詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

魯迅「阿Q正伝」ほか

2021-03-16 11:41:19 | その他(音楽、小説etc)
魯迅選集 第一巻 「阿Q正伝」

「狂人日記」と同じように、この作品について語るのは難しい。
私の詩仲間に石毛拓郎がいる。彼ならうまく語れるだろう。私は、だから、ちょっと違う視点から、この作品について書く。
87ページに、こういう文章がある。

私の文章の観点からすれば、文体が下卑ていて「車ひきや行商人」の文章だから、

これは、口語、暮らしのことばという意味だろう。
言い換えれば、阿Qのことばということになる。
対象を客観的に外から描くのではなく、阿Qになって、阿Qのことばで書くということだ。
なぜ、そんなことをするのか。
そういうことばが、いままで中国には、文学として存在しなかったからだ。
人は生きている。考えている。つまり、みんなが思想を持っている。しかし、それがどんなものか、共有することばがなかった。
ある、のに、なかった。
ある、を、あるにするために、魯迅は書くのだ。

こうしたことを魯迅は「まどろみ」で、こう書いている。234ページ。

風砂に打たれた魂は粗暴になる。なぜならば、それは人間の魂であるから。私は、そのような魂を愛する。

さらに、235ページ。

私は、自分が人間世界に生きていることを忘れることはできない。

いま、ここで生きている人間の魂、その直接的なことばを生き抜かなければ、ことばは、それ以上のところへたどりつけない。
つまり、車ひきや行商人のことばを生きられないなら、どんなことばを書いても思想にはならないのだ。
もがくことば、うめくことば、希望があるのにことばにならない、怒りがあるのに怒りを集め、力にするための「文体」を持たないことば。
ことばには「文体」が必要なのだ。

魯迅先生から学ばなければならないことは、限りがない。
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魯迅「故郷」「小さな出来事」

2021-03-15 10:55:03 | その他(音楽、小説etc)
魯迅選集 第一巻 「故郷」「小さな出来事」

「故郷」の最後の方に「道」ということばが出てくる。84ページ。

いま私は私の道を歩いていることをさとった。

高村光太郎の「道」を思い出す。僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる。
けれど、かなり違う。
魯迅は旧友や故郷の人とは違う道を歩き始めたと自覚している。
でも、道とは何か。
魯迅は、こう言い直している。84ページ。

私たちのかつて経験したことのない生活

「道」は「生活」だ。そして「希望」だ。85ページ。

希望とは、もともとあるものだといえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。

この、道=生活=希望、とはどういうことか。
「小さな出来事」は、魯迅を乗せた人力車が老女とぶつかる。老女はけがをする。車夫は警察へ届けに行く。そのとき魯迅は、「自分の方から事件をこしらえ、おまけに私の予定を狂わせてしまう」(54ページ)と憤慨するのだが、

車夫は、老婆の言うことをきくと、少しもためらわずに、その腕を支えたままで、ひと足ひと足、向うへ歩き出した。私がケゲンに思って、向うを見ると、そこには巡査派出所があった。

車夫は、事故をとどけに、そして老女を助けるために歩いている。そこに、道がある。そこに車夫の生活がある。そして、人間の希望がある。
この道を歩くとき、車夫は、

少しもためらわずに、

行動している。
これが魯迅に衝撃をあたえる。
そこには、希望だけでなく、思想がある。
それは、西洋発祥の難解なことばで語られる思想ではなく、生活の、つまり人と人をつなぐ力である。
これに接し、自己を見つめ直す魯迅。
その正直に、私は、こころを打たれる。

「道」で思い出すのは、和辻哲郎の「古寺巡礼」である。父に、お前の道はどうするのだ、というようなことを問われる。
この「道」はやはり魯迅の道に通じる。
それは、つきつめていけば、道元や荘子にもつながるかもしれない。
人は、どうやって正直になるか、なれるか。
問いかけられているこころになる。

魯迅もまた、私にとっては、先生である。叱られるために、訪ねてゆかなければならない先生である。
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魯迅「狂人日記」

