間の「交渉」にはいつも「論理」以外に「感情」もまとわりついてくる。そのまとわりつき方は微妙で、正確に把握するのはむずかしいが、ともかく「感情」にひとは直面する。その「感情」というか、「思い悩み」(ことばにしにくいあれこれ)をことばをとおして学ぶのが「文学」である。「文学」はたしかに「契約書」の内容を正確に把握するには効力を発揮しないかもしれないが、意外な力を発揮することもあるはずだ。「このことばは、どういう意味だろう」だけではなく、「なぜ、いまここで、こんなことばをつかっているのだろう」と疑問を抱く。そこから「契約書」の秘密(隠しておきたいこと)が見えてくることもある。様々なことばを知り、それについて自分で考える力を身につけることは、どんなときでも必要であり、それは「実用以外のことば」に触れることでしか身につかない。
 だから、こんなことも考える。ジャーナリズムには、いつでも「権力からリークされた新しいことば」があふれかえる。「新しいことば」を知っていること、それをつかいこなせることが「正しい」ことのように書かれている。しかし、「新しいことば」は不都合な何かを隠すために考え出されたものであることの方が多い。いままでつかっていたことばでは間に合わない。そのとき、国民をだますために「新しいことば」がつくりだされる。「おまえはこの新しいことばを知らないのか。知らない人間が何を言うか。黙って、新しいことばをつかうひとの言うことを聞け」。こういうことが平然と行われる。
 最近では「新しい生活様式/3密回避」というのがある。どこが新しいのか。不便なだけだろう。大勢が集まり、大声で議論し、より親密な関係をつくりだしていく。これは「民主主義」の理想ではなかったのか。だれもが自分の意見を言う。意見を聞いて、はじめてその人の生きている現実がわかる。現実をどうかえていけば、みんなが幸福になれるか。それを考えるのが「民主主義」である。その、人間の基本的な生き方を否定するのが「新しい生活様式/3密回避」である。ひとは権力によって「分断」される。情報(ことば)は、権力が一方的におしつける。それが「正しい」かどうか、いろいろな立場で検証してみないとわからない。様々なひとが「自分の立場」を自己主張し、その自己主張に耳を傾けないと、「政府情報」が「正しい」かどうかわからない。安倍政権がやろうとしているのは、この「国民には何が起きているのかわからない」という状況をつくりだして、一方的に支配力をつよめるということである。
 「PCR検査をしない」「GOTOキャンペーンは経済を救う」。そこには「情報操作」が行われている。「情報」とは「ことば」である。限られたことば、政権にとってつごうのいいことばだけがジャーナリズムをとおして、強制的に流通させられている。
 もっと手の込んだ「情報リーク」というものもある。新聞の片隅をつつくと、そういうものがどんどん出てくる。
 どんなことでも、自分のことばで言い直す、ということが必要なのだ。もちろん、個人が知っていることは限界がある。だから、間違える。しかし、この「間違い」が必要なのだ。「間違い」つづけるかぎり、「政権の言いなり」にはならない。「洗脳」されることはない。「間違い」は時間をかけて、日々の暮らしのなかで、ひとつずつ正していけばいい。いずれ、「正しい」に出会う。それまでは、自分のことばを動かしつづけるだけである。
 この映画には、「自分のことば」で語りつづけるひとが次々に出てくる。そして、絶対に「自分のことば」以外では語らないを、決意している。ことばの強さが、この映画を支えている。そういう意味でも、この映画は「ドキュメンタリー」ではなく「インタビュー」であることをもっと強調してもいいのではないのか。
                 (中洲大洋スクリーン3、2020年08月20日)
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池田清子「えっ」、徳永孝「怒っているの?」、青柳俊哉「水踏む音」

2020-08-22 10:52:53 | 現代詩講座
池田清子「えっ」、徳永孝「怒っているの?」、青柳俊哉「水踏む音」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年08月16日)

えっ  池田清子

違ってる?
いつもの道と違う
毎週帰ってる道なのに

最初の信号で左折して
次に右折して
あとは道なり

でも 何か違う
あんな仮囲いはなかった
あんな更地もなかった
あんなに新しい家も
どこで間違ったのか
やっぱりUターン?

