詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

やっぱり「GoTo」は五輪のため(情報の読み方)

2020-11-16 08:33:15 | 自民党憲法改正草案を読む
やっぱり「GoTo」は五輪のため(情報の読み方)

 14日に、菅はなぜ「GOTO」にこだわるか、ということを書いた。オリンピックの観客が宿泊するためのホテル、旅館を倒産させないためだ、というのが私の見方だ。そのことをあらためて感じさせるのが、2020年11月16日読売新聞(西部版・14版)1面の記事。

五輪「観客あり」確認へ/首相・IOC会長 きょう会談

 という見出しがついている。ウェブサイトには「独自」というマークがついている。特ダネということだ。こんな「会談内容予測」が「特ダネ」というのは、ニュースの価値づけとしては、非常に「奇妙」である。「会談」はまだおこなわれていない。密室でおこなわれた会談の内容(実際に話されたこと)を秘密のルートで入手した場合は「特ダネ」だろうが、まだおこなわれていない「会談内容」が「特ダネ」であるはずがない。読売新聞が報道していることが話されない可能性がある。だから「確認へ」と「へ」をつけごまかしている。「秘密」会談後ならば「確認」という「へ」のない形で報道される。そしてそれが読売新聞だけが入手できた内容ならば「特ダネ」になる。
 こんなまだおこなわれていない「会談内容」を、なぜ「特ダネ」という形で報道できるのか。それは、この「会談内容」が「会談内容」ではなく、菅(側)がバッハに伝えたいことがら、会談で主張することがらだからである。読売新聞は、菅の側近のだれかに取材し、菅が何を話すかを聞き出したのだ。そして、それはたぶん「聞き出した」というよりも、だれかが読売新聞に「リーク」したのである。記者が聞き出したのなら、ほかのメディアも聞き出しているかもしれない。「特ダネ」ではない可能性もある。「特ダネ」と言えるのは、取材先(リークしたひと)が「これは、読売新聞だけに教えること」と言っているからだろう。(もちろん、記者が自分から接近し、取材後に「この内容について他のメディアからも取材を受けていますか」と確認し、「受けていない」というこ回答をもとに「独自」と判断することもできるが。)
 記事を読んでみる。(番号は、私がつけた。)

①菅首相は16日、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長と首相官邸で会談する。両氏は、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で来夏に延期された東京五輪・パラリンピックについて、観客を入れた形で開催する方針を確認する見通しだ。

 これは「前文」。いわば、記事の「要約」。ここでは「両氏は」「確認する見通しだ」と書いている。あくまで「見通し」なのだが、読売新聞が菅(側近を含む)とバッハ(側近を含む)の「両方」から情報を入手したかどうかは、これだけではわからない。

②バッハ氏は15日に来日した。16日午前に首相と内閣発足後、初めて対面で会談する。午後には、五輪延期を決めた安倍前首相と会う。

 「本記」の書き出し。バッハ来日は事実報告。その後は、すでに決まっている予定。ただ、とても奇妙なのは見出しにとっていることとは無関係な「午後には、五輪延期を決めた安倍前首相と会う」とわざわざ、安倍の名前を出しているところである。この部分は、記事の末尾で「また午後には、五輪延期を決めた安倍前首相と会う」で十分なことがらである。「本記」のどこにも、そのご安倍の話は出てこないのだから。
 記事のつづき。

③菅首相はバッハ氏との会談で、東京五輪を「人類がウイルスに打ち勝った証しとして開催する」との決意を表明する。安全・安心な大会とするため、バッハ氏との間で緊密に協力することで一致する方向だ。

 菅が「決意を表明する」と書いている。これは、「リーク」された内容だ。しかし、その後のことは「一致する方向だ」と逃げている。一致するかどうかはわからない。わかっていることは菅が「決意を表明する」という菅側の「予定」だけである。「決意を表明する」には「方向だ」ということばがついていない。ニュースの「主語」は菅であり、バッハは「脇役」。
 東京五輪を「人類がウイルスに打ち勝った証しとして開催する」というのは、すでに安倍が言っていることである。安倍のときからの「規定路線」である。ここでは安倍が「主役」のように振る舞っている。(「安倍よいしょ」を読売新聞はやっているわけである。)
 このあとの記事が非常に重要。「本記」中の「本記」部分だ。

④首相は、大会に参加する外国人選手らが入国後、14日間待機せずにすむ仕組みを今月から導入し、大会準備も進んでいることを説明する。海外からの観客受け入れや、観客数の上限、防疫措置についての調整状況も話題となる見込み。

 ここでは実際の「大会運営」のあらましが書かれている。ここでも「説明する」と主語は菅であって、バッハは登場していない。注目しなければならないのは、「大会に参加する外国人選手ら」と書き始めながら、大会運営の説明の「主力」が「選手」ではなく、後半で「海外からの観客」に移っていることである。五輪は「選手優先」であるべきだと思うが、選手をほうりだして、観客対策を「説明」するらしい。
 つづきは、こう書いてある。

⑤政府は観客数の上限について、プロ野球など国内のスポーツイベントの規制に準じることを検討。観客の受け入れ方針は国内外の感染状況を踏まえ、来春に最終決定する見通しだ。

 すべてはまだ「検討」なのだが、ここでも「主題」は「選手」ではなく、「観客」である。そして、そのことに注目するならば、五輪開催の「検討資料」にするために、プロ野球などの観客数制限が緩められた、と読むべきである。ここには書いていないが「GoTo」の結果も、もしかすると検討されるかもしれないが、これは「感染拡大」を招いているという批判があるので、「資料」としては提供しないかもしれない。ただし、「宿泊施設」については説明をするだろう。「ホテル・旅館」の経営は大丈夫だという説明をするために、「GoTo」の利用状況(宿泊施設の経営状況)は説明されるだろう。その説明をするために「GoTo」は絶対必要だったのだ。また今後も宿泊施設を維持するためにはキャンペーンをつづける必要があるのだ。「GoTo」をつづけなければ倒産してしまう宿泊施設が出かねないのだ。(私はある大手のホテルマンから、このままではつぶれる、という悲鳴を聞いた。)
 あらゆることが「五輪」のためにおこなわれている。国民の健康はどうでもいいのである。そして、この「五輪のため」というのは、たぶん「電通のため」なのである。五輪が開かれないと、電通の想定していた「収入」がすべて消える。政権を支えている「宣伝機関」がつぶれてしまう。そうならないようにするために、安倍・菅は懸命なのである。

 こんなことは、どこにも書いていない。
 しかし、読売新聞の記事からは、五輪には「観客がやってくる」(観光客がやっていくル、経済がもちなおす)という「宣伝」が込められている。
 「来春に最終決定する見通し」とすべてを「将来」にまる投げする形で記事を締めくくっているが、こんな予測をしている状況ではないだろう。コロナの感染状況はどうなっているか。
 31面に、こう書いてある。

 国内の新型コロナウイルスの感染者は15日、新たに38都道府県と空港検疫で1440人確認された。3日連続で過去最多となった14日からは減少したものの、1400人を超えたのは5日連続となる。死者は5道府県で計7人だった。

 「14日からは減少したものの」ということばが挿入されているが、この「確認」は「土曜・日曜」を挟んでいるから検査数自体が少ないかもしれない。それでも「1400人を超えたのは5日連続」という状況である。この状況を考えるならば、とても五輪の観客確保を語っているときではないだろう。五輪には外国から観光客がやってくる、とのんきに宣伝しているときではないだろう。日本だけではなく、世界中で感染が拡大しているさなかである。アメリカや欧州、いや東南アジア以外のあらゆる国からは、選手が出場できるかどうかさえわからない状況ではないのか。
 こんなときに、五輪の観客確保対策を話し合うことは非常識である。
 「リーク」されたならリークされたでかまわないが、リークされた内容を批判する視点が必要である。リークされたから、それをそのまま「宣伝」の形で書いているのではジャーナリズムとは言えないだろう。リークされたことであっても、そこに隠されている問題点をこそ暴くべきである。



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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高橋睦郎『深きより』(4)

2020-11-15 18:56:46 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(4)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「四 雪しく封印」は「大伴家持」。

言ふなかれ わたくしが二度死なしめられた とは

とはじまる。二度の死とは肉体の死(戦死)と反逆者として位や名前を奪われたことを指す。しかし、家持はそれを認めない。なぜか。

すでにわたくしは わたくし自身を葬つたのだ
新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事
これが 私の自らを葬る弔ひの棺挽き歌
同時に この国の古歌そのものの挽歌でもある

 「歌」によって「わたくし自身を葬つた」というとき、私は「辞世の歌」を連想するが、高橋の引用している歌は辞世の歌なのか。それに、この歌は「挽歌」なのか。私は「降りつづく雪のようによいことが重なりますように」という祈りの歌、新年を祝う歌だと思っていたので、ここで、つまずいた。
 しかし、冒頭の「二度の死」を、ここでこんなふうに虚構によって「二重」にしていることの方に興味を持った。「わたくしを葬る」と「古歌を葬る」を重ねるとき、それは「古歌に通じるわたくしを葬る」ことになる。つまり、「新しい歌を生きる」ということになる。そして、この「新しい」を「新年」に重ね合わせれば、「死」こそが新しい命を生み出すということになる。
 屈折しているというか、論理的であるにしても、その論理が論理のための論理のように感じられる。これは冒頭の「二度の死」に対抗する家持の「戦い」であるとも言える。

この歌の天地を満たし 降りつづき降り重しく雪は
歌ふわたくしと歌ふ時代とを 共に送る純白の葬儀
その白の中に わたくしはしかと封印したのだ

 何を封印したのか、が問題かもしれない。「万葉集」最後の歌であることを考慮すれば、たしかにそれ以前の歌(同時代の歌を含む)を封印したということになるのかもしれないが、私はそれについては書くことを保留する。
 私が書きたいと思うのは「白」ということばについてである。「純白の葬儀」を「その白の中」と言い直すとき、高橋は、いったい何を見ているのだろうか。
 「白」とは何か。
 単なる「色」を超えた存在のように私には感じられる。
 「二度の死」「わたくし自身を葬る」という「二重性」。この「二重性」を私は「隠す」ということばでとらえ直したい。あるいは「否定」ということばでとらえ直したい。
 家持の戦死から、家持の名前と将軍としての地位を剥奪するとき、そこでは家持の存在が隠され、否定されている。歌を歌い、その歌の中で「わたくし自身を葬る」とは「わたくしの名前をみずから否定し、隠す」ということか。そのとき残るのは何か。「歌」である。署名のない歌、詠み人知らずの歌。ただ、ことばだけが残る。
 多くの歌には当然「署名」がある。しかし、署名を持たない歌もある。歌は署名がなくても生き残る。「万葉集」そのものも、編集者・家持の「名前」を無視して、あるいは超越して残る。
 もしかしたら「古歌を葬る」というとき、家持の考えていたのは(高橋の考えていたのは)、署名つきの歌のことかもしれない。そうしたものを否定し、署名なしで生き残る歌を目指す。いま(といっても、死んでからのことだが)、家持は「名前」を奪われた。「無名」になった。しかし、歌は残る。そこに「署名」を認めるか、認めないかは別問題として、歌は残る。                     
 そのときの「歌の肉体」のようなもの。署名されていない歌。あるいは「無名」の「無」が。それが「白」なのではないか。「白」は「無色」だ。その「無色」の無としての「白」。ただそこにあるだけの「肉体」の白い輝き。それこそが「歌」なのではないか、という思い……。

