詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

逆に考えてみよう

2020-11-08 21:44:23 | 自民党憲法改正草案を読む


 日本学術会議の問題。
ついに「政府関係者」が共同通信に「リーク」する形で「反政府運動を先導する」という表現を世間に広め始めた。「反政府」の「反」は「反日」の「反」である。きっと、これからネットには学術会議を「反政府」き呼ぶひとが増えてくるだろう。政府を批判すれば、学者は「反日」と呼ばれ、それが定着すれば、市民が批判を書いても「反日」というレッテルが張られるだろう。 (いまでも横行しているが、それがさらに拡大するだろう。)

そのことと、少し関係があるが。
「学問の自由」について、いままで話題になってきたことと逆のことを考えてみよう。学術会議は学問が戦争に利用されてはならないという主張で団結した。そして、いろいろな形で政府方針を批判もしている。
 「6人任命拒否」が表面化したとき、あるひとたちが「学問は政府に任命されなくてもできる。学問の自由の侵害にはならない」と主張した。
 この論理は「正しい」か。
 逆に考えると、政府に支持されなくても「学問の自由」は確保できる、というのは嘘だと分かる。
 つまり、政府が「新しい戦争兵器」を開発しようとする研究をしている人に対し、それは日本国憲法の精神に反する。だから、研究費を出さない。そういう研究をしている教授がいる大学には補助金も出さない、と決めたらどうなるのだ。
 「新しい戦争兵器」の研究はすぐに行き詰まる。資金がない。研究所も確保できない。どんな「学問の自由」でも、資金がいるのである。「新しい戦争兵器」というみるからに金がかかりそうなものではなく、たとえば「現代文学の研究」においてでさえ、文献を集める必要がある。さらには「現代性」をさぐるために「古典」を参照しないといけないときがある。そうした文献を買うにも金がかかる。
 どんなものにも金がかかる。
 だからこそ、たとえば政府批判をすると、「中国から金が出ている」というようなでっち上げのことばが飛び出す。「政府批判=反日=中国共産党(の資金)」という構造を捏造する。このでっち上げの構造を利用して、政府関係者が「政府批判=反日=中国共産党」には金を出さない。それだけではなく、積極的に締め出し、レッテルをはってアピールするという作戦に乗り出したのだ。

 「反政府運動を先導する」という新しいことば。
 一部の新聞では「反政府」ということばが見出しにもなっている。
 こういう新しいことばが出てきたときは、それは「新聞が考えたしたもの」ではなくて、誰かが「リーク」したことばなのだ。
 取材してつかんだことばではなく、新聞が政府の意図を宣伝するために利用されているのだ。

 「ことば」には「裏」がある。
 「特ダネ」は特ダネではないのだ。「リーク」されたのだ。「リーク」かリークでないかを見破る方法は、とても簡単。そこに「新しいことば」があるかどうか。いままで聞いたことがなかったことばなら、それは「リーク」されたのだ。「反政府」ということばは、「新しい」という感じがしないかもしれない。しかし、政権がこんなことばで批判を封じ込めようとしたことはなかった、と私は思っている。思い出せない。
 安倍は、国会で「日教組」というヤジを飛ばしたり、街頭演説で「あんなひとたち」とは叫んだが、「反日」とは言っていない。「反日」に通じる「反政府」ということばは、記者が考え出せることばではない。また、そういうことばを記者が自発的に書いたのだとしたら、それを誰かが変だと指摘するはずである。こんな奇妙なことばが動いている「裏」にはたいへんなことが起きているのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だれが言ったか。

2020-11-08 10:39:55 | 自民党憲法改正草案を読む
共同がおもしろい記事を配信している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8b16798e0adde7928ea231da18a21fc50ac023e7?fbclid=IwAR1JK1ecmQXwCvo8C3_mbI9Pi0JLckbR6c7wPwuaAzv-L6WZOlXBIvKsw2U

官邸、「反政府先導」懸念し拒否 学術会議、過去の言動を問題視か

このことについて、作家の中沢けいがフェイスブックで鋭い指摘をしている。

タイトル問題あり。政府批判を「反政府」とは言わない。ましてや「先導」なんて的外れ。うちはいつ「独裁国家」になったんだ?複数の関係者というあいまいなかたちで「過去の言動」が問題視されたとする記事に「反政府先導懸念」とタイトルをふったらそれだけで、社会的な委縮を生み出す可能性がある。政策批判、制度批判は現行の政治制度に組み込まれた正常な機能なのだから「批判を恐れる内閣」くらいのタイトルでいい。コンサバティブな学者の任命を拒否した政府に「反政府先導」というタイトルは、事実を誇張しています。どうしたらこんな大時代的なタイトルができちゃうのだろう?学者が難しいことを言って「反政府先導」なんかできたら、学術会議会員任命拒否には600以上の学会が非難声明を出しているんだから、もうとっくに政府は転覆しているよ。なんてばかばかしいタイトルをつけたんだ。

中沢さんの指摘は、どんなことばをつかってどうニュースをつたえるかという問題点に踏み込んだとても大切なものだ。
それを評価した上で、私は、ひとつ、つけくわえたい。
記事は、こう書いてある。

 首相官邸が日本学術会議の会員任命拒否問題で、会員候補6人が安全保障政策などを巡る政府方針への反対運動を先導する事態を懸念し、任命を見送る判断をしていたことが7日、分かった。安全保障関連法や特定秘密保護法に対する過去の言動を問題視した可能性がある。複数の政府関係者が明らかにした。

よく読むと分かるように、記事中に、「複数の政府関係者が明らかにした。」という表現がある。
これを手がかりにすれば「反政府先導」ということばは記者が勝手につくりだしたものではなく、「政府関係者」が言い出したものである。
政府関係者が言ったので、それをそのまま「記事」にした。
記者が政府関係者の発言を「咀嚼」して言い直したのではない。
中沢さんの「読み方」は、少し(かなり)政府に好意的。
あるいは、記事の書き方の基本に配慮がされていない。
記者は「取材で聞いたことば」以外は書かない。たとえ鍵括弧つき(引用)というスタイルをとらないにしても。
(解説記事なら別だが、解説でない場合は、そんなゃとを言っていないと抗議を受けると困るから、「捏造」はしない。)

政府関係者が「反政府」ということばをつかって、国民の分断を図っている、と読むべきだと私は思う。その意図を、共同の記者に、こっそり語ったと読むべきだと思う。
つまり、これは一種の「リーク」なのだ。こういうことを記事にしてもらいたいと政府関係者が売り込んだものなのだ。
「政府批判」では、客観的(?)すぎて、いわゆる「右翼」を刺戟できないし、一般の国民にもアピール力が弱い。
学術会議は「政府批判」をしているのではなく、「反政府運動」をやっているのがという印象操作をしたいのである。
「問題視」ということばもみられるが、これは「反政府運動」として「問題視」したいということである。
「政府批判」という弱いことばでは「問題視」はできない。少なくとも、一般国民に「問題だ」と訴える力が弱い。

ことばはいつでも「表面的意味」だけではなく、だれがそれを言ったか(スクープさせたか)ということ結びつけて読む必要がある。
ことばが生まれてくるには、そのことばを生み出している何かがある。


これに類似したことが平成の天皇の退位スクープのときも起きた。NHKは「生前退位」ということばをつかった。このことばは皇后が皇后の誕生日に「生前退位」ということばは聞いたことがない、胸を痛めたと訴えるまでマスコミにあふれた。皇后の発言後、「生前退位」ではなく「退位」というようになった。
これは何を意味するか。
「生前退位」ということばが皇后の周辺(宮内庁関係者)から出たことばではなく、別のところ(たとえば安倍周辺)から出たということを意味する。皇室、宮内庁関係者なら「譲位」ということばをつかうはずだからである。


マスコミにあふれていることばはマスコミの創作ではない。記者が考え出したことばではない。そういうことをすれば「捏造」になる。政府関係者が言ったからこそ、それをそのまま「記事」にしている。
ここから記者の無能を読み取るか、それとも「隠し技」を読み取るかは、読者次第。
あの読売新聞には、「隠し技」的な表現があふれている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤ミユキ『歳月の庭』

2020-11-08 10:06:34 | 詩集
加藤ミユキ『歳月の庭』(ながらみ書院、2020年09月23日発行)

 加藤ミユキ『歳月の庭』は歌集。

さくら樹は繁りて涼しき風をうむその下に仏具老いの服売る

 巻頭の歌である。さくらの木の下を通ったら、露店(?)が出ていた。仏具や老人用の服を売っている、ということなのか。よくわからない。加藤には風よりも、仏具、老いの服という取り合わせが新鮮に感じられ、それが「涼しい」という印象と重なったということかもしれない。
 こういう「意味/ストーリー」の「捏造」を求められるような歌は、私は苦手である。最初からつまずいてしまった。
 歌集とか詩集とか句集とかは、最初の作品が重要だ。小説でも書き出しにつまずくと、どうも先へ進むのがつらくなる。

