詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇137)Obra de Joaquín Llorens

2022-02-06 16:16:28 | estoy loco por espana

Obra de Joaquín Llorens

Una danza entre dos personas, un pas de deux en ballet.
En esta escultura, el hombre desvela a la mujer y la apoya para que se mueva más libremente.
Pero el hombre no sólo apoya a la mujer.
La mirada del hombre es invitada por la mirada de la mujer a mirar lo que sus ojos miran.
Cuando mira a los ojos de la mujer, sabe lo que ella ve.
Los dos corazones vuelan ligeramente por el aire juntos.
Se trata de una pieza musical ligera, pero que no pierde su fuerza.

二人で踊るダンス、バレエならパドゥドゥ。
この彫刻では、男が女をアンレヴマンし、女がより自由に躍動を支えている。
しかし、男はただ女を支えているわけではない。
男の視線は、女の視線に誘われて、女の目が見ているものを見ている。
女の目を見れば、女が見ているものがわかる。
こころは一緒に宙を軽やかに舞っている。
軽やかで、しかし、強靱さを失わない音楽が聞こえてくる作品。

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Estoy loco por espana(番外篇136)Obra de Joaquín Llorens

2022-02-05 19:03:10 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇136)Obra de Joaquín Llorens

Obra de Joaquín Llorens


Una torre laberíntica. ¿Es el autorretrato de un hombre?
Un corazón solitario se mantiene en silencio.
La mirada que mira fijamente en la distancia. Es mirar más allá del horizonte.
Endereza el laberinto de la mente.

La escultura puede verse desde muchos ángulos diferentes.
Sin embargo, este trabajo me parece rechazar cualquier otro ángulo que no sea éste.
Una obra muy extraña.
¿Podría ser el comienzo de una nueva serie?

迷宮の塔。それは男の自画像か。
孤独なこころが静かに立っている。
遠くを見つめる視線。水平線の向こうまで見ている。
それはこころの中の迷宮をまっすぐにする。

彫刻はさまざまな角度から見ることができる。
しかし、この作品は、この視点以外の角度を拒否しているようにも感じられる。
とても不思議な作品。
新しいシリーズの始まりだろうか。

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サラ・カイリイ『ヴァージン・キラー』

2022-02-05 12:19:02 | 詩集

 

サラ・カイリイ『ヴァージン・キラー』(書肆侃侃房、2021年10月06日発行)

 サラ・カイリイ『ヴァージン・キラー』には、何度もセックス描写か出てくる。セックス描写は、なんといえばいいのか、意外に退屈なものである。いろいろなことをやってみても、結局似たようなことになってしまうからだろう。行為には限界がある。(ように、私には思える。)行為なんか、いくらでも、欲情しない。不思議なことに、思春期は「月経」ということばにさえ勃起したのに、である。「挿入」という文字を辞書で確かめれば、射精までは一分もかからない。ということは、というのは変な論理だが、セックスは「肉体」ではなく「ことば」の問題なのだ。そして、その「ことば」というのは「ことば自身の肉体」をもっている。これを私は簡単に「ことばの肉体」と呼んでいるのだが、この「ことばの肉体」は、実は、見わけるのが非常にむずかしい。ほとんどそっくりというか、いや、完璧にそっくりで、個別性があらわれるのは「ことばの肉体」が破綻したときだけなのだ。言いなおすと、「ことばの肉体」が見えるのは、そのことばが「破綻」した瞬間だけなのである。「ことばの肉体」はとても強靱で、簡単に「個人の肉体」を超えてしまう。たいていの場合は破綻しない。
 たとえば「ふぇらちお」。

いとしいぺにすがただの肉塊になっていた
さあ飲み込めと突き出される勃起したぺにす
昨日まではいとおしくてたまらない 名前を付け
フリルで飾り バッグに持ち歩きたいと思っていたぺにすだったのに
反り返ったぺにすを口に含むと わたしの味しかしなかった     