えっ
あっさり戻れた
違ってなかった
いつもの道 だったのか

あーあ

 今回は、いつもと違い、作者が自分の詩を解説する(どういうことを書いたか説明する)ということからはじめた。その説明で納得がいくか。池田は、車で帰宅するとき、見慣れない光景に出会い、道を間違えたと感じ、いったんUターンした。でも間違っていなかった。そのときのことを書いた、と説明した。
 「いつもと違う感じ、道に迷った感じがよく出ている」「いままで気がつかなかったものに気づく。道は間違っていなかったと感じたときのことがわかりやすく書かれている」「でも、最後の『あーあ』は何だろうか」「安心したのか、むだなことをしたとため息をついているのか」
 これは、なかなかむずかしい。どちらでもいいと思うし、どちらかがわかるように書けば納得するというものでもないかもしれない。
 この詩でいちばんおもしろいのは三連目。道に迷ったときの感じが具体的に書かれている。「仮囲い」「更地」「新しい家」。
 考えてみたいのは、「あんな」ということば。「あんな」「そんな」「こんな」。これによって、「迷い方」が違って感じられるのではないだろうか。
 「あんなとこんなは、どう違う?」
 「あんなは遠いけれど、こんなは近い」
 ここからが問題。どちらが「迷っている感じ」が強くなるか。
 これはたぶん書き手によっても受け手によっても違うので、どちらとは言えないが、私は「こんな」の方が「身近」で迷いが強いと思う。
 こんな仮囲いはなかった/こんなところに仮囲い(がある)の方が、「もの」が迫ってきて、認識を混乱させている感じがする。「あんな」よりも「こんな」の方が主観性が強い。
 あるいは「こんな」「そんな」「あんな」を組み合わせて書くと、空間が複雑になるとおもう。「こんな仮囲いはなかった/そんな更地もなかった/あんなに新しい家も」にすると、視線がさまよう感じになる。車を運転しているので、こんな具合に視点がさまよってはいけないのかもしれないが。
 そんなふうに迷うと、最後の「あーあ」もずいぶん変わってくる。一つの意味ではなくなる。「安心」もあれば「むだをしたなあ」という気持ちもある。さらには、「がっかりした」という感じも生まれてくるかもしれない。迷い続け、迷宮にはりこみ、そこから出てれなくなればよかったのに、という思いに突き動かされた「あーあ」になるかもしれない。
 この詩について、池田がおもしろいことを言った。「感情というか、悲しみやよろこびみたいなものを書かなくても詩なんだろうか」。
 私は、詩だといいたい。
 美しいもの、すばらしいものに感動する。悲しみに沈む。その「気持ち」を書いた詩もあるが、人間の「思い」はもっといろいろなものが組み合わさっている。こころが動いているならば、それは全部、詩。
 三連目がおもしろいのは、三連目ではこころの動き、迷いがそのままいろいろなことばになって具体的に書かれている。「風景がいつもと違って見えて道を間違えたと錯覚したけれど、道を間違えたわけではなく、いつものように家に帰れた」では、「結果報告」になってしまう。「結果」ではなく、途中経過をリアルに書けばいいのだと思う。リアルに書くために「あんな」「こんな」「そんな」を考えてみるといいのだと思う。



怒っているの?  徳永孝

じっと一点をにらみ
ひたいにしわをよせて
口をむすび
動かない

どうしたの?
怒っているの?
それとも何かなやみ?

