詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

破棄された詩のための注釈25

2020-10-23 20:30:16 | 破棄された詩のための注釈

破棄された詩のための注釈25
                        2020年10月23日

 花瓶の花を捨てるとき、まだ枯れていない一輪の薔薇を選び、コップに活けた。水の高さを気にして、何度も捨てたり注ぎ直したりした。窓から入ってくる光がつくるテーブルの上の水の影と水の光。そして薔薇の色。
 描きかけの手をとめ、席を立った。捨てた花の中から朽ちた葉っぱだけの一本を追加した。それは「ニュアンス」を定義するためだった。あらゆる存在には共通するものと異質なものがある。その差異を語り直すことが「ニュアンス」を定義することである、という注釈をつけるためである。
 たしかに花びらが生きているように色を変えた。しかし、それは花自身の変化なのか、時間が動いたせいなのか、あるいは意識の錯誤なのか。
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自助・共助・公助と学術会議

2020-10-23 15:57:50 | 自民党憲法改正草案を読む
自助・共助・公助と学術会議

 他のところで書いたのだが、少し追加してまとめ直しておく。
 東洋経済のウェブサイト(https://toyokeizai.net/articles/-/381397)に載っていた記事を読みながら考えたことである。見出しに「『10社以上でクビ』発達障害46歳男性の主張」と書いてあった。
 発達障害の人は、社会の中では「少数者」である。発達障害のひとの存在は、それは非常に見えにくい。こんな例えはよくないのかもしれないが、たとえば車椅子の使用者にならば「見える」。そして階段をスロープに変えればある程度そのひとの「自由度」が高くなるということもわかる。どう対処すればいいか、ほかのひとにもある程度わかる。しかし「発達障害」の場合は、よほど詳しいひとでないかぎり、どう対処するのがいちばんいいのか、見当がつかない。また、そういうひとが差別/排除されても、理不尽とは思いにくいかもしれない。記事の中にもあったが「きょう初日のひとよりも仕事が遅い」などと非難しているひとからみれば、この男性は「排除」されても何の問題も感じないだろう。逆に仕事がスムーズに進むようになったと喜ぶかもしれない。
 世の中には「見えにくい少数者」が大勢いる。
 そういうひとたちが「排除」されたとき、多くのひとはその「排除」に気がつかない。首になった男性が、どんな生活をしているか、どんな苦境に陥っているか、それも「見えない」。こういうことが、これからの大きな問題になる。「見えにくい少数者」は「少数者」であるという理由で「排除」されやすいのである。「排除」されたも、だれも気づかないという危険が、すぐそこまで来ている。

 こいうことがなぜ「学術会議」と関係があるかというと。
 「少数者の運命」というのは「学術会議」にもあてはまることだからである。学者は、絶対的に「少数者」。
 そして、悲しいことに、「学者」を差別すること( 排除すること) に対して、多くの人は「良心の呵責」を感じない。「発達障害」のひとの仕事を奪ってしまうことに対しては、後ろめたく感じるひとがいるかもしれないが、6人の学者が「学術会議の会員に選ばれなかった」からと言って、そのことを「親身」になって考える人は少ないだろう。
 理由は簡単。
 ふつうのひとから見れば、「学者」は自分たちより優れている。優れているひとに配慮なんかする必要はない。配慮が必要なのは、「学者」になれない国民の方である。「学者」になれず、資本家につきつかわれている労働者の方である。「学者」は自立しているから、それで十分じゃないか……。
 こういう「国民の心情」を菅(と自民党)は巧みに利用している。
 「目に見える少数者(たとえば車椅子使用者)」と同時に「目に見えない少数者(たとえば発達障害のひと)」がいる。
 この「目に見えにくい少数者」から排除していくことが、いま、日本で横行している。
 「学者」の排除のあとは、個人の思考/嗜好/指向が狙われる。「少数者」から排除される。「少数者」の排除は、「多数者」には「私には関係ないから、知らない」という無関心のなかで拡大していく。
 「分母」が小さくなれば、いままで見過ごされていた「少数者」がどんどん強調されるようになる。
 マスクをしていないひとに「マスクをしてください」と注意する。そのとき注意されたひとが「すみません」と言う前に「お金がなくて買えないんです」と答えれば、「注意したのに反抗された。公共精神がない反抗的な人間だ」というレッテルで排除される。「お金がなくてマスクが買えないひと」は「少数派」だからだ。
 冗談のように見えることが、冗談ではなくなる。
 その第一歩が「6人の学者の任命拒否」である。
 「気に食わないから排除する」が菅の政治によって始まっている。
 そして気に食わないひとを見つけるのに、どうも警察が関与している。警察国家(密告社会)が急速に動いている。

 脱線したが。
 コロナ感染拡大という状況の中にあって「マスクを買えない少数派」から、私はこんなことを考えるのである。
 菅は「自助・共助・公助」と言った。コロナ感染という社会の中では、「自助」は、たとえば手洗いの励行ということがある。そしてマスクの着用もそのひとつだ。その「自助(マスクを着用する)」ということが経済的にできないとき、「それでは町内会でマスクを買って助けましょう」というのが「共助」という形で必ず働くかというと、そうではないときがある。「町内でマスクを買えないひとがいる。そのひとを助けるのは共同責任だから、みんなでマスクを提供しよう」という形で動かないときもある。
 「町内からコロナ感染者が出たら、みんなが困る。共同責任になる。マスクを持たないひとが出歩かないように監視しよう」という動きが出ないとも限らない。「食事を一回抜いてマスクを買えばいい。マスクを着用するのは自己責任だ」という「責任の押しつけ」が始まらないとは限らない。
 「学者」のひとたちは理性的だから、そういうことは起きない/起こさない、と言えるかどうか。
 たとえば「6人の任命拒否」。その6人に対して、「政府方針を批判するようなことをいうから任命されないのだ。任命されないのは自己責任。6人のために予算が減らされたり、ほかのひとまで政府方針を批判していると思われるのは心外だ」というひとが出てこないとは限らない。菅と会談した梶田は、私には、そういう人間に思える。6人がいなければ、学術会議はいままでの活動ができたのに、と思っているかもしれない。そうすると、そこから6人の問題を「共同責任」のように詰問されるのは困る、6人は学術会議とは関係がない。「排除してしまえ」ということが起きかねないのだ。
 学術会議の会員になりたいのなら、「自助努力」が必要。政府方針を批判するのは「自己責任」でやれ。他の学者に迷惑をかけるな。会員に任命されなかったからといって「共助(任命拒否を撤回しろという運動)」を会議に求めるな。そういう運動が起きないとは限らない。
 「学者以外の世界」では、実際、そういう動きが起きていると思う。任命されなかったのは本人の責任。任命しなかった菅に問題はない。「学問」は菅が会員に任命しなくてもできるはず。「自己責任」で自分の好きな研究をすればいい。
 こういう「むちゃくちゃ」が起きる。実際、起きている。
 なぜか。
 「学者」という存在が、多くのひとからは「見えない少数派」であり、同時に「特権的な少数派」として認識されているからである。「見えない少数派」が「見えないまま」ならふつうのひとは何も言わない。突然「見える」状態になって、しかも、何かわけのわからないことを言う。「学者が国民よりえらいなら、自分で問題を解決すればいい。頭がいいんだから、それくらいできるだろう」。多くのひとは「心情の共有」へ向かって、一致団結していく。

 こうした動きが危険なのは、「少数派」よりも「多数派」こそが「正しい」と考えてしまうことだ。ある社会の中から「少数派」は排除する運動が始まると、それは次々に「少数派」探しに拡大する。「少数派」が「共助」を阻害している。「少数派」がいなければ「共助」は簡単に、確実に実行できる。「少数派排除」が「多数派団結の方法(手段?)」として動き始める。
 最初は「学者」、つぎは芸術家、つぎはスポーツ……とあっという間に拡大するだろう。それは、先に書いたように「マスクをつけていない/マスクを買う金がない」というようなところにまであっという間に拡大する。「政府を批判する集会に参加していた」とか、「政府を批判する文章をネットに書いた」とか、「学者」よりももっと「見えない少数派」を狙い撃ちするだろう。
 たとえば、この私。こういう文章を書いている人間が、ある日突然、こういう菅批判の文章を書かなくなったとして、いったいだれが気にするだろう。「見えない人間」が「消えた」だけである。世の中は、何一つ変わっていない。
 世の中は何一つ変わっていない。6人が任命を拒否されても、学者はあいかわらず自分の好きな学問をやっている。6人だって、勤務先を首になったとかという話は聞かない。何も変わっていない。
 しかし、「何も変わっていない」という印象を演出しながら、急激に変わっていくのである。「解釈の変更」という、それこそ「見えにくい動き」を利用しながら、変わっていくのである。その動きの中に、菅は「自助・共助・公助」を盛り込んだ。「自己責任・共同責任」を強いるように仕向けている。



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山本かずこ『恰も魂あるものの如く』

2020-10-23 09:39:25 | 詩集
山本かずこ『恰も魂あるものの如く』(ミッドナイト・プレス、2020年09月23日発行)

 山本かずこ『恰も魂あるものの如く』を手にして、私は「あっ」と声が漏れた。それは次の瞬間、「しまった」という気持ちになった。
 つい先日、本棚からはみだしてしまう本を整理するために『故郷』をブックオフに出したところなのだ。私は山本と面識はないが、『故郷』はとても好きな詩集である。『詩を読む詩をつかむ』に感想が書いてあるので、ここでは繰り返さないが、忘れられない詩集の一冊である。この本だけは、と思い、残してあったのだが、つい手離した。最近、山本の詩を読んでいなかったので、ふっと気が緩んだというか、魔がさした感じ。私の肉体の中に、ふっと生まれた「間」。そこから、こぼれ、どこかへこぼれてしまった……。
 「しまった」という気持ちを消すことができないので、どこまでことばが動いてくれるか、動かすことができるかわからないが、感想を書いてみる。
 「還暦の鯉」は、巻頭の詩。やはり「最初に読む詩」というのは印象が強い。