自転車の朝の散歩に口ずさむ「いつでも夢を」今日の声良し

 この歌は32ページにあるのだが、そこまで読んで、ふっと一息ついた。ことばのリズムに無理を感じない。ほかの歌には、何か、無理を感じる。「意味」を完結させることに重心が置かれていて、音が動いている感じがしない。
 この歌に音のなめらかさというか、音が別の音を誘い込み音楽になるような響きがあるかといえば、それは私は感じないのだが、最後の「今日の声よし」の言い切りに納得した。自転車をこぎながら口ずさむ歌は他人に聞かせるためのものではない。自分を動かすための歌(声)だ。自分のために歌い、その自分のための声を「よし」と言い聞かせている。自己完結している。特に他人を必要としていないのだ。そこに、私は共感した。ほかの歌も特に「共感」を求めてことばが開かれているというのではないのかもしれないけれど、この歌は自己完結の形がとても自然だ。他人が加藤の歌(声)をどう批判するかは気にしていない。そこに潔さのようなものがあり、それに共感したのかもしれない。

「帰ります」に「分つた」と夫これだけのためにわが持つ携帯電話

 この歌も自然な「完結性」がある。ここには夫が存在するのだが、その夫の存在は加藤をどこか別の世界へ連れて行くわけではない。むしろ「閉ざす」ためのもの。閉ざすことで濃密になるためのもの。
 で。
 この「濃密さ」を問題にするとき、最初の部分の助詞の動き「に」と「と」があまりにも論理的。ほかの歌も「意味」の正確さを求めるあまり、描写というよりは論理(説明)になっているように思える。
 「帰ります」「分つた」このだけのためにわれと夫がもつ携帯電話、というのでは音がそろわないのだが、「帰ります」と「分つた」は助詞をつかわずにひとつづきにしてしまった方が緊密な感じ(わかりきった感じ?)になるのでは、と思う。
 
憂きことよ五月の落葉まだ若き葉も混じりゐて庭面をかくす

 「憂きことよ」という嘆きが、ここではやはり「説明」になっていると思う。私は「誤読」を好む人間なので、こういう「誤読」を拒否したことばは苦手である。しかし、ことばは進むにしたがって「誤読」を誘うように動く。「若き葉も混じりゐて庭面をかくす」はいいなあ、と思う。「庭面」の何をかくしているのか。その書かれていないものを探して「誤読」するのが、私は好きなのである。

二階屋根にとどくばかりの山茶花の咲きつぎ散りつぎいまだ盛れる

 集中では、この歌がいちばん好きだ。「散りつぎ咲きつぎ」ではなく「咲きつぎ散りつぎ」という順序なのに、それが「いまだ盛れる」というところに、いのちの強さがみなぎっている。それが「とどくばかりに」の「ばかり」と呼応している。
 一首を読み終わったあと、意識がもういちど自然に前のほうにもどる。言い直すと、ついつい読み直してしまう。私はいったい何を読んだのだろうか、と揺さぶられる。「誤読」したくなる。言いたいことがいっぱい出てくる。
 でも、それは、書かない。ただ、いろんなことを言いたくなった、とだけここでは書いておく。

庭の木々光りかがやく真夜降りし雨にみどりの色のあたらしき

蹲踞の水のみにくる鳥一羽いつしか友となりて待つわれ

この二首も、読み返しを誘うことばの動きがある。
集の最後の歌。

美しく夜が明けたりととのえへて枕辺に置きし衣に手を通す

「ととのえる」のは単に衣ではなく、生き方ということになる。そして美しいのは「夜明け」ではなく、やはり生き方ということになる。こんなふうに「意味」を付け足してはいけないのだけれど、ここにも読み返すときだけ、ことばが深くなるという動きがある。きっと歌を読むことでいのちをととのえてきたひとなのだ。加藤ミユキは。















**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学問の自由は「乱用」できるものなのか。

2020-11-07 21:06:02 | 自民党憲法改正草案を読む
共同通信がおもしろい記事を配信していた。
https://this.kiji.is/697063830492546145

見出しは「伊吹氏『学問の自由は印籠か』/学術会議側をけん制」。
そこに、こう書いてあったのだ。

自民党の伊吹文明元衆院議長は5日の二階派会合で、日本学術会議の会員任命拒否問題に関連し「学問の自由と言えば、水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくてはいけないのか。憲法は、自由は乱用してはならないと定めている」と述べ、学術会議側をけん制した。
↑↑↑↑
これを読みながら、私は、こう考えた。

非常に疑問に思うのだが、「学問の自由を乱用(濫用)する」ということばをつかったとき、伊吹はどういうことを想定して発言したのだろうか。
たとえば「学問」といえるほどのことではないが、私はいろいろな文学作品を読んで好き勝手な感想を書いている。「自由」に書いている。
これは、どれだけ自由に書いても、大丈夫か。
「谷川俊太郎の詩はつまらない。この作品のこのことばが納得できない」と書けば、谷川は怒るか。怒ったからといって、別に、だれの迷惑になるわけでもないだろう。
どんな基準で、どう評価するか、その評価を谷川がどう思うか、谷川のファンがどう思うか。
こういうことに対して、菅が「学問の自由を濫用している」と批判するわけがない。
そうすると、別のことを考えないといけない。
たとえば私は「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」という本を出した。あるいは「天皇の悲鳴」という本を出した。
その中では、2012年の自民党改憲草案を批判し、安倍の平成の天皇への圧力を批判している。
私の場合は「学問」という立派なものではないが、「学者」ならもっと厳密に批判するかもしれない。
もし「学者」が私が書いたようなことを研究し、公表する。自民党批判、政府批判を展開する。
たぶん、こういうときに「学問の自由を根拠に、政治批判をしてはいけない」ということが言われるのである。
「学問の自由は濫用してはいけない」は「自民党批判、政府批判をするために、学問の自由を主張してはならない」ということであり、「学問は自民党を肯定し、政府を肯定するものでなければならない」へと転換していくのである。
「学問の自由と言えば、水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくてはいけないのか」という言い方には、とてもおもしろい視点が見え隠れする。
「学問の自由を根拠に、学者が自民党批判、政府批判をしたら、自民党や政府はその批判にひれ伏さないといけないのか(そんなことはない)」と言いたいのである。
いろんな現象にはいろんなものの見方がある。
たとえば原発問題。自民党、政府は「原発は安全である。経済的である」という「学者」の意見は積極的に採用し、それを前面に押し出す。
その一方で、「原発は危険である。廃棄処理に金がかかり、不経済である」という「学者」の意見は退ける。
「学者」の意見が対立したとき、どうするか。自民党、政府は、「原発は危険である。廃棄処理に金がかかり、不経済である」と国民に主張するのは「学問の自由の濫用である」と言い出すだろう。そういう批判があると、「原発を推進できなくなる(批判する学問は邪魔になる)」からだ。
実際に起きたこと(6人任命拒否)を中心に考えれば、もっとはっきりする。
6人は政府方針を批判した。つまり「学問の自由」に基づいて、自分自身の意見を言った。
菅は、なぜ「政府は、その6人の意見を水戸黄門の印籠のように尊重し、ひれ伏さなければいけないのか」、そんなことはしたくない。だから任命を拒否したのだ。
しかしなあ。
「水戸黄門の印籠」という例がけっさくだなあ。「ひれ伏す」という動詞の使い方がけっさくだなあ。
伊吹は、政治というものを「絶対権力」と「権力にひれ伏す」という関係でとらえている。
そして、そこに「学問」という「絶対中立」的な存在が入り込むことを恐れている。
「学問の自由」という言い方が、たぶん、「誤解」を招きやすいのだ。「学問の自由」という表現を利用して、伊吹は「自由の濫用」とことばを動かしているが、「学問の自由」とは実は「学問の中立性」にほかならない。
「学問」は権力に奉仕するためのものではない。権力にも国民にも、そして外国人にも(中国人や韓国人にも)「中立」のものである。誰でもが利用できる。それが「学問」。
そうであっては、困る、というのが伊吹の姿勢であり、菅や自民党の姿勢である。
伊吹は菅の主張を代弁しているだけである。
「学問の自由と言えば、水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくてはいけないのか。憲法は、自由は乱用してはならないと定めている」という伊吹のことばだけでは、何が起きるのか、よくわからない。
でも、自分がしていることがどうなるか、ということを具体的にことばにしてみれば、伊吹の主張の危険性がわかる。
「乱用」ということばにだまされてはいけない。
特に「自由の乱用」ということばにだまされてはいけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉谷昭人『十年ののちに』

2020-11-07 09:27:48 | 詩集


杉谷昭人『十年ののちに』(鉱脈社、2020年06月19日発行)

 杉谷昭人『十年ののちに』は、口蹄疫から十年たった宮崎県のことを書いている。いや、2010年からの十年を書いている。
 「農場跡」という作品。

とんでもない話を聞いた
子牛が一頭生まれたというのだ
この村では四年前に口蹄疫が発生し
三千頭もの牛がガスで殺処分されて
うち一頭の雌牛が埋却ぎわに出産して
ある農夫がその子牛をこっそり隠した