 「いとしいぺにす」から「反り返ったぺにすを口に含むと」までは、「個人的体験」のようであって、「個人(サラ・カイリイ)」を感じさせる「ことば」はあらわれてこない。五行目の最後になって「わたしの味しかしなかった」になって、やっと「わたし」が「味がする(味を感じる)」という肉体の動き(肉体のことば)として「ことばの肉体」を動かし始める。
 ここからが、詩の、「ことばの肉体」の勝負のしどころなのだが。

その辺に転がっている 犬のクソのような
人生と 自らが認識する特別性の 隔絶は 愛情をすり減らす
わたしは特別ではない ただのメスだった

 うーん、私には「ことばの肉体」を利用しているだけのように感じられる。「特別性」「特別」という「特別」ということばが二回出てくるが、どこが「特別」なのか、私にはわからなかった。それが「ただのメスだった」という常套句に飲み込まれていくのを見ると、「わたしの味」とは何だったのかという疑問だけが残る。
 この問題を、どう位置づけるか。
 ときどき、おもしろい。だから、これから先、きっもっとおもしろい「ことばの肉体」が動いていくと読めばいいのかもしれないが、私は、親身になってそれを追いかけたいという気持ちにまではなれなかった。
 もう一篇。「ヴァージン・キラー」。

帰りのバスの中から手をふるまで
接続は解消されない 自動ドアが
閉まって バスが走りだし
白いシャツが見えなくなる頃 私の膣から
ようやくペニスが 抜け落ちる

 「接続は解消されない」という奇妙なことばが、「私の膣から/ようやくペニスが 抜け落ちる」と言いなおされる。膣からペニスが抜け落ちて、接続は解消される。「肉体のことば」が体験したことを、「ことばの肉体」があとから追いかけてきて、追いつく。そのとき初めて「世界」が「わたしの世界」の姿を取り始める。その瞬間の「抜け落ちる」ということばがとてもおもしろい。
 「抜け落ちる」、特に「落ちる」ということばは否定的な意味を含むことが多い。「解消されない」(解消したい)というとき、その不快感のようなものは「落とす」であって「落ちる」というものではない。「落とす/落ちる」は「物理的」にはおなじ運動だが、意識的にはかなり違うし、それが「解消(する/したい)」ということばと連動するときは「落とす」でないと、落ち着きが悪い。「ことばの肉体」の方からとらえれば「落とす」を無意識に要求している。しかし、サラは「落ちる」を選びとっている。ここに「破綻」というとおおげさだし、「矛盾」といってもおおげさなのだが、一種の「撞着語」につうじるものがあって、それがおもしろい。そして、そのことばが「接続」を「再定義」しているようで、私は、あっと叫んでしまう。
 サラは「接続」を求めている。しかし、求めている「接続」は手に入らない。ペニスが抜け落ちてもつづく「接続」が、サラのほんとうに探している接続である。しかし、ペニスが抜け落ちたときにほっとしてしまう「接続」を、いまは、生きているだけなのだ。この「矛盾」が、サラの詩を支えているということになるのかなあ。
 そうだと仮定して。
 そうだとするならば、「常套句」をどれだけ振り捨てることができるかということが、これからのサラの詩の問題かなあ。

 

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うるし山千尋『ライトケージ』(2)

2022-02-04 11:50:44 | 詩集

うるし山千尋『ライトケージ』(2)(七月堂、2021年12月28日発行)

 うるし山千尋『ライトケージ』には、「返す」という動詞は、きのうふれた作品のほかに、もう一篇、違う作品でもつかわれている。「返戻」。この作品について触れながら、暁方ミセイが「「返す」詩人」というタイトルの解説(?)を「栞」に書いている。暁方も「返す」が気になったらしい。私は、「栞」はめったに読まないが、今回は暁方が書いているということと、その文章が短かったので、読んでみた。こう書いている。

 本詩集収録の最後の詩を読み、そうかぁ、と唸った。
  
  わたしは写真集を「元の場所」に戻したわけだけど
  戻したというより返したという感覚のほうがなぜかいつも強い
  戻すも返すもたいしてかわらないのに    
                          (「返戻」)