還暦の鯉をよんでいると
さかなのにおいがしてきた。
ずっと前、
新聞の薔薇の花をみていると
薔薇のかおりがしてきたことがあったが、
きょうはのは
還暦の鯉だった。
生きているとおもった。
生きているさかなのにおいだ。
釣り糸の先で
逃げたくて、はねている。
そのはねた水がわたしの顔にとびちっている。
「さわってみいや」
父が言った。
「こわいき、いやや」
とわたしが言った。
五歳だった。
父は、
還暦の鯉に同情はないだろう。
父が死んだのは、五十六歳だった。
わたしは、
「還暦」という言葉の釣り針にまずひっかかり、
いまは、水中にて、もがいているところか。
やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ。

 注に、「還暦の鯉」は井伏鱒二の随筆とある。
 書き出しの「さかなのにおいがしてきた。」は井伏の文章がリアルだ、と言いたいのだと思う。この「におい」は「生きている」と言い直されている。魚屋の魚の匂いではなく、水の中で泳いでいる魚。けれど、水のなかの魚の匂いは、ほんとうはわからない。私はかいだことがない。私が知っているのは、水から上がった魚の匂いである。山本が言っている「生きている(におい)」は、やはり水から上がった魚(水を奪われた魚)の匂いだろう。それは、逆に言えば「死に直面しているにおい」でもあるだろう。
 井伏の随筆を知らないので、断言はできないが、井伏は「還暦」のとき釣り堀に行って魚を釣った。そのときのことを書いているのだろう。釣り上げた魚が、肉体に残っている水を、あばれながらまきちらしている。
 それを山本が感じるのはなぜか。その魚を肉体で覚えているからだ。井伏の随筆を読みながら、山本は山本の肉体が覚えていることを思い出している。
 父と魚釣りをした。山本がせがんだのではなく、父が山本を連れていったのだろう。父は釣れた魚が自慢である。だから「さわってみいや」というようなことも言う。
 ここからが、非常に、微妙だ。
 山本は、ほんとうに「魚の生きているにおい」をかいだのか。あるいは、「父の生きているにおい」をかいだのか。区別はできない。「魚の生きているにおい」は「父のいきているにおい」なのだ。そして、そのとき、二つのにおいを結びつけているのは「生きている」という「事実」なのだ。さらに、「生きている」ということばといっしょと思い出してしまうのは、魚も父も「死んでいる」からなのだ。「生きている」のなかには「死んでいる」が含まれている。だからこそ、なまなましい。
 父は五十六歳で死んだ。だから「還暦」についてあれこれ思うことはない、というのは悲しいユーモアである。山本は、私を、少し笑わせる。しかし、少し笑うと、その笑いが自分を裏切っていることに気づき、さらに悲しくなる。
 山本が五歳だったとき、父は何歳だったのだろう。五歳のときとはっきり覚えているのは、父の死が五歳に刻印されているからだろう。山本が五歳のとき、あるいは、この釣り堀の体験の翌年(六歳のとき)に死んだのではないのか。そうすると、「生きている」は、単に水から上げられてあばれている以上の意味を持ってくる。「さわってみいや」「こわいき、いやや」にも別の感情が混じってくる。
 私は「誤読」するのである。つまり、自分の「肉体」で山本のことばを読んでしまうのである。
 私の父の兄、つまり叔父は胃がんで死んだ。叔父の家は山の中腹にある。そこから私の家まで降りてくる。私は叔父と二人でテレビを見ていた。両親は野良仕事に出ていて、家には私以外いないからである。しばらくして「家に帰る」と言う。しかし、歩いて帰れない。私は叔父をおぶって坂道をのぼる。そのとき、叔父の腹が、私の背中にぺったりとはりつく。肉体を維持する力がなくなって、ぺたりとはりつく。胃がんそのものが背中から私の肉体に侵入してくるのではないと思うくらいの、ぺたりである。私は小学五年か六年だった。だから、非常にこわかった。死と生が、いっしょに動いている感じがしたのである。
 あるいは、兄が事故死したとき、その息子(つまり甥)が、周りの人に言われて遺体に直面する寸前、あとずさりした、というようなことも思い出したりする。
 「死んだ」という状態になる前に、「死ぬ」という動きがある。その「死ぬ」という動きは、同時に「生きている」という動きである。「状態」ではない。だからこそ、「こわい」のかもしれない。
 脱線したかなあ……。
 この釣りの思い出のあと、「還暦」ということばに山本はこだわる。それは父が「還暦」前に死んだということに関係があるというよりも、山本の年齢に関係があるのだろう。先に書いたように、私は山本とは面識がない。彼女が何歳か知らない。だが、この詩を書いたころは「還暦」前後だったのだろう。父が「還暦」を知らないけれど、山本は「還暦」を知る年になった。父より長く生きている。さて、これから、どうなるのか。
 そのことを、あれこれ思うのだろう。
 そうすると。

やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ。

 というのは、非常に微妙なことを書いていることになるが、「微妙」は「論理的」に読むから「微妙」になる。
 釣り針にひっかかっても、すべての魚が釣り上げれら、死んでいくわけではない。釣り針がはずれ、もう一度水の中に帰ることがあるし、釣り上げられたら釣り上げられたで、そのときにしか知ることのできない世界がある。それを「生きる」ことができるだろう。
 そう思うとき、いま、山本はどんな「生きているにおい」を発しているのだろう、とも私は考えてしまう。
 会ったことはない。写真を見たこともない。何も知らない。何も知らないけれど、山本という人間の「肉体」を思うのである。
 この作品の「父」もそうだが、『故郷』に出てくる「母」もしっかりと「肉体」をもっている。ことばが「頭」ではなく「肉体」から、そのまま出てくる、という感じで動いている。
 人間はだれでも、母とも父とも違う人間(個人)になるために生まれてくるのだと思うが、私は同時に、ああ、山本は両親の肉体を山本自身の肉体として引き継いで生きているなあ、と感じるのである。両親を「他者」と呼ぶのは変だけれど、山本の肉体は他者と共存して生きている、ということを、私はなんとなく感じる。
 井伏の随筆がどういうものか知らないが、それを読む山本は、読んでいるとき父を思い出しているだけではなく、井伏とも一緒に生きているのだろう。一緒に生きているという実感が、本を(活字を)超えて、父にまで繋がっているのだろう。
 「生きている」ということばが、畳みかけるように、二度書かれているが、この「生きている」がこの詩のキーワードなのである。だから、最終行は、ほんとうは、

やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ生きている。

 なのである。「しばらくのあいだ」は、まだまだつづく。山本の新しい詩集は、そのことを告げている。だからこそ、『故郷』を手離したことが、何とも悔しい。これからも山本は詩を書きつづけるだろう。
 「生きている」ということばはつかわれていないが、それが隠れている作品に「夏の写真」がある。

おそろいの
赤いりんごの浴衣を着ていた
妹より
わたしのほうが
まだ
背が高かったころの夏休み

一枚の
写真が残っている
かけっこが大好きだった
妹のおでこには
転んだときにできた
すり傷がある

この夏を境に
妹の背丈はぐんと伸びてゆくのだけれど
そんなことは
まだ だれも知らない

 「生きている」ということは、「だれも知らないことが起きる」ということである。「だれも知らない」から私たちは「生きている」(生きてゆける)のだ。そして、これから起きる「知らないこと」は自分の肉体で受け止めるしかないのである。
 魯迅ではないが、道はあるのではなく、道はなるのだ。ひとが、道なのだ。
 と、書いて、あ、そうか、私は山本のことばに、魯迅に通じる「正直」を感じていたのか、といま、あらためて思う。





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鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』(2)

2020-10-22 10:22:18 | 詩集


鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』(2)(書肆侃侃房、2020年09月17日発行)

 鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』の魅力を語るために、私は、こんなことを試みてみる。


はじめ あなたは
アカシアの林の中で動いていた
林の冷たい純粋な目が
じっと私を見つめた 私は声をあげた
誰かが細い木の間を横切った

数知れぬ木の葉が微かに動いていて
灰色の光る池では重い櫂の音がして
人々がボートですべって行った
重い水の底では重い木の根が伸びていて
白いパイプをたぐりよせ
地下で 誰かがオルガンを弾いている
 

そのとき ほとんど苦しみのように
私は感じていた
これが 未来であると

私は恐怖にかられて丘を駆けのぼった
すると見えたのだ
なだらかな緑の線から下の方にひらける
白い市街を超えて
一本の虹がすうっと薄い青の海に逃げていくのを

 「1」と「2」。どの作品が好きですか? 詩のタイトルが「虹 はじまりのはじまりのうた」「未来」だとしたら、どちらがどの作品ですか? 「1」には「虹」も「未来」も出てこない。けれど「2」には「虹」も「未来」も出てくる。
 さあ、どうします?

 鈴木ユリイカの作品を読み続けている人なら、「答え」が出せるかもしれない。しかし、私は鈴木の詩を読み続けているとは言えない人間なので、自分でこういう「質問」をつくってしまったのに、その「答え」が出せない。
 さらに問題なのは、私の「引用」にはとんでもない嘘が隠されているのである。
 その「嘘」がわかりますか?
 「嘘」を指摘するには、「根拠」が必要だけれど、その「根拠」? 「読んだことがあるから」では、ダメ。私の引用をはじめて読む人には、その「根拠」の方が「嘘」に感じられるかもしれない。

 さて。種明かし。あるいは、ほんとうの「質問」のはじまりというべきか。
 実は「1」と「2」は「虹 はじまりのはじまりのうた」と「未来」の書き出しを入れ替えたもの。ほんとうは、こう書かれている。

はじめ あなたは
アカシアの林の中で動いていた
林の冷たい純粋な目が
じっと私を見つめた 私は声をあげた
誰かが細い木の間を横切った

私は恐怖にかられて丘を駆けのぼった
すると見えたのだ
なだらかな緑の線から下の方にひらける
白い市街を超えて
一本の虹がすうっと薄い青の海に逃げていくのを
                       (虹 はじまりのはじまりのうた)

そのとき ほとんど苦しみのように
私は感じていた
これが 未来であると

数知れぬ木の葉が微かに動いていて
灰色の光る池では重い櫂の音がして
人々がボートですべって行った
重い水の底では重い木の根が伸びていて
白いパイプをたぐりよせ
地下で 誰かがオルガンを弾いている
                                   (未来)
 