いいえ
考えているんです
見たこと聞いたことを思い出し
想像し…

土の中の虫
木にむらがる昆虫
空をとぶ鳥
火星のそら
宇宙人の住む星
みんなどんな生活をしているのかな?
歯みがきしなさいとか
顔を洗いなさいとか
言われないんだろうなあ

数学の世界
論理の宇宙で
遊んでいます

 コンピューターのプログラミングを考えているとき、いつもと違った雰囲気になる。そのときの様子を書いたと説明した。
 でも、なぜタイトルが「怒っているの?」なのか。もし、何かを真剣に考えているときのことを書いているのなら、違うことばでもいいのではないだろうか。
 徳永は「怒っている、が他人と自分との格差がいちばん大きいから」と説明した。
 これだね。
 自分と他人が違う。その違いが「大きく見える」。そこに詩がある。もちろん、その「違い」は「同じ」という共感に結びつかないといけないのだけれど、違いが大きい方が「同じ」にたどりついたとき感動が大きくなる。
 池田が「えっ」について「悲しい、というような感情を書かなくていいのだろうか」と言ったが、悲しいというような感情は、わりと「わかりやすい」。だから「共感」もしやすい。だからこそ、読んだときに「驚き」が少ない。「共感」というのは、自分のなかにもそういう感情があったのだと発見することが大切。「悲しい」ひとをなぐさめるだけではなく、それと同じ「悲しみ」が自分のなかにあるということを発見したとき「共感」する。詩は、共感を呼び覚ますことばの運動でなければならない。
 さて。
 なぜ、「怒っているの?」というタイトルがいいのか。もちろん、「怒っていない」から「怒っているの?」がいちばんおもしろい。
 でも、コンピューターのプログラミングを考えている、ということが、この詩から伝わるだろうか。
 四連目と五連目のあいだに、大きな飛躍がある。
 四連目は、三連目の「想像し」を受けて、想像したことを書いている。身近な虫からはじまり、火星に飛躍する。さらに宇宙には歯磨きしなさいと叱るひとはいるのかと想像している。池田が書いた「あんな仮囲い」のように、ここには具体的なことが書かれていて、楽しい。具体的というのは、その人だけが体験したことであり、同時に、いわれてみるとそういう体験をしたことがあるなあと思い出させてくれる何かである。
 五連目は、それをさらに別の角度から言い直したものなのだが、それは「想像」ではなく、むしろ現実に属する。
 徳永は、「コンピューターのプラミングを考えている。それは数字と論理の世界。そういうことに集中していると、一点をにらみ、額に皺をよせる、というようなことが起きる。それを見たひとは怒っているのか、悩んでいるのかと思うけれど、実は怒っても悩んでもいない」と詩の背景を語った。
 説明されれば、そうなのか、と思う。でも、説明されて、そうなのかと思うのでは「共感」にならない。
 池田の詩について語るときつかったことばで言い直せば、五連目は「結果報告(結論)」になってしまっている。「結論」は書いているひとにとっては重要だろうが、読者にとっては「途中経過」の方が重要である。「途中経過」が納得できないと「結論」は納得できない。「結論」に納得したいのではなく、読者は「途中経過」に参加したいのだ。すくなくとも、私はそうである。
 もし「数学の世界/論理の宇宙」と格闘していることを書くのだったら、どんな具合に格闘しているかを書いた方がいいだろう。そのとき「数学/論理」をどんなふうに具体化するかはむずかしいが。



水踏む音   青柳俊哉

影たちが岸辺をあるいていく 
黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部の
細い細い絹糸のような目が
不思議そうに人間をみつめる
人間の肢体(したい)をみつめている 
機械的な 模型的な 妖(あや)しい死のリズムをふくむ
ふるえる もえる身体をひきずり 
赤くやけただれた時空の殻(から)をすて
隔絶した 透明な 傷つきはてた影たちが
原生の沼の岸辺を ひたひたひたひた 
きよらかな水踏む音を
響かせてあるいていく

 青柳は、原民雄の「草の花」を読んで、そのときの印象から書き始めたと言った。現実の体験ではなく、小説を読んだときの体験。「原民雄の小説のことばからの引用もある」とつけくわえた。
 「黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部」がイメージしにくいという声もあったが、これは被爆したひとの様子だろう。被曝すると顔(頭部)がふくれるといわれる。被曝を語ったことばにどれだけ触れてきたか、被曝をつたえるものをどれだけ見てきたかが、ことばを理解するときに影響するだろうと思う。
 この詩には「黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部」のように、いま、私たちが現実に見ることができるものとは違う何かが書かれているが、同時に、いまもつかうけれど、こんなふうにつかわないなあ、ということばもある。