2021-03-14 10:14:26 | その他(音楽、小説etc)
魯迅選集 第一巻 「狂人日記」

魯迅になぜ惹き付けられるか。
正直を感じるというのが第一の理由だが、もうひとつ、魯迅の書いている中国が、私の暮らした集落に似ているからだ。暮らしと人が似ている、といえばいいのか。貧しくて、恨み、つらみをかかえて生きている。

そこに、思想はあるか。
いわゆるヨーロッパ発祥の、翻訳言語の流行思想はない。
しかし、人間が暮らしている限り、思想抜きでは、つまり、ことばをつかって、物事を考えないでは生きて行けない。

国語を、その国民の到達した思想の頂点と定義したのは、三木清だったときおくしているが、そうであるなら、どの国民のことばも、きちんと向き合えば、そこから思想を導き出せるはずである。

魯迅のしているのは、そういう仕事だ。
さて。
「狂人日記」。
どこに、思想があるか。「狂人」に思想があると言えるか。
主人公が近所の人を見て、こんなことを思う。16ページ。

眼つきがおかしい。おれをこわがっているようでもあるし、おれを無きものにしようと計っているようでもある。ほかにも七、八人、ひそひそ耳打ちして、おれの悪口をいっているやつがある。そのくせ、おれに見られるのがこわいのだ。

「眼つき」「耳打ち」。
ことばではなく、肉体の動きを手がかりに、妄想(?)がことばになる。
ことばは、肉体となって、未整理(?)のまま、ことばを動かす。この妄想を妄想と呼ぶのは簡単だ。しかし、こうしか動けないことばというものが存在する。
これが、主人公の、ことばの頂点、思想の頂点である。だれが見ても、そこに主人公を見てしまう。主人公が見える。

こういうことばを思想と呼ぶ人は少ないだろうが、私は思想と呼ぶ。そして、聞いたけれど聞かなかったことにしてその声をなかったものにするのではなく、しっかりと肉体にひきいれ、自分のことばをとおして書く。その、人間への寄り添い方に、強烈な力を感じる。
どこまでことばにできるか。
ことばにした瞬間に生まれる「共有感覚」と「反発」。自分の肉体のなかでおきる変化。
そういうものを感じ、そこに「正直」を感じる。そのことばの前では、私は、「裸」「素手」になるしかない。

「出て行け! 気ちがいは見せ物じゃない!」(25ページ)

しかし、見なければならない。見ないことで、存在しなかった、と言ってはいけない。

「おまえたち、いますぐ改心しろ。しん底から改心しろ」(25-26ページ)
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森鴎外「花子」

2021-03-13 09:24:56 | その他(音楽、小説etc)
森鴎外選集 第二巻 「花子」

第二巻の全作品について書くつもりだったが、「青年」を読んだあとでは、小品はあまり書きたいことがない。
「花子」は、ロダンの芸術観が書かれているのでおもしろい。日本のモデルを見てのことばである。
270ページ。

「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹って見える内の焔が面白いのです。」

ロダンがこの通りのことを言っているかどうかわからないが、なるほどと、納得がいく。
最後のことばも、まるで花子の裸が彫刻として立ち現れて来るようだ。

で、こういうことばにも、私は鴎外の正直を感じる。対象に深く入り込み、生きていることばを動かす。そこでは、鴎外はいったん捨てられ、対象に与えられたものを受け止め自分をことばとして整え直す力が動いている。
自分をいったん捨てる、というところが美しい。

漱石はどうか。「五月蝿」と書いて「うるさい」と読ませる。これは、自分を捨てず、相手(対象)を自分に引き込む方法だと思う。
鴎外は、こういう造語を使わない。あくまで、人が使ってきたことばを大切にする。
漱石は天才、鴎外は努力家なのだろう。努力のもつ正直に触れると、私は静かな気持ちになる。

「あそび」は、鴎外の自画像なのだろう。机を二つ、大事なものとそうでないものを常に区別しながら対象に向き合うという基本姿勢のようなものが感じられる。
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森鴎外「青年」