 と、私は書きつづけているが、これは実は「大嘘」のはじまりかもしれない。「嘘」か「ほんとう」かは、鈴木にしかわからない。詩集を開いて読めば「正解」がある、という人がいるかもしれないが、「誤植/乱丁」かもしれない。
 こういうことを考えると、「大問題」が始まる。「詩はだれのものか」「ことばはだれのものか」という問題である。「ことばは、ことばのものである」という言い方を私は好むのだが、そう答えたとしても、たとえば「はじめ あなたは」で始まる行は、二連目に「私は恐怖にかられて丘を駆けのぼった」で始まる連のことばを必要としているという根拠をどう説明できるか。「数知れぬ木の葉が微かに動いていて」で始まる連では、なぜいけないのか。
 こういうことは考えれば考えるほどわからなくなる。

 詩は、どう読むべきなのか。

 これに答えることはできない。私は、私自身が詩をどう読んでいるかを語るしかない。私は詩を「論理」とは思っていない。詩のことばに「脈絡」があるとしても、それは「論理」の脈絡ではないと考えている。だから「論理」として、そこに書かれてことばを読まない。詩は「論理(脈絡)」として完結するのではなく、詩はことばが誕生する瞬間に完結する。「論理(脈絡)」を拒絶して、そにた、ただ存在するものなのだ。
 「短い」方の例で考えてみる。

そのとき ほとんど苦しみのように
私は感じていた
これが 未来であると

 鈴木は「未来」を感じた。「これが 未来である」と直感した。「感じた」ということばをつかっているのは、そこに「論理」がないからだ。もし「論理」があるとすれば、それは「感じ(感覚)の論理」であり、鈴木固有のものである。
 この鈴木固有の「感覚の論理」を言い直せば、「苦しみ」と「未来」は「辞書の定義」では同義ではないということだ。つまり、そういう「定義」は一般には共有されていないというだけで十分だろう。
 しかし私たちは同時に「苦しい未来」や「未来の苦しみ」というものを体験していないにもかかわらず感じることがあるし、そういうことばをつかうこともある。「そんなことをしていると、この先(将来/未来)、苦しむよ」というような言い方をごくふつうにつかう。
 そうすると、鈴木固有の「感覚の論理」が「日常的常識(論理)」になってしまう。この瞬間に、詩は、ことばの自由はなくなってしまう。
 詩が詩であるためには、詩のことばが詩のことばであるためには、常に「論理」を破壊しつづけなければならない。
 その「欲望(あるいは本能というべきなのか)」にしたがって、次の「連」のことばが動く。
 これは一連目「未来」を別なことばで言い直したものであるといえば、そこには「論理」があるのが、具体的にはどういう論理か。

数知れぬ木の葉が微かに動いていて
灰色の光る池では重い櫂の音がして
人々がボートですべって行った
重い水の底では重い木の根が伸びていて
白いパイプをたぐりよせ
地下で 誰かがオルガンを弾いている

 「数知れぬ」の「知れぬ」が「未来を証明する論理である」と言うことはできる。「未来」は「知らない」のなかに隠れている、と。
 しかし、それよりも「動いていて」の「動く」という動詞こそが「未来」であるといえるだろう。「動く」は「音がする」「すべって行く」「のびる」「たぐりよせる」「弾く」と変化し、とどまることがない。この動きは「連続」ではなく、むしろ「否定/超越」である。それは「動詞」の変化が「主語」の変化と同時に起きていることをみればわかる。「主語(あるいは主題と言った方がいいかもしれない)」は、こう変わっていく。「木の葉」「櫂の音」「ボート」「木の根」「パイプ」「オルガン」(オルガンは「主語」というよりも「目的語」だが……。)
 ここには「一定したもの/固定のもの/不動のもの」がない。そして、その「固定されたものがない」ということが「普遍」として、その瞬間瞬間に、噴出している。
 このときの感覚の自由さ、想像力の広さ、それが「ことばの運動」そのものを解放する。拡大する。鈴木は、ことばの「領域」を固定しない。
 「虹 はじまりのはじまりのうた」には、こんな展開がある。

あなたはモーツァルトのディヴェルトメントの
最初の楽章の中に居た
私はその音楽をきいた

はじめてパリのアンヴァリッドのバスの待合所に
立っていたとき
マロニエの微光の中に
あなたは現れ すぐ消えた

それから あなたは
真夜中の国際電話の声の中から現れ
真昼の都市のように輝いた

 「あなた」は神出鬼没である。「モーツァルトの音楽」と「マロニエの微光」は別のものだが「あなた」が「現れる」ということでは一致している。「真夜中」と「真昼」も違うものだが「あなた」が「現れる」ということでは一致している。そして、それが「一致している」といえるのは「現れる」が同時に「消える」を含んでいるからである。
 「固定される」ということがないのだ。
 「あなた」はいったい、

どこにいるのか?
氷河の上にいるのか?
何億というアジアの人々の中で泥のように考えているのか?
南米のどこかの鉄砲の中で革命の馬を走らせているのか?

 「ことば」が発せられるとき、「あなた(詩/もの/存在)」は現れ、同時に、次のことばによって、それは破壊され、消えていく。新しいことばだけが次々にあらわれつづける。時間と場所の限定を超えて、自在に。
 それが鈴木の詩であるならば、私は、その「ことばの運動」に「結論」を求めない。ただ、その瞬間瞬間の「ベクトル」としての動きだけを受け止める。それは、いつも私の「肉体」を突き破る。それが楽しい。そして、それが楽しく感じられるのは、鈴木の想像力というものが「頭」でつくりだされたもの(人工的なもの/借りてきたもの)ではなく、いつも「肉体の伸びやかさ」をもっているからだ。
 「意味」を考えず、ただ「この行が好き」「ここがかっこいい」と思って、私は鈴木の詩を読む。大坂ナオミのサーブがかっこいい、あるいは黒いマスクがかっこいい、というような感じ。
 それ以上のことを言えるほど、私は鈴木の詩を知らない。




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2020年10月21日

2020-10-21 23:59:05 | 考える日記

2020年10月21日(水曜日)

 魯迅を読む。読み返す。
 魯迅は、私に「正直」を教えてくれた人である。その「正直」は、何とも言えず悲しい。
 「故郷」には、こんな文章がある。

 私は横になって、船底にさらさらという水音をききながら、いま私は私の道を歩いていることをさとった。

 この「道」ということばに、私は、どうしようもなく胸を打たれる。
 この「道」の対極に、「故郷」の場合、彼の幼友達の「閏土」がいると考えるのは簡単である。しかし、それでは閏土に「道」はないのか。いや、あるのだ。「阿Q」に「道」があるのとおなじだ。
 魯迅は「道はある」とは言わずに「道になる」と書く。

 それは希望でも、絶望でもない。「道」は現実であり、「道」は歩くしかないのである。

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鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』

2020-10-21 10:56:56 | 詩集


鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』(書肆侃侃房、2020年09月17日発行)

 鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』の魅力を語るには、「虹 はじまりのはじまりのうた」「未来」のような作品についてこそ語らなければならないのだが、スケールが大きすぎて「尺度(距離感)」の取り方がむずかしい。
 私は私にできる接近方法をとる。
 「宇宙語」という作品。

どうしたのだろう?
私が眠っているとき
私のなかに宇宙がゆっくり入ってきて
朝焼けの空に変わり 熱くなり
冷たくなり 喉が渇き
宇宙は去って行った

 「私のなかに宇宙がゆっくり入ってきて」という一行が強烈である。「私」と「宇宙」を比較すると、どうしても「宇宙」の方が大きい。だから一般的には、「私」が「宇宙」のなかに入っていく、というのは「論理」として理解しやすい。しかし、鈴木は逆に書いている。「宇宙」という巨大なものが「私」のなかに入ってきた。「論理」的にはありえないことが起きた。その「論理」としてはありえないことは、「論理」ではなく「感覚/印象」のようなものを引き起こす。
 「朝焼けの空に変わり 熱くなり/冷たくなり 喉が渇き」ということばは、どう読むべきか。どう「ことば」を補うと、私の「論理」に近づいてくれるだろうか。私は「私のなか」ということばを補う。

「私のなかは」朝焼けの空に変わり 「私のなかは」熱くなり
「私のなかは」冷たくなり 「私のなかは」喉が渇き

 この「私のなか」を「私の肉体」と読み直すと、私にはさらにわかりやすくなる。

「私の肉体は」朝焼けの空に変わり 「私の肉体は」熱くなり
「私の肉体は」冷たくなり 「私の肉体は」喉が渇き

 「宇宙」は「物理」や「天文科学」でいう「宇宙」ではなく、「私の存在を超越する巨大なもの」の比喩と理解すれば、その巨大なものによって「私の肉体/肉体の内部(感覚/精神を含む)」が強い刺戟を受けた。
 こう読み直せば、なんとなく、鈴木の「肉体」に近づいたような気がする。これはもちろん「誤読」である。私は鈴木のような体験をしたことがないので、私のできる範囲で(私の肉体が可能な範囲で)、鈴木のことばを「読み替えている」だけである。
 こういう特権的な体験をしたあと、「肉体/人間の思想」は、どう変わるのか。

私はひどく疲れ やり直しがきかないほど気が滅入った

 これは、また、非常に不思議な感じがする。特権的な体験をしたあと、人間は特権的な存在になる、と私は考えているが、鈴木は「疲れ」「気が滅入っている」。いわば「宇宙/特権的な存在」によって、祝福されたのではなく、否定されたような感じ。
 ここから、どうやって回復していくか、「私」をとりもどしていくか。

けれども鶏の卵ほどの小さな宇宙が
二つばかり残っていて
私の胸のあたりをぐるぐる回っているらしい
一つの卵はだんだん成長し
小さな森になり 小さな葉と根をつけ
枝も揺らしていた
もう一つの宇宙は小さな詩を書く卵になり
眼鏡をかけるとその詩を読める気がした

 「詩」を発見する。そしてその「詩」は「書く」と動詞が先にあり、次に「読む」という動詞がつづいている。
 「詩」を書き、その「詩」を読む、読めるようにする。つまり発表する。そういうことで、「世界」と新しい交渉を始める。
 そういうことが象徴的に語られているのだと、私は「誤読」する。
 途中を省略し、作品の最後。