不思議そうに人間をみつめる

 これは、読めばそのまま意味はわかるが、なかなかこういうふうにつかわない。たとえば通勤時、列車が混雑している。駅が混雑している。スーパーで大売り出しがある。その人込みを見たとき、なんというだろうか。
 「人間がたくさんいる」とは、なかなか言わない。たいていは「ひとがたくさんいる」という。人間とひとはおなじものだが、つかい方が微妙に違う。
 なぜ、ここでは「人間」ということばなのだろうか。
 「まだ生きている」「死にかけているけれど、まだ生きている」「何か異様な感じがする」
 「ひと」とは呼びにくい何かがある。「ひと」というとき、私たちはその「ひと」と私を区別していない。「人間」というとき、「ひと」の形はしているが「ひと」ではない、という感じ、ふつうではない何かが入り込んでいる。
 それは、

機械的な 模型的な 妖しい死のリズムをふくむ

 ということばにも現れている。「死」ということばをつかわざるを得ない何かがそこにある。「人間」はさらに、

隔絶した 透明な 傷つきはてた影たち

 とも言い直されている。
 こうした言い直しは、池田が「あんな仮囲い」と書いていることに通じる「具体的な事実」である。青柳だけが見た「現実」である。そして、それは青柳だけが見たことであるけれど、私たちの体験を揺さぶる。原爆資料館で見たものや、何人もの語り部が語ってきたことを呼び覚ます。
 そういうつらく苦しい「体験」が「祈り」としての「共感」を呼び覚ます。

きよらかな水踏む音を
響かせてあるいていく

 この「きよらかな水踏む音」を正確に把握するのはむずかしい。「きよらかな」は何を修飾しているのか。「水」か「音」か。たぶん、区別はできない。区別する必要がない。水も清らかだし、音も清らかなのだ。苦痛に満ちた世界だけれど、そこに「きよらかな」何かを求めるものがある。そう信じたい。「救い」への祈りが、そういうことばを必要としている。







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読売新聞の記事のおもしろさ(2)

2020-08-22 08:48:42 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞の記事のおもしろさ(2)
   自民党憲法改正草案を読む/番外380(情報の読み方)

 読売オンライン(https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200821-OYT1T50282)(2020/08/21 20:35更新)の見出しと記事、
 
二階幹事長と菅官房長官が会食…評論家をはさんで2時間半

 自民党の二階幹事長と菅官房長官が20日夜、東京都内の日本料理店で会食した。安倍首相の体調不良説が飛び交う中、党と首相官邸を率いる要同士が、安定的な政権運営に向けて連携を強めている格好だ。
 会食は、評論家をはさんで2時間半続いた。両氏は6月17日と7月1日にも会食するなど、最近ではほぼ定例化している。

 紙面(西部版14版)ではどうなっていたか。記事は変わらず、見出しはこう変わっていた。

二階氏、菅氏と会合「定例化」/「幹事長続投・次期首相」思惑

 「評論家」は見出しから消えていた。見出しから消すくらいなら、記事から消してもいいだろう。「前文」には書かれていないし、記事中も「会食は、評論家をはさんで2時間半続いた」と出てくるだけで、何を話したとも、ふたりとどういう関係があるとも書かれていない。
 しかし、それよりも大きな「変化」はデジタル版では「会食」という見出しだったのが、紙面では「会合」になっている。「食べる」ことが目的ではなく、話すことが目的だったのだろうから、もちろん「会合」でいいのだが、記事中には「会合」とはひとことも書いていない。
 書いていないことばを見出しにとるのは、きっと筆者(政治部?)から「会合」にしてくれ、という注文がついたのだと思う。そして、それは、

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つづきは、下のリンク先へ。
https://note.com/yachi_shuso1953/n/n8068f51f407b

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幹事長続投・次期首相

 という路線が、ふたりの「思惑」であるだけではなく、その「路線」を読売新聞が支持しているということだろう。支持とまでは明確に言えなくても、すくなくとも「麻生首相」には反対しているのだろう。麻生がこの記事に対して、どう反応するか、それを確かめるために書いた「アドバルーン(観測気球)」なのだろう。そうでなければ、