獣医師の眼をかすめて育ったその牛が
今朝がた新しいこどもを産んだという
あってはならないはずのことだが
その噂を信じたいとみなが思っている
ただ子牛を見た人はまだ誰もいない
村じゅうひそひそ声が流れているだけ

 「あってはならないはずのことだが/その噂を信じたいとみなが思っている」の二行がとても切ない。切実だ。
 牛は売るために育てている。牛は食べるために育てている。それでも育てるということは愛をそそぐことである。どうしても、つながりができる。そのつながりは、けっして忘れることができない。
 だから、新しく飼いはじめた牛のなかに、かつて飼っていた牛の姿を見ることがあるだろうし、子牛が生まれれば、かつて飼っていた牛が子牛を産んだときのことも思い出すだろう。
 「信じたい」は子牛の存在を信じたいと同時に、これからも牛と一緒に生きていく人生を信じるということでもある。ひとの生き方は、そんなに簡単には変えられない。一度牛を愛してしまうと(牛と一緒に生きる生活を愛してしまうと)、それを貫きたいと思う。そして、苦しくてもそういう道をふたたび歩きはじめるひとを、ひとは頼りにする。
 菅は「自助・共助・公助と絆」と言ったが、「自助・共助」は言われなくても、生きている人間はそれを実行している。問題は、「自助」をひとがいつでも実践できるだけの「公助」をどれだけ用意できるかなのである。
 あ、余分なことを書いたが、「ただ子牛を見た人はまだ誰もいない/村じゅうひそひそ声が流れているだけ」という二行も美しい。まるで夢の中で見た夢のよう。その子牛がほんとうにいるなら、どんなにうれしいだろう。
 「畜魂祭」は口蹄疫のとき処分した牛をなぐさめるためのもの。その会場で「蝦蟇口」を拾う。そこから詩ははじまっている。その後半部分。

この町が口蹄疫に襲われたのは四年前のことだった
三十万頭からの牛と豚がガスで殺処分されて
農場に掘った大きな穴につぎつぎと埋却されて
その上に菜種やコスモスの種子が撒かれた
〈畜魂碑〉と刻まれた一本の石碑も建った

生活のない土地が生まれて
記憶を作り出しようもない毎日がやってきて
わたしたちは慣れない仕事についた
道路工事 小荷物の配送 コンビニの店員
きょうはみんなが帰ってくるはずの日なのだ

畜魂祭のざわめきとともに拾った蝦蟇口を手にしたまま
わたしは いやわたしたちは何かをじっと待ちつづける
一年ぶりにあの髭面に会えるかもしれぬ
牛小屋の干し草の匂いが嗅げるかもしれぬ
足下の小石の蔭から一本の牧草が生えてくるかもしれぬ

 「生活のない土地が生まれて/記憶を作り出しようもない毎日がやってきて」の二行が、やはり強い。
 「生活」と「記憶」は同義語である。

「記憶」のない土地が生まれて
「生活」を作り出しようもない毎日がやってきて

 と言い直せば、杉谷の書いていることがよくわかる。どんな土地でも「記憶」を持っている。そこで何をしたか。そこが牧草地ならば、農家のひとは、どこにどの草が生えているか、その草を食べたのはどの牛か。そんなことまで「記憶」している。その「記憶」はことばの記憶ではなく、肉体でそのまま覚えていることだ。忘れることができない「事実」の積み重ねだ。
 その土地で、ひとは「あした」を生きる。「あした」を生み出していく。もちろん「過去」があり、「いま」があるのだが、作り出していくのは「あした」である。ある日突然、その「あした」を奪い去られれる。「未来」をつくりだせなくなる。
 そのときから、「生活」は「いま」を生きる形をとりながら、いつも「過去」を生きる。思い出を生きることになってしまう。もちろん、それではいけないということはわかるが、「道路工事 小荷物の配送 コンビニの店員」の何をしていたとしても、思い出してしまうのは牛を育てたことだろう。
 みんなもう一度牛を育てたいと思っている。杉谷には牛を育てた「体験」がないかもしれないが、その杉谷も牛を育てたいと感じている。牛を育てるは「自助」の問題ではなく、杉谷にとっては「共助」の問題なのだ。だからこそ、書くのだ。「足下の小石の蔭から一本の牧草が生えてくるかもしれぬ」と。杉谷は、牛を育てている。そして、牧草を育てている。それが杉谷の町で「生きる」ということである。
















**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田順子『あの夏は金色と緑と水色だった』

2020-11-06 00:00:00 | 詩集
野田順子『あの夏は金色と緑と水色だった』(空飛ぶキリン社、2020年10月30日発行)

 野田順子『あの夏は金色と緑と水色だった』で私が好きなのは「はさみ」。

ジュースをのんだあとの紙パックを切っていると
善人になった気がするね
人生にはむだなことなんてひとつもないんだと
無邪気に信じているおとなになれた気がするね
はさみを持っていると いろいろな
とりかえしのつかないことをしてみたくなるのだけれど

一日一日がとりかえしのつかない時をかさねていくよ

紙パックを一枚一枚そろえてかさねて
うんとがんばってきたのにこんなところに行きついたなんて
やっぱりわたしの切りたいものは紙パックじゃないな

 一連目の「善人になった気がするね」「無邪気に信じているおとなになれた気がするね」はだれのことばだろうか。「わたし(野田)」のことばだろうか。それとも誰か対話者がいて、そのひとが言っているのか。こんなことを考えるのは「ね」ということばが、対話者に呼び掛けるときのニュアンスを持っているからだ。ひとりごとなら、必要はない。ひとりごとで、つい、そう言ってしまうのだとしたら、それは自分自身への語りかけになる。
 私は、自分自身への「語りかけ」と思って読んだ。
 この「……ね」は「一日一日がとりかえしのつかない時をかさねていくよ」と「……よ」にかわったあと、「やっぱりわたしのきりたいものは紙パックじゃないな」の「……な」にかわる。この変化はおもしろくて、切ない。
 「……ね」と念押しというか、確認するように相手に(自分に)語りかける。そうすると「……よ」と、自分はこう思っている「よ」と反論が返ってくる。「そうだね」と「ね」で終わらない。追認しない。
 そのあとで、ほんとうにひとりごとになる。「……な」。聞いているひとはいない。自分に語りかけているのだとしても、そのときは自分は二重化していない。「ひとり」のまま、ことばを受け止めている。
 「意味」を追っていくと、とても重たいのだけれど、「ことばの肉体」を追っていくと、その「重さ」よりも切なさが迫ってくる。「……な」と自分で言ったことがあるな、と思い出すのである。
 私は、こういうことばのなかにあらわれた「肉体」に「正直」を感じる。そして、それが好きになる。
 「待っています」と「雨の中で」には「雨」が出てくる。
 「待っています」。

大きな傘を持っていて ふたりでその中に入って歩くの
覚えてる? ってわたしが聞くの
覚えてるよ ってその人が答えるのがはっきり聞こえなくてもいいから
雨がぽつぽつ降っていてほしい

 ここでは「……の」が気持ちがいい。自分に言い聞かせている静けさがある。特に「返答」は求めていない。自分で「確認」しているのだ。これは途中で「……ね」を経由して、こんなふうに終わる。

雨がひどくなる前に家に着けるように急ごう
そして乾いた部屋の中で
待たせたね ってあなたが言うの
胸の奥をくすぐるような ちょっとかすれたあなたの声で

 「……ね」「……の」のあと、最後の一行。「胸の奥をくすぐるような」の「胸」はだれの胸だろうか。「あなた胸」か「わたしの胸か」。区別がつかない。どちらの胸であってもいいというより、それは「ひとつになった胸」なのだ。「くすぐる」「かすれた」ということばが動くとき、それは「わたし」の実感だからである。
 「雨」。

雨が降ると 君を思い出す
君がわたしを思い出すだろうということも思い出す
雨が降ると 冷たい雨でもどこかがちょっとあたたかくなる
雨が降ると 舐めてみたわけじゃないけれどちょっと甘い気持ちになる
雨が降ると 濡れた路面からなつかしい匂いが立ちのぼる

わたしは雨が降らないと君を忘れているけれど
君はいつでもわたしを想っていてくれますか

 「あたたかくなる」「舐める」「甘い」「なつかしい匂い」ということばに「肉体」を刺戟される。「立ちのぼる」も「匂いの肉体」のように、私は感じてしまう。
 ということは、別にして。
 ここには「……ね」も「……よ」も「……な」も「……の」もない。でも、もし補うとすれば、一連目のそれぞれの行に何を補いますか? そして、その語尾を追加すると、ことばの印象はどうかわるだろうか。
 あ、これ、次のカルチャー講座でやってみたいなあ。きっとおもしろい。