私を眺めている
あの空が私なら
あそこに書かれている詩をいまに
読むことができるだろう
みんなで勇気を出して生きるための詩を

 ここでは逆に、「詩」を読み取り、それを「詩」に書き留めるということが語られている。
 しかし、これは「逆」のことではなく、先に書いたことの言い直しなのである。
 「特権的な存在」(インスピレーション、と考えてみるといいかもしれない)が、「詩」を書く。詩を存在させる。それは「特権」に触れた詩人にしか読み取ることができない。そして、インスピレーションに触れること自体は多くの人が体験するが、その特権的インスピレーションを「ことば」として読み取り、書き写す(書き留めなおす)ということは、さらに特権的な人間、つまり詩人にしかできない。
 「憑依」ということばがあるが、鈴木は「憑依されること」を受け入れ、「憑依された特権」として「詩(宇宙語)」を書いている。
 こういうとき、「詩」(憑依することで姿をあらわす宇宙)は「ことば」をとおしてだけ表現されるのではない。「詩」にはさまざまな変容がある。たとえば、「ドラム」もまた「宇宙語」である。
 「AIR--ホセ・クラヴェイリニフに続いてうたう」は、「ドラムに憑依した宇宙」に「再憑依された詩人/鈴木」が「ことば」をつかって語る詩である。

遠い
アフリカにドラムになった男がいた
ドラムが鳴り響くときらめく河の鰐があくびして這い出し
ドラムが鳴り響くと森林の動物たちは目を覚まし
好奇心にかられて 人間たちの踊りをながめた
宇宙の闇に消えていくドラム
心臓になったドラム 血のしたたるドラムよ
おお 歴史は確かに動いているのだ
遠い アフリカは四千年の闇から目覚め
夜明けに幾つもの国が生まれた

 「目を覚まし」「目覚め」と動詞と名詞で言い直されることば。そして、その動詞と名詞は「生まれる」という別の形に突き進んでゆく。この変化は、さらに言い直しつづけられる。

空に太鼓が鳴り響くと
一本の木がゆっくり立ち上がり葉という葉を震わすだろう
空の太鼓が鳴り響くと
夜の果物という果物があまく香り
月と舟の間で揺れるだろう
空の太鼓が鳴り響くと
高校生のオーケストラの下の弦楽器がふしぎな音で鳴りだし
つづいてホルンやチューバが鳴りだし
ウエストサイド・ストーリーは始まるだろう

 「目覚め」は「共振/共鳴」としてひろがり、次々にあたらしい世界(宇宙)が「始まる」。「始まる」は「生まれる」の言い直しである。
 だが、それは必ずしも「祝祭」というか「幸福」だけではない。

空の太鼓が鳴り響くと
ボスニアの廃墟に子どもたちが集まってくるだろう
子どもたちよ おお 子どもたちよ
地雷を踏んで手足を吹き飛ばされた子どもたちよ
チェリノブイリで放射線をあび甲状腺手術を受けた子どもたちよ
飢えて路上で物乞いをしているのにすっかり忘れられた子どもたちよ
子どもたちを抱きしめてやさしく揺すってやらなければならない
そして「ずーっと ずっと だいすきだよ」と
いってやらなければならない
なぜならわたしたちはいつか死ぬのだから

 不幸な子どもたち、悲劇の子どもたち。その子どもたちにもドラム(空の太鼓)は響く。子どもたちも、空の太鼓(ドラム)が語る「宇宙」に共鳴する。
 「祝祭」には不幸や悲しみ、死さえも含まれる。すべてが存在するのが「祝祭」である。

わたしたちはいつか死ぬ

 しかし、ただ死ぬだけではない。

空の太鼓が鳴り響くと
夜な夜な愛し合う恋人たちの体の不思議な花花は
汗をかきながら開くだろう
おお すっかり忘れさっていた歯にあたらしい果実
唯一つの人間の勝利 というより体のなかに残っていた
やさしい子どもを呼び戻すだろう

 「いのち」はつづいていく。「未生」のものが「いのち」となって、生まれる。ことばは何度も言い直され、語られ直される。そしてひろがり、「宇宙」になるのだが、そこには必ず「いのち」がある。

 この詩のなかに、こんな行もある。

空の太陽が鳴り響くと
ときに疲れ果て暗く寂しい日に
ひとりの神が「われ渇く」とかすれた声でいうとき
空はたちまち大声をあげて泣き叫び
アジアの空はモンスーンが吹き荒れるだろう
ひとりの神が渇くとき別の神が雨の中からよみがえるだろう

 「太鼓」は「太陽」と言い直されている。そのなかの、「われ渇く」「神が渇くとき」さらに「疲れ果て」ということば。それは「宇宙語」にも書かれていた「渇き」「疲れ」でもあるのだが、それを含めて「祝祭」なのだ。「現代の詩」(現代の祝祭)というものは、苦しみの中からの「復活」のことなのだ。鈴木のことばは「人間復活(いのち復活)」の騒音となって耳を突き破る。この響きわたる巨大な音を聞き取る鼓膜を、実は、私はもっていない。だから「弱音」に返還して、「誤読」して、こんな感想を書くしかない。


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黒沢清監督「スパイの妻 劇場版」(★★)

2020-10-20 15:26:45 | 映画
黒沢清監督「スパイの妻 劇場版」(★★)(2020年10月20日、KBCシネマ1)

監督 黒沢清 出演 蒼井優、高橋一生

 黒沢清は何を撮ろうとしているのか。私は、そんなに多くの作品を見ているわけでもない。見た作品も、ほとんと覚えていない。私とは、相性が悪いのだろう。
 思うことは、ただひとつ。
 黒沢は、古い映画をたくさん知っているに違いない。1950年代、あるいはそれ以前のものもあるかもしれない。スクリーンの枠組みというが、絵のなかにしめる人物の位置が、どうも古くさい。私が映画館で映画を見るようになってから見た映画というよりも、テレビで見た白黒フィルム(テレビ自体が白黒だったが)やリバイバルとしてみた白黒フィルムの感じに非常に似ている。
 この映画のなかには、実際に、主人公が妻をつかって撮ったフィルムが流されるが、それは「出色」。その映画中映画のもっているニュアンス、トーンが、まあ、黒沢が狙っている映画ということになるのだろう。
 全編を白黒で撮ると、この映画はなかなかおもしろいものになると思う。
 出だしの英国人を逮捕するときの建物の前の刑事ふたり。ひとりが白い服。一人が(忘れたが、白くない服)、その間にカーキー色の軍人(?)が入り込む。カラーだと、色がうるさくて、緊張感がそがれる。
 森の中を車が走るシーン、木の間から見える空(光)と樹木の形(影)のコントラスト。これなども、黒沢明の「羅生門」に通じるものをもっているかもしれない。モノクロ映画ならば。
 さらに、登場人物たちの、妙にのっぺりした顔(クライマックスまでは、まるで能面)のように、目鼻の輪郭があるだけで、陰影がない。モノクロというよりも、無声映画時代の「顔さえ見せておけば、セリフなんてどうでもいい」という時代の撮り方だなあ。
 これに輪をかけるのが「セリフ」に重心が置かれていること。蒼井優の「セリフ」が特徴的なのだが、「心情」をことばで説明する。映画ならば、ことばでなく、役者の肉体と顔で、感情の変化をあらわすのだが、「セリフ」をいったあとで「顔」が動いている。
 だから、クライマックスというか、見せ場はみんな「演劇(舞台)」みたいな感じ。
 最後も、あまりにも「説明」的すぎる。高橋一生(でいいのかな?)が、船の上で帽子を振っているシーン、蒼井優が「だまされた」と気づいた瞬間でおわっておけば、まだ映画の印象は違ったかもしれない。蒼井優の精神科病院への入院、そこでのやりとり(大演説)、空襲という幕切れは、完全な「紋切り型」。
 これを新しいスタイルと感じるか、時代後れと感じるかは、人によって違うだろうが、私は「時代後れ」と感じる。



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吉田文憲「残された顔」

2020-10-19 10:20:03 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残された顔」(「午前」2020年10月15日発行)

 吉田文憲「残された顔」は、唐突にはじまる。

ここに残された顔があり、
この場所からさまよい出したものがいるのだ。

 ことばのひとつひとつは「わかる」。知らないことばがない。けれど、具体的に何を言っているのかわからない。この「わからなさ」が唐突ということだ。
 「ここ」も、わからないといえばわからないが、「残された顔」がさらにわからないので、「ここ」のことは忘れてしまう。吉田がいる場所くらいの感じで納得して「残された顔」に意識がひっぱられる。それが「ある」。
 では、「顔を残していったもの」は何?
 それが二行目で説明されていることになる。「さまよい出した」。うーん、「顔を残す」ということを明確に意識していたのかなあ。「さまよう」には意識の暗がりがある。「顔を残す」ということを意識するというよりも、「顔をもっていくこと」を忘れてしまったということかもしれない。ほかのものに意識を奪われた。そのために「顔をもっていく」ということを忘れてしまった。その「忘れられたもの」が残っている。そうすると「顔」というのは、そういう「意識の忘れもの」の「象徴」かもしれないなあ。
 「意識できなかった意識という、意識の忘れもの」は、まあ、ことばにはできないなあ。
 同時に、「さまよい出した」ものも、それがいったい何なのか、ことばにするのはむずかしい。「さまよい出す」という「動詞」だけが、明確なものとして「ある」。
 「ここ」は「この場所」と言い直されているが、「ここ」「この場所」とはどこなのか、これもはっきりとはわからない。
 「さまよい出す」は、次の連で言い直される。

川に沿って進んだ
ふしぎなものが目の前を通りすぎていった。
赤い旗。斑の小犬。
蔓草は枯れており、風にあたって背後でがさがさ鳴っていた。
草の上を光るものがゆっくり動いている。
わたしはすいかずらの匂いの下を歩いていた
          その道の下にさらにひとつの遠い影が落ちている。