 9月に想定される内閣改造・党役員人事を前にした両氏の緊密ぶりに、党内からは「二階氏の幹事長続投に向けた地ならし」(中堅)との見方がある。一方、菅氏を次期首相に推す声も根強く、「ポスト安倍レースに向け、二階氏と手を組もうという動きではないか」(党関係者)との臆測も呼んでいる。

 とまでは、書かないだろう。「ふたりの思惑」を超えて、「自民党の思惑」を固めようとしている。
 と考えれば考えるほど、「評論家」が気になる。こんな「欲」がからんだだけの「会合」に同席するというのは、いったい、だれなんだろうか。
 読売新聞の記事は明らかにしていない。しかし、「評論家」と書くだけで、政治家周辺にはすべてがわかるのだろう。すべてをわからせるために「評論家」が同席したということは、記事に残したのだろう。





*

「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 



*

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読売新聞の記事のおもしろさ

2020-08-21 21:45:41 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞の記事のおもしろさ
   自民党憲法改正草案を読む/番外379(情報の読み方)

 最近、といってもここ2、3日なのだが、読売新聞が奇妙である。
 私は、直近では2020年08月18日の読売新聞(西部版・14版)が、安倍の「日帰り検診」についての記事を批判した。しかし、その後、批判したいと思う記事がないのだ。いつもは、批判したいことが有り余っていて、困っていたのだが。

 どうしてだろうか。

 私は、安倍がらみで自民党がほんとうにどたばたしているのではないか、と感じている。どたばたしすぎて、読売の記者に「リーク」する内容、あるいは「こんな記事に仕立てて」と注文を出す余裕がなくなっているのではないか。

 そんなことを思っていたら、読売オンライン(https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200821-OYT1T50282)(2020/08/21 20:35更新)に、こんな見出しと記事。
 
二階幹事長と菅官房長官が会食…評論家をはさんで2時間半

 自民党の二階幹事長と菅官房長官が20日夜、東京都内の日本料理店で会食した。安倍首相の体調不良説が飛び交う中、党と首相官邸を率いる要同士が、安定的な政権運営に向けて連携を強めている格好だ。
 会食は、評論家をはさんで2時間半続いた。両氏は6月17日と7月1日にも会食するなど、最近ではほぼ定例化している。

 奇妙な点がふたつ。
①二階と菅の会談は「20日夜」。21日夜ではない。つまり、一日遅れ。夕刊に書くほどのことでもないから一日遅れになったのか。あるいは夕刊で書くはずだったが、掲載スペースがなくて朝刊掲載にしたのか。具体的な会談内容はまったく書いていない。それなのに、わざわざ一日遅れのことを書いてどうするのか。
 自民党幹部からの「レクチャー」がないので、「党と首相官邸を率いる要同士が、安定的な政権運営に向けて連携を強めている格好だ」くらいのことしか書けない。しかも、そう書いた後ですぐに、「両氏は6月17日と7月1日にも会食するなど、最近ではほぼ定例化している」と特別な事ではないと装っている。「定例化」している会食なら、わざわざニュースにする必要はない。
 何かあるのだけれど、だれも読売の記者に「リーク」してくれない、という状態になっているのか。

つづきは、下のリンク先へ。
https://note.com/yachi_shuso1953/n/n8068f51f407b


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「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
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#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 



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坂多瑩子「クレヨン」

2020-08-21 09:32:01 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「クレヨン」(「すぷん」3、2020年夏発行)

 坂多瑩子「クレヨン」は、感想が書きにくい作品である。

ぬりえのノオトの顔は茶色にぬりつぶされ
クレヨンがはみでている

耳も口もなく

だからいいんじゃない
好きに書けば

だれかわからないだれかだもの
一つ目にしたってかまやしない
声にもクレヨンぬっちゃえばいい

ぬりつぶされた顔が
あるきながら上衣をぬいでいる
あたしもあるきながら上衣をぬいでいる

あたしの顔もぬりつぶしちゃえ
ぬりつぶしてもぬりつぶしても

あたしだよね
あれは

顔がはみでている

 なぜ感想が書きにくいか。
 「意味」を抜き出し、その「意味」に対して、自分の考えをいうということがむずかしい。
 と書きつなぐと、あ、あ、あ、めんどうくさい。
 「意味」がわからないのだ。「意味」が「論理」になっていないのだ。
 「論理」がないと、肯定するにしろ否定するにしろ、ことばが「論理」として動いていかない。
 そうか。
 「感想」とは「論理」のことだったのか。