**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野かおる『盗人』

2020-11-05 00:00:00 | 詩集
桐野かおる『盗人』(砂子屋書房、2020年11月05日発行)

 桐野かおる『盗人』の「盗人」は「大阪弁風」に書かれている。「風」とことわったのは、私はありま大阪弁になじみがなくて、桐野がほんとうに大阪弁で書いているかどうか判断しかねるからである。
 詩集には「車中の人」という詩があって、そこでは大坂から金沢までのことが書かれている。「車中の人」が「事実」を書いているのなら、桐野は石川県で生まれたのだと思う。そして、私は、それを事実であるとある程度「確信」している。「車中の人」の共通語のリズムは、私のことばのリズムに近い。類似性を感じる。私は富山で生まれ育った。石川は隣。リズムが似ている。これは、具体的に説明するのはむずかしいのだけれど。
 脱線したが。
 しかし、桐野の大阪弁風のことば、完全に大阪弁になっていない部分が(と、私はかってに想像しているのだが)、奇妙におもしろい。どこが完全に大阪弁になっていないかというと、「論理的」なのである。こう書くと、大阪弁を話すひとは「論理的ではない」ということになるが、まあ、そういうことではなくて、大阪弁の人には大阪弁の論理があるのだけれど、それとは違う論理が動いているところがあると思う。

昔から盗人猛々しいてよう言いますやろ
そら人のもん盗んだらあきませんわ
それ位の事ウチかてようわかってます
そやけど
盗人に入られる家いうんは大抵決ってます
まず戸締りがええ加減やいう事ですな
窓はもちろんやけど
玄関の鍵かて二、三時間位やったら大丈夫やろいうて
かけてない事ようありますねん

 戸締りのいいかげんさを、窓で言ったあと玄関で言い直す。そのときに「二、三時間位やったら大丈夫やろいうて」という「理由」がつけ加わっている。この「しつこさ(論理の念押し)」がちょっと違うなあ、と感じるのである。大阪人なら「二、三時間位やったら大丈夫やろ」の「二、三時間」は共有されている。だから書いてしまう「冷静さ(?)」がなんとなく奇妙だなあという印象を残す。これはもちろん私が大坂の人も大阪弁も知らず、かってに「誤読」していることだけれど。
 これは次の部分と比較すると、いっそう印象が強くなる。

ほんでしめしめ思うて家の中入りますやろ
そしたらアンタ
玄関も台所も居間もひっ散らかってて
盗人のウチが入る前に盗人が入ってたんと違うかて思う位
ひっくり返ってますねん

 「盗人のウチが入る前に盗人が入ってたんと違うかて思う位」という一行に、「盗人が入る」ということばが重なって出てくる。これは大阪弁だと思う。「二、三時間」というような「分析」とは違う。

こんなんでよう毎日生活してはるなて感心します
(オイ判子どこや通帳どこや
(オイ茶碗どこや箸どこや
(靴下どこやパンツどこや
(オイお前どこや
住んではる人のややこしい日常が眼に浮かんできますやろ
言うて悪いけど
そんなんやから盗人に入られますねん

 「ややこしい日常が眼に浮かんできます」という部分が、また「共通語」の「理屈」っぽい。「日常」が理屈っぽいし、「目に浮かぶ」が「論理的」。勝手な想像だが、生粋の大阪人は「目に浮かぶ」というような持って回った言い方はしないだろう。「目に見える」か「見える」だろう、と思うのだ。
 で、この「論理」でもって桐野は何を言いたいかということ、それは「弁明」として出てくる。「開き直り」と言ってもいい。まえ、これは大阪人の「図太さ」なのかもしれない。そういうことを表現するために、大阪弁風を装っているというか、大阪弁を借りてきているのかもしれないが、ちょっとね、ほんのちょっとしたことだけれど、ここは「共通語の論理」と感じてしまうところがあって、私は笑えない。あるいは、泣けない。
 大坂のひとはどうだろうか。
 「溺れる者」は「盗人」の続篇のような感じ。

色恋に溺れたらあかんて
口癖のように言うてたおばちゃんが色恋に溺れてしもた
ほんま人間てわからんもんやな
あんな男に入れあげてて
周りからさんざん言われてたけど
おばちゃんたった一言
他人にわかってもらおなんて思てません
て言うたなり後はダンマリやった
溺れたらあかんいうんは
ウチやのうて自分に向うて言うてはったんやな
溺れたらあかんあかん思いながら溺れていく時の気持ちて
どんなんやろ
わかってもらおなんて思てませんて
そんな薄情な事言わんと
ウチにだけでええからそっと教えてんか
そこは極楽なんか地獄なんか

 「そこは極楽なんか地獄なんか」。この一行はいいなあ。「ウチにだけでええからそっと教えてんか/そこは極楽なんか地獄なんか」という「倒置法」がとても効果的だ。「倒置法」というのは「論理」なのだけれど、ここには「技法」というよりも欲望のスピードがある。スピードが論理を追い越していく。そのために、逆に主題が取り残されるようにして最後に浮かびあがる。











**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩佐なを『ゆめみる手控』

2020-11-04 09:38:31 | 詩集
岩佐なを『ゆめみる手控』(思潮社、2020年10月20日発行)

 岩佐なを『ゆめみる手控』の「手控」は「手控え帳」だろうなあ。手帖、メモ。詩はどれも短い。ときどき版画が入っている。
 どの作品について感想を書こうか、かなり迷う。
 こういう短い詩だと、なんというか「意味」をこねくりまわせない。別に「意味」が書きたいわけではないし、「意味」は詩ではないと思っているけれど、ほら、「意味」というのは説得力があるし、「論理」を組み立てていると、なんとなく「もの」を書いている気持ちになる。「結論」は嫌いだけれど、「結論」に向かって動いているぞと感じるのは、ちょっとした快感である。
 「作田」という作品。

作田君サクタサルマタフェルマータ

 という魅力的な一行ではじまる。何が魅力的か。「音」である。作田君をからかう不思議な音。「サルマタ」ということばから、これが古い時代の音であることがわかる。いまは、言わないようなあ。似たようなことを言えば「いじめ」になってしまうしなあ。しかし、こういう軽口のようなものが許される時代があった。
 と書いてしまうと「意味」になってしまう。
 それは、よそう。

作田君サクタサルマタフェルマータ
なんて言ってごめん
もうあれから五十年
どこへ謝りに言ったらいいか
随意の長さで生涯を続行中だろうか
廃校の窓から追憶の赤糸を靡かせて
朝やけ寂寞と夕やけ寂寥の
透明度を測ってみる
ダ カーポ
ムリもどれない

ここには先に書いた「意味」だけではなく、もっと「意味らしい意味 (辞書的な意味) 」も交錯している。「フェルマータ」「随意の長さ」、「ダ カーポ」「もどれない」。でも、そういう「意味」を読み出すと何かおもしろくない。「謝りに行く」ということばもけとばして、

作田君サクタサルマタフェルマータ

 という音にもどりたい。岩佐は「もどれない」というけれど、私はもどるのだ。きっと「もどれない」と書いている岩佐ももどっているはず。もどらないと「作田君サクタサルマタフェルマータ」なんて書けない。
 「粘土」も好きだなあ。

粘土を手にして
お題が「自由」となれば
だれしもがうんちをつくる
テクのあるものはちんぽをつくる
はずかしくないあたりまえのことぞ
粘土はもまれて心底よろこんでいます
きゃうきゃう

 最後の「きゃうきゃう」がいいなあ。「きゃうきゃう」いいながら粘土遊びをしてみたい。「よし、できた。これなんに見える?」。そうなのだ、つくることと「ことば」を言わせること(ことばを結びつけること)がいっしょになっている。「ことば」の発見がある。言いたいこと、言ってはいけないこと。ことばが動き回る。そこにはもちろん「はずかしくないあたりまえのこと」があるんだけれど、「はずかしくないあたりまえのこと」になるまでには、けっこう時間がかかる。それまでは「きゃうきゃう」と、「意味」にならないことばを発するのだ。「うんち」も「ちんぽ」ということばも最初は「意味」ではなく「もの」そのものだった。それがいつのまにか「意味」になっていく。「意味」を身につけることが「ことば」を身につけること。でも、そのときは、もう「よろこび」がない。「うんち、うんち、うんち」「ちんぽ、ちんぽ、ちんぽ」と声に出す肉体の解放感がない。解放感なんて言うことばを知らず、ただ「声」にだすよろこびがあふれる時代があったのだ。
 そして、「粘土」が「ちんぽ」なら「粘土はもまれて心底よろこんでいます」は「ちんぽはもまれて心底よろこんでいます」である。「きゃうきゃう」。というような「意味」は言ってはいけないのだが、言ってはいけないことだから、書いておく。
 「キス」と「生前」は「舌」をテーマにしているという共通点がある。どっちが好き?私は「生前」がいい。