 「さまよい出す」は、とりあえず「進む」ことなのだ。「ここ」ではないところへ行くこと。「川に沿って進んだ」の主語は不明確だが「わたし」と仮定できる。
 私は、顔を残し、さまよい出たものを追いかけるようにして動いている(ここから別の場所へ移動している)ということになるかもしれない。
 そのとき「残された顔」とは「わたしの顔」なのか、「他人の顔」なのか。この判断は、保留にしておくべきか、いま考えるべきか。
 「わたし」は「ここ」から「ここではないところ」へ動く。「さまよい出したもの」を追いかけるとき、「わたし」は「さまよい出したもの」になる。そういう「二重性」を意識して、ことばを追いかけてみる。
 「ふしぎなものが目の前を通りすぎていった。」はすぐに「赤い旗。斑の小犬。」と言い直されるが、それはどこからやってきたのか。もしかすると「さまよい出したもの」を追いかけている「わたし」から「さまよい出した新しい存在」ではないのか。「さまよい出したもの」を追いかけるとき、その追いかけるわたしから、次々に何かが「さまよい出してくる」。そして、それが世界をつくっていく。
 「風にあたって背後でがさがさ鳴っていた。」と、次の行では「背後」が出てくるが、「背後」も「背後」へ向けて何かが「さまよい出す」ことによって生じたものと考えることができる。最初から「背後」があるのではない。
 たぶん、そうなのだ。
 最初からあるものは、何もない。「さまよい出す」ことによって生まれてくるものがあるだけなのだ。
 「残された顔」も最初から「残された顔」というものがあるのではない。「さまよい出したもの」があって、はじめて「残された顔」というものが「ある」。いつも「二重性」という構造が存在する。「ことば」と認識、「ことば」と世界。
 あるいは、ことばによって分節されるということだけが。
 「さまよう」だから、明確な目的はないかもしれない。そして、明確な目的がないときでも、世界は存在してしまう。
 ことば(意識)は、どこまでも「さまよい出す」ことができる。そして、「顔(ことば)」を残し続けるのである。

わたしはすいかずらの匂いの下を歩いていた
          その道の下にさらにひとつの遠い影が落ちている。

 「下」ということばが二度くりかえされる。「下」には意味があるのだ。「意識」ということばを私はつかったが、「意識下」ということばがある。匂いの「下」を歩くとき(さまよい出すとき)」、その「下」ということばに呼応するように、わたしがあるいている「道の下」にもうひとつ「道」があり、そこにはさらに「わたし」から先に「さまよい出した」影が動いている。そして、その「意識下」とはそのまま「残された顔」になる。
 意識の二重化は、さらにその意識を二重化させる。ことばは、いつでもそういうに二重化をどこまでも「さまよい出す」ものである。
 こういうとき、ふいに、「残された顔」がなつかしく思い出される。その肖像を描くことはだれにもできない。でも、あの瞬間、あの場所に、確かに「残された顔」があり、その「残された顔」という認識(言語化された意識)は永遠に残り続ける。





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青柳俊哉「水色のゆうぐれ」、池田清子「折り返し」、徳永孝「花」

2020-10-18 18:52:12 | 現代詩講座
青柳俊哉「水色のゆうぐれ」、池田清子「折り返し」、徳永孝「花」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年10月05日)

水色のゆうぐれ  青柳俊哉

からすの声の中の 
至福につつまれる 水色のゆうぐれ 

雨まじりの 柿の木のうえの空間を
からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく
そこは 
わたしたちがいくども歩みすぎて
うたいかえしてきた道であった
そこには 
永遠に熟していく秋の穂が堆積していて
子どもの涙のように あふれだしてくるのだった

ゆきのしろから そらのあおへめぐっていく
水音の層のように  

 この詩には、「わからないけれど、ここがいいなあ」と感じるところと、ほんとうに「わからないところ」がある。
 私がいいなあ、と感じるのは「わたしたちがいくども歩みすぎて/うたいかえしてきた道であった」という二行と、「永遠に熟していく秋の穂が堆積していて/子どもの涙のように あふれだしてくるのだった」の二行。
 前者は、とても自然なリズムがある。歩み「すぎて(過ぎて)」、うたい「かえして(返して)」の往復が「いくども」になり、それが自然に「道」になる感じがなんとも美しい。「道」は、その「往復」によって次第に「道」になる。最初から「道」があるのではない。
 この自然に「道」になるという感じの「自然」は、「あふれる」という感じ。
 意識して往復するのではない。知らず知らずに往復してしまう。そうすると無意識の内に「道」ができる。ひとは「無意識」を歩く。
 「そこは」「そこには」と書くとき、青柳は、「どこ」を想定していたのか。「秋の穂が堆積していて」ということばを読むと、「地上」という気がしないでもないのだが、私は思い切って「誤読」する。
 「雨まじりの 柿の木のうえの空間を/からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」と書かれている「空間」、つまり「空」を。「空」には常識的には、もちろん「道」はない。しかし、その空を見上げながら歩くとき、なんだか空を歩いている気持ちになる。とくに、こどもならばね。その「幸福感」が「子どもの涙のように」あふれてくる。
 つまり一連目の「至福」が二連目で言い直されていると感じた。この瞬間、青柳はおとなでありながら、「子ども」になっている。
 わからなかったのは「からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」の「まぶしく」という副詞のつかい方。カラスの声の鋭さをまぶしく、と言ったのか。青柳はからすの声を聞いた瞬間の印象と説明したが、わかったようでわからない。
 また三連目の「ゆきのしろ」もわかりにくい。「水」へのつながり、「水」の一形態として「ゆき」が選ばれている。その「ゆきのしろ(雪の白)」と「そらのあお(空の青)」が融合し「水色」が生まれ、それは「水音」へと別の感覚、視覚から聴覚への移行があるのだが、これはあまりに「論理」になりすぎているような気がする。また、二連目の「柿」(秋)と「ゆき」(冬)では、季節がちがうなあと感じる。季節の移行期(またぎ)と考えればいいのかもしれないが、少し整理した方か読者には親切かもしれない。



折り返し      池田清子

七転び八起き
うーん
七回転んだら七回起きるけど

人生の折り返し
うーん
どこで折り返す?

折り目があったら
対称になる
来た道をそっくり帰るのは
いやだ
ジグザグの折り目は作れないし

真ん中ではなく
少し端から折るといいかな
紙ではなく
ふわふわの布を
自由に折るといいかな
それは
もう折り返しとはいわないなあ

うーん
でも一本の細い糸でつながって
不細工に折り返って
一瞬でもいい
重なりたい場所がある

 「七回転んだら七回起きるけど」というのは、言われてみるとそうですねえ。でも、これは「科学」(物理?/数学?)の問題ではなく、「ことば」の問題。一種の「ごろ」感覚だと思う。転んでも、起きる。倒れたままではない、ということを印象づけるには、どうしたって転んだ数より起きる数の方が「わかりやすい」。
 よくわからないが、私は、そう思う。「ことば」は弾み(勢い)でつかうものなのだ。そして、その「弾み」のなかに、きっと詩がある。「物理的/数学的正しさ」ではなく「こう思いたい」という欲望がことばになる瞬間の「間違い」。それが「詩」というものかもしれない。
 では、この詩のなかの「間違い」は何? どこが間違っている?
 「折り目があったら/対称になる」は正しいかどうかわからないが、「正しい」に近い。対称になるように折ってしまう、ということかもしれない。対称になるように折る方が簡単。「ジグザグ」の折り方は、あるのかもしないが、きっとむずかしい。
 そして、紙を折るのは簡単だが、布はむずかしいかも。いや、布は「折る」というよりも「畳む」でしょう。
 そうすると四連目に「間違い」があることになる。布は折るものではない。畳むもの。それを「折る」と考えている。なぜだろうか。
 この「布」には実は最終連の「糸」と繋がっているのだ。「紙」のままでは最終連に「糸」が登場できない。「糸」を呼び出すためには「布」が必要だった、「布」という「弾み」が必要だったのだ。
 間違うことが求められていたのだ。予感されていたのだ。
 では、「糸」とは何か。縦糸、横糸が交差して「布」になる。でも、ここに書かれている糸は、もっとちがう感じ。「布」になることを求めていない。むしろ、恋人と恋人を結ぶ「赤い糸」。運命の「糸」。一本であること。
 その「糸」は、いまは切れてしまっている。一本ではなく、向こう側のない日本になってしまった。だから、「折り返す」(過去へもどる)ことで、「つなぐ」ではなく「重なる」。切れたものは「つなぐ」のがふつうだが、それができないとわかっているからせめて「重なりたい」。
 「場所」と書いているのは、紙を「折る」という行為が、面積(場)を重ねるからである。実際は「時」と考えてもいいかもしれない。二人が「糸」で結ばれていた「時」と。



花   徳永孝

Mさんが話している

日本の花は白や紫
春の小川の岸に咲く
すみれやれんげ
白秋の詠う
からたちの花 白花たんぽぽ
黄花たんぽぽ

西洋の花はバラ
ピンククリーム色
赤 白 黄色
大輪 小輪
八重 四季咲

聞きながら想う
それぞれに咲く 日本の花 西洋の花

わたしはどちらも好き

 「日本の花」と「西洋の花」が対比される。それは一連目「話している」と三連目「聞く」という動詞と向き合う。そのとき「Mさん」と「わたし」が対比というよりも重なる。(池田が書いている最後の「重なる」に通じる。)
 これは美しい光景である。でも、その「美しさ」がいまひとつ伝わりにくい。なぜだろうか。「日本の花」と「西洋の花」の対比の仕方に「むら」があるからだ。日本の花には「春の小川の岸」や「白秋」という具体的な描写、人間が登場するのに、「西洋の花」はバラ」しか出てこない。
 いや、色や大きさ、咲き方の違いが書かれているというかもしれないが、あまりにも抽象的。もう少し具体的な描写の方が「花」を思い浮かべやすい。
 なんでもないことのようだが四、五連目の「わたし」の省略と復活には、詩がある。「わたしは聞きながら想う/それぞれに咲く 日本の花 西洋の花//どちらも好き」の方が「Mさん」(話す)と「わたし(聞く)」の関係がわかりやすいのだが、その対比を隠しておいて(想像させておいて)、最後に「わたし」を出す。この瞬間、最後の一行は、
わたしはMさんが好き

 ということばになる。もう少し言い直せば「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」ということばになる。「私は花もMさんも、どちらも好き」よりも、もっと強く言い直したのが「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」である。



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ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