 うるし山さんの詩は、「返す」詩なのだ。返すということは、戻すこととは少し違って、それを一度受け取り、自分を通過させてから元の通りにすることだ。 

 「一度受け取り、自分を通過させてから」という部分が、ていねいで気持ちがいい。
 ここから少し、うるし山の市から離れてしまうかもしれないが。
 私は「元の通りにすることだ」という暁方のことばにたいへん驚いた。私は「返す」ということばを「元の通りにする」と考えたことはなかった。きのう書いたように、「返す」には「撞着語」のニュアンスがある。「元」とは違うのが「返す」ということだと思ったからである。
 さらに、うるし山が「元の場所」と鍵括弧付きで書いていることを、暁方は「元の通り」と別のことばで言いなおしている。このことにも、妙に、つまずいてしまった。
 「通り」とは何だろうか。「場」と「通り」はどう違うのか。
 「通り」は「通す」という「動詞」につながる。「場(空間/時間)」を何かが「通る」。すると、その「通り」には「つながり」ができる。新しい何かがそこに加わっている。そのために「通り」がよくなることもあれば、「通り」が悪くなることもある。「通り」が「案内」になることもあれば、「障害」になることもあるだろう。
 暁方は、そのことをどれくらい意識しているのかわからないが、「場」ではなく「通り」とわざわざ書き直しているのだから、そこになんらかの意識の動きがあるはずだ。そして、それは「通りがよくなった」につながる運動だと思う。うるし山の詩を読むことで、暁方の「肉体」が抱えていた何かが整理され、「通り」がよくなったのだ。
 暁方は、こうつづけている。

うるし山さんの詩において、受け取って返すものは、時間や空間や、この世界そのものなのかもしれない。わからないものに触れ、わからないままそっと「返す」という運動が、このやわらかな生の感触のする詩を生んでいる。

 「わからないものに触れ、わからないままそっと「返す」という運動」だけでは、しかし、「通り」はよくならないだろう。もちろんどこに「障害(つまずきのもと)」があるかを知っておけば次にはつまずかない、そこを避けることができるかもしれないが、それでは「通りがよくなった」とは言えないだろう。だから、うるし山は「わからないものに触れ、わからないままそっと「返す」という運動」をしているわけではないと思う。
 暁方は「やわらかな生の感触のする詩」とことばをつづけている。
 この「やわらかな生の感触」に注目するならば、うるし山は、「返す」とき「やわらかな生の感触」を「返すもの」に与えていることになるだろう。それまでは「かたい」何かがあった。それがうるし山の肉体/ことばを「通る」ことで「やわらかな生の感触」をもったものに変わった。それが「返す」ということ、それが「通りをよくする」ということなのだろう。

 こういうことを書いていると、だんだん、わけがわからなくなる。私が最初に書こうとしたことも、こういうことでなかったという思いが積み重なってきて、私のことばの「通り」を悪くする。
 こういうときは、脇道というか、最初に頭をかすめたことに「戻る」。
 暁方の「栞」を読む前に、私は何を考えていたのか。
 「返戻」。何と読んでいいのか、私には思いつかない。詩を読んだあと「返す」と「戻す」はどう違うのか、瞬間的にそう思った。
 「戻す」という動詞は、どうつかわれていたか。この詩以外に、つかわれていたか。私は、こういう「点検」が苦手で、「点検」してもきっと間違うので、思い出せないとだけ書いておく。これ以前に書かれている詩に「戻す」があったかなかったかは思い出せないが、この詩にはつかわれている。

昼食をとりに一度席を離れた人たちがまた戻ってくる
図書館では音を出してはいけないのだけど
せわしく音を出してうるさく戻ってくるひとたちもいる

 体験したことをそのまま書いているようだけれど、私は、実は、ここでかなりつまずいたのである。なぜ、わざわざこういうことを書いたのか。「戻ってくる」は「帰ってくる」であり「帰る」は「返る」に通じるし「返す」にも通じる。ワープロで「かえる/かえす」と入力し、変換キーをおすと「返る/帰る/返す/帰す」が出てくるくらいである。うるし山は無意識に(?)何かを書こうとしている。「戻す」が抱えているもの、「返す/返る」とは違う何かを書こうとしている。
 それは何なのか。