2021-03-12 10:31:56 | その他(音楽、小説etc)
鴎外選集 第二巻 「青年」

「自然」ということばが何度も出てくる。
人間(青年)の肉体の自然な欲望。
未亡人や若い娘に向き合い、活発に動く。
その描写が、私には「正直」に響く。

ところで、「自然」の対極のことばは何か。
170ページに「趣味」ということばが出てくる。「芸術」に通じるかもしれない。精神によって整えられた世界を「趣味」というのかもしれない。
そういう意味でいえば、主人公の「正直」なことば、たとえば女の目の描写(どれも美しい)、自己(自然)分析のことばも「趣味」なのだ。

小説の終わり方も、鴎外らしくて、とても好きだ。
何か決着があるわけではない。
書いてきたそれぞれのことばが「正直」だから、それで十分なのだ。「正直」になるために人間は生きている。そこに鴎外の「自然」がある。
小説の中に漱石と思われる人物が登場する。漱石の小説にも「自然」は出てくる。それは「正直」というよりも「天然/本質」かなあとも思う。それはそれで、こころをひかれるが、「先生」と呼びたいのは、私には鴎外である。
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森鴎外「里芋の芽と不動の目」

2021-03-11 11:24:23 | その他(音楽、小説etc)
鴎外選集 第二巻「里芋の芽と不動の目」

私は、この作品の終わり方が大好きである。
主人公が、いわば好きなだけしゃべる。夜の12時になる。
52ページ。

「そうか。諸君は車が待たせてあるから好いが、己はぐずぐずすると電車に乗りはぐれる。さあ、行こう行こう」

このさっぱり感は、漢詩の「私は酔ったからもう寝る。君は帰れ。あした気が向いたら、琴をもってやってこい」に似ている。
気が置けない。
鴎外には、気が置けない仲間がいなかったのかもしれない。
あこがれというものを、この小説に、私は感じてしまうのだ。

ときどき、ああ、この人はなんて正直なんだろうと思うことがある。
何を根拠にと説明を求められると答えに困るが、鴎外先生は正直だ。外国の作家なら魯迅が正直だ。
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鴎外選集 第二巻 「木精」

2021-03-10 14:25:05 | その他(音楽、小説etc)
鴎外選集 第二巻 「木精」

この作品は「杯」と対になっている。
こだまは自然現象。泉が湧き出るのも自然。それと、どう向き合うか。
「木精」の少年はこだまが返ってくるのが楽しみだった。しかし声変わりしたあと、こだまが返ってこなくなった。こだまは死んだと思うが、七人のこどもたちには、こだまは返事をしている。
一方、「杯」では、七人の少女は「自然」と書いたか美しい杯を持っているのに対し、青い目の八人目の少女は熔岩が固まったような杯で泉の水を飲む。
声変わりと溶岩の杯は同じ意味を持っているだろう。
さらに、「杯」の青い目の少女、「木精」の主人公のブロンドの頭は、ふたりが「日本人」ではないということでも呼応している。
そして、この呼応を決定づけるのが「七人」である。

「七人」が日本の自然主義文学の代表的作家か批評家かは、私は考慮しない。
ただ、鴎外は、「七人」から見ればよごれた声、杯に見えるかもしれないが、自分は自分のやり方で文学に向き合う、と宣言しているのだと思う。
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森鴎外「電車の窓」

2021-03-09 11:04:46 | その他(音楽、小説etc)
鴎外選集 第二巻 「電車の窓」

この第二巻の作品は、単独でもおもしろいが、他の作品と関連づけると見えてくるものがある。
「電車の窓」は、電停で出会い、同じ電車に乗り合わせた女のことを書いている。「牛鍋」では、女は一言もしゃべらず、男を見ていた。男は女に見られているが、何の反応も表さない。
「電車の窓」の女は「牛鍋」の女のように何も言わない。しかし、男が女の思いを想像し、ことばにする。

この(女の)目がこんな事を言うのである。(33ページ)
その姿勢がこんな事を言うのである。(34ページ)
その瞳はそれより多くのものを僕に語った。(36ページ)