2020-10-18 10:05:59 | 映画
ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

監督 ファラド・サフィニア 出演 メル・ギブソン、ショーン・ペン(2020年10月17日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「辞書作り」の苦労を感じたくて見に行ったのだが、肩すかしを食った感じ。
 ショーン・ペンが「ことば」にのみこまれていくのは、「ことばを読んでいるとき、自分が救われる」というような言い方で表現されている。そして、「本のなかのことば」を読んでいたときは、確かにそうだったのだが、「現実のことば」に直面すると救われるどころか、もっともっと深い苦悩に引き込まれていく。「ことば」を「現実」(自分の肉体)で定義しようとすると、どうしていいかわからなくなる。ここが、この映画のクライマックスで、こういう「矛盾」のなかに潜む「絶対的真実」(一回かぎり、その人かぎり)を具現するには、やはりショーン・ペンが必要だったというともわかる。
 こうした「ことばを超えた絶対(一回かぎりの真実)」をどうやって「ことば」としてとらえ直し、「現実を定義するか」。言い直すと、ことばはどうやってことばになるか。この哲学的問題を考えるには……。
 あ、あ、あ、あ。
 私は「英語」がわからないのだった。「字幕」にはアルファベットと日本語が交錯して映し出されるが、ここはどうしたって英語そのものの「来歴」というか「歴史」がぼんやりとでも感じられないと、起きていることが実感できない。
 困ったなあ。
 ここがクライマックスだぞ、ということはショーン・ペンの動きと、それを補足する「日本語字幕」で「ストーリー」としては理解できるが、その「ストーリー」に私の「肉体」が重ならない。言い換えると「感情移入」できない。
 英語が母国語の人なら感じるに違いない「ことばの響き(深み)」が、私の頭のなかを素通りしていく。かすめる、という感じすらしないのだ。
 まいったなあ。
 だからね、逆に言うと。
 その「クライマックス」よりちょっと前の、ショーン・ペンの人生をほんとうの苦悩に引き込む女性が、「文字が読めない」とわかった瞬間、それに対するショーン・ペンの説得というか、励まし、その後女性が文字を覚え、読めるようになっていく、ついには「ことばをこえることば」(深い真実)を書くようになるまでの、なんというか、「さらり」とした部分が、とても私の「肉体」には響いてくる。実に、実に、実に、せつせつと感じられる。
 場違いを承知で書くと、石川淳や森鴎外の、「ここはちょっと簡単に書いておくね。あとで必要になる(伏線のはじまり)なのだから」という感じの「(映画)文体」になっている。
 あ、ショーン・ペンのことばかり書いたが、一方のメル・ギブソンにも妻との愛の葛藤、家族への愛と「学問」への愛の両立というような問題が起きるのだが、その苦悩のなかに「ことば」はあまり重要な要素としては入ってこない。なんというか、「謎解き」というか、「頭脳の解釈」で完結しているように思える。これは、私が英語がわからないということと原因があるかもしれないが。
 で、また、ショーン・ペンの逸話にもどるのだが、「ことば」を覚えるということはとても危険なことなのだ。とくに「ことば」を書くということは。知らなかった自分を発見し、その知らなかった自分になってしまう。そうするともう、その知らなかった自分を信じて、それについていくしかない。「ことば」を生み出しながら、「ことば」に導かれ、「ことば」についていく。
 辞書には。とくにこの映画が題材としている「オックスフォード英語大辞典」には、そうやって「肉体(生活)」に定着してきた「ことば」の歴史(変遷/つまり揺らぎ)が書き込まれている。そのうちのなんとかということば(私はもう忘れてしまった)には、ショーン・ペンの逸話がなければわからないものがある。いや、それよりも重要なのは、この映画では「見出し言語」としては紹介されていないが、たとえば「love(愛)」というだれもが知っているようなことば、日常語になりきってしまっていて、その意味を真剣に考えることのないことばにも、それがいままでの「愛」の定義ではとらえきれないものが隠れているということを教えてくれる。

 こんなふうに感想を書いてしまうと、とてもいい映画、みたいになってしまうが。
 これはね、これはこれで、ことばの「罠」なのだ。ことばは「書きたい」と思っていることを書くとき、その他を切り捨ててしまう。その結果、「結論」がどうしても「結晶」してしまうということが起きる。
 「異端の鳥」は大傑作であるけれど、たったひとつ、通俗映画そのものに通じるエピソードのために台無しになってしまっている。この「博士と狂人」は逆に、たったひとつ、ショーン・ペンが女性の「弱点」のようなものに気づき、それを女性が「弱点」であると認識し、自覚を持って越えていく、その「超越」の向こうになにがあるかわからないが、それについていくことからはじまる「破滅」が映画を駄作から救い出している。ここだけなら、まるでギリシャ悲劇だ。
 でもね、★はやっぱり、2個のまま。肝心の「英語」がわからない。英語がわかるようになれば★4個かも。



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服部誕『そこはまだ第四紀砂岩層』

2020-10-17 17:06:54 | 詩集


服部誕『そこはまだ第四紀砂岩層』(書肆山田、2020年10月20日発行)

 服部誕『そこはまだ第四紀砂岩層』はソネット形式(4・4・3・3行)で書かれている。「形式」があると、ことばは「意味」を持ちたがる。
 「屋根を越えて」は、

抜けた上の歯は縁の下へ
下の歯は屋根の上にと
すっかり歯のなくなった祖父母に教えられて
思いきり抛りあげた最後の乳歯

 とはじまる。これは二連目で「屋根に投げ上げたゴムまり」、三連目で「スズメと猫」を経たあと、こう結ばれる。

屋根の向こうに消えた昨日には
どこか遠い場所に通じている
ひそかな抜け穴が開いていた

 おさない日の記憶は消えても「昨日」のように思い出される。「屋根」の上は見えない屋根の向こうも見えない。けれども、その見えないものを「記憶」は見てしまう。見えないものを見てしまう力を「ひそかな抜け穴」と呼ぶとき、それは「除き穴」のようにも感じられる。そして、この「穴」は、この詩では歯の抜けたあとの歯茎の穴の「肉体」の記憶にも通じる。
 そこがおもしろいところなのだが、こんなふうに「意味」が完結してしまうと、「納得」はするけれど、もう一度読んでみよう、というよりも、次の詩を読んでみようという具合に私は感じてしまう。
 こんな言い方は正しくないのだが、「ストーリー」を追うみたいに詩集のページを繰ってしまう。
 うーん。
 私はもう少しちがうものを読んでみたい。
 「書いてあること」が、そのまま「意味」として存在してしまうのではなく、「意味」以外のものとして存在することばを読んでみたい感じがする。
 こういう言い方は抽象的なので、少し、言い直そう。
 「屋根を越えて」の前のページには「スズメの万愚節」という作品がある。その作品に逆戻りしてみる。

すっかり暖かくなった
春の日
スズメがアクビをしているのを
はじめて見た

カーテンを開けた
窓のそと
ベランダのへりに止まって
わたしの目を見ながら

スズメのまんまるの眼が細くなり
ちいさなクチバシがおおきく開いて
あかい喉の奥が見えた

ああーあぁ アクビはうつる
アクビをしたわたしを見届けてから
スズメはついっと飛びたった

 ここには「意味」はない。ただ、スズメのアクビを見た。スズメのアクビがうつった。ということだけが書かれている。「アクビをしたわたしを見届けてから」に「意味」があるといえばあるが、これは「ナンセンス」という意味。
 そこから「先」がない。
 だから「ベランダのへり」の「へり」ということばが妙に柔らかくていいなあ、とか、「スズメのまんまるの眼が細くなり」を読み返し、あ、これを見てみたいなあと思ったりする。
 こんな感じをぱっと与えてくれるものの方が、私は「詩」だなあ、と思う。
 「ソネット仕立てのかぞえうた」も楽しい。

ひとびとが集い
市、が立った
にぎわいは溢れ
荷、は行き交った

--さん、と名が呼ばれる
詩、が詠われる
語、が語られる
ロック、がロールする

質、は流れ
鉢、は割れ
球、は転がりつづけた

銃、が撃たれた 日ならずして自由、は奪われた
それから幾百年ものあいだ
霊、は祟った

 一連目だけが、もたもたしているというか、ひとつの数字が一行でおわらず、二行かけてひとつの数字を言っている。ここが、妙におもしろい。「ひとつ」のなかに二つがある。「もたもた」と書いたが、視覚の「もたもた」(一行ではなく、二行)を吹き飛ばす音の楽しさがある。「が立った」「は行き交った」という音の響きあいも音楽的だ。この響きあいには、実は「が」と「は」の呼び掛けもある。そしてこれは「と」を挟んで、「が」(二連目)「は」(三連目)の対比を経て四連目で「が」「は」の同居にもどる。
 四連目は「銃、」の行が長いのだが、乱調を経たあと「霊、は祟った」とまた短くなるところもいい。
 この詩も、なんとなく、もう一度読み返したくなるでしょ?
 その読み返すところが、一連目か、二、三連目か、あるいは四連目(最終連)かは、人によってちがうと思う。
 そういうことが、また楽しい。
 何人かでこの詩を読んで、「どこが好き?」というようなことを語り合うと楽しい。「スズメの万愚節」も、どこが楽しい?という問いかけから語らいがはじまると思うが、「屋根を越えて」は、どこが楽しい?という問いかけからは語り始めるのがむずかしいかなあ、と思う。
 服部はどちらかというと「思考派」の印象があるので、「どこが楽しい?」からはじまる広がり方は、服部の狙いとはちがうかもしれないけれど。






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回答を求めない?