せわしく音を出してうるさく戻ってくるひとたちもいる

 「戻る」には、何か不愉快なもの、たとえば「せわしい」「うるさい」がつきまとっているのだ。「戻す」とき、きっと、うるし山は何か不愉快なものを抱えていて、それを「戻す」。整理されなかったものをかかえたまま、それを「戻す」。
 でも「返す」とき、その不愉快なものは消えているのだ。暁方の書いていることばを借りて言えば「通り」がよくなっている。この「通り」はうるし山の「肉体/意識/ことば」のなかにある「通り(道)」である。
 暁方は、「戻す」との比較は書いていないが、どこかで、こういうことを感じているのかもしれない。だから「通り」ということばが出てきたのかもしれない。

 でも。
 もし、「戻す」が不愉快なものを抱えたままの行為(動詞)だとすると、次の部分は、どう読めばいい?

席を立ちキャパの写真集を書棚に戻しに行く
元の場所はそのまま本の厚みの分だけスペースが空いている
だから探しやすいし、そのために大きな本は存在する気がする
詩集は戻すには薄すぎる そう思うと
目のまえをいま何かがすうっと通りすぎ
もう思い出せない

 ここにつかわれている「戻す」は、どうなる? とくに「詩集は戻すには薄すぎる」を、詩を書いている人間として、どう受け止める?
 こういうことは、私は、これ以上考えない。いわゆる「保留」ということですませてしまう。私は一体の執筆時間を四十五分以内と決めているし、頭(ことば)も、もう動くのを嫌がっている。
 ただ、ほら、ここにも「通る」がある、と指摘しておく。

目の前をいま何かがすうっと通りすぎ

 何か「通り道」ができたのだ。「詩」ということばを書くことで、「戻す」と書きながら、それでも「通り」があらわれた。それは一瞬のことで「もう思い出せない」。しかし、それは存在した。
 「返す」という動詞を私は「撞着語」と結びつけて読んできたが、「撞着語」は不思議なつまずきだけれど、それは同時に過激な「通過」でもある。あまりに早く通りすぎるので、それがいったい何だったのかわからない。しかし、それは確かに「感じることができた」なにかである。「冷たい太陽」「明るい闇」。そういうことばに触れた瞬間、上手く説明できない何かが、「目の前をいま何かがすうっと通りすぎ」たという印象がある。
 そういうものを浮かびあがらせるために、うるし山は「返す」という動詞を動かしている。

 

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うるし山千尋『ライトケージ』

2022-02-03 15:15:08 | 詩集

うるし山千尋『ライトケージ』(七月堂、2021年12月28日発行)

 うるし山千尋『ライトケージ』の表題作「ライトケージ」は、こうはじまる。

二十年ぶりに
弦を巻く
サイレントギターという
音の鳴らないギターに
弦を巻く
やわらかい
弦は
空気のような他人の
風景のような
音が混じる

 「弦を巻く」を繰り返し、その間にサイレントギターの説明を閉じ込めてしまう。これを技法と呼んでいいのかどうかよくわからないが、とてもうまい。説明を閉じ込めた上で、その説明の中に残っている「鳴らない音」を展開していく。