生前だったら
唇を噛む面影がある
臍も噛むし最後は舌だって噛める
だんだん歯が利かなくなって
舌の時代がくる
噛み切らなくてよかったね
あっかんぺえ祭

 最後の「あっかんべえ」がいいなあ。この「あっかんべえ」にも「意味」はあるが、「意味」になる前の「あっかんべえ」を思い出すのである。拍車をかけて「祭」にしてしまう。「意味」というのは「うんち」「ちんぽ」がそうであるように、そのことば(音)を発した側には「もの」しか存在しないのに、それがだんだん周囲のひとの反応から「意味」にかわっていく。他人の反応を受け止めながら(見ながら?)「意味」は徐々に固定化されてくる。「作田君サクタサルマタフェルマータ」も同じ。いまなら「謝罪」という「意味」さえ求められる。でも、それを最初に口にしたとき(音にしたとき)、そこには「意味」などまだ存在しない。ただ「音」があった。
 「キス」がいまひとつ好きになれないのは、そこには「音」がなく、「意味」だけがあるからだ。そして、その「意味」というのは「感情」でもある。「抒情」と言い直してもいい。だから、こっちの方が好きという人も多いはず。でも、私は嫌いと言う。嫌いといいながら、その詩を引用しておく。
 ほら、岩佐の詩は、こんなに気持ちが悪い、と私はどうしても言いたいのだ。気持ちが悪いということを言っておかないと、どうも落ち着けないところがある。

キスしているときに気づいた
あなたはこの世ではまぼろし
舌がなかったから
それでもさいごの抱擁に来てくれてありがとう
地獄で抜かれたのね一昨日
蜘蛛の巣に朝日が光って
うそつき





**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江夏名枝『あわいつみ』

2020-11-03 10:57:36 | 詩集


江夏名枝『あわいつみ』(澪標、2020年10月10日発行)

 江夏名枝『あわいつみ』は小ぶりな詩集である。ページも50ページ足らず。気軽に読むのに都合がいい。「気軽に読まないでほしい」という声が聞こえてきそうだが、私はどんな本でも気軽に読みたい。気軽に読み始めて、気軽なまま終わるか、真剣に何かを考えるかは別問題。とっかかりが「重い」のは苦手だ。
 余分なことを書いたが。

 この詩集には目次がない。一ページに一つの断片が配置されている。断片にはタイトルもついていない。断片の長さは様々である。私は短い断片が好きだ。
 たとえば、3ページ。

 顔を洗うと、水は誰のものでもなくなる。

 この一行の「いきなりさ」加減に私ははっとする。
 「いきなりさ」というのは、そういうことを私は考えたことがなかったということを意味する。驚き。そこに、たぶん詩がある。詩とは驚きである。
 さて、では、顔を洗う前は、水は誰のものだったのか。
 この「答え」はない。
 ただ「水は誰のものでもなくなる」という事実だけがある。この事実を排水口をつたって下水となって流れていく。誰も使えない(誰もつかわない)と「意味」にしてしまうとぜんぜんおもしろくない。
 「誰ものもでもなくなる」は「断定」であり、同時にその断定は「問い」そのものを拒絶する「絶対」なのだ。
 禅問答の「公案」のようなものかもしれない。禅問答も公案も、私はよく知らないまま書いているのだけれど。
 そのことばが動く瞬間にだけ、世界が解体し、別な次元があらわれる。そういう印象。
 長くなると、あまりおもしろくない。
 4ページ。

 林檎にナイフを入れると、きっかりに雨が止む。パズルに、最後のピースが間に合う。
 更紗のシーツに光が降りる。こうして、目覚めていることさえ夢になっていく。秒針
が過ぎる。わたしは前方へ去る。空はあらゆる色を持つことを覚えている。遠い竪琴、
風姿となった神話たちの口角……

 ひとは見えない心の奪い合いに眉をひそめつつも、目に見えぬ力を信じようとしない。

 この断章の中では「空はあらゆる色を持つことを覚えている。」だけがおもしろい。どこがおもしろいかというと、「覚えている」の「主語」が何かということがわからないからである。「空は/覚えている」のか、書かれていない「私」が「覚えている」のか。どちらとも、読むことができる。
 私は、「空は/覚えている」と読みたい。「誤読」する。「空」は「人間」ではないから、何かを「覚える」と言うことはできない。でも、ことばを補って「空は/あらゆる色を持つことを/覚えている、と考えること(ことばを動かすこと)はできる」。ここには、ことばにしか到達できない何かが書かれているのだ。
 ここから振り返れば、

顔を洗うと、水は誰のものでもなくなる。

 も、同じである。ここに書かれているのは「考えること/考えたこと/ことばを動かすことでつかみ取った何か」が瞬間的にあらわれているだけである。
 このとき「ことば」は筆者(私)のものであると同時に、「私」であることを超越して「水」や「空」のものになる。「水」は「(自分は)もう誰のものでもない」と考える。「空」は「あらゆる色を持つ」と考えることができる。そして、その「水」や「空」はまた「もの」ではなく、「ことば」なのだ。
 「もの」だけれど「もの」を超越して、「ことば」になって動く。
 たぶん、詩とは、そういう奇妙で絶対的な「運動」なのだ。
 そういうことばに比べると、たとえば「遠い竪琴」「神話たちの口角」、さらには「林檎」や「更紗」は、「もの」に閉じこめられた「ことば」である。「もの」の代用である。これを言い直せば「流通言語」である。特に「竪琴」や「更紗」は「詩的雰囲気(美しいイメージ)」としてことばを「固定化」しようとして動いている。
 こうなると、私は、おもしろいとは感じなくなってしまう。
 15ページ。

 週末のギャラリーに、チェス盤が用意される。

 アンフランマンス……滲ませずに刻まれ、散逸する輪郭。
 風にその顔貌を残す、ヘルメースの魔術。

 うーん、もう読みたくなくなる。
 35ページ。

 わたしたちの舌の奥に眠る琥珀たち。古い記憶を反芻し、欠けた時間を懐かしんでい
る。しずくのように閉じた匂いをたずさえ、夢のひわいろを絵画のように吸う。いくつ
かの数式が溶けている壁の彩度、夢にはわたしを感じる暗闇がない。

 微妙だなあ。
 「しずくのように閉じた匂い」は「しずく」そのものが「匂い」を閉じこめているように感じられる。それは「閉じられている」から匂いがない(感じられない)はずなのに、そこに「匂い」があることが直感されている。ことばは「夢のひわいろを絵画のように吸う。」とつづいていくのだが、「吸う」という動詞は「しずく(水)」を吸うとも、「匂い」を吸う、とも読むことができる。私は「匂いを/吸う」と「誤読」する。その瞬間、私の肉体は一滴のしずくになったのか、それとも一滴のしずくが私の肉体のなかに滴り落ちたのかわからなくなる。そのあいまいさのなかに、ひわいろの絵が広がる。こういう瞬間が、私は大好きだ。
 「数式が溶けている壁」も「ことば」でしかあり得ないが、これは「肉体」に響いてくるというよりも、「頭」を刺戟する。言い直すと神経に触る/障る。
 44ページ。

 夏の枯れ葉を踏む音は、ただ舌の上で味わわれる。

 「音」を「舌で味わう」。枯れ葉を踏む音を「舌」で再現しようとする。声にしようとする。でも、うまく、音にならない。そのときの不思議なよろこび。私たちの「肉体」には実現できないことがある。その不可能を、ことばは超越していく。その超越のなかに詩があるのだと思う。



**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「閉鎖的」とは、どういうことか。

2020-11-03 10:23:41 | 自民党憲法改正草案を読む
「閉鎖的」とは、どういうことか。

   自民党憲法改正草案を読む/番外411(情報の読み方)

 2020年11月03日読売新聞(西部版・14版)に衆院予算委記事がある。1面の見出し。 

首相「学術会議は閉鎖的」/初の予算委 任命拒否「正直悩んだ」

 なんだろう。この見出し。「正直悩んだ」とは何を悩んだのか。こんな「心情」が「6人拒否」とどう関係があるのか。菅が悩んでいるから、悩みに寄り添え(同情しろ)というのか。学問や政治は「同情」の問題ではないだろう。
 ということは、またあとで触れることにして、記事を読んでみる。(番号は、私がつけた。)

①衆院予算委員会は2日、菅首相と全閣僚が出席して基本的質疑を行い、与野党の論戦が本格化した。首相は日本学術会議会員の選出方法について「閉鎖的で既得権益のようになっている」と指摘し、組織改革の必要性を訴えた。
②首相は「官房長官当時から選考方法、あり方について懸念を持っていた」と述べた。その上で、「会員約200人、連携会員約2000人の先生とつながりを持たなければ全国で90万人以上いる(研究者の)方が会員になれない仕組みだ」と強調した。
③会員候補6人の任命拒否に関して、「正直言ってかなり悩んだ。学術会議から推薦のあった方をそのまま任命する前例を踏襲するのは今回はやめるべきだと判断した」と説明した。