2020-10-17 00:14:01 | 自民党憲法改正草案を読む
   自民党憲法改正草案を読む/番外408(情報の読み方)

 読売新聞(オンライン)に、こんな見出し。

学術会議の梶田会長、首相に6人の任命求める要望書…「政府と共に未来志向で考えていきたい」

 要望書への「回答」はなく、「政府と共に未来志向で考えていきたい」という梶田の「方針」が見出しになっている。
 これはいったいどういうこと?(番号は、私がつけた。改行も私がほどこした。)

①会談は梶田氏が要請し、約15分間行われた。
②会談後、首相は「学術会議が国の予算を投じる機関として、国民に理解をされる存在であるべきだ」と、梶田氏に指摘したことを記者団に明らかにした。
③首相によると、梶田氏は「今後の学術会議のあり方を政府と共に未来志向で考えていきたい」と応じ、井上科学技術相と学術会議の役割を検討していくことで合意したという。④梶田氏は記者団に「学術会議としても発信力が今まで弱かったことについては、しっかりと改革していきたいと申し上げた」と説明した。
⑤任命拒否の理由に関しては、「今日は回答を求めてという趣旨ではないので、特にそこについて明確なことはなかった」と語った。

①梶田が要請したのに、「回答」がないのは、なぜ? 15分で終わるような会談で、いったい何を話したのか。
②もし、6人が「任命拒否」ではなく、いま会員だった6人の「解任(除名)」なら、菅の言っていることはまだわからないでもない。6人の「学術会議」での活動が「国民に理解をされる存在」ではない。だから「解任(除名)する」なら、菅の発言の意味はわかるが、「学術会議」で何も発言していない段階で、その6人が「国民の理解を得られない」というのはおかしい。人間なのだから、発言は変わる。「学術会議」のメンバーになって、いろいろな意見を聞く内に自分の意見を変えるという可能性もある。そう考えると、菅の言っていることは「6人任命拒否」とは無関係なことだとわかる。いわゆる「論点ずらし」である。
③は、菅が理解した梶田の発言であって、梶田がほんとうにそう言ったのか、よくわからない。まさか、まったくちがうことを言っていないとは思うが、微妙にニュアンスがちがうかもしれない。こういうことは伝聞(菅の口から)ではなく、梶田本人のことばでないといけない。
さらに、 (ここがポイント)
②③の発言は「時系列」にしたがっていると思う。つまり、菅がまず「「学術会議が国の予算を投じる機関として、国民に理解をされる存在であるべきだ」と言い、これに応える形で梶田が「今後の学術会議のあり方を政府と共に未来志向で考えていきたい」と言った。読売の記事ははっきり「応じた」と書いている。
これでは、ほんとうに梶田が菅に会談を要請したのか。この時系列のやりとりを読むかぎり、菅が梶田を呼びつけ、菅の要望を梶田に伝え、梶田が「はい、わかりました」といっているように見える。
(他紙はどういう表現になっているかわからないが、こういうことを「正直」に書いてしまうのが、読売新聞の非常におもしろいところ。)
 で、話は(会談は)、そこで終わらない。なんと、
④は、「反省/謝罪(発信力が今まで弱かった)」を語ったうえで「改革」していくという。つまり③の補足である。念押しである。これでは菅の指摘をそのまま肯定することである。そう言うことを言うために、梶田が会談を申し入れたのか。そういう一種の「謝罪」のようなことを言うための会談なら、「6人の任命求める要望書」を出すのは不適切だろう。「学術会議改革」を申し入れるということは、「要望書」を撤回すると同義であるだろう。国の方針がどうであれ、「学術会議」は「学者の立場」から提言、勧告、答申をする、というべきだろう。さらに、そういうことをするためには、菅が言っているような見直しではなく、「もっと会員が必要、予算も必要」というのが、普通の要望だろう。
⑤「今日は回答を求めてという趣旨ではない」は、「回答には時間がかかるだろうから、きょうの回答を求めているわけではない」という意味であるなら、「〇日までに、文書での回答を求めた」というようなことを明確に言うべきである。それに対して菅は何と答えたか。「明確なことはなかった」とは、まるで、こどものつかい。

 で、思うのだ。
 まず、「要望書」を梶田は、いつの段階で菅に提出したのかということである。読売新聞の記事からは、その「時系列」がわからない。
 もしかすると、「要望書」は菅の言い分を聞いて、梶田が最後に「要望書」を出したとも考えられる。
 もし、梶田が先に要望書を出したのなら、その要望書について梶田がまず説明し、それに対して菅が応える、というやりとりがあるはずである。そのやりとりが、読売新聞にはまったく書かれていない。いきなり、菅の「指摘(注文)」から書き出し、それに対して梶田はひとことも反論をせずに、「協力する(共に、と書いている)」応えている。
 これが、とても不思議。
 さらに。
 読売新聞の記者は、なぜ、菅は、梶田が「今後の学術会議のあり方を政府と共に未来志向で考えていきたい」と言ったと言っているが、それは正確な表現か、を確認しないのか。なぜ、菅の「伝聞」として伝えるのか。

 前後するが。
 いちばんの問題点は。
 梶田は、要望書を渡したとき、「〇日までに、文書での回答を求める」というようなことは言わなかったのか。言わなかったとしたら、なぜなのか。もし、言ったとしたなら、菅は何と答えたのか。そういうことを追及してもらいたい。
 ふつう、言うでしょ? 私なら、要望をするかぎりは、いつまでに回答してほしいと伝える。それを言わなければ、受け取った方は、受け取ったということで問題を終わらせてしまう。「できるだけ速やかにお答えします」という形式的な回答さえ聞き出していないというのは、問題ではないだろうか。
 そういう「やりとり」があれば、梶田の「本気度」がわかる。
 逆に言えば、この記事からわかることは、梶田は「本気」ではない。すでに、怯えている、という印象である。多くの団体が「抗議」をしている。それは梶田の耳にも届いているはず。「学術会議」のなかでも「任命拒否」に対する抗議が起きているはずである。「要望書」をまとめるくらいである。そういう「要望書」をもって会談する人間の態度としては、あまりにも弱々しい。
 そして、そういうことを指摘しない読売新聞というのは、もうこの段階で菅に肩いれしている。もし「学問の自由」を守らなければいけないという意識があるなら、梶田の態度を批判する(批判していることがわかる)記事を書くべきである。
 要望書への反応(今後どうなるのかを含め)を書かずに、菅の言い分は正しい、梶田はそれを受け入れた、と報道することで、読者を誘導している。







*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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近藤久也「ぶーわー 44 あとがき」

2020-10-16 11:33:30 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「ぶーわー 44 あとがき」(「ぶーわー」44、2020年10月15日発行)

 近藤久也「ぶーわー」44の「あとがき」がとてもおもしろかった。

 サラリーマン生活を退いてから時々、障害者の移動支援に従事している。ほとんどが知的障害者といわれるひとたちである。朝、家を訪ねる。家族の方からその日の行きたいという場所を確認する。ご本人が決めたのか家族が決めたのか、或いは相談して決められたのか、私はこだわらない。言われた場所に行く。美術館、博物館、動物園、映画館、演芸場、プール、野球場、スポーツ施設、公園どこへでも行く。その人と一日を過ごす。会話が成り立つ人もいれば、そうでない人もいる。最近よくご一緒する方に、行き先が鉄道の駅の地名を指定する人がいる。二時間も三時間もかけてそこへ行くのである。別に鉄道マニアのテッチャンではないのである。どのようにしてその地名を決められたのか私はこだわらない。その駅に着き、列車を降り改札を出る。駅前に出る。その人を見ると、少しきょろきょろしている。お昼だからどこかで食事をしようかと誘ってみる。本の少し沈黙の間があり、帰るときっぱり言う。列車に乗って今来たのとは逆に大坂に帰ると言う。せっかく来たのだからの「せっかく」はその人にはないようだ。

 私は、ここで「へええええええーーーっ」と声を出してしまった。

「せっかく」はその人にはないようだ。

 「せっかく」は「ない」といけないものなのか。「へええええええーーーっ」。私は、そんなふうに思ったことがない。「せっかく」という意識が、私にはないのかもしれない。近藤の「つれ」のように。
 そうか、近藤はこういうとき、「せっかく」ということばが動くのか。近藤には「せっかく」が「ある」のか。
 私がもし近藤と一緒にその駅へ行った人間なら、「せっかく」ということばを聞き、きょとんとしただろうと思う。「せっかく、ってどういう意味?」と聞き返したと思う。知っているはずだけれど、聞き返したい、いまなんて言った?と問い返したいような、不思議な気持ち。
 近藤は、たぶん「せっかく来たのに……」とは言っていないだろうから、つれがきょとんとすることはないと思うが、いや、ほんとうに不思議な感動にとらわれてしまったのである。

 「爪のさき」は爪を切る詩。このなかにも「せっかくがない」のようなものが潜んでいる。「へえええ」と声を上げなかったが、何か書きたい気持ちになるのは、私のつかわないことばが近藤の肉体として動いているからだ。それは、どのことばか。

夜中
背まるめ
爪切っている足や手
伸びすぎて困るので
でも
すっぱり切って
こいついったい
どこ行く?
どこ行って
消える?
宙の
まっくら

みえないところでひとり
思案している行方
生きすぎて困るので
すっぱり別れて
はてこいつ
どこ行くのかしら
どこまで行って
みえないまんま


くっきり
からだから
離れて行く

を切る
おと

 くりかえされる「どこ行く」ということば? どうもちがう。そこには「意味」がありすぎて、「噴出してくる」という感じがない。「くっきり」も印象に残る。でも、何か、絶対にこれ、という印象ではない。なんというか、想像がつく。予想がつく。
 私の予想外のことば。
 それは最後の「爪/を切る/おと」の「を」である。
 この「を」は書き出しに探せば「背(を)まるめ/爪(を)切っている足や手」という部分にある。そこでは省略されている。「助詞」の省略は「どこ(へ)行く?」へという部分にもある。近藤はしばしば助詞を省略し、その省略によってことばを「口語」(肉体)に近づけている。
 この流儀にしたがえば、最後は「爪/切る/おと」でいいはずである。それなのに近藤は「を」を書いている。そして、その「を」の存在が「くっきり」ということばを明確にしている感じがする。「くっきり」だけではなく、最終連のことばを、それぞれ明確にしている。
 「せっかく」のように、知っていることばだけれど、「ない」ということばと一緒に動くと、はじめてみることばのように見える。おなじように「を」が書かれることで、こそに書かれていることばが「知っている」を通り越して、ひとつひとつ、それこそくっきりと感じられる。
 (私は近藤とは逆、助詞を省略せずに書くので「を」があることは私にとっては自然なのだが、近藤の詩のなかでは、何か意表をつかれる感じがするのである。「せっかくが/ない」と同じように。)
 読み終わったあと、「ふーん」と思うのである。それはことばにならない何かなのだが、その何かのなかに、しばらくとどまっているのは、なんとなく楽しい。行きたいところへ行って、「ここか」と思うのに似ているかも。「ここか」と思ったとき、「せっかく」ということは思わない。「せっかくが/ない」とは思わない--と書くと、何か違ってしまうが。







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「抵抗をぶち壊す」の意味は?

2020-10-16 09:28:23 | 自民党憲法改正草案を読む

「抵抗をぶち壊す」の意味は?