空気のような他人の

 この一行が非常におもしろい。
 学校文法でいう「論理」になっていない。「空気のような他人、の」と読めばそれなりの「意味」になるが、「他人の」は次の行の

風景のような

 につながっているように見える。
 行渡り。
 切れているのに、次の行と強靱に結びついている。「切断」を装いながら「接続」が奇妙な形で(学校文法からはみ出した形で)動いている。
 ここには説明できない(説明すると、めんどうくさい)意識の動きがある。
 「撞着語」という「文法用語(?)」があるらしい。「明るい闇」とか「冷たい炎」という類である。「空気のような他人の」という一行は「撞着語/撞着行」というものではないかもしれないが、何かしら、私の意識を「攪拌」してくる。
 「撞着語」というのは何か、強烈な幻想、私は体験したことがないのだが、たとえば麻薬による幻覚のようなイメージがある。ふつうの感覚では体験できないが、錯乱だけがつかみうる真実というような強烈なイメージがある。
 しかし、うるし山のことばは、そういう「幻覚」とは逆に、なにかゆるやかなものがある。「ゆるやかな撞着語(行)」という感じ。
 これは「海辺に不良を数えながら」の次のような展開に、非常に巧みに表現されている。

わたしたちは
たくさん数えたけれど
たくさん数えすぎて
どこまで数えたかわからなくなって
たくさん
忘れてしまった
むしろ群れているのは
わたしたちの
たくさん数えてきたという その
たくさんの意味で

 「たくさん」が「数える」「忘れる」という動詞のなかにで集まってきて、離れていく。そしてそれは、そのふたつの動詞のあいだにある「わからなくなる」と結びついている。「数える」「わかる→わからなくなる」「忘れる」。撞着語として「「わかる→わからなくなる」という動き(動詞)が非常に奥深いところに隠されている。そして、その全体の動きを「その」というなんでもないような指示詞によって呼び出してみせる。
 あ、これはいいなあ、と思わず声に出してしまう。
 この「その」とか「あれ」とか、意識そのものの存在をさらりと「表」に露顕させるときの「動詞」をうるし山は、別のことばで、こう書いている。

どうする?
とおまえが訊いたので
しばらく考えて
どうしよう
と返すと
なんだかフェリーこわいね
とおまえは言った                    「いつかのフェエリー」

嘘言ってみろよ
とおまえが急に言う
そんなに急に嘘はつけない
と言うと
嘘つけ、嘘はいつでもつけるはずだ
と返してくる                            「詫びる」

 「返す」。それは、いつでも「反撃」なのだ。反対の方からやってくる。「撞着語」が反対の方から突然あらわれて、それまでのことばの向きを逆転させるように。
 うるし山は、詩とは「意識の裏切り/反撃」だと知っている。自覚している。何への「裏切り/反逆」なのか。「学校文法」への「裏切り/反逆」である。
 全面的にそれを展開するのではなく、そっと隠して実行している。隠された時限爆弾が、この詩集のなかにはある。

 

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Estoy loco por espana(番外篇135)Obra de Javier Messia

2022-02-03 13:33:09 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇135)Obra de Javier Messia

El cielo es el mar de estrellas.
Varias estrellas caen al suelo.
El contraste entre el color dorado y el color acromático es hermoso.
Siento el color que lleva al arte popular tradicional japonés.
La estrella es el color del dorado. El color en el suelo es el color de la tinta o el color del carbón.

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愛敬浩一『遠山立もまた夢をみる』

2022-02-02 11:25:07 | 詩集

愛敬浩一『遠山立もまた夢をみる』(詩人の遠征12、洪水企画、2022年02月01日発行)