 私は富山の生まれであり、富山で育った。家持が見たのと同じ雪ではないが、同じ地域に降る雪を見ている。雪は、すべてのものを隠してしまう。高校時代に、「雪は夏の汗を隠して大地に降り積もる」「雪は夏の汗の結晶、大地を隠して降る」というような詩を書いた記憶がある。私の家は農家であり、雪は田畑で働くことからの解放をも意味した。もちろん、雪の間は雪の間で、しなければならないことはあるのだが。
 雪の白は、それまでの全てを封印する。ここから新しい何かがはじまる。はじめるための封印としての白。
 この封印する「肉体としての白」を、私はたしかに知っている、と思う。
 私の「誤読」は、高橋の思いを外れているだろう。だから「誤読」というしかないのだが、私は「誤読」したことを書き残しておきたいのである。






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天童大人『長編詩 バビロン詩編』

2020-11-15 10:13:52 | 詩集
天童大人『長編詩 バビロン詩編』(七月堂、2020年11月11日発行)

 天童大人『長編詩 バビロン詩編』はバビロンで詩を朗読したときのことを書いている。天童は朗読を「聲を撃つ」と呼んでいる。

八方に遮るものはない
この七千年の時を経た塔の跡に立ち
思い思いに詩人たちは聲を撃った
が何に遮られているのか誰の聲も通らない

私の肉体は 立つ場を決められず
八方へ聲を撃ちながら 一つの聲の道を見つけた

バビロン 紀元前五千年
この穴だらけの岩
このニムロデの塔の跡の地底
から放たれている強い磁場は
エジプトのギザのピラミッド
メキシコの月のピラミッドの天頂
ペルーのマチュピチュ 太陽の神殿のインティワタナ
大和の三輪山山頂
対馬の和多都美神社・海中の一の鳥居
などで体が受けた波動はこの場より弱いのだ

 多くの詩人たちは「聲を撃つ」が「誰の聲も通らない」。このとき最初に天童は「遮る」という動詞をつかい、「通らない」と言い直している。「遮る」ものは、たとえば「壁」である。しかし、そんなものは、そこにはない。
 これをこのあと、天童は「聲の道」ということばでとらえ直す。「壁」(遮るもの)があるのではなく、「道」がないのだ。「道」を外れているのだ。
 だが、どうやって「道」を見つければいいのか。「立つ」という動詞に私は注目した。「立つ場」と天童は書く。ある「場」に「立つ」。そうすると、おのずと「道」は開けるのである。
 天童は、バビロンに来るまでに、すでにいろいろな「場」に立っている。それまでに体験した「場」と「ニムロデの塔跡」とは違う。何が違うのか。「体が受けた波動」が違う。ニムロデの塔跡では、体が受ける波動が強い。でも、この「体が受ける波動」とは何か。抽象的である。私は天童が書いているどの「場」にも行ったことがないから、これでは何が書いてあるかわからない。
 で、少し読み返す。
 「体」と書かれていることばは、その前は「私の肉体は 立つ場を決められず」と「肉体」ということばとして書かれている。同時に「立つ」という動詞もつかわれている。ただしその「立つ」は独立したことばではない。「肉体が立つ」と動詞で完結しているのではない。「立つ場」と「場(名詞)」を含んでいる。
 「立つ場」とは「立場」でもある。「立つ場」とは単に、ある場所ではない。「肉体」を「立たせる」とは単にその場に行くことではない。その「場」に立つことで、自分のどのように位置づけるか。「歴史」のなかに、「空間」のなかに、人間として、自分をどのように置くか。それが「立場」というものだろう。
 「アタチェルク空港」に、こんなことばがある。

この荒涼とした大地に期限切れ間近の大量の爆弾
を消費してアメリカの軍産体制を維持し 国を破壊し
独裁者を葬り去り 石油を略奪するための戦争に
イラクの無辜の民たちはどれだけ無為な命を失ったか

 「事件」「現実/現在」をどうとらえるか。天童の定義とは違う定義をするひともいる。つまり、「立場」が違う。「立場」が違えば「現在の場」が違う。「歴史」を貫く「真実の時間の動き(道)」のあり方が違う。
 天童は、自分の「立場」(歴史をどう見るか、現実をどう見るか)を「肉体」を通して実感し、それを確認したとき、その「肉体」のなかに「道」を見つけたのだ。どうことばを発すれば、その聲がまっすぐに進んでいくかを発見したのだ。
 これは、他の詩人達が「道」を見つけられなかったということではなく、それぞれが違う「聲」をもっている、ということである。ある人には聞こえる「聲」があり、あるひとには聞こえない「聲」がある。だから、「聲」はまず自分自身の「解放」であって、その解放された叫びが自分自身に聞こえ、それを受け止められるかが大事なのだ。
 「声」ではなく、天童は「聲」と書く。「聲」のなかには「声」と「耳」がある。「殳」は「はこ」であり、「兵器」である。この「殳」を「肉体」と読み直してみる。「声」と「耳」をつなぎとめる「兵器(あるいは入れ物)」としての「肉体」。「肉体」は多くの人の「声(歴史と現実)」を「聞き」(吸収し)、「肉体」のなかで自分の「声(認識/思想)」を育て、それを発する。そのとき「聲」は兵器である。ただし、素手の兵器。人の「肉体」に損害をあたえない。しかし、「肉体」を貫き、「思想」を破壊するかもしれない。「聲」には「歴史(思想)」がある。その人がどう生きてきたか、そういうことがすべて反映している。その自分自身の「聲」のための「道」を見つける。それが見つかれば「道」を自分自身の「聲」の「軌道/弾道」にするということだろう。
 「バビロンの道」には、こんなことばがある。

検問所の三人の警官の中であの大柄な男
だけが怒鳴っているのが口の動かし方で分かる
なぜ彼が怒っているのかは解らない

 「分かる」と「解る」がつかいわけられている。「口の動かし方」から「怒鳴っている」のが「分かる」。これは、天童が怒鳴っているひとを何度も見たことがあるからだろう。それだけではなく怒鳴った体験があり、そのときの自分自身の「口の動かし方」を覚えているからだろう。肉体で覚えていることは、いつでも「分かる」のだ。「分かる」は「共有」であり、「共有」は「分有」でもある。同じものを分かちながら、共にもつ。しかし、彼の怒りの原因(理由)までは「解らない」。それは天童が「肉体」で体験していないことだからである。
 「肉体」は「有限」である。体験できることと体験できないことがある。

この荒涼とした大地に期限切れ間近の大量の爆弾
を消費してアメリカの軍産体制を維持し 国を破壊し
独裁者を葬り去り 石油を略奪するための戦争に
イラクの無辜の民たちはどれだけ無為な命を失ったか

 これは「体験」か。「体験」ではなく、「想像」である。その想像にはしかし、いろいろなものが組み合わされる。まじりこむ。その結果、「想像できる/共有・分有できる」から「分かる」にかわる。「大柄な男」の怒りは「想像できない/共有できない(分有できない)」から「解らない」。「体験(肉体)」と「想像力(精神)」がぶつかり、肉体の記憶からさまざまなものを分有する、つまり、時間をかけながら「解る」が「分かる」へ変化していく。そのときの「実感」のようなものが「聲」になって発せられるということか。
 そうなのだと、思う。
 この「変化」。「認識」が「思想」になり、「聲」となって実際に動き出すまでの変化を天童はおもしろい「形」で具体化している。

が何に遮られているのか誰の聲も通らない

から放たれている強い磁場は

 のように、「助詞」が行の先頭に来ている。ふつう助詞は分節末に置かれる。ところが天童は逆に書いている。これは、どういうことだろうか。
 たとえば、

思い思いに詩人たちは聲を撃ったが
何に遮られているのか誰の聲も通らない

思い思いに詩人たちは聲を撃った
が何に遮られているのか誰の聲も通らない

 これは、どう違うのだろうか。助詞が文末に置かれた方が、次のことばを想像しやすい。「が」のあとは、逆の意味のことばがつづくと想像できる。そういう想像力の動きを天童は拒否しているのだ。簡単に想像するな、と他者の想像力をいったん拒否するのである。いや、自分自身の想像力に疑問を投げかけ、「コンテキスト」に頼るなと言い聞かせているのだろう。つぎのことばが爆発するまで、いま発したことばをそのままにしておけ。あるいは、いま発したことばの威力を確認したあとで、次の「攻撃」にふさわしいことば(聲)を準備しろ、と言い聞かせているのかもしれない。
 「聲」は実際に聞かないとわからないが、「聲」とともにある「息づかい」は書かれたことば(印刷されたことば)からもつたわってくる。








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なぜ「GOTO」にこだわるか(情報の読み方)

2020-11-14 18:39:06 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ「GOTO」にこだわるか(情報の読み方)

 2020年11月14日読売新聞(西部版・14版)1面。

新型コロナ/首相「GoTo」継続強調/感染1750人、2日連続最多

 という見出し。とても奇妙に感じる。記事の書き方は、ちょっと微妙。(番号は私がつけた。)

①政府は、新型コロナウイルスの新規感染者数の急増に警戒を強めている。本格的な冬場は感染拡大のリスクがさらに高まるとされており、経済活動を進めながら、増加傾向に歯止めをかけるという難しい課題に取り組むことになる。
②菅首相は13日、首相官邸で記者団に「飲食を伴う懇親会やマスクを外しての会話など、感染リスクが高まる『五つの場面』を踏まえ、今一度、基本的な感染防止対策に努めてほしい」と国民に呼びかけた。
③政府は一方で、緊急事態宣言の再発令や需要喚起策「Go To キャンペーン」の見直しは現時点で検討しない方針だ。首相は「専門家も現時点でそのような状況にないとの認識を示している」と強調した。加藤官房長官も記者会見で「県をまたいだ移動の自粛を一律に要請する必要があるとは考えていない」と述べた。(略)
④13日は新たに国内で1705人の感染が確認された。12日の1660人を超え、2日連続で過去最多を更新した。都道府県別では大阪府(263人)、岩手県(13人)、長野県(23人)が最多を更新した。
 
①は「前文」。全体の記事の紹介。それにしたがえば、「本記」は、まず「新規感染者数の急増」について書き、次に「政府は警戒を強めている」。そのあとに「経済活動を進めながら、増加傾向に歯止めをかける」ということになる。
 私の割り振った番号でいえば、④②③の順序に書かないといけない。そうしないと、読者が混乱する。見出しも