   自民党憲法改正草案を読む/番外407(情報の読み方)

 読売新聞は、いま、菅政権の動きをどう伝えているか。「菅政権 始動」という連載は、菅を持ち上げるだけの「作文」。2020年10月16日の朝刊(西部版・14版)の3面に「菅内閣1か月」という「作文」(政治部 藤原健作、山崎崇史)が載っている。「作文」なのだから、「新事実」が書かれているわけではない。読むべきものは「新事実」(ニュース)ではなく、「表現」そのものである。
 見出しは、「政策決定過程 様変わり/首相が直截指示■スピード感」とある。まあ、これは「あわてふためいている」を当たり障りのないことばで言い直しているにすぎない。私が注目したのは、「本文」の書き出し。

 「俺の仕事は抵抗をぶち壊すことだ。何かあったら相談しろ」
 菅首相は、平井デジタル改革相ら特命を与えた閣僚を首相官邸に呼んでは、こう発破をかけている。

 ふーん。
 コロナで疲弊している日本を立ち直らせることがいちばんの課題ではなかったのか。政府のコロナ対策に対して「抵抗している」ものが、いったいどこにあるのだろうか。私はコロナ対策と組織の動きについてはよく知らないが、私が知っている「抵抗」は国民の間から聞こえる「gotoキャンペーンは強盗キャンペーンだ」という批判くらいである。
 国家組織の、いったい、どの部分が「抵抗」しているのか、記事を読んでもどこにも出てこない。読売新聞の記者が「菅評価」を「スピード感」を持って書き上げたというだけだろうなあ。
 と、思いながら、私は実はほかのことを考えている。

「俺の仕事は抵抗をぶち壊すことだ」

 これは、いま話題になっている「学術会議」そのもののことではないか。新会員6人の任命拒否につづいて、会議そのものの見直し(予算削減など)を進めようとしているが、これは「学術会議」を政府の方針に「抵抗」する組織と判断し、それを「ぶち壊し」にかかっているということである。
 菅は「何かあったら相談しろ」と言っているが、「学術会議」ぶち壊すために方々に相談したんだろう。
 そして、菅がいう「ぶち壊す」は「気に入らない人間(自分の方針にしたがわない人間)は排除する」という単純なものだ。すでに「政府方針に反対のものは異動させる」と言っている。官僚への「方針」を「学術会議」にあてはめているだけだ。
 「抵抗にであったら、その抵抗している人間を説得する。納得させ、その人の持っている力を活用する方向へ導く」
 これが指導者のすべき仕事だと思うが、反対意見を説得するだけの論理(ことば)をもっていないから、ただ「排除する」のである。
 「ぶち壊す」だけでは、何も生まれない。壊したあとに、どう再構築するか。その設計図を示さないことには、単なる破壊活動である。国家が解体し、とんでもないことになる。生き残っているのは菅と、菅に登用されたと喜んでいるごますりだけということになるだろう。
 そして、この「ぶち壊す」(排除する)の方針は「学術会議」から、さらに拡大し「大学組織」にまで及びそうである。中曽根元首相の内閣と自民の合同葬に合わせ、文科省が国立大に、弔旗の掲揚や黙とうをして弔意を表明するよう求める通知を出した。これはきっと「通達」だけでは終わらない。実際に、弔旗の掲揚や黙とうをしたか、「事後調査」がおこなわれ、実施しなかった大学には「処分」がだされるだろう。つまり、政府方針にしたがわないものは「排除する」が適用されるだろう。
 「6人任命拒否」につづく、第二弾の「学問の自由」への侵害である。
 しかし、まあ、なんというか……。
 菅はよほど「学問」が嫌いというか、「学者」を支配したいらしい。狙いは「洗脳教育」という点では安倍と変わらないが、菅は「ボトムアップ」(小学生のときから)というのとは逆に「トップダウン」(大学/学者から)という方法で、これを推し進めようとしている。なぜ、上からなのか。たぶん、「学者/大学」というのはふつうの暮らしからはなかなか見えない。小学生や中学生の変化は、親が見ていれば、なんとなくわかる。でも、大学や学会(学界)でどんな変化が起きているかは、遠い世界なのでわかりにくい。わかりについところから手を着け始めれば、国民の反発は少ない。そう読んでいるのだろう。
 こんなふうに考えてみるだけでいい。
 中曽根の葬儀への「弔意表明」は義務教育現場の小学校や中学校に「通達」されたわけではない。小中学校にまでそういう「通達」がだされたのなら、世の中の親の反応はもっと出てくる。いろいろな人が反対する。(もちろん、賛成する人もいるだろうけれど)。騒ぎが大きくなる。これが「国立大」というのが、あまりにも巧妙な「作戦」である。「私大」は、含まれない。国立大には国の予算が出ている、ということなのかもしれないが、私大になって補助金が出ている。そして、その国の予算の「原資」である税金は、政府の意見に反対の人も納めている、ということを考えると、国立大になら一方的な「通達」を出してもいいという根拠にはならないだろう。

 あ、脱線したか。読売新聞批判にもどろう。
 いま問題の「日本会議」については、どう書いているか。読売新聞は「別項仕立て」で、こういう見出しをとっている。論点を「解散/総選挙」にずらしている。

最初の試練 「学術会議」/26日から国会 論戦 解散戦略にも影響

 「最初の試練」という表現が泣かせる。まだ菅はやっていないが、首相の最初の大仕事は「施政方針演説」である。そこで菅が何をいうかよりも、読売新聞でさえ、「学術会議」問題で、どういうことばを発するのか、それを心配し、「試練」と呼んでいる。
 ときどき、奇妙に「正直」が出るのが、読売新聞の特徴である。
 それにしても、この文章の「末尾」には、大笑いしてしまう。私は笑い出すと止まらなくなる癖があって、あまりに笑いすぎて、すっかり目がさめてしまった。何も書くことがなくて、「作文」の「結末」に困った小学生か中学生のような締めくくりである。

 首相周辺は「東京五輪や経済で結果を出し、コロナの克服を印象づけるまで仕事をするのではないか」と指摘し、解散・総選挙は来年秋にずれこむとの見通しを示した。

 ここからわかることは、菅が「総選挙」の勝敗がどうなるかを非常に心配しているということだけ。
 何がおかしいかといって。
 「解散・総選挙は来年秋にずれこむとの見通し」って、どういうこと?
 いまの衆院議員の任期は「来年の秋(21年の秋)」じゃない? 来年の秋は、もう解散をしなくても選挙がある。1か月か、2か月前倒し。それが「解散・総選挙」? たしかに任期を1日残していても、任期前に「解散」すれば「解散」には違いない。しかし、そんなドタバタをやって、いったい何になるのだろうか。読売新聞は、そういうドタバタを支持しているのか。あるいは菅へのごますりで神経を使い果たし、衆院議員の任期がいつまでなのか、その基本的な知識さえ頭から抜け落ちてしまったということなのか。
 ここがおかしい、と誰か気づけよ。





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「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
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#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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心配でならない・・・・

2020-10-15 23:46:57 | 自民党憲法改正草案を読む
菅の「学術会議新会員6人拒否」の問題。(フェイスブックに書いたことを再録。フェイスブックの書き込みは、ときどき消えてしまう。)


戦争法案のときも感じたが、日本の言論界は、なんというか「内戦状態」になっている。
そして、その「内戦」のいちばんむごたらしいと感じるのは、「論理」がかみ合っていないこと。
しかも、その「かみ合わない」状況を作り出しているのが権力側(権力を応援する側)ということ。
この「内戦」を戦うのは、とても難しい。
なぜか。
菅を批判している人は(私を含めて)、「6人任命拒否」が合法かどうか、拒否の基準は何か(だれが選別したのか)ということだけを問題にしているのに、菅を支援する人はそれにはいっさい答えない。
それだけではない。
菅支持派は、学術会議批判をし、存在意義を問うという「論点ずらし」をしてる。
この「論点ずらし」は、どこまでも拡大できる。
「学問はどこででもできる」というテキトウな発言にはじまり、とんでもない「6人任命拒否」が法的に正しいことなのかどうか、6人の排除に菅がどう関わっているのかということには応えず、学術会議の会員は学士院会員になれるとか、年金がたくさんもらえるとか、学術会議は中国の戦略に加担しているとかいう嘘まで飛び出している。その嘘には現職の大臣まで加わっている。
学者の世界(学者の実態)はふつうの国民にはわからない。そのわからないということを利用して、言いたい放題になっている。
この「嘘(間違い)」を放置しておくと「嘘」が社会に流布してしまうし、その「嘘」を指摘し、正していくと、その過程で「6人の任命拒否」の問題が徐々に隠れてしまう。
「論点隠し作戦」に「論点追及派」は必然的に敗北してしまうのだ。
もうひとつ、別の問題もある。(共通している部分があるのだが。)
「戦争法」のときは自衛隊が海外へ行って武力を行使することが「自衛権」になるのかどうか(そんなことをしていいのかどうか)が問題だったのに、日本が攻撃されたら自衛隊だけでは守れない、アメリカの支援が必要だ(なかには、アジア諸国を含めて、集団的に日本を間も間必要がある)という論点ずらし、さらには日本を守ろうとしないのは日本人じゃない(中国、北朝鮮へゆけ)というような、戦争法に反対するひとを「反日」ということばでくくってしまう言論が横行した。
今回の問題は、私の感じでは「戦争法」のときよりも危険だ。
それは「6人拒否」に杉田がかかわっていたとこからわかるように、「警察」がろこつに動いているということだ。「警察国家」が「内戦」を横から動かしているということだ。
そして、この「警察」の動きは、てとも見えにくい。
戦争法のときはデモの規制など、「可視化」されたもの(目で見てわかるもの)だったが、今回のことは、目には見えない。
「具体的な資料」は105人のリスト(99人と、6人のリスト)だけである。
あとは、「ことば」。
「ことば」で戦うしかないのに、「ことば」を隠す作戦(論点ずらし)が権力の力で動いている。
一部のジャーナリズムも、問題を報道しないことで、ろこつに権力の側に立って「論点ずらし」に加担している。
ほんとうにたいへんなことが起きる。
すでに起きている。
こういう「書き込み」もしっかりと監視されているに違いないのだが、この監視のなかで、どうやって「ことば」を鍛え直し、一人でも多くのひとと「共有」するか。
私は無名の「ことばの愛好者」にすぎないが、ほんとうに不安でしようがない。
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