 愛敬浩一『遠山立もまた夢をみる』には「失われた文芸評論のために」という副題がついている。
 私はある時期から「文芸評論」というものを読まなくなった。講談社の花田清輝全集、新潮社の小林秀雄全集が家にある。あるだけだ。遠山立は、名前は聞いたことかあるが、一冊どころか、一ページとして読んだ記憶がない。だから、これから書くことは、愛敬の書いていることとはほとんど関係ないことになる。『遠山立もまた夢をみる』を読みながら、ふと思い浮かんだことの羅列になる。
 私が評論を敬遠し始めたのは、たぶん、そこに「引用」が多すぎるからである。評論している(批評している?)作品の「引用」ではなく、その「引用」についての筆者の考えを補足するための「別の筆者の引用」が多いからである。何を読んでいるのか、私にはわからなくなる。
 愛敬も、おなじ方法をとっている。
 「1 なぜ〈吉本隆明論〉か?」は、遠山の「吉本隆明論」について書いた文章である。そこに吉本隆明の文章が出てくることは理解できる。吉本の文書を引用せずに吉本論を書くことは遠山にはできない。引用しなければ、「事実」というか、根拠というものがなくなる。
 その延長線上に愛敬の評論はあるわけだから、愛敬の文章に「吉本の文書」「遠山の文章」が出てくるのは当然である。ここまでは、私はついていくことができる。(吉本も遠山も読んだことはないのだが、愛敬のことばをとおしてそこに接近していくことに抵抗を感じるわけではない。)
 ところが、ここに埴谷雄高が絡んでくる。白河正芳が絡んでくる。磯田光一が絡んでくる。勢古浩爾という、私には名前も知らない人も絡んでくる。愛敬は「時代背景」というか、その当時の(あるいは、それ以降のことをふくめて)「ことばの背景」を立体的に描き出そうとしているのだと思うが、私は、ついていけない。
 愛敬の感じている「実感」というものが、埴谷らの「ことば」のなかに分散してしまう。引用されている「埴谷のことば」は愛敬の知識なのか、愛敬の実感なのか。愛敬の実感を補足するための(説明するための?)知識なのか、他人の実感なのか。
 ここで迷いながら、私は、こういうことで悩むなら埴谷の吉本論を直接読んだ方がいいなあ、と思ってしまうのである。私は、どうも「多数決派」ではないのだ。多くの人が言っているから、それでいいとは思えない人間なのである。ひとりひとり人間の考え方が違うのだから、自分の考えを補強する(?)ためにいくら多くの人を集めてきても意味はない、と思ってしまうのだ。「一対一」以上のことを考えたくない。いや、私の頭の容量に限界があって、「一対一」を超えると、どう考えたらいいのかわからなくなるのである。
 言いなおそう。
 愛敬が遠山論を書く。そのとき、遠山の書いた吉本論をテーマにする。このとき、愛敬には、「遠山の見ている吉本」とは違う「愛敬の見た吉本」が存在する。「吉本」を中心にして、愛敬と遠山が対面する。吉本を通ることで、愛敬と遠山のことが交錯する。この「愛敬-吉本-遠山」の関係をもっと知りたい。「愛敬-吉本」は「一対一」、「遠山-吉本」も「一対一」、その結果として「愛敬-吉本の一対一」と「遠山-吉本の一対一」が「統合された一対一」としてあらわれてくる。私の向き合うのは(予定している相手は)、その「統合された一対一としての愛敬」なのだが、そこに、先に書いたような埴谷やら誰それやらが絡んでくると、私が向き合う相手として想定していた愛敬の存在が遠くなる。それで、めんどうくさくなるのである。

 私は、何について書いたときか忘れたが、ある詩人から「反知性主義」と批判されたことがある。「反知性主義」ということば新聞などで読んではいたが、実際にどういうことを指すのが私は考えたことがなかった。しかし、私の考え方が「反知性主義」ならそれはそれでかまわないと思う。私は「知識」というものを信じていないからである。私が「一対一」の場でつかみ取りたいのは、相手が何を「知っている」かではなく、何を「感じている」かだからである。「知っている」ことを全部捨てて「無知」になりたいというのが私の理想だからである。
 私にとっての一番の「課題」は「死」である。「死」というものがあるということを私は「知っている」。そして、「死ぬ」ときは苦しいだろう、痛いだろうということも私は「知っている」。ただし、この「苦しいだろう、痛いだろう」というのは正しいかどうかわからない。死んだことがないから、わからない。そして、わからないのに、それを想像して悩んでしまうのは、私は「苦しいこと/痛いこと」がとても嫌いだからだ。
 私は何年か前に網膜剥離の手術をした。手術室に入る直前、担当医が「痛いですよ」と言った。そして、手術後、ほんとうに痛かった。こんなに痛いなら、もう見えなくなっていいから目を摘出してとナースコールを押して言いそうになった。しかし、その手術はもっと痛いかもしれないと思って我慢した記憶がある。
 これは「知っていること」であり、「実感していること」。たぶん、それを全部捨てられたとき死ぬことができると思う。死ぬとは「知っている」と思っていることが「知らなかった」と実感できることだろうと想像している。