 ①に「閉鎖的」ということばが出てくる。この「閉鎖的」を説明しているのが②である。「閉鎖的」という事象の対象を「選考方法」と定義し、具体的に「会員約200人、連携会員約2000人の先生とつながりを持たなければ全国で90万人以上いる(研究者の)方が会員になれない仕組みだ」と言い直している。これだけ読めば、「なるほど、会員、連携会員とつながりを持たないと選ばれない(推薦されない=読売新聞の記事には書かれていないが「推薦制」に問題があると菅は言っていたはずである)のか」という気持ちになるが、これって、「事実」?
 いったい「90万人」のうち「会員200人、連携会員2000人」とつながりを持たないひとって、何人? 私は「学者」の生活を知らないけれど、「学者」なら「学会」へ出席するとか、同じテーマで意見を交換するとかするのではないのか。「論文」を互いに交換したり、意見を言い合ったりするのではないのか。誰ともつながりを持たない「学者」がいるとは思えない。人数の対比だけで、つながりの有無を断定することはできない。
 さらに、「学者」のうちの誰かが、「私は、会員になりたいのに、会員、連携会員とつながりがないので、推薦してもらえなかった」と訴えているのだろうか。「あなたの研究は非常に優れている。けれども私の研究を支援してくれている別のひとを会員にしたいから、あなたを推薦できない」と言われた学者がいるのだろうか。
 そういう「事例」があるなら、それを明示し、「閉鎖的」の根拠として示さないといけない。「会員200人、連携会員2000人、それ以外の学者90万人」という数字だけ並べて、「閉鎖的」と言う「結論」を出すのは無理である。
 「閉鎖的」あるいは「閉鎖性」というのは、「情報」がどれだけ開示されているかということと関係がある。
 菅は、学術会議に対して、105人の推薦者の推薦理由を問い合わせたのか。問い合わせたけれど、推薦理由が開示されなかった。誰が推薦したのか、推薦人も開示されなかった、というのなら、学術会議の推薦者の選考方法は「閉鎖的」と言える。しかし、それが開示されるなら、それはたとえ、事後報告であったとしても「閉鎖的」とは言えない。選考方法を点検し、批判し、次の選考に行かしていくことができる。
 この「情報の開示」という点から菅のやっていることを見直すとどうなるか。
 菅は6人を拒否した理由を開示していない。これは「選考過程」が開示されていないということである。しかも、国会で国民の代表である議員が質問しているのに、選考基準を明示しない。いままで断片的に語られているは、大学に偏りがあるとか、女性が少ないとか、であるけれど、それは多くのマスコミが指摘しているように「事実」ではない。菅は今回「閉鎖的」ということばをつかっているが、その「閉鎖的」と同じように、単なる「思い込み」である。「事実/事例」を明示して、閉鎖性を証明しているわけではない。
 多くで言われているように、6人が政権に対して批判的な言動をしたことが任命拒否につながっているのであれば、それこそ菅(政権)と友好的なつながりを持たないひとは学会会員になれないという「閉鎖性」を生み出す。
 「閉鎖的」なのは、菅の方なのである。「閉鎖的」でないと主張するのなら、明確な「基準」(選考過程)を開示すべきなのである。
 この政権(権力)の閉鎖性は、そして、他の分野にも次々に拡大されていくおそれがある。ある活動が(そして、その活動をしているひとが)、なんの理由も明らかにされずに排除されるということが起きかねない。安倍は安倍の「お友達」を優遇する手法を貫いたが、菅は菅の「敵」を排除するという手法をとるのである。(これは、結果的に、菅の「お友達」を優遇するということにつながるが、優遇を前面に出すのではなく、排除を前面に出すのが菅の特徴だ。すでに政府方針に反対の職員は異動させる、と排除姿勢を明確に語っている。)
 権力をもっているものは、その権力の行使について疑問をもたれたとき、行使の「根拠」を明示しないといけない。具体的に言えば「法」を明示しないといけない。
 これについては、菅は「学術会議法」を引用しているが、「解釈の仕方がおかしい」という指摘には「解釈を変えた」というようなことを言っている。「法」は行政機関が勝手に「解釈を変更する」ということがあってはならない。立法機関(国会)で審議し、見直さないといけない。この「解釈の変更」についても、菅は「後出しじゃんけん」のように内閣法制局に問い合わせたというようなことを語っているが、明確な文書は提示していない。学術会議にどうやって解釈の変更を伝えたか、その文書も残っていない。これでは正確な「情報開示」ではない。単なる「言い逃れ」である。
 いちばんの問題は、学術会議の「閉鎖性」ではなく、菅が行政が「閉鎖的」であるということだ。

 「正直悩んだ」の「悩んだ」が何を指すのか、③を読むかぎりでは、私には、まったく理解できない。「学術会議から推薦のあった方をそのまま任命する前例を踏襲するのは今回はやめるべきだと判断した」と語っているが、菅は「99人の名簿しか見ていない」とも語っている。見た99人をそのまま任命しているなら、それは前例踏襲そのままであり、何を悩んだかわからない。悩むとすれば、6人の任命拒否が適切であるかどうか、ということになる。6人だけでいいのか、もっと増やすべきではないのか、いや6人も任命すべきだ……と判断に悩むというのなら、わかる。でも判断が入り込んでいないなら、悩む理由などどこにもない。
 「閉鎖的」ということばについてもそうだが、この「悩む」ということばについても、読売新聞の記事は明確に定義してつかおうとはしていない。菅が言ったから、それをそのままつかっている。「報道」なのだから「言われたことばは言われたままに」ということなのかもしれないが、言論機関であるなら、こういう姿勢はおかしい。「閉鎖的」「悩む」ということばが適切につかわれているかどうかを含めて報道しないといけない。
 野党も同じ。私は新聞でしか予算委のやりとりを確認できないが、用意してきた質問を読み上げるだけではなく、菅の答弁を聞いて、そこに含まれる問題を指摘することが重要だ。「一問一答」なのに、用意してきた質問をするだけで終わるのは、まことにだらしない。
 「閉鎖的」とはいったいどういうことなのか、「悩む」とはどういうことなのか。こんなことをいちいち質問するのは小学校の国語の授業か学級会なみのやりとりだが、菅の答弁が小学生の言い訳のようにその場しのぎなのだから、それがいかにその場しのぎであるから指摘することからはじめないといけない。
 それにねえ。
 国会(予算委員会)は、菅の「悩み」を聞く場所ではない。「悩んだ」と打ち明けて、同情を集め自己主張をつらぬくなんて、まさに小学校の学級会なみのことではないか。どんなに悩んだにしろ、その判断をした「根拠」を明確にし、「根拠」を共有し、それからはじまる行動を共有するために論理を展開するというのが、リーダーの仕事だろう。








*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縦割り打破?

2020-11-02 18:51:34 | 自民党憲法改正草案を読む
縦割り打破?

   自民党憲法改正草案を読む/番外410(情報の読み方)

 2020年11月02日読売新聞夕刊(西部版・4版)に衆院予算委の「一問一答」がのっている。

改革「デジタル庁に権限」/衆院予算委 首相「一問一答」初論戦

 という見出し。最初の質問者は自民党議員だから、夕刊で報道されているのは、いわば「身内のよいしょ」で固められた「宣伝」。そして、だからこそ、ここに「問題」が隠されている。
 記事には、こう書いてある。

 首相は、政権の看板政策である行政のデジタル化について、「行政の縦割りを打破し、大胆に規制改革を断行する突破口としてデジタル庁を創設する」と改めて表明した。その上で「社会全体のデジタル化に責任を持って取り組むため、各省庁が持っている権限を含め、(デジタル庁に)権限をしっかり付与していきたい」と述べた。

 ここで言う「縦割り行政」とは「各省庁」ごとの「縦割り」である。これをどうやって「打破」するか。菅は単に情報を「デジタル化」するだけではなく、「各省庁が持っている権限を含め、(デジタル庁に)権限をしっかり付与していきたい」と言っている。
 これは、言い直せば、
 「権限をデジタル庁に一元化する」
 ということである。この「一元化」は「デジタル庁」が新しい「縦割り」の元締めになるということである。
 さらに言い直せば、菅の意図を各省庁に伝える(各省庁を支配する/個別の反論を許さない)ために「デジタル庁」を利用するということである。

 これを私たち国民の「情報」と結びつけて言い直せば、国民のデジタル化された情報を全て「デジタル庁」が把握し、その情報を国民を支配するために利用するということ、国民を政府の下に置き、支配すること(独裁を完成すること)になる。

 どんなことでもそうだが、立場が違えば、ものの「見え方」が違う。ある立場からは見えなかったものが、別の立場から見える。
 たとえば「原子力発電」は「温暖化ガス」を排出しない。けれど放射能の危険が伴う。廃棄物の処理の問題が伴う。(ほかにも、いろいろあるが。)どちらか一方だけの「情報」を取り上げて、その「情報」をもとに全体をしはいしてしまうことは危険である。
 つねに多様な視点からの点検が必要である。「多様性の確保(多様性の担保)」について、菅は何も言っていない。
 すでに学術会議問題で明らかになったように、菅は「多様性の排除」を政権の目標にしている。
 同じ視点で「デジタル庁」を設置しようとしている。