きっと「牛鍋」の男も、女のこころを想像した。だから、

女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である (28ページ)

と書いたか。
「電車の窓」の女の思い(男の想像)は「永遠に渇している女」の思いである。
それが正しいか間違っているかは関係ない。
「永遠」というものは、何も言わなくても他人に通じる。
だから、その証拠(?)として、電車で乗り合わせた少女たちの反応(男と同じ電停でおりた)を、こう書く。
38ページ。

互いに肘で突っ突きあって囁いて、それから声高に笑いながら、忽ち人込みに隠れてしまった。

他人のこころを読み、空想するのは人間の自然だろうか。そして、そのとき想像するのは人間の「永遠」だろう。
「牛鍋」の少女は母について何も「活動」していない。しかし、きっと、「電車の窓」の少女の年になれば、あのときの母を思いだし、同じように想像するだろう。

鴎外は人間の「永遠」というものを書こうとしている。それは日本近代文学の「自然(主義)」とは違うものである、と読むことができる。
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森鴎外「牛鍋」

2021-03-08 10:35:14 | その他(音楽、小説etc)
鴎外選集 第二巻 「牛鍋」

牛鍋は、すき焼きか。28ページ。(表記は一部変更した。)

 牛肉の紅は男のすばしこい箸で反される。白くなった方が上になる。

ことばのスピードが早い。すばしこい。
このすき焼きを、死んだ友達の幼い娘が狙っている。箸を出すと、男がまだ煮えていないと食べさせない。そのくせ、その一切れを、次の瞬間、ぱっと食べてしまう。
29ページ。

 娘の目は又男の顔に注がれた。その目の中には怨も怒もない。只驚がある。

そのうちに、娘は男のことばを無視して、肉やねぎを食べる。一種の、取り合いになる。
その様子が、29-30ページで、こう書かれる。

 娘も黙って箸を動かす。驚の目は、或る目的に向って動く活動の目になって、それが暫らくも鍋を離れない。

この「活動の目」がいいなあ。
この「活動」は、本能といいなおされ、「本能は存外醜悪ではない」(30ページ)と、さらに言い直される。

で、そのあと、もうひとりの登場人物も出てきて、

 人は猿よりも進化している。

という行が繰り返される。(30ページ)
繰り返しの間に、

 一の本能は他の本能を犠牲にする。

という、意味が何重にもとれそうな一行がある。
うーん。
明言されていない本能、その「活動」はどんなものか。読者に任されているのだが、こういう書き方は、今の小説家はしない。たぶん、当時のはやりの小説家も。
本能、活動、醜悪ではない。
この三つのことばに、鴎外の抵抗というか、思想というか、肉体を私は感じる。
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森鴎外「杯」

2021-03-07 10:45:40 | その他(音楽、小説etc)
鴎外選集 第二巻 「杯」

散文詩のような作品。
その24ページ。(漢字、仮名遣いはテキトウに直した。)

琥珀のような顔からサントレアの花のような青い目が覗いている。永遠の驚を以て自然を覗いている。
唇丈がほのかに赤い。

「覗いている」がこんな短い文章に二回も出てくる。
鴎外らしくない下手な文章?
いやあ、私は、思わず欄外に印をつけてしまう。
最初の覗いているは、「見える」である。作者(鴎外)が見ている。そして、読者も見る。彼女は青い目をしている、と気がつく。これは、客観描写。
ところが二度目の覗いているは違う。
彼女が、彼女の目が自然(世界、風景)を見ている。これは、少女の主観であり、鴎外がかってに想像したこと。ほんとうは、全然違うものを見ているかもしれない。鴎外が、少女に自然(世界)を見させている。言い直せば、鴎外の主観と少女の主観が一体になった「超主観」。
この視点の変化を、あえて同じ「覗いている」ということばを繰り返し、あいまいに隠している。

物語は、ここから青い目の少女に荷担するように展開する。
この荷担の「伏線」が「覗いている」ということばなのだ。
小説の最後。26ページ。

第八の娘は徐かに数敵の泉を汲んで、ほのかに赤い唇を潤した。

最初に引用した「唇丈がほのかに赤い」が、最後によみがえるのである。
いいなあ、と思わず声をもらすのである、私は。
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森鴎外「独身」