感染1750人、2日連続最多/首相、感染防止呼び掛け/(しかし)首相「GoTo」継続強調

 という順序にしないと、論理の整合性がとれない。
 言い直すと、感染者が1750人になった。感染が拡大しているから注意が必要。しかし、政府は「GoTo」を継続すると強調している。(でも、なぜ?)
 で、ここから言えることは、まず、読売新聞は「首相、感染防止呼び掛け」を見出しに取らなかったということ。つまり、国民の不安、警戒心には触れないようにしている、ということ。そして、「GoTo」を継続については「疑問」を書かないようにしていることがわかる。
 (でも、なぜ?)
 これは、私が先に記事を要約したときにつけくわえたことばだが、このことは書かれていない。そして、これが問題だ。
 政府は「経済活動を進めながら、増加傾向に歯止めをかける」というのだが、私はこの書き方にも疑問をもっている。
 「経済活動」って、なに? 「GoTo」にかかわる「経済活動」といえば、まず、旅行。ホテル、旅館である。それをなんとしても維持したい。
 でも、なぜ?
 書かれていないからこそ、私は想像する。そして、すぐに思いつく。最近、政府が血眼になってやっていることを見ると、すぐに気づくことがある。
 政府がコロナ対策の傍ら、いまもうひとつ一生懸命にやろうとしていることがある。東京オリンピックだ。その東京オリンピックと「GoTo」は関係があるのだ。いま、ホテル、旅館はたいへん厳しい経営環境にある。つぶれてしまいそう、と悲鳴を上げているところがたくさんある、と聞く。もし、ホテル、旅館が東京オリンピック前に倒産し、営業できなくなったらどうなるか。選手には「選手村」があるかもしれない。しかし「オリンピック観戦客」の宿泊場所がなくなるのだ。それでは観光客がやってこれない。観光客を受け入れようにも、受け入れることができるホテル、旅館がない。観光客が落としてくれる金で日本の経済を立て直すきっかけにしたい、と考えている政府(あるいは電通か)にとっては、これはたいへんな問題だ。東京オリンピックが終わるまでは、ホテル、旅館に倒産してもらっては困るのだ。だから、躍起になっている。
 これは、安倍の残した大きな負の遺産だ。菅は「安倍継承」を訴えて首相になったので、オリンピックを中止して日本経済を立て直すという「新方針」を提出できないのだ。
 日本国民の健康はどうでもいい、なんとしても電通が企画したとおりにオリンピックを成功させないことにはたいへんなことになる。そういう「見方」しかできなくなっている。それが「GoTo」継続(ホテル、旅館を倒産させない、資金援助をする)という政府方針になってあらわれている。
 こういうことは、実際に「取材」していれば、「肌」で感じ取れるはずのことである。しかし、それを隠している。「なぜ?」という疑問を書かずに、菅の言うことが「正しい」と思わせる書き方をしている。そのために、記事そのものが混乱している。「前文」の記述内容の順序と、本記の記述内容の順序が食い違うという奇妙な書き方になっている。新聞記事にはどういうふうに書かなければならないという「決まり」があるわけではないだろうが、ちぐはぐな(わかりにくい)文章の流れ、見出しのつけ方から、私は、そんなことを思ってしまうのだ。もう菅(政権)に見切りをつけて、国民のためにほんとうのことを書くべきではないのか。







*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)

2020-11-14 09:14:40 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)(2020年11月13日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、アニタ・エクバーグ

 この映画のラストシーンは好きだなあ。
 海岸で巨大なエイが引き上げられる。それは巨大さゆえに美しいとも醜いとも言うことができる。ちょうど、この映画のほとんどで繰り広げられる「甘い生活」のように、私のもっている感覚を超越している。自分のついていけない世界については醜悪と拒否することも、甘美とあこがれることもできる。どちらにしろ、それは存在を「認識」だけであって、「体験」するわけではない。特にそれが映画のなかの世界ならば、なおさらだ。だから、何とでも言うことができる。醜悪といっても、甘美と言っても、私がそのことばを口にすることで私自身は傷つかない。その後のことばの展開に何も影響を受けない。いつでも表現をかえることができる。実感ではないのだから。肉体でつかみとった「事実」というものは何もない。
 でも、そのあと。ひとり仲間(?)から離れたマルチェロ・マストロヤンニに河の向こうの少女が何かを言う。聞こえない。何を言われたかわからないままマルチェロ・マストロヤンニは仲間といっしょに引き上げる。それを見送る少女の顔のアップ。
 少女はマルチェロ・マストロヤンニを知っている。手伝いに行った保養地(?)のレストランのテーブル。マルチェロ・マストロヤンニはタイプライターで小説を書こうとしている。少女は音楽が好きで、ジュークボックスを鳴らす。歌を口ずさむ。マルチェロ・マストロヤンニは音楽を止めろ、と言う。そこから短い会話がある。少女はそれを覚えている。マルチェロ・マストロヤンニはどうだろう。覚えていないかもしれない。マルチェロ・マストロヤンニが関心があるのはセックスの相手としての女だからだ。
 このシーンが印象的な理由は、ここにある。
 マルチェロ・マストロヤンニの知らないところで、だれかがマルチェロ・マストロヤンニを支えている。そして、その「支え」のなかには、ラストシーンの少女のような存在もある。明確に気づいていないけれど、気づいていない何かが影響してくる、というものがある。「支え」と書いたが、言い直せば「影響を与えてくれる」ということである。
 たとえば、それはモランディを愛し、パイプオルガンを弾く友人かもしれない。映画のなかで、その友人とは「数回会ったことがある」というセリフが出てくるが、数回でも深く影響する何かというものがある。(少女とは何回会ったか知らないが、たぶん映画にあるレストランのシーンの一回だけだろう。)あるいは、田舎に住んでいる父かもしれない。父だからひっきりなしに会っていたはずである。非常に影響を受けいているはずである。しかし、マルチェロ・マストロヤンニはその影響を受け取ろうとはしない。むしろ拒絶しようとしている。そういうときも、「無意識」のなかを動いている「影響」はある。それはマルチェロ・マストロヤンニを「支え」ているはずである。
 わかることとわからないことがある。そのなかで人間は、その日そのときの欲望で生きている。「甘い生活」におぼれるのか、「苦い生活」を生き抜くのか。どちらが「正しい」ということはない。「判断保留」を生きる。そういう生き方そのものが「甘い」のかもしれないが。まあ、そういうことは、いってもはじまらない。
 そして、人間は、こういう「影響」を与えてくれたかどうかさえわからない人間のことは、どうしても忘れてしまう。ひとは「影響」を受けたい、「影響」を受けて自分自身を変えてしまうことを夢見る存在なのかもしれない。
 象徴的なのが、「マリアを見た」という兄弟のエピソードである。「マリアを見た」という体験を共有したいと大勢のひとが集まってくる。マリアの「影響」を受けることで、自分自身の生活を変えたいのだ。「奇跡」にすがりたいのだ。でも、「奇跡」なんて、起きない。突然降り出した雨のために、体の弱っていた老人(?)がひとり死ぬだけである。マリアの助けを求めてやってきかたひとが、マリアの奇跡には遭遇せず、雨に濡れて死んでいく。
 現実というものが、こんなふうに首尾一貫しないものならば、どうやって生きていけばいいのだろう。こういうことを書き始めると「意味」になってしまうので、私は書かない。ちょっと考えた、という「経過」だけを書いておく。
 私は、この映画に出てくるような「甘い生活」というものを知らないので、もうひとつだけ、私にとってなじみやすかったシーンを書いておく。冒頭のキリストをヘリコプターで運ぶシーン。いわば、こけおどし、のシーンだが、ビルの壁にキリストの影が映り、その影がビルの壁をのぼるようにして空に消えていく。この1秒足らずの映像が美しい。フェリーニの狙いがどこにあったか知らないが、私はこのキリストの影のシーンが撮りたかったのだと信じている。アマルコルドの孔雀と同じで、影のシーンが絶対必要なわけではない。それがなくてもキリストを運んでいることはわかるのだから。でも、だからこそ、そのシーンがフェリーニには必要だったのだ。
 さらに。ヘリコプターにはマルチェロ・マストロヤンニが乗っている。彼と屋上(?)で日光浴をしている女たちが会話をする。ラストの少女との会話のように、互いに言っていることばは聞き取れないのだが。ただし、「大人」の会話なので、何を言っているかはテキトウに判断することができる。「デートのために、電話番号を聞いている」とかなんとか。少女とマルチェロ・マストロヤンニとのあいだでは、そういう「テキトウな想像(自分の欲望)」にあわせた「意味」というものは存在しなかった。このときの、女たちの「腋毛」。剃っていない。その、なまなましい自然。
 このなまなましい自然から、少女の純粋な自然までの「間」。そこにゆれ動くマルチェロ・マストロヤンニ、というふうに見ることのできる映画でもある。フェリーニの映画では、男は一種類(女の気持ちがわからないのに、女に持ててしまう優柔不断な美男子)なのに、女の方は今回の少女やジェルソミーナの純心からアニタ・エクバーグの肉体派、あるいはジュリエッタ・マシーナの素朴からクラウディア・カルディナーレの美貌、アヌーク・エーメの神秘まで、振幅(?)が大きい。でも、フェリーニは最終的には「純真」を選ぶということなのかなあ。最終ではなく、それは出発点ということなのかもしれないけれど。
 福岡(KBCシネマ)でのフェリーニ祭は9本ではなく6本の上映。私は「道」を最後に見ることになる。私が最初に見たフェリーニだ。フェリーニへの「初恋」だと思うと、見る前から胸がときめく。



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高橋睦郎『深きより』(3)

2020-11-13 10:16:47 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(3)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「三 私がゐるのは」は「柿本人麻呂」。

歌と文字とは 私において つひに一つ
私は うたつた歌を 文字で書きしるした
あるいは 文字で書くことで 歌をうたつた

 この三行を書き写しながら、私は私の書いていることが「無効」であることを認識せざるを得ない。
 柿本人麻呂を「文字で書くことで 歌をうたつた」と定義するとき、高橋は「文字で書くことで 詩をうたつた(詠んだ/つくった)」詩人ということになる。ところが私はワープロの関係で、高橋の「書いた文字」をときどき別の文字に書き換えている。つまり、改変している。改竄している。
 高橋は正字、旧かなで詩を書いている。「文字」にこだわっている。私は、その高橋の「こだわり」を無視する形で詩を引用している。

 これに先立つ部分には、

私の終の臥床 奥津城どころを捜しあぐねる人よ
無駄なこと 私の記憶は それらの何処にもない
私の仕事は つまるところ 私の足跡を消すこと
うつめみの私を消すことこそが 歌を立たせること