 そうならば、逆に「論理」を無視してことばを動かせば、それはそれなりに「感想」になるのではないか。
 えっ、どいうい意味? 書いている私にもよくわからないなあ。

 はじめから、やりなおそう。

 この詩でいちばんおもしろいのは、最終行の「顔がはみでている」である。一連目は「ぬりえのノオトの顔は茶色にぬりつぶされ/クレヨンがはみでている」である。「はみでている」のは「茶色」である。「顔」は隠されている。「顔」ははみでていない。それなのに最後は「顔がはみでている」。
 矛盾だね。
 やっぱり、人間は「矛盾」しているから、おもしろいのだ。
 ほんとうは「顔」ははみでていない。はみ出ているのは「クレヨン」だが、クレヨンは自分でははみ出ることができない。塗りつぶす人間がクレヨンをはみださせるのだ。顔の輪郭を無視してしまう。顔の造作も無視してしまう茶色一色にして、その茶色をはみださせている。茶色にぬりつぶしてやりたい、という感情がはみ出ているのだ。
 そう。
 「顔」がはみでているのではなく、「感情」がはみ出ている。

 いっぽう。

 顔と感情の組み合わせで思うのは、感情が顔に出る、という言い方。感情は顔に出るのは、隠しておきたい感情が顔を突き破って出てしまう。感情を「あたし」と言い換えれば、「あたし」がはみ出ている。「あたしの感情」がはみ出ている。
 顔からクレヨンがはみだすという「乱暴」さのなかに。
 私たちはなんでも「修正」することを学ぶ。
 たとえば、顔の絵。目の位置、鼻の位置、口の位置、耳の位置。そういうものが「写真」(客観的写実?)と違っていると、デッサンが狂っていると注意される。正しい位置にととのえることを教えられ、教えられた通りにすると、「これでいい」と評価される。
 でも、修正されたくないねえ。修正するというのは、ある意味では他人が求めている形に自分をととのえていくこと。それは、自分が自分でなくなること。目の位置、鼻の位置をととのえるのではなく、自分の何かを修正すること。
 感情は、ときには修正できないね。
 というよりも、修正したくないね。
 で、こんちくしょう。こんな奴の、顔を塗りつぶしちゃえ。その気持ちが暴れ出すと、茶色がどこまでもはみだしていく。
 それは「客観的」には単なる茶色という色。クレヨンの一色。
 でも、「主観的」には「あたしの感情」。
 「感情」は「見えない」よね。でも「見えてしまう」よね。
 そういう「矛盾」が、ここにはある。

 また、「矛盾」が出てきた。
 たぶん、最初に書いた「矛盾」に、私のことばは追いついたのだ。
 だから、ここで感想を終わりにする。

 「声にもクレヨンぬっちゃえばいい」についても書きたいが、書き残しておく。
 私の大好きなセザンヌは、キャンバスの白が残っている絵につてい「ルーブルで色が見つかったら塗る」というようなことを言っている。
 私は、その「塗られていない白」が残った絵が、とても好きなのだ。塗り残しが、とても気に入っているのだ。




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(94)

2020-08-21 08:36:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* 

ただ一羽の風見鶏だけである

 「ただ」と「だけ」によって「一羽」が強調されている。
 でも、ほんとうだろうか。
 強調されているのは「風見鶏」かもしれない。
 「ただ一羽の」「だけ」は「重複」というものだろう。
 このとき「風見鶏」に「意味」はない。「意味」を拒絶するために「ただ一羽の」「だけ」がある。つまり、「意味」は「ただ一羽の」「だけ」にまかせてしまって、無意味としての、詩としての、世界を拒絶するものとしての「風見鶏」が存在している。




*

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