2021-03-06 13:28:16 | その他(音楽、小説etc)
鴎外選集 二巻 「独身」

冬の日。独身の主人公の家に友人が集まってくる。そこで、なぜお前は独身なんだ、という話になる。
主人公は「下女」と暮らしているから、下女と結婚した知り合いの話などがでる。
そんな話のひとつに、こんな描写。10ページ。(漢字表記は一部原文とは違う)

宮沢が欠をする。下女が欠を噛み殺す。

ここなんか、当たり前だけれど、うまいなあ、とうなる。

ふたりの関係がくっきり見える。しかも宮沢と下女は別の部屋にいるのだ。次に何が起きるか。それが、こんな短いことばで、だれにでもわかる。
肉体が正確にとらえれているからだ。

で、最後。19ページ。

これから独寝の冷たい床に這入ってどんな夢を見ることやら。

夢を読者に想像させている。
読者は主人公になって、それぞれの「夢」を見ることになる。
そしてそれは、きっと同じ夢だ。
そう感じさせるところがおもしろい。
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ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」

2021-03-05 10:08:01 | その他(音楽、小説etc)
ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」(野谷文昭訳)(再読)

マルケスの作品では、この「予告された殺人の記録」が一番好き。
タイトル通り、殺人が起きる。つまり結末が分かっている。それでも引き込まれ、読んでしまう。
小説はストーリー(結末)ではない。これは、同じ小説を何度も読み返すことからも、証明できる。読者(私)は結末なんか気にしていない。
森鴎外の「渋江抽斎」は主人公が真ん中くらいで死んでしまう。それでもことばは動いて行く。ここに散文の醍醐味がある。
「予告された殺人の記録」も同じ。

と書くと、もうほとんど書くことはないのだが、あえて書けば。
この作品をおもしろくさせている要素のひとつに、殺人者が双子という設定がある。
はやりのことばでいえば、別々人格。でも、似ている。目的も同じ。しかし、やはり微妙に違う。
これは、あらゆる登場人物に共通する。町の人たちは、殺人事件を止めたいと思っている。そして、双子も、実は止められたい、と思っている。
それなのに、何かがかみあわない。少しずつずれてしまう。この奇妙なちぐはぐさをマルケスは「魔術的描写」を封印し、即物的に、短い文章で積み重ねる。
その結果、誰にもわかっているのに、分かっていることが起きてしまう。
ふたりが逮捕されたあと、留置場の描写に、こう書いてある。92ページ。

彼らは三日三晩寝ていなかったにもかかわらず、眠ることができなかった。というのも、うとうとしかけると、そのとたん再び犯行の場に居合わせてしまうからである。

何度も現場、その時間に居合わせる。この悪夢的現実は、登場人物すべてが感じることだ。それは鏡に映った自分だ。鏡像が現実か、鏡の前の自分が本物か。この問いは、意味がない。それは、あえていえば「双子」なのだ。

*

この野谷文昭の訳には不自然なところがある。双子の持つ凶器の長さをインチで表記している。60ページ。一方で重さをグラムで表記している。(ページが出てこない)また、めでたいを「謹賀新年」と訳したりしている。68ページ。
インチはpulgar を訳したものだと思うが、この部分はスペイン語ではなく、英語訳を使ったのではないか。
こんな疑問を持つのは、アメリカで作られたピカソの伝記(子供向け)を読んでいたら、大きさをあらわすのにpulgarが出てきたからである。スペインは(たぶんスペイン語圏は)メートル法である。センチメートル、グラム。アメリカではそれが通じないので、インチに直した。それをそのまま転用しているように思える。
(あとがきに、英訳本を参照したとある。)
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ココア共和国2月号

2021-03-04 15:11:59 | 詩(雑誌・同人誌)
「ココア共和国」という月刊誌がある。
多くの投稿詩が掲載されている。
少し気になることがある。
たとえば、佐倉潮「みかん消失じかん」