 という行がある。「歌を立たせる」と、ここに「立つ」という動詞があり、それは「私が立つ」ということと重なる。「歌」といういわば形のないもの(ことば)を、「肉体」として「立たせる」として言い直すとき、そこに「抽象」を「具体」に変えていく何かがある。しかし、まだ、何かが曖昧だ。
 高橋は、これをさらに

私がゐるのはただ 私のうたつた 歌のその内
私の書きとめた文字の並びの その中に のみ

 と言い直すが、これではさらに「抽象」にもどってしまう感じがする。「文字」を「ことば」に変えれば、多くのひとが言いそうなことである。「歌」を「作品」と言い直せば、あらゆる芸術家が言うだろう。「私はただ私の作品のなかにだけいる」と。それでは、単なる「抽象」であり、「普遍」に過ぎない。
 これを高橋は「文字」ということばで「個」に変える。「普遍」(抽象)であることを拒否する。
 そして、最初に引用した三行の前に、こう書いている。(直前に引用した二行と、最初の三行を、次の行で結びつけている。)

私は稚く うたふことを覚え 書くことを習った

 ここには私をつまずかせるおそろしいことが書かれている。「覚える」と「習う」。この二つの動詞を私はどんなふうにつかってきたか。ほかのひとはどうつかっているか。
 私は「覚える」を「無意識に知る」という意味でつかう。そして、その「知る」に「肉体に覚え込ませる」と同じである。本能(欲望)にしたがって、他人の「肉体」を見ることで、それを自分の「肉体」にしみこませる。ほとんど無自覚に。
 「習う」は違う。それは意識的な行為である。「知らない」ことを「習う」。ただし習うことで吸収できるものは、たぶんすでに自分の「肉体」のなかに蓄積されている何かだと思う。「肉体」のなかに蓄積されたものがないと、いくら習っても、それは身につかない。「肉体」の奥にあるものが刺戟され、表に出てくる。そして形を成す。それが習うであり、身につくということだろう。
 「書くことを習う」を具体的に言い直すと、「文字」を見る。それが「文字」であるとわからないまま「肉体」のなかにたまりつづける。それを「文字」としてひっぱりだすことを書く。書くとは、書き方を習うこと、肉体のなかにある「文字」を出現させると。その出現のさせ方を「習う」。
 次に習ったことが(「肉体」の奥から出てきたものが)、「肉体」を整える。「肉体」が整えられて、ひとに見せられる「人間」になる。ここに「立つ」という動詞が隠れている。「人間として立つ」のだ。「歌を立たせる」は「人間として立つ」なのだ。
 ここには自己肯定と呼ぶしかない自己否定、つまり新たに出現してきた自己の肯定、本能を習ったもので整えるという力業がある。その戦い現場が「文字」なのだ。

 さらに私はこんなことも考える。
 「うたふことを覚え 書くことを習った」は「文字」の前に「うたう」という本能があった、それが動いた。それを「書く」(文字)が制御した。制御された「ことば」は制御された「肉体」でもある。この制御するという動詞のなかにある「葛藤」が、また「歌」でもある。

 こんな厳しいことばの世界を、私は読み続けられるだろうか。






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フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)

2020-11-12 21:22:07 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)(2020年11月12日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 孔雀

 フェリーニの映画のなかでは、私はこの映画がいちばん好き。理由は簡単。役者がみんなのびのびしている。「特別なひと」を演じているという感じがない。もちろん小さな街の庶民を描いているのだから、そこに「特別なひと(たとえばギリシャ悲劇の主人公)」がいるわけではない。そこで起きる事件も特別変わったものではない。起きたことを覚えておかないと、あとで困るということでもない。体験したことは、たしかに人間に影響するだろうけれど、あの事件が人生を決定したというようなことは起きない。母親が死ぬことだって、だれにでも起きること、だれもが経験しなければならないことのひとつにすぎない。
 これを、どう演じるか。
 みんなのびのびと、好き勝手に演じている。「どうせ映画」と思っている。遊びながら演じている。この「遊びながら」という感じがスクリーンにあふれる映画は、意外と少ない。役者本人の部分を半分残し、残りの半分でストーリー展開のための演技をする。そうすると、スクリーンに映し出されているのは役者か役か、わかったようでわからない。別ないい方をすると、「私はこんなふうに演じます」という「リハーサルの過程」という感じがどこかに残っている。そこに、不思議な「味わい」がある。
 こういうことを感じるのは、まずルノワール。それからタビアーニ兄弟。そして、フェリーニの、この「アマルコルド」。監督なのだけれど、映画を支配するわけではない。役者を支配するわけではない。役者が動く「場」を提供し、そこで遊んでもらう。そして、その遊びを、「ほら、こんなに楽しい」と観客に見せる。
 これって、映画のタイトルではないが、「私はこんなことを覚えている(実はこんなことがあった)」と、話のついでに語るようなもの。「あ、それなら私も覚えている」と話がもりあがったりする。そのときだれかが「ほら、こんなふうに」とある人の物真似をして見せるようなもの。「精神」とか「意味」とか「感動」ではなくて、そういうものになる前の「肉体」そのものを共有する感覚といえばいいのかなあ。
 で、ね。
 そこに突然、孔雀が舞い降りて羽を広げて見せる。それも雪の降る日にだよ。雪が降っているのに、孔雀がどこかから広場に飛んでくる。伯爵の飼っている孔雀だ、というようなことをだれかが言うけれど、まあ、これは映画を見ているひとへの「後出しじゃんけん」のような説明。そんなことはどうでもいい。
 何これ。なんで、孔雀が雪の降る日に飛んできて、しかも羽を広げて見せる必要があるんだよ。
 必要なんて、ないね。必然なんて、ないね。意味なんて、ないね。
 映画を見ていないひとに、そこに孔雀が飛んできて羽を広げるんだよ、それが美しいだよ、言ったってわからない。「嘘だろう、そんなつごうよく孔雀なんか飛んでくるわけがない」と、フェリーニから思い出話を聞かされたひとは言うかもしれない。
 そう、そこには必然はない。そして、必然がないからこそ、それはフェリーニにとって必然なのだ。「遊び」という必然。ひとは「遊び」がないと生きていけない。「遊ぶ」ためるこそ生きているといえるかもしれない。不必要なことをして、必要の拘束を叩き壊してしまう。
 たぶん、これだな。
 フェリーニの映画にはカーニバルやサーカスがつきものだ。祝祭がつきものだ。それは世界の必然を叩き壊して、瞬間的に解放の場を生み出す。「解放区」だ。自分が自分でなくなる。だれかがだれかでなくなる。自分を超えて、だれにだって、なれる。その「瞬間的な生のよろこび」。そういうものがないと人間は生きていけない。祝祭のあとに、しんみりしたさびしさがやってくるが、それはそれでいい。「祝祭」の体験が、「肉体」のなかにしっかりと生きている。覚えている。思い出すことができる。それは、いつの日か、それ(解放区)を自分の肉体で「再現」できるという可能性を知るということでもある。
 あ、めんどうくさくなりそうなので、もうやめておこう。
 雪のなかで羽を広げる孔雀。ああ、もう一度、みたい。いや、何度でも見たい。
 みなさん、主役は孔雀ですよ。ちょっとしか登場しないから、見逃しちゃダメですよ。






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高橋睦郎『深きより』(2)

2020-11-12 10:10:07 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(2)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二 すなはち鏡」は「額田王」。

熾りに熾る火のうへ 青銅を蕩かし 煮たぎらせる
煮立つた金属を 鋳型に注ぎ 水を浴びせて 冷やし固める

動詞がはげしく動く。休むところがない。セックスでいうとエクスタシーへ向かって加速していく感じだ。特に「蕩かす」という動詞が魅力的だ。「溶かす/解かす」ではない。客観を超えている。「蕩ける」には外側から「とける」ではなく、内部から「とける」という感じがある。私の感じでは「蕩けさせる」だが、「蕩かす」にはなにか自発的なイメージがあり、いっそう不思議な気持ちになる。だから、それにつづく「煮たぎらせる」も単に「煮る」以上のことがらである。「内部」が「たぎる」のである。自発的、な感じがする。「蕩ける」はおだやかな印象があるが、「たぎる」は激しい。内部にあるものが、外に出ようとしている。エクスターを求めてあえいでいる。
 それをふたたび固形にもどすとき、それは単なる形ではないだろう。
 ものを「形」にするとき、それがたとえ金属であったも叩いてのばしたり削ったりという外からの力でおこなうものがある。しかし、鋳造は、そうではない。外から矯正するのではなく、内部を自由に解放したあとで、その内部そのものに形を与えるのだ。その過程が「蕩かす」「たぎる」ということばで強調されている。

それら 木と火と土と金と水と 宇宙五大の愛し児が
すなはち 鏡 すなはち あきらけしわたくしこの身

 鏡は「内部」から噴出してきた「わたし」、隠されていたものが、いまあらわになったのだ。そして、それは「宇宙」と交歓する。宇宙になるとさえ言える。
 「すなはち」は「即」である。それは切り離せない。「鏡」と「わたし」は客観的にみれば別個の存在だが、それは「ひとつ」。というより「すなはち」という「ことば」が「鏡」と「わたし」を「ひとつ」にする。外部即内部。内部即外部。「すなはち」によって新しい力が生まれる。





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「独立案」?

2020-11-12 09:18:05 | 自民党憲法改正草案を読む
「独立案」?