 「知らなかった」というのは、とても不思議な実感である。「わかった」という「実感」と結びついている。「わかった」は、私の感覚では「知った」とは違う。「知る」には説明がつきまとうが、「わかる」は説明を必要としない。
 愛敬が「1 なぜ〈吉本隆明論〉か?」で引用しているさまざまな作家・評論家の文章を私は「知らなかった」。しかし、それは愛敬の文章(引用)を読んだだけでは「わかった」にはならない。愛敬が書いていることが「知識」だからである。それを「知らなかった/わかった」に変えるためには、私は埴谷らを読まないといけない。そういう「めんどう」は私はしたくない。私は「反知性主義」の人間である。私は「知りたい」のではなく「考えたい」。そして「知らなかった」にたどりつきたい。

 これは、まあ、批評ではないし、感想でもない。単なる思いついたままの「日記」である。愛敬の本を「ダシ」にして、私のことばを動かしたということだね。愛敬には申し訳ないが。
 ちょっとだけ補足しておくと。「4 『死の文化史』を読む」で愛敬は、テレビドラマを引用しながらことばを動かしている。私は、こういう方法は好きだなあ。そこでは、愛敬はテレビドラマを「補強材料」としてつかっていない。「考えるヒント」にして、そこから「考え始めている」。考えるとき頼りになるのは「知識」ではなく「実感」である。その「考え」に引っ張りだされてくるのは、「死」の対極にある「生」であり、「生」とは「性」に通じ、「愛」に通じる。愛敬の体験が「具体的」に書かれているわけではないが、愛敬の「肉体」のなかで生きている「生/性」が動き出し、「死とは何か」を考え始めていることがわかる。感じられる。私が読みたいのは、そういうことばの運動である。

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Estoy loco por espana(番外篇134)Obra de Joaquín Llorens

2022-02-01 11:10:19 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Llorens

Hierro óxido 58x15x12 S. 5.5.

En su obra, hay algo como "memoria" que te hace sentir nostalgia.
Especialmente, lo siento fuertemente en sus trabajos usando "hierro oxidado".
Hierro que no se usó y fue abandonado. Joaquín lo recoge y da forma a la vida.
El hierro renace como obra.
Sin embargo, no es una "vida restante" sino de una "vida nueva".
El óxido es una prueba viviente.
Esta obra me hace sentir "soledad". Es una soledad que el escultor ha vivido. 
Incluso si renacen, el hierro y el maestro seguirá viviendo en la soledad. Soledad severa pero fuerte. Y misteriosamente cálido.

ホアキンは、鉄をどうやって調達するのだろうか。
画家がキャンバスや絵の具を画材店から買うように、どこかから鉄を買ってくるのだろうか。
どうも、そんな気がしない。買ってきた鉄を加工しているとは感じられない。
何かをつくったときに、使い切れなかった鉄、たとえば「端切れ」のようなものがあって、それをつかって作品をつくっているという印象がある。
素材そのものが、すでにいったんつかわれたものを感じさせる。
それは、不思議な「手触り」。なぜか、なつかしさを感じさせる「記憶」のようなものがある。
特に、「錆びた鉄」をつかった作品に、それを強く感じる。
つかわれず、捨てられた鉄。それを集めてきて、残っているいのちに形を与える。
鉄は、作品に生まれ変わる。
しかし、それは「残ったいのち」ではなく、「新しいいのち」である。
錆は生きている証だ。
この作品は、「孤独」を感じさせるが、それは生きてきた時間がおのずとかかえこむ孤独である。生まれ変わっても、やはり孤独を生きるだろう。厳しいけれど、強い孤独。

 

 

 

 

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