みかんはあなたに食べられて
あなたになりました
あなたはみかんを食べたので
あなたのままでした

この、論理を利用したことばの運び、リズムが、秋亜綺羅そっくりなのである。
そして、この雑誌の発行人が秋亜綺羅なのである。
秋亜綺羅は「平和」という詩をこう書き始めている。

生の野菜を食いちぎるとき
野菜は痛くないのかを考えたことはあるか

人間と人間以外のものが、「食べる」という行為のなかで交錯する。
そして、その交錯を支えるのが「考える」なのである。
佐倉は、「考える」ということばはつかってはいないが。
そして、そのことばのリズムは、いつでも考えるリズムなのである。しかも、わりと短いリズム。読み返さないと混乱する論理ではない。
一瞬の目眩ましのような、ひらめいて、消えるリズム。

それはそれでいいのかもしれないが。

私は、せっかく多くの人が投稿するのなら、異質のものが読みたいなあと思う。
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バルガス・ジョサ「継母礼讃」

2021-03-03 13:21:54 | その他(音楽、小説etc)
バルガス・ジョサ「継母礼讃」(西村英一郎訳)(再読)

これは、ポルノグラフィティかギリシャ悲劇か。
どちらでもいいが、私は「文体練習」として読んだ。
三人の登場人物と、状況に合わせた何枚かの絵が、異なった文体で描かれる。三人と書いたが、少年は独自の文体を持たない。後半に出てくる作文も本文は示されずに、父の文体の中に取り込まれる。異なった絵の描写、変化していく絵への語り口の変化が、あえていえば少年の文体ということになる。

「文体練習」は、ことばの練習でもある。ことばで何が表せるか。
象徴するような文章が100ページにある。

彼女の体をもっとよく表すのは<張り>という言葉だ。

ジョサがいかにことばにこだわっているかがわかる。色でも音楽でも匂いでもいいが、それをことばにしないといけなお。究極的に、ことばにしたことだけが「事実」なのだ。だからこそ、父は少年の作文にうちのめされる。

で、そのことばというものは、どういうものか。
156ページ。

一つにとけあった私達の状態は言葉の矛盾を犯さないと表現できないわ。

「矛盾を犯す」かわりに(?)ジョサは、複数の視点を並置、交錯させることで世界を立体化する。
その手法は、この短編でも活用されている。
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ボルヘス「七つの夜」

2021-03-02 09:37:14 | その他(音楽、小説etc)
ボルヘス「七つの夜」(野谷文昭訳)(再読)

「七つの夜」は講演集。
作家を定義するとき「キーワード」がつかわれる。ボルヘスなら、鏡とか迷宮とか。しかし、私は名詞を信じない人間である。動詞に重心を置く。
ボルヘスのことばの運動を、彼が使っている動詞で定義すると、どうなるか。

「含む」である。
「悪夢」について語った講演にでてくる。49-50ページ。悪夢を引き起こすのは悪魔だという考えがあると紹介した上で、こう言う。

この考えには何かしら本物が(略)含まれているのではないかと思うのです。

すべとのもの(考え、つまりことば)は、それ以外のものを含む。そしてそれは「本物」である。言い直せば、「本物」は特定できない。それは、その時時の、もののあらわれかたのあんばいにすぎない。
これは、「含まれているのではないかと思う」という言い方の中にもあらわれている。
ボルヘスは「含まれている」と断定せず、「ない(か)」と否定、疑問を含めた形で、ことばを動かす。
鏡に映る鏡。それは鏡像であるけれど、本物の鏡を映している。つまり鏡像は本物を「含む」のである。

これは、「千一夜物語」では、こう展開する。79ページ。

中国にも文学史はありません。なぜなら人々は出来事の連続に興味を持たないからです。

つまり、中国人にとって、出来事はすべて「現在」を含むということである。それは、中国語の文法そのものでもある。中国語には時制がない。過去形、未来形がない。これをボルヘスは、あらゆる時間は現在を含む、ととらえなおすのである。
というのは、私の「誤読」かもしれないが。
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