 2020年11月12日の読売新聞(西部版・14版)の4面に「学術会議」問題の記事がのっている。

学術会議/「国から独立」案 検討/自民PT 「非公務員化」焦点

 この見出しだけ読むと、学術会議が国から独立しようと検討していると勘違いしそうである。実際は、自民党が学術会議を「独立させよう」と検討している。「独立させる」が「独立」と省略されている。
 これは新聞の見出しの原則に反する。
 たとえば田中角栄が「逮捕された」ときは「田中角栄逮捕」という見出しになるが、必ず「警視庁 収賄容疑で」というような補足の見出しがつく。文章にすると「警視庁は、田中角栄を収賄容疑で逮捕した」である。角栄は「逮捕された」が、それは警察が角栄を「逮捕した」と「主語」「述語」「補語」を明確にしている。
 
学術会議/「国から独立」案 検討/自民PT 「非公務員化」焦点

 という見出しは、読売新聞に言わせれば、自民PTが、学術会議を「独立させる案」を検討しているという意味だということになるのだろうが、どうしたって、学術会議が「国から独立する案」を検討していると誤解してしまう。
 言い直すと、そういう誤読を誘うような見出しになっている。
 なぜ、そんな見出しにしたのか。
 ここには、ごまかしというか、嘘があるのだ。
 記事にはどう書いてあるか。

 日本学術会議のあり方を検討する自民党のプロジェクトチーム(PT)は11日の会合で、来週から論点整理に入り、年内に政府への提言をまとめる方針を決めた。政府の特別機関との位置づけを変え、国から独立させる案を含め検討する。特別職の国家公務員である会員の身分の見直しを求める意見も強まっている。
 PTはこの日、経団連や日本工学アカデミーなどから非公開で意見聴取した。関係者によると、経団連は2015年にまとめた学術会議の見直しに関する提言を基に、国から独立した法人とする案などを訴えた。

 「国から独立させる案」は「国から独立した法人とする案」と言い直されている。どこにも「恣意的」なものはないように見える。
 しかし。
 「独立する」ということばは、はたしてこんなふうにしてつかうことがあるのか。「独立する」というのはあくまで「主体的」な行為であり、「〇〇が独立する」といういい方が基本である。「〇〇を独立させる」では〇〇以外のものが関与する。それは「独立する」とはいわない。関与したものが「〇〇の独立」を装って、〇〇を支配することがあるからだ。真の「独立する」は文字通り「独り立ち」することである。
 ふつう、こういうとき、日本ではどういうことばをつかうか。
 会社ならば、「〇〇部」を「独立させる」とはいわない。〇〇部を切り離し「子会社化」する、という。言い直すと「分離する」である。そして、このときの「分離」は表面的には分離しているが、影で「支配」されていることが多い。子会社は親会社の意向にしたがって活動する。親会社の意向から「独立している」わけではない。
 もし、だれかが会社を辞めて新しい会社をつくるならば、それは「独立する」だが、そのときは〇〇さんが「独立した」であって、会社が〇〇さんを「独立させた」ではない。
 こう考えると、読売新聞の書いている「独立(する/させる)」は、日本語の用法として間違っている。あるいは、不適切(不十分)であるといわなければならない。
 なぜ、こういう表現になったのか。読売新聞が独自に考え出したのではなく、自民党のいうままに書いているのだが、この他人のことばをうのみにして書くというところに問題がある。
 自民党がやろうとしているは、学術会議の「分離」である。
 しかし、いまだって学術会議は「政府の特別機関」であり、政府そのものとは「分離」状態にある。「完全支配」されているわけではない。だから、自民党がやろうとしているのは「分離」以上のことである。
 それは、なにか。
 「排除」である。会社で言えば「クビ」。会社の例で言えば、〇〇さんは「独立した」のではない、会社が「クビにした」のだ。しかたなく〇〇さんは自分で起業したのだ、ということになる。
 「排除する」というと問題が大きくなるから、それをあたかも「独立した」(本人が臨んでいるようにした)と言い直す。
 なぜ、学術会議を「排除」しようとするのか。
 記事の最後に、こう書いてある。

自民党の甘利明・税制調査会長は自身のホームページで、学術会議に所属していた研究者の姿勢に関し「日本の安全保障研究には否定的な一方で、軍事研究につなげることを宣言している中国の大学との研究には能動的だ」と疑問を示している。

 甘利はあいまいな部分がある。学術会議(のメンバー)が中国の大学のどの部門との研究に能動的なのか、それが明確ではない。中国の安全保障に関しない研究に能動的なのかもしれない。だから、その部分は除外して考える必要がある。甘利が指摘しているのは「日本の安全保障研究には否定的」ということだろう。それを印象づけるために「軍事研究につなげることを宣言している中国の大学との研究には能動的だ」と読むべきだろう。 で、ここから明らかになるのは、簡単に言い直せば、「日本学術会議は、日本の安全保障研究には否定的」だから排除してしまえ。予算など出すな、である。「日本の安全保障研究」とは、もちろん「軍事(軍備/武器)研究」である。
 「安全保障」にはいろいろな面があるが、問題にしているのは「軍事研究」である。
 なぜ「軍事」だけ狙い撃ちにするのか。
 たぶん。
 「軍事研究」というのは、あるいは「武器」というのは、つかおうがつかわまいが、「消耗品」である。古くなれば、用をなさないことがある。軍事産業は必ずもうかるのである。軍事産業が自民党の「財政(献金)」にとってかかせないということなのだろう。自分たちの金儲けのために、学術会議に軍事研究をさせようとしている。それに反対するのなら、そんなものは「排除」してしまえ。でも、「排除」というと問題になるから「独立させる」とごまかすのである。
 そして、この「排除」ということばをもとに考えれば、「6人任命拒否」が「6人排除」であったことがよくわかる。
 任命されなくても「学問の自由」が侵害されたことにならない、というのはもっともらしい言い方だが、「排除された」ならば、それは「被害」なのである。任命されない学者はたくさんいる。候補リストにあがった105人以外は任命されない。しかし、その人たちは「排除された」のではない。単に任命されなかっただけ。6人は「任命されない」ことによって「排除された」。
 ことばが違えば、事実も違うのだ。
 ことばは「認識」そのものをあらわす。つまり「思想」をあらわす。「独立する」と「独立させる」は「事実」が違う。「独立する」と「分離する」も違うし、「独立する」と「排除する」も違う。
 新しいことばが出てきたときは、必ずことばを支える「思想(ことばを生み出す現場)」にまでさかのぼって点検しないといけない。
 自民党が「独立させる」案を検討していると主張しているなら、「独立させる、というのは分離するという意味ですか? 排除するという意味ですか?」と確認しないといけない。「学術会議から独立したい、独立させてほしいと言ってきているのですか?」と問い直さないといけない。
 そういうことをしないならば、それは単に自民党の宣伝にすぎない。

 



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)

2020-11-11 15:57:51 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)(2020年11月11日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 知らない人ばかり

 日本公開は1959年。製作は1953年。私は、今回、はじめて見た。
 注目したのはカーニバルのシーンと、グイドという少年。グイドって、「8 1/2 」の主役(マルチェロ・マストロヤンニ)の名前じゃないか。五人の若者のひとりとこころを通わせ、彼がひとり町を出て行くとき駅で見送る。この町を出ていった青年がフェリーニであり、また見送ったのもフェリーニということになるだろう。町を捨てながら、その町にとどまり見送る少年。ここに奇妙なセンチメンタリズムがある。センチメンタルとは、現実と認識のずれを意識しながら、そのずれを見つめることからはじまる。そのとき、視点はいつでも何も知らない「無垢」(純粋)から見つめられる。この映画でも、若者が描かれるのだけれど、そしてそこには「おとな」の視点があるのだけれど、それを結晶させるのは少年の視点。「無垢」が青春の「汚れ(不純物)」を洗い清める。「不良」から「不」をとりはらう。強調しないけれど、そういうニュアンスをしっかり刻印している。「無垢」が「不良青春」を通過して、「おとなのなかのこども」として生きる。「8 1/2 」のグイドだね。その出発点が、この町。フェリーニのこころはいつもこの町にある、ということか。次に見る「アマルコルド」の舞台なのか、とあす見る映画を思い出しながら(?)見ていた。
 もうひとつ注目したカーニバル。いつものことながら「楽しい」だけではない。美空ひばりの「お祭りマンボ」ではないが、「祭りがすんだそのあとは……」というさみしさがある。さみしいけれど(さみしくなるのはわかっているけれど)、カーニバルの「発散」がなければ日々の暮らしを生きていくことはできない。このカーニバルではピエロの張りぼてが非常に印象に残る。ピエロは笑いを引き起こすが、カーニバルが終わればその顔は不気味である。また、悲しい。その張りぼてを捨てていけない。捨ててしまうことができない。捨ててしまっては、悲しみが生きていけない。ピエロをかかえ、引きずりながら、泥酔して家へ帰る若者、泥酔した若者によりそい自宅へ送り届ける若者。だれかの悲しみ(不幸)をだれかが支えている。この、無意識の「連帯」が青春というものかもしれない。支えているとか、支えあっているという意識はないんだけれどね。
 それにしても。
 不景気な時代は、青年の「自立」がどうしても遅くなる。「青春群像」とはいうものの、みんな二十代の後半、三十過ぎに見えたりする。そしてそれが、なんといえばいいのか、いまの日本の若者の姿と重なって見える。イタリアは「家族愛」が強いのかもしれないけれど、みんな「家」を出て行かない。出て行けない。親の収入に(あるいは別の家族の収入に)頼っている。貧乏なはずなのに、親がいちばんの金持ちなのだ。私は若い人とのつきあいがないのでわからないのだが、そうか、いまの若者はこの「青春群像」に出てくる若者のような「精神」を生きているのか、と思ったりした。自分の「青春」を一度も思い出さなかった。不思議なことに。
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高橋睦郎『深きより』

2020-11-11 09:53:07 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(思潮社、2020年10月31日発行)

 高橋睦郎『深きより』は「古典」と高橋の交流(セックス)がテーマ。「古典」がどんなふうに高橋の「肉体(思想/ことば)」になったか。ことばを交わらせることは、肉体を交わらせることである。苦痛が快楽になったり、快楽が苦痛になったりする。その「刺戟」のなかで肉体は肉体を超える。自分以外のものになる。この苦痛は私のものか、相手のものか、相手の快楽は相手のものか、私のものか。交わっていると、そういう「区別」は無意味になる。この詩集に割り込んで行く(ことばをさしはさむ)のは、セックスしている最中の高橋にすりよっていくことになるのか、あるいは高橋の相手を奪うことになるのか。割り込もうとしたけれど、どこにも入り込む余地はなく、そばで傍観しているだけに終わるのか。これは、まあ、私自身の「肉体」をためされることだな、と思う。私は「野次馬(デバ亀)にすぎないので、少しずつ「覗き見た」部分、覗き見して興奮した部分について書いていくことにする。(高橋は「正字体」の漢字をつかっているが、私のワープロは簡略した漢字しかもっていないので、表記は正確ではない。詩集で確認してください。ルビも省略した。)
 「深きより」は稗田阿礼。

母が呼び 父が呼び 一族の誰彼がくりかへし呼んだ 私の名
呼んでは 耳から注ぎこみ 頭蓋に満たした言葉 ものの名

 「呼ぶ」が「耳から注ぎ込み」と言い直される。私は、この瞬間に奮える。私の知らなかった「セックス」がある。見落としていた「セックス」と言い換えることができる。
 「呼ぶ」とは「こっちへ来い」ということである。呼ばれたら、呼ばれた方へ行く。動くのは「私」である。
 ところが高橋はこれを逆にとらえる。「呼ぶ」とはだれかが私の方へやってくるだけではなく、私の肉体(耳)に入り込んでくる。
 俗な言い方をすると、女に呼ばれて女の方に近づいていったら、(女の肉体に侵入するつもりでいたら)、つかまえられて女が自分の肉体に侵入してきた。男でいたつもりが、突然、自分の肉体が女になった感じ。
 ペニスを挿入するつもりが、何かわけのわからないもの、知らないものが侵入してきて、私をいっぱいにする。侵入してきたものを感じるしかなくなる。犯されて、犯されながら犯すものが私自身になる。
 「言葉」という新しい肉体。「名前」という不思議な「肉体」。
 このとき高橋は「肉体」を「頭蓋」と言い直している。高橋は「セックス」を「頭蓋」でおこなうのだ。「言葉/名」が交わるのは「頭蓋という肉体」なのだ。

おどろおどろしい神神 嫉み深く血なまぐさい王たち 妃たち
聞きたくない 憶えたくない なのに押さへつけられ 強制され
そのうち それら 異形の影たちは 私の分けられない一部に
口をひらくと 漏れた咽喉の闇から 一回ごとに生れ 現れ

 「セックス」は、ときには本人の意思とは関係がない。「聞きたくない 憶えたくない」は「交わりたくない」の「ない」を含む。「なのに押さへつけられ 強制され」ることがある。強制されるのは苦痛である。しかし苦痛は快楽にもなる。肉体の反応は、ときに、意志とは関係なしに起きる。「私」を超越している。「私」を超越したものが、私の内部から生まれるのだ。それは「私の分けられない一部に」になっている。「私ではないものが、私になる」とき、その「私ではないもの」こそ、相手にとっての「私」、求めている「肉体」なのだ。
 「口をひらく」とき、「漏れた咽喉の闇から 一回ごとに生れ 現れ」るのは何か。「言葉」か。「耳から注ぎこ」まれた「名」か。その「名」が、もとの「名」のまま出てくることを相手は待っているのか。それとも違うことば(声)になってあらわれるのを期待しているか。それは、わからない。わかるのは、そういうことが「一回ごと」であるということだ。
 一期一会。
 「セックス」は何度くりかえしても、一期一会である。同じ肉体、同じ官能ではない。そのつど変わっていくものである。
 しかし。

人びとはくりかへし私に語らせ 聞いては頷き 手を拍つた
しかし それが文字に姿を変へられ 紙の上に記され終はると
私は用無し 忘却の葦舟に入れられ 流し 棄てられた

 高橋がここで書いているのは「古事記」完成後の稗田阿礼の運命だが、私はそれを「声」の運命と「誤読」する。
 「声」は「文字」として記されると捨てられてしまう。「声」のなかにあった「肉体」は捨てられ「意味」が残される。
 しかし、「セックス」はいつでも「声」である。「意味」にならない何か、「意味以前」である。私はそういう部分を探し、「誤読」を楽しむ。

 高橋のこの詩集の詩は「意味」が非常に強い。しかし、その「意味」になる過程で「肉体」がなまなましく動く瞬間がある。「意味」が「セックス」をし、「新しい意味(新しい解釈)」を誕生させるのだが、私はその「新しいなにか」よりも「新しくなれないなにか」の方に関心がある。
 どんなに「定義」を変えようが、「セックス」というのはようするに、私とあなたは違う存在であるとわかっていながら、どこかで一致するものがあるかもしれないと勘違いし、「意味」にならない「肉体」を交わらせることである。「意味」が生まれる前の苦痛と快楽に溺れることである。私自身がどうなってもかまわないと覚悟することである。
 私のことばがこれからどうかわるのか。見当がつかないが、結論を想定せずに、二十七篇の詩、対話と交わってみることにする。もちろん、こんな考えは、あした突然、「やめた」に変わるかもしれないが。





 




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フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」

2020-11-10 18:44:37 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」(★★★+★)(2020年11月10日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 ジュリエッタ・マシーナ

 フェデリコ・フェリーニ初のカラー作品。黒沢明の「どですかでん」を見たときのように、何か、不安な気持ちで見てしまう。
 あとは、イタリアは中国と同じで「歴史」があるから、なんでも巨大になってしまうという感じ。ケタが外れている。しかし、ケタが外れながら、妙に「完結性」がある。けばけばしい化粧や衣裳、明確な色彩の氾濫。それは、なぜか「競合」して互いを打ち消してしまうということがない。不思議なバランスがある。
 「どですかでん」を見たときは、モノクロの方がいいのに、と思いながら見た。フェリーニの場合は、そこまでは感じないが、「色が硬い」という感じがする。人工的、といえばいいのか。でも、人工的だからこそ、そこに不思議な調和もある。繰り返しになるが、不思議なバランスがある。
 なぜなんだろうなあ。
 別の角度から、見てみる。
 この映画の特徴は、最初にあらわれている。
 ジュリエッタ・マシーナの「顔」がなかなかスクリーンに映らない。カツラをとっかえ、ひっかえする。衣裳も変える。それを後ろ姿で見せる。やっと正面を向いたと思っても、影で見えない。この逆光のために顔が見えないというシーンは何回か出てくる。
 映画で、役者の顔を見せないで、いったい何を見せるのか。
 その疑問の中に、この映画の答えがある。フェリーニが描くのは、まず、ジュリエッタ・マシーナが「見る」世界なのである。どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、はっきりしない。目をつむって見るのが幻想とは言い切れない。目に見える幻想を消すために目をつむるということさえするのだから。
 幻想は目で見るのではなく、「魂」で見る、とフェデリコ・フェリーニは言うかもしれない。私は「魂」というものがよくわからないので、ここは保留にしておく。ただし、目以外のもので見ている、ということだけは確かだと思う。そして、この「目以外で見る」ということが明確に意識されているために、全体のバランスが崩れないのかもしれないと思った。意識の明確さが「人工的」という印象を誘うのかもしれない。
 この「目以外で見る」ということを、映画という「目に見えるもの」にするというのは、なかなか複雑であり、刺激的だ。象徴的なのが、夫の浮気を撮影したフィルム。ジュリエッタ・マシーナは、夫と愛人のデートを自分の目で見たわけではない。しかし探偵の撮ったフィルムの中には「現実」が映し出されている。自分の目で見たのではないものが、現実としてそこにある。
 私たちが映画を見るとき、それと同じことを体験している。私たちは映像を見ているが、現実は見ていない。そして現実と錯覚する。これがフィクションなら、それは単に錯覚と言ってしまえるが、夫の浮気現場となれば、見たものを「錯覚」とは言えない。
 何か、変なものがあるでしょ? この論理。
 この変なものを、映画の中で、ジュリエッタ・マシーナはどう乗り越えていくか。日々、「幻想」に悩まされているだけに、これは非常にむずかしい問題だ。
 どうやって、乗り越える?
 このことを考えると、フェリーニはいい加減だなあ、というか、男はいい加減なもんだね、と思う。フェリーニ夫婦の体験がどこかに反映されていると思うのだが(「8 1/2 」以上に「個人的体験」が反映されていると思うのだが)、男は知らん顔をしている。女には困難を乗り越える力がある、と甘えきっている。そこのところがおかしい。いまは、こういう映画はもうつくれないだろうなあ、と思う。演じてくれる女優がいないような気がする。フェリーニに言わせれば、男の問題は「8 1/2 」で描いたから、今度は女の問題を描いた、ということになるのかもしれない。
 壇一雄に「火宅の人」という小説がある。映画にもなった。主人公を作家(男)ではなく妻(女)にして展開すれば「魂のジュリエッタ」ではなく、「魂のリツ子」になるのか。
 脱線した。目で見るのは現実か、幻想か。幻想は目で見るのか、目以外のもので見るのか、というところに踏み込んで、それを目に見える映画にする、というのはとてもおもしろいテーマだと思う。


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徳永孝「アルパカ」、青柳俊哉「空の想い」、池田清子「教え」

2020-11-10 10:57:35 | 現代詩講座
徳永孝「アルパカ」、青柳俊哉「空の想い」、池田清子「教え」(朝日カルチャーセンタ福岡、2020年11月02日)

アルパカ  徳永孝

薬局の庭に
アルパカがいる
そう話すと

そんなの
どんなふうにして飼っているの?
と聞く

作り物だけど

ぼくは
アルパカに会いに
薬局に行く

 徳永は対話を描くことで、そこに人間性をあらわす。この詩でも「話す」「聞く」ということばが、この詩が対話なのだと補足している。
 質問する。「一連目はだれのことば?」
 「ぼく、のことば」(話す、という動詞がある)
 「二連目は?」
 「相手のことば」(聞く、という動詞が、話すと対になり、対話であることを証明する)
 「三連目は?」
 「ぼく」
 「四連目は?」
 「ぼく」
 対話であるけれど、ここで動いているのは「ぼく」のこころ。対話者のこころは、ここではあまり説明されていない。
 「ぼく、は何歳くらい? 相手は何歳くらい?」
 書いた本人がいるので、こういう質問に答えるのはなかなかむずかしい。しかし、文字だけを読んだと仮定して、どのことばを手がかりにしたら「ぼく」や相手の年齢がわかるか。徳永は、周囲のひとから「徳永の詩は、こどもっぽい」と言われるそうだが……。
 「ぼく」はたしかにこどもとも受け止めることができる。でも、相手は?
 「おとなだと思う」
 「どうして?」
 「どんなふうにして飼ってるの? とは、こどもは言わないかも」
 「こどもなら、なんて言う?」
 「あ、見たい、とか、大きい? 小さい? 色は? とか」
 私もそう思う。こどもは対象(アルパカ)そのものに関心を持つ。飼育にまでは気が向かない。けれど、おとなは飼育を考える。街中で、どうやって飼うんだろう、と考えてしまう。
 だから、相手は、おとなであると仮定して。
 でもおとながこどもに対して「どんなふうにして飼っているの?」と聞くことはあるかもしれないから、二連目だけでは「ぼく」は何歳かまだわからない。おとなか、こどもかまだ断定できない。
 「ぼく」は何歳?
 私は一連目に手がかりかあると思う。
 「そう話すと」の「と」。この「と」は二連目を引き寄せている。意識が「話すと」どうなるかを意識している。答えが返ってくることを待っている。答えを想定しているときの「と」なのである。たしかに、答え方の中に、相手の「ひとがら(人間性)」のようなものが見える。おとなであっても、「えっ、私、アルパカが大好き。見に行きたい」というかもしれない。こどものこころをもったおとな、ということになる。
 こんなことを考えながら話す(答えを想定しながらことばを動かす)のは、おとなである。もちろんこどももそうするが、私は、おとなだと思って読む。それは三連目で明らかになる。
 「作り物だけれど」と「ぼく」はことばを途中で止めている。ちょっと、相手の反応が「ぼく」の予想とは違っていたのだ。微妙な変化のなかに、「おとな性」があらわれていると思う。そしてこの「おとな性」は少し悲しみのようなものを含んでいる。もし、「あ、見たい、一緒に連れて行って」ということばが返ってきたのだったら、きっと三連目、四連目は違った具合に動いていくと思う。
 「作り物だけれど」のなかには、こんな街中にほんものがいるわけがないのだけれど、ほんものを想像するひとだったら楽しくなるだろうなあ、という期待があるかもしれない。ほんものではない(作り物である)と言っても、「見に行きたい」というひとだったら楽しいかなあ、という期待があるかもしれない。
 こういう「揺らぎ」のようなものが楽しい。
 最終連の「会う」という動詞も、「ぼく」のこころをあらわしている。「見に行く」のではなく「会いに行く」。
 「なぜ、会いに行く、なんだろう」
 「気に入っているから」
 「好きだから」
 ということは。
 「ぼく」は「アルパカ(のぬいぐるみ)が好き」という気持ちを相手と共有したかったのである。何かを「好き」と感じる、その「好き」を共有することは、相手を好きになることであり、また相手が「ぼく」を好きになることだ。
 「ぼく」は二人でアルパカに会いに行ったのか、ひとりで行ったのか。「結論」は書いてない。「結論」は、読者がそれぞれ考えればいいことだからである。

 徳永は、最初、この詩を一連が三行ずつの詩にしようとしたらしい。でも、三連目を一行で終わらせた。これは、とても効果的だと思う。ここでリズムの変化が起きる。「起承転結」の「転」が一行でおこなわれ、それが短いだけに「結」をどう読むかがさまざまに変わるからだ。また、その一行の「独立感」が、一連目の「と」、二連目の「飼う」、四連目の「会う」という細部へと視線を誘う。サッと書かれていることばのなかに「秘密」のようなものがあると誘う。
 


空の想い  青柳俊哉

百日紅(さるすべり)のしなやかな枝先の
濃密な小花の泡立ちもおとろえて
いくつか羊雲がうかぶ

言いつくせない言葉と
水の濃淡を果てしなくかさねて
大きな感情が空をつつむ

月のない空に 
たばねられる雲が
淡い小豆(あずき)のように想いをつつんでいる

明るさのちがう星へ
蟋蟀(こおろぎ)も光をかさねて
ひとつ模様にむすばれる世界

 「空の想い、というタイトルがいいなあ」
 「この、空の想いって、空が主語? つまり、空そのものが何かを想っている? それとも私が空のことを想っている?」
 「空自身の想い」
 青柳が空になって「想い」を書いている。空と一体になって書いている。書いているのは青柳だが、書いているときは空でもある。
 描写の中に客観と主観が融合する。
 花、雲、空、水が融合する。
 「かさね(る)」ということばがくりかえされる。「つつむ」も二度出てくる。「かさねる」「つつむ」は「むすばれる(むすぶ)」という動詞に結晶し、その瞬間「大きな感情」になる。それは「深い感情」といいなおすことができるだろう。
 四連目の「蟋蟀」によって、「空」と「大地」が「ひとつ」になるときの「ひろがり」というか「複雑さ(深み)」が象徴されていると思う。ただ二連目で「大きな感情」と簡単に言ってしまっているのが、詩を逆に小さくさせているかもしれない。

 「三連目の、小豆のイメージがよくわからない」という声があった。
 私もわからなかった。なぜ、ここで突然小豆が出てくるのか。
 青柳は白あんのイメージだといった。あんは「つつむ」という動詞と結びついている。雲の描写なのだが、一連目は生クリームのイメージ。三連目は雲のイメージの反復なのだが、一連目とは印象に変化をつけたかった。サルスベリにはピンクと白がある。そういうことが小豆(ピンク)に反映している。
 この「説明」は論理的かもしれないが、論理にこだわっているという感じもする。

* 

教え  池田清子

武士は食わねど高楊枝
乏しきを憂えず
等しからざるを憂う
と よく言っていた

家は貧しいのかと
あとから思った

ほねかわすじえもん
確かに
父は痩せていた


等しく
たくさん
分けられるのに

飛び発ってしまった

 「父がいない(亡くなった)ことを書いているのに、必ずしも悲しくないのがいい」という感想が聞かれた。その通りだと思う。
 私は一連目の「等し」が四連目で「等しく」ということばになって復活してくるところがとても好き。二連目の「あとから思った」の「あとから」もいいなあ。そのときはわからないことが、あとからわかる。「等しい」が重要であるということも、「あとから」(いまになって)わかったのだ。
 こういう「自然な変化(?)」は詩全体の動きにも通じる。
 一連目は文語調の響き。「よく言っていた」の主語は「父」だが、すぐには登場せず三連目まで待たなければならないというのも、さらりとした書き方だが効果的だ。一連目にことばとして登場しないのは、「父」と「父のことば」が池田の「肉体(思想)」になってしまっているためだ。
 三連目の「ほねかわすじえもん」という書き方も効果だ。感じで書いてしまうと硬い印象になる。型苦しくて、ユーモアにならない。教訓になってしまう。ひらがなで書くことで、なんとなくおかしみを誘う。「武士は食わねど高楊枝」は実践だったのか、それとも痩せていることをごまかすために言っていた口癖なのか。それは、どちらでもいい。池田が父のことばから引き継いだものは「等しく」ということばの方なのだから。その「等しく」を忘れないために「武士は食わねど高楊枝」と「ほねかわすじえもん」がある。
 そして、この「等しく」が繰り返されるときには、そこには文語調の響きは消えて、すっかり口語になっている。これは「等しく」が池田の肉体になってしまっているということだろう。
 最後の「飛び発つ」も明るさを引き寄せる。










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フェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2 」(★★★★★)

2020-11-09 20:41:43 | 映画

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、クラウディア・カルディナーレ、アヌーク・エーメ、サンドラ・ミーロ(2020年11月09日、KBCキノシネマ、スクリーン2)

 KBCシネマで「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」が始まっていた。一日一本、一回かぎりの上映なので「甘い生活」「道」は見逃してしまった。(気がついたら上映が終わっていた。)
 この映画で私がいちばんおもしろいと思うのは、「視線」のとらえ方である。冒頭、渋滞する車の中でマルチェロ・マストロヤンニが息苦しくなる。それをまわりの車からひとが見ている。それぞれ孤立している。孤立しているのに、すべての視線がマルチェロ・マストロヤンニに集中する。いや、集中しない視線もあるが、その視線でさえ見ないことでマルチェロ・マストロヤンニを見ている(意識している)と感じる。象徴的なのが、バスのなかの「顔のない乗客(顔が隠れている)」である。「視線」がないことによって、観客の「視線」をマルチェロ・マストロヤンニに集中させる。マルチェロ・マストロヤンニは車を脱出し、凧のように空を飛び、凧のように地上に引き下ろされる(引き落とされる)が、私はそのとき観客としてマルチェロ・マストロヤンニを見ているのではなく、スクリーンのなかの「誰か(描かれていない人間)」としてマルチェロ・マストロヤンニを見ている。マルチェロ・マストロヤンニ自身として、マルチェロ・マストロヤンニを見ているような気持ちにもなる。(これが最後の「祝祭」のシーンで、私もその踊りの輪の中に入っている気持ちにつながる。)
 最初の方の湯治場の描写も同じである。多くの「名もないひと」がマルチェロ・マストロヤンニを見つめる。その「視線」がなまなましい。「名もないひと」の不透明な肉体が「視線」のなまなましさの奥に感じられる。マルチェロ・マストロヤンニは「見られている」。そして同時に、「生もないひと」を見ている。しかも、なんというのか、「見る欲望」を見つめていると感じる。「名もないひと」は「見る」ことで何らかの欲望を具体化している。簡単に言い直せば、マルチェロ・マストロヤンニを見てやるぞ、という感じかもしれない。
 これは単にマルチェロ・マストロヤンニが有名人(映画監督という役どころ)だからではなく、人間はだれでも目の前にいる誰かに何かを感じたら、それを見てしまうものなのだ。象徴的なのが、マルチェロ・マストロヤンニがクラウディア・カルディナーレの「まぼろし」を見るシーン。クラウディア・カルディナーレが見つめている。見つめることで何かを語りかけている。愛の欲望と言い直すと簡単だ。マルチェロ・マストロヤンニは見られているというだけではなく、愛の欲望の対象として見られている(誘われている)と感じる。クラウディア・カルディナーレの視線は、それほど強烈である。
 ほかの女優たちもマスカラや眉を強調することで、「視線」のありかをはっきり知らせる「化粧」をしている。顔を見せているだけではなく、「見ている」ということを見せているのだ。
 マルチェロ・マストロヤンニのまわりには大勢の女がいる。その大勢の女の中で、クラウディア・カルディナーレ(ミューズか)、アヌーク・エーメ(妻)の対比がおもしろい。ウディア・カルディナーレの「視線」は「見ているぞ」という感じで動く。目力が非常に強い。しかし、アヌーク・エーメは化粧の関係もあるのかもしれないが、「視線」が「引いている」。なんというか、「引いた演技」をしている。「視線」だけではなく、もっと「肉体」全体でマルチェロ・マストロヤンニと向き合っている。そうか。こういう感じが「妻」なのか。長い時間をいっしょに生きてきて、「視線」だけではなく、手や足や、からだ全体の動き方で相手を受け止めている。何かを訴える、という「深さ」のようなものを感じさせるのか。
 もうひとり重要な役どころとしてサンドラ・ミーロがいるが、彼女は気晴らしの愛人か。「視線」がらみでいうと、「娼婦風に」といってマルチェロ・マストロヤンニが眉を描きくわえるシーンがおもしろい。
 マルチェロ・マストロヤンニはこの三人の間を、非常に無邪気に渡り歩く。マルチェロ・マストロヤンニの「子ども時代」を思い起こさせる少年が出てくるが、その「少年」のままの「こころ」が動いている。誰かに焦点をしぼり、そのひとと生きていく、という「決意」のようなものをつかみきっていない。それが「かわいい」といえば「かわいい」のかもしれない。けっして「汚れない」という感じ。純粋なまま、という感じ。でも、肉体はおとななんだよなあ。そこに、まあ、「苦悩」があるのかもしれない。
 まあ、どうでもいいんだけれど。
 マルチェロ・マストロヤンニには、何か、不透明になりきれない「純粋さ」のようなものがあるなあ、と感じた。
 それにしても。
 このころの映画というのは、いまの映画から見ると「絶対的リアリズム」を表現しようとしていないところが、とても新鮮だ。どこかに「リアル」があれば、あとは嘘でもいい。クラウディア・カルディナーレがはじめて登場するシーンが象徴的だが、「視線」さえリアルなら、歩き方(動き方)は逆に不自然でもかまわない。いや、不自然な方が「視線」を強調することになるから、おもしろい。ぜんぜん関係ないが、ハンフリー・ボガードの「動かない両手」のようなものである。両手を動かさず、突っ立っている感じなので、表情の微妙な動きや声の変化が印象に残るような感じかなあ。人間の「視線」さえつたわるなら、ほかの部分は「視線」を強調するための「脇役」。この映画は、そんな具合にして撮られていると思った。


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新しいことばを、どう伝えるか

2020-11-09 09:47:50 | 自民党憲法改正草案を読む
 きのう書いたことのつづき。(あるいは、まとめ。)
 共同通信が、次の記事を配信した。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/8b16798e0adde7928ea231da18a21fc50ac023e7?fbclid=IwAR1JK1ecmQXwCvo8C3_mbI9Pi0JLckbR6c7wPwuaAzv-L6WZOlXBIvKsw2U

 首相官邸が日本学術会議の会員任命拒否問題で、会員候補6人が安全保障政策などを巡る政府方針への反対運動を先導する事態を懸念し、任命を見送る判断をしていたことが7日、分かった。安全保障関連法や特定秘密保護法に対する過去の言動を問題視した可能性がある。複数の政府関係者が明らかにした。
 菅義偉首相は国会審議で6 人の任命拒否に関し「個々の人事のプロセスについては答えを差し控える」と繰り返し答弁。拒否理由は今回の問題の核心部分となっていた。日本学術会議法は会議の独立性をうたっており、政治による恣意的な人事介入に当たるとして、政府への批判がさらに強まる可能性がある。

 ネット配信の記事はここまでだが、ほんとうはもっと長いのかもしれない。
 同じ書き出しの記事が、東京新聞(写真は中沢けいさんのフェイスブックから借用)と他の新聞(山本義彦さんのフェイスブックから借用、静岡新聞だろうか)にも掲載されている。2紙の記事はもっと長いから、それぞれの記者が独自に取材したのかもしれないが、文言がまったく同じなので、共同が取材したものだと思う。
 同じ記事だが、見出しがそれぞれ違う。



共同通信 官邸、「反政府先導」懸念し拒否 学術会議、過去の言動を問題視か
東京新聞 政府方針 反対言動を懸念/官邸、安保法など巡り
別の新聞 「反政府」懸念 6人を拒否/学術会議 官邸、言動問題視か

 共同通信と山本さんがアップしていた新聞には「反政府」という文字がある。東京新聞にはない。
 新聞の見出しは、原則的に記事にあることばをつかう。「解釈」して別の表現にすることもあるが、そういうときは、見出しをつける部門は取材もとに、こういう表現の見出しにしていいか確認する、と聞いた。(ときには、こういう表現をつかいたいが、記事にその文言を書き加えることは可能か、と問い合わせることもあると聞いた。)
 東京新聞は、どういう基準で「反政府」を「反対言動」に変えたのかわからないが、ここには大きな問題がある。
 中沢さんは、フェイスブックで、共同通信の「タイトル問題あり。政府批判を『反政府』とは言わない。ましてや「先導」なんて的外れ。」と書いていたが、「反政府」は記者が率先してつかったことばではなく、「複数の政府関係者」である。記者は「複数の政府関係者」がつかったことばをそのまま書いている。見出し(タイトル)も、その表現をそのままつかっている。
 問題は、タイトル(見出し)でもなければ、記者がその表現をつかったことでもない。「複数の政府関係者」が語ったことばを、何の批判も加えずに、そのまま公表したことである。
 いままで学術会議に対して「反政府運動を先導している」というようなことは、公式に語られたことはない。「複数の政府関係者」が語ったと報じられたことはない。だから、これはある意味では「特ダネ」である。「特ダネ」であるからこそ、共同通信は表現に手を加えず、正確に伝えている。
 中沢さんが指摘するように、共同通信の見出し(タイトル)は刺戟的である。
 そして、これからはネットの世界では、この「学術会議=反政府(運動を先導する)」という表現が横行するだろう。
 どうすればよかったのか。
 たとえば、私が新聞記者ならどうするか。

「学術会議を反政府運動」と定義/官邸、安保法への言動巡り

 くらいの見出しで、「複数の政府関係者」(および官邸)に問題があると指摘する。
 悪質なのは「学術会議」ではなく、官邸である。官邸は「学術会議」を「反政府運動を先導する団体」呼ばわりした。
 「学術会議」にかぎらず、国民はだれでも政府を批判する権利と自由を持っている。批判はもちろん「反対意見」を含んでいるが、「反対意見」があるからといって「反政府」であるとは言えない。6人の発言の詳細を私は知らないが、政府のある方針に反対し、批判的意見を述べたからといって、政府の存在そのものを否定したわけではないだろう。政府に政権放棄を迫ったわけではないだろう。「反政府運動」とは言えない。言えないからこそ、そこをごまかして「先導する」と「複数の政府関係者」はつけくわえたのだろう。実際には「反政府運動をしていないようにみえる。しかし、先導している」と。
 私の、官邸は「学術会議」を「反政府運動を先導する団体」呼ばわりした、という批判に対しては、「複数の政府関係者」はきっとそう反論するはずである。「反政府運動をしている(反政府団体である)と断定していない」と。

 いまおこなわれているのは、非常に手の込んだ「罠」なのだ。「複数の政府関係者」はマスコミを利用して「学術会議=反政府団体」というレッテルをはろうとしている。もちろん、先に書いたように、「複数の政府関係者」は「学術会議=反政府団体」とは言わない。言わないけれど、そう国民が感じるようにしむける。そのことばが国民の間に浸透するように工夫する。
 「学術会議=反政府運動を先導する団体」というのは、リークされた情報なのである。「学術会議=反政府団体」ということばを浸透させるためにリークしたのだ。
 リークされた情報をどう処理するか。これは非常にむずかしい。
①官邸が、「学術会議=反政府運動を先導する団体」という認識をもっていることを「正しい」と判断し、それをそのまま公表する。
②問題が大きい認識であり、そのまま「正しい」と感じられる形で報道するのはまずい。政府認識を批判する形で報道する。
③この認識が公になれば、政府の独裁的(独断的)な姿勢が明確になる。そういう批判が起きると困るのではないかと忖度し、その報道をしない。
 大きくわけて、三つ考えられる。
 共同通信の見出しと山本さんが紹介している新聞の見出しは、どちらかといえば①である。「正しい」とは書いていないが、読者はたいてい新聞に書かれていることは「正しい」という認識で受け止める。(私のように、新聞に書いてあることはどこまで正しいのか、この情報の裏にはどんな認識が動いているか、ということを疑うひとは少ないと思う。)
 東京新聞の見出しは「反政府」という文言が刺戟的すぎる(問題がある)と考えて、「反対言動」という表現にしたのだと思う。「批判言動」ならすでに言われていることである。「批判」から一歩踏み込んで「反対」ということばにしている。これは「工夫」していると言えばいいのか、政府に配慮しているといえばいいのか、私には判断しかねる。新聞制作現場で、どんなやりとりがあったのかわからない。
 ただ思うのは、政府を批判し続けている東京新聞でさえ、こういう見出しにしてしまうことに、私はおそろしさを感じる。「学術会議=反政府団体(を先導する)」という認識に問題があるとするならば(そう感じるならば)、それを紙面にしないといけない。政府認識を批判する立場から見出しをつけ、記事を補足しないといけない。記事が共同通信から配信されたものだとしたら、その内容に対して記者が批判的な解説を書く、あるいは誰か識者(?)から批判コメントを取材し、それを紙面にするという工夫が必要である。

 ここまでは、きのう書いたことの「復習」である。そして、これから書くこともきのう書いたことの「復習」なのだが、書いておく。
 「新しいことば」に出会ったとき、ことばに接する仕事をしているひとが最初にしなければならないのは、そのことばを疑うことである。なぜ、いままでつかっていたことばではなく、別なことばをつかうのか。いままでのことばでは、何が言えないのか。新しいことばをつかうことで、いったい何をあらわし、何を隠そうとしているのか。
 たとえばコロナウィルスの拡大に伴っていろいろな「新しいことば」が飛び交うようになった。「新しい生活様式」だとか「3密」だとか「ソーシャルディスタンス」とか。
 このなかでいちばんややこしいのは「新しい生活様式」である。たしかにいままでとは違った生活様式をとらないといけない。それこそ「3密を回避する」「ソーシャルディスタンスを維持する」ということが求められている。でも、それは「新しい」と呼ぶのにふさわしい生活様式なのか。遠く離れているひとが身近に接して人生を楽しむことができない、というのは「新しい」のではなく「古い」生活様式である。世界のどこへでも行き、そこにいるひとと直接会って、ハグして、キスして、セックスもする。こういう生活は消費を拡大し、その消費の拡大が経済の拡大を支える。そういうことを私たちは「豊かな生活」と信じて行動してきた。そのための交通手段も発達してきた。それが一気に封印される。これは「新しい」生活ではなく、「古い」生活に逆戻りである。少し周りを見渡せば、すぐにわかる。客が来なくて困っているひとがどれだけいるか。飛行機会社もたいへんな赤字を抱えている。「新しい」ということばが持っている「豊かさ(夢)」は、どこにもない。それなのに、それが「新しい生活様式」と呼ばれる。
 なぜなのか。簡単である。こういう事態を招いた「政府の失敗」を隠すためである。「新型コロナ」と呼ばず、「新型肺炎」と呼んでいた今年のはじめごろ、政府がいち早く「中国封印」という方針を打ち出していたら、どうなったか。クルーズ船の対応をもっと厳しいものにしていたら、どうなったか。もちろん、こういう「後出しじゃんけん」に見える批判は、いまとなっては意味がないが、きっと状況は違っていた。日本がいち早く厳しい対応をとったから感染が拡大しなかったということになったかもしれない。台湾のように対応が評価されることになったかもしれない。そしてそれが「世界基準」になっていたら、いまの状態はずいぶん違っていたはずである。
 「新しいことば」は、大概の場合、何事かを隠している。間違いを「正しい」と言い直す(言い含める、ごまかす)ためにつかわれる。ときには、その「新しいことば」をふりまわし、「なんだ、おまえ、まだこのことばを知らないのか」と恫喝する。いまならば、たとえばマスクをしていないと「マスクをしろ(新しい生活様式を守れ)」と叱られる。「新しいことば」を知っている人間が正しい、という主張である。「新しい知識」はたしかに「正しい」ことが多い。しかし、「新しいことば」は「新しい知識」ではないし、「新しいことば」は「古い悪事を隠す」ためにつかわれることがある。
 「学術会議」を「反政府(運動を先導する)団体」と定義することは、政府が学術会議の存在を疎ましく思っていることを隠している。どんな世界にも、民主主義の国であろうとそうでなかろうと、批判は必ずある。そういう批判を「反」ということばでひとくくりにして排除するという姿勢が、今回の「政府関係者」のことばからわかる。
 この「排除」の姿勢が「反政府」ということばで隠蔽されている。学術会議が「反政府団体」なのではなく、政府が、自分とは異なる意見を排除する組織、異論を排除し、独裁を強める組織なのである。

 ことばをどう読むか。それは自分の立場をどう確認し直すか、ということである。「自分のコンテキスト」でことばを読み直す。「新しいことば」の問題点をさぐる。
 いま、私がやっているのは、そういうことである。けっして他人の「コンテキスト」を鵜呑みにしない。あらゆることばは、それなりに完結する「コンテキスト」を持っている。「ことば」をときほぐし、「コンテキスト」の根本をひっぱりだす。そして、その問題点を指摘する。





*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
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