 読売新聞の見出しは、まことに正直に菅の意図を代弁している。

デジタル庁に権限を集中させる

 と「集中(させる)」ということばを補えば、菅の狙いが明確になる。権限を集中させ、支配の「効率化」をはかる。異論を許さない(反論するものは排除する/異動させる)ということが、「デジタル庁」が設置されれば急速に進むのである。

 少し会社組織などと比較してみればわかる。いまは、どの会社でも「デジタル化」が進んでいる。どの会社にも「デジタル(情報)/システム」を支える部門はあると思う。しかし、そういうシステムや情報は、いわば「補助機関」である。組織の「主役」ではなく「脇役」である。「主役」になってはいけない機関である。
 「主役」は「企画・立案」である。何が問題であり、それに対して何ができるか。それを考える。そこから派生してくる問題をどうサポートするかというのが「脇役」の仕事であり、「デジタル処理/デジタルシステム」というのは、その一部である。
 しかし、菅は、その「脇役」を「主役」にしようとしている。
 「デジタル庁」はきっと戦前(戦中)の「軍隊」のように国民を支配することになる。たぶん菅は「軍隊」組織として「デジタル庁」を活用しようとする。すでに「警察国家」の様相を見せ始めているが、それがいっそう拡大する。
 「デジタル」ということばにだまされてはいけない。「情報検閲・情報支配組織」がその「正体」である。








*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中沢けい「うどんかけ」、粕谷栄市「音楽」

2020-11-02 09:16:56 | 詩(雑誌・同人誌)
中沢けい「うどんかけ」、粕谷栄市「音楽」(「森羅」25、2020年11月09日発行)

 中沢けいが詩を書いているとは知らなかった。そして「うどんかけ」ということばも、私は知らなかった。私は「かけうどん」という。こういうことはどうでもいいことかもしれないけれど、私は気になるのである。
 「かけうどん」はデパートの食堂で「うどんかけ」が食べたいとダダをこねる子どもが主役だ。「澄んだおつゆのなかにうどんが沈んでいるうどんかけが好き」と言い張る。中沢の思い出なのかもしれない。最初にデパートの食堂が出てきて、次に雨の日の思い出があり、ふたたびデパートの食堂にもどり、最後に「オチ」のようなものが書かれているのだか、間にはさまった「雨の日」の部分が非常におもしろい。

 雨の日。「今日は雨降りだから越後屋さんのうどんかけを注文し
て」と頼む。母はすました顔で「今日は越後屋さんはお休みの日よ」
と言う。そのとたんに出前の越後屋さんのバイクがやってくる。お
隣のおうちで出前を頼んだのだ。「越後屋さん、お休みじゃないよ」
と大喜び。軒先から雨だれ。縁側で小躍りしている私の頭越しに母
が言う。「越後屋さん、すまないけど、うどんかけを三杯、お願い
します」と。お昼に母と弟と私でうどんかけ三杯。さすがにうどん
かけを一杯だけ配達してくださいとは言えない母だった。越後屋さ
んは知っている。ここのうちの娘はうどんかけが好きだって。「今
日は雨降りだからうどんかけ」と唱えながら軒先でずっと踊ってい
る私だった。

 私が気に入ったのは「今日は雨降りだからうどんかけ」がくりかえされているところだ。正確には同じことばではない。最初は「今日は雨降りだから越後屋さんのうどんかけを注文して」。それがそのあと「今日は雨降りだからうどんかけ」になる。「越後屋さん」が省略されるのだが、これは出前を取るなら「越後屋さん」ということが中沢の家では「共有」されていた事実だからくりかえさないのだ。でも、それではなぜ最初は「今日は雨降りだから越後屋さんのうどんかけを注文して」と「越後屋さん」が含まれるのか。これは中沢が「小説家」であるから、ついつい、こう書いてしまっているのだ。あとのことばがスムーズにつづくようにしている。いわば「伏線」のようなもの。
 言い直すと。
 現実には「今日は雨降りだから越後屋さんのうどんかけを注文して」と少女は言ったのではないと思う。少女は「今日は雨降りだからうどんかけを注文して」と言ったのだと思う。そして、それはたぶん母の「口癖」というか、母の習慣(中沢家の習慣)だったのだろう。ある日、母が「今日は雨降りだからうどんかけにしよう」と出前を取ったのだ。そのうどんかけが少女は気に入った。そして雨降りとうどんかけがセットになってしまった。「越後屋さん」は、そういうストーリーでは「脇役」。必然ではあるけれど、少女の気持ちのメーンではない。メーンは「雨降りだからうどんかけ」であり、それは同時に「母と少女」の記憶、「私の記憶」なのだ。
 こんなふうに読み直すと、わかりやすくなるかもしれない。
 二度目の「うどんかけ」の部分が「今日は雨降りだから越後屋さんのうどんかけ」だったら、そこから「母」が消えてしまう。「私(少女)」の「わがまま」のようなものだけが浮き彫りになる。「越後屋さん」が消えるからこそ、かわりに「母」が浮かびあがる。「さすがにうどんかけを一杯だけ配達してくださいとは言えない母だった。」というのは、いまから思い出している「母」のことだが、それが、なんといえばいいのか、これがテーマという主張の仕方ではなく、「少女の私」を描くふりをして(?)、静かに浮かびあがる。
 ということを意識しながら、最後の「オチ」の部分を読むと、また楽しい。「オチ」に対する「母」の姿が書いてないのが、とても楽しい。読者はそれぞれ自分の「母」を思い出して、そこに「母」を反映させるしかない。その瞬間、「母」という存在、中沢の「母」に限定されない、普遍の母(母の永遠)のようなものが「共有」される。
 私は中沢の作品は「海を感じるとき」とその後数年の短編集くらいしか読んでいないので、この書き方に「へえーっ」と声が出てしまった。何が「へえーっ」なのかは、私自身よくわからないけれど。



 粕谷栄市「音楽」。

 何が楽しいといって、たくさんの果実が、嬉しそうに、
実っている樹木を見るほど、楽しいことはない。まして、
それらが、みんな、自分の顔をしていて、笑っているの
を見ると、思わず、自分も、笑いたくなる。

 「楽しい」と「笑っている」がくりかえされる。「嬉しい」も同じようなことばだ。そういう似たようなことばが、少しずつ動いていく。動いていくが、何かかわったものになるわけではない。ただおなじところをぐるぐる循環している。
 どうして、これが詩なのか。
 同じところで、ぐるぐると同じことをしていられるから詩なのだ。ストーリー(意味)になることを拒んでいる。
 実際には「意味」というか「ストーリー」のようなものが、あるにはある。中沢の作品について書いたとき「オチ」ということばをつかったが、一種の「結論」のようなものがあるにはある。タイトルの「音楽」がそれだけれど、その「結論」よりも、なかなか「結論」にたどりつかずにぐるぐる巡回し続ける、とどまりつづけることばの「間」がとてもおもしろい。何かしら「豊かさ」のようなものがある。
 それは中沢の詩のなかに出てきた「母」のようなものである。
 粕谷の書いている「間合い」。そういうものがあることは、多くの人が知っているはずだ。けれど、いまはそういう「間合い」でことばを動かす(考える)ひとは少ない。だから、そういう「間合い」に出会うと、何とも言えずなつかしい感じになる。あたたかい感じになる。「母」に抱きついているような感じになる。甘えながら夢を見ているような感じになる。
 中沢の作品を読まなかったら、また違った感想になったと思うけれど、きょうはそう感じた。
 詩の感想は、そのときの状況で、いろんなふうに変わってしまうものだ。



**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「詩はどこにあるか」10月号

2020-11-01 23:14:50 | 詩(雑誌・同人誌)
「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

目次

高野尭『逃散』2  池田清子「秘密」、青柳俊哉「水平線上の祈り」、徳永孝「カラス」6
金井雄二『むかしぼくはきみに長い手紙を書いた』15  糸井茂莉『ノート/夜、波のように』22
高貝弘也『紙背の子』26  谷川俊太郎「夜のバッハ」を読む 31
糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(2)37  柏木麻里『蝶/Butterfly 』41
バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」45  高貝弘也『紙背の子』(2)48
木村草弥『修学院夜話』52  アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」57
高貝弘也『紙背の子』(3)61  尾久守侑『悪意Q47』66
糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(3)71  糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(4)76
近藤久也「ぶーわー44あとがき」84  服部誕『そこはまだ第四紀砂岩層』89
ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」94  
青柳俊哉「水色のゆうぐれ」、池田清子「折り返し」、徳永孝「花」97
吉田文憲「残された顔」106  黒沢清監督「スパイの妻 劇場版」110
鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』112 鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』(2)120
山本かずこ『恰も魂あるものの如く』129  山本かずこ『恰も魂あるものの如く』(2)137
一色真理『幻力』144  吉田博「光る海」151
浜江順子『あやうい果実』155 為平澪『生きた亡者』161
中神英子『一歩』166  青木由弥子『しのばず』170
池田清子「G」、徳永孝「ポリゴナム」、青柳俊哉「生まれえぬバラ」173

バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷口鳥子『とろりと』

2020-11-01 10:33:41 | 詩集
谷口鳥子『とろりと』(金枝雀舎、2020年10月31日発行)

 谷口鳥子『とろりと』はたいへんおもしろい詩集だ。今年読んだ詩集の中では最高傑作と言っていい。いろいろなスタイル(形)があるのだが特に行頭がそろっていない作品が印象に残る。このブログではことばの配置をそのまま再現することがむずかしいので、すべて行頭をそろえた形で引用する。(正しい形の作品は詩集で確認してください。)
 何がおもしろいか。
 ことばがことばのまま、意味にならずに、そこにある。
 たとえば「足ゆび」。

だんご虫みたいに
まるまって足ゆび

紫のカーテン少しだけめくり
月見えるときだけ月 見上げ
吸いこんで細ク白ク
白糸で五本指ソックスの穴かがる
うごけうごけうごけ パーのできない足のゆび

足ゆびに線くにゃり
おしこめられている

朝ノ空気ウゴキダス前ニ線ハ字ニナッテ詩ニナッテ線ハ
ベランダの柵を抜け壁をつたい舗道の目地じぐざぐ
信号機にまきつき見えなくなって月のほうへ

黄色い線の内側に
二列に並んでいる

 夜、五本指ソックスの穴をかがっている、ときのことを描いているのか。「意味」はなんとでも「捏造」できる。つまり、私自身に引きつけて「誤読」できる。その穴をかがったソックスを履いて誰かが朝出かけていく。谷口ともとれるし、別の人ともとれる。私はただなんとなく、そのひとを見送っている感じを受け止めるので、谷口ではない人(でも、身内だね)が谷口につくろってもらった靴下を履いて外出していく、そのひとを谷口はそっと見守っているという「情景」を「意味」として「誤読」する。
 まあ、こんなことはどうでもいい。どうでもいいと書くと語弊があるが、「詩」はそんなところにはない。「詩」は「意味」ではない。つまり「説明」ではないからだ。
 詩は、たとえば書き出しにある。

だんご虫みたいに
まるまって足ゆび

 これは、

うごけうごけうごけ パーのできない足のゆび

 と言い直されているが、たしかに足の指は手の指ほどには器用に動かない。丸まっている。でも、それがどうした? 何か困る? いや、困る人もいるだろうけれど、そしてこの靴下の持ち主はきっとそういうことで困ってもいるのだろうけれど、困っていること(また、谷口がその困っていることに対して親身になっていること、だからこそ穴をつくろっている)を忘れて、その「だんご虫みたい」と「まるまっている」とか「うごけうごけうごけ パーのできない足のゆび」ということばそのものに引きつけられる。
 「意味」はあるかもしれないが、「意味」になる前の、「ただのことば」がある。それは先に書いた「困っていること/気にかけていること」が、ふとことばにならない何かのなかからひっぱりだした「思いつき」なのだが、この「思いつき」に何とも言えない深い温かさがある。
 それは

足ゆびに線くにゃり

 というような表現に、不思議な形で結晶している。「足ゆび」が「くにゃり」としているのかなあ。穴をつくろったときの「線」が「くにゃり」としているのかなあ。もし、「線」が「くにゃり」としているとしたら、それは谷口のつくろいかたがへたくそだったからかなあ。それとも足ゆびに問題があってまっすぐな線も「くにゃり」とさせてしまうのかなあ。
 この詩には谷口だけのことばが書かれているように見えるが、もしかすると、ここには対話があるかもしれないな、と思う。
 「ほら、穴は塞がったよ。履いてみて」
 「みっともないなあ。線がくにゃりとしてる」
 「それは、あなたの足の指がくにゃりとしているから。だんご虫みたいに/まるまってる。この足ゆびのせい」
 こんな会話があるのかもしれない。
 もちろん、こんな「ストーリー」は「誤読」。
 「誤読」とわかっていて感想をつづけるのだが、誰かと何かを「共有」していて、その何かを「共有」することによってはじめて引き出される「ことば」、受け入れられる「ことば」というものがある。そのときの「共有」の深さというのか、ひろがりというのか。なんと言っていいのかわからないのだが、一緒に生きていることによって動くものがある、そしてそれは「意味」にしなくても(散文のように、主語、述語、目的語、補語というテキストやストーリーにならなくても)、「もの」のように存在する。あるいは、「穴のあいたソックス」「穴をつくろったソックス」のように存在する。「あれ取って」「あ、あれ」という慣れ親しんだひとの「あれ」のように「具体的」なのものとして存在してしまう。
 そういうことを感じるのである。

ベランダの柵を抜け壁をつたい舗道の目地じぐざぐ

 というのは「線」の描写のようでもあり、穴をつくろった靴下を履いてあるいていくひとの足どりのようでもある。「壁をつたい」というのは「壁をたよりに」とも読むことができるし、そういう足どりだからこそ「じぐざぐ」というようなことばも動くのだろうと思う。

黄色い線の内側に
二列に並んでいる

 というのも信号が変わるまで待っている感じだなあ。「青信号を待っている」と書くと「意味」になってしまうが、その「意味」を「足ゆび」と「ソックス」にひきもどして、そこに存在させてしまう。
 それは実際に見えるものではなくても(つまり、靴を履いてしまえば、穴のつくろいなど見えないからね)、谷口には見える。
 ほんとうは(というか、客観的には)見えないものが、谷口のことばによって見えるものとして、いまここにある。それが「ことば」。それが「詩」。

 もう一篇。「音」。

魚屋でイカ買い
踏切超えると
賑やかにくりかえす宝くじ屋の宣伝
二つ目の角 右に折れ
裏まわると細長い庭
腰丈の物干に
一人分の洗濯物 奥からおっちゃんの声
来たか
やるか
斧買い換えたんや
いけるか
重いで
丸太の上に丸太 どガッと
斧握り
振り おろす
ガ ゴッ
虫くってるやつは ス ごッ
(燃えたら一緒や)

瓶の肩の薄い埃払って
注ぐ芋焼酎 一息あとに
とくっ ととくッ
生きかえったみたい
(燃えたら一緒やな)

おっちゃん
イカやけたで

 「おっちゃん」の知り合いが酒の肴(イカ)を買ってきて、なんと、薪を割って火をおこし、イカをあぶって焼酎を飲んでいる。そういう「意味/ストーリー」を捏造するのはとても簡単。
 でも、そういう「ストーリー」ではなく、「来たか/やるか」「いけるか/重いで」という二人のやりとりがとてもおもしろい。「やるか」は「いっぱいやるか」の前の、薪を割るかということなのだが、それは読んでいる内にわかる。これは読者が読んでいる内にということであって、会話しているひとは「薪を割る」という行為が「共有」されているので、そのことばを省略してしまうのだ。
 それがないと意味が通じないのに、つい省略してしまうことば、本人にはわかりきっていることば(肉体になってしまっていることば)を私は「キーワード(思想のことば)」と呼んでいるが、ここでは酒の肴をあぶるために薪を割る、ということが「肉体の思想」になっている。そしてそれが「共有」されている。そこには「斧は重い」というようなことも「共有」されている。だから、ことばは「必要最小限」のものだけが「ことば」として投げ出される。
 虫食いの丸太は簡単に割れるとか、そういう一仕事をしたあとの焼酎はうまいとか、「意味」を書かずに、その瞬間に、「肉体」からあふれだすことば、肉体から聞いた音を「もの」として、そこに存在させる。
 
(燃えたら一緒やな)

 この一行は、二度くりかえされる。最初は薪のことを言っているが、二度目は私には、火葬場でのひとの会話のようにも見える。そうすると「虫くってるやつ」というのは病魔におかされている「おっちゃん」と「誤読」できる。

おっちゃん
イカやけたで

 は、そこにはいない「おっちゃん」への呼び掛けに「誤読」できる。でも、そういう「意味」はどうでもいい。「意味」よりも、「ことば」そのものの「響き」。「意味」を突き破って存在する響き。思わず、そう書いてしまうのは、「意味」は「捏造」できるが響きは捏造できないからだ。響きは、肉体をとおって声になるその瞬間にしか存在しない。そういう絶対的な響きを、そのまま、書きことば(印刷された文字)なのに、そこに出現させてしまう。

 ふつうの書店にはなかなか出回らないだろうと思うので、発行所と電話番号を書いておく。定価は1800円+税。(ほかに送料がかかるかもしれません。事前に在庫などを問い合わせ、確認してください。)
〒239・0842 横須賀市長沢2の4の19 金雀枝舎
tel&fax 046・849・5147



**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする