廿楽順治・詩、宇田川新聞・版画「うしろの電人」(「現代詩手帖」2012年06月号)
廿楽順治・詩、宇田川新聞・版画「うしろの電人」は「鉄塔王国の恐怖」の4回目。タイトルがこれでいいのかどうか、ちょっとよくわからないけれど、まあ、私の思ったままに、そうしておく。
前半。
廿楽が書こうとしていることが何であるのかわからないけれど、そこに書かれていることばが違った意味にも受け取れる。でも、正しい意味かもしれない。--と書くと何のことかわからなくなるけれど。
たとえば、
は、なんだか「節電」を想像させるねえ。いま、日本をおおいつくしている節電ブーム。使え、使えの大合掌は消えて、節電節電。それを「もったいない」ということばですくいとっているところが、なんだかレトロっぽくて不思議。レトロといっていいのかどうかわからないけれど--節約はたしかに「もったいない」が基本なのだろうけれど、いまの日本の節電は「もったいない」とは無関係なところから発想されている。というか、「もったいない」の反対のところから発想されているよね。大切だがら大事に--ではなく、足りないから大事に。でもさあ、なぜ、足りないの?
何か違うよ。
私の場合、生まれが百姓なので「もったいない」はたとえばご飯をこぼして食べれなくなること。もったいない。なぜって、そのご飯、米は、自分たち(両親)が田んぼを耕し、苗を植え、他の草を取り、刈り取って、干して、精米して、やっとご飯になったもの。ご飯の中には働いた肉体がある。仕事の汗がある。それを粗末にするのは「もったいない」。そこには、まあ、働いた人への感謝、働くことができることへの感謝のようなものがある。「ありがとう」とは言わないけれど、いっしょに働いた肉体の記憶(田植えをしたり、稲の刈り取りを手伝わされたり……)があって、「肉体」が「ありがとう」と感じている。
電気は違うなあ。というと、電力会社で働いている人に申し訳ないような気もするが、いや、しないなあ。国や電力会社が間違えて、いまの状況がある。以前はつかわないことが「もったいない」だったのに、(だから夜間湯沸器なんていうものがある)、いまはつかうことが「もったいない」。
こりゃあ、変だね。
で、この奇妙さが、
の、不思議な行のなかにすーっと吸収されていく。(行の展開は逆なのだけれど。)
「電人」って何? 電気をつかって(食って)生きている人。そういうひとは「かなしくならない」は、わかったようでわからないけれど、まあ、悲しみというのは「肉体」と密接なもの。その密接であるべき「肉体」がどこか普通と違うというようなことが、ここから読みとれるかもしれないし、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
だいたいが廿楽の詩は、こう読みとれるかもしれないけれど、そうでもないかもしれない。適当に、自分の感じたいように感じればそれでいいんじゃない? というようなものである。これはいいかげんなようであって、その「いいかげん」が廿楽の明確な「思想」なのだ。
「いいかげん」だと、ひとは、そのひとを信用しない。ちょっと変な言い方になるが、たとえば廿楽が「いいかげん」だとする。そうすると、私は廿楽を信用しない。で、どうするか。自分を信用して、自分で考えはじめる。廿楽はこんなことを言っているが、そのままでは信用できない。これはきっとこういうことなんだ、と考えはじめる。
そのことをちょっと反省して見つめなおすと……。(逆の言い方をすると、ともいえるのだが。)
廿楽のことばは、私のことばを鍛え直させる。私のなかのあいまいなものを明確な方向にむけさせる。これは、あくまで「むけさせる」であって、結論がでるわけではないのだが。
で。
ようするに。(私は、ちょっとことばにつまっている……。)
こんなふうに他人のことばに作用し、何かを考えさせるもの--それこそ「思想」(他人の肉体)の魅力なんだなあ。わけがわからない。でも、好き。ということが、人間の、実際に生きているときにはしょっちゅう起きる。そして、何かを好きになったひとは、好きになることで自分が変わっていく。
これって、すごいことでしょ?
廿楽は、それを「これが哲学です、思想です」という感じではなく、なまな、芯だけがある肉体のようにして動かす。
うーん、おもしろい。
宇田川の版画もおもしろい。一連目の「円盤にのって」に刺激された版画が1連目と2連目の間にある。映画「マーズ・アタック」の円盤のようなチープな円盤。それが白で描かれ、まわりは取り囲むような形で、三つ。それが三つ並ぶと、目と口に見える。顔に見える。--変だねえ。宇田川は円盤を描いたの? 顔を描いたの?
ここにも「いいかげん」の魅力がある。
見た人が判断すればいい。「いいかげん」は見た人の判断で「確定」する。いわば「共同作業」だね。
で、ね。
この「共同作業」は、やっぱり「もったいない」という思想につながるんだと思うなあ。自分の労力だけではなく、いっしょに仕事をしている人の時間も「無駄」にしてしまう。それって「もったいない」、つまり「申し訳ない」。
まあ、こんなことをいうとうるさいよね。
まあ、私の「読み方」も、うるさいひとつのことにはいるのだけれど。
だから、ここではうるさいとこは言わずに。
ここが好き。しかも、「ゆっくり踏みつぶす」のあとに「どんなにあたたかい汁がでるのか」ということばの動きが好き。何か乱暴なこと、暴力的なことがしたいよねえ。その結果何が起きるのか。
「あたたかい汁」か。
暴力(踏みつぶす)の対極にあるものなんだろうなあ。それは踏みつぶすという肉体の力によって、相手から生じる反応。このあたりの「呼吸」のつかみ方、あらわした(手放し方)が、廿楽の魅力だなあ。「いいかげん」なのだけれど、「肉体」の呼吸をもっている。
この「肉体の呼吸」の対極にあるのが「われわれは」とか「現実は」ということばとともにあるものだね。それを廿楽は高圧的、じゃなかった「電圧的」と言っている。
と、まあ、「時事詩」ふうに今回は読んでみました。
廿楽順治・詩、宇田川新聞・版画「うしろの電人」は「鉄塔王国の恐怖」の4回目。タイトルがこれでいいのかどうか、ちょっとよくわからないけれど、まあ、私の思ったままに、そうしておく。
前半。
あんなにいっぱいたべたのに
この時間になるとふしぎとまたお腹がへる
でんきください
ソースをたっぷりかけてね
どうして生まれてきたのですかと聞かれたら
円盤にのってやってきました
正直にいうしかない
でも電人だからかなしくならない
泣くのにもちょっとしたでんきがいるのである
もったいないもったいない
廿楽が書こうとしていることが何であるのかわからないけれど、そこに書かれていることばが違った意味にも受け取れる。でも、正しい意味かもしれない。--と書くと何のことかわからなくなるけれど。
たとえば、
泣くのにもちょっとしたでんきがいるのである
もったいないもったいない
は、なんだか「節電」を想像させるねえ。いま、日本をおおいつくしている節電ブーム。使え、使えの大合掌は消えて、節電節電。それを「もったいない」ということばですくいとっているところが、なんだかレトロっぽくて不思議。レトロといっていいのかどうかわからないけれど--節約はたしかに「もったいない」が基本なのだろうけれど、いまの日本の節電は「もったいない」とは無関係なところから発想されている。というか、「もったいない」の反対のところから発想されているよね。大切だがら大事に--ではなく、足りないから大事に。でもさあ、なぜ、足りないの?
何か違うよ。
私の場合、生まれが百姓なので「もったいない」はたとえばご飯をこぼして食べれなくなること。もったいない。なぜって、そのご飯、米は、自分たち(両親)が田んぼを耕し、苗を植え、他の草を取り、刈り取って、干して、精米して、やっとご飯になったもの。ご飯の中には働いた肉体がある。仕事の汗がある。それを粗末にするのは「もったいない」。そこには、まあ、働いた人への感謝、働くことができることへの感謝のようなものがある。「ありがとう」とは言わないけれど、いっしょに働いた肉体の記憶(田植えをしたり、稲の刈り取りを手伝わされたり……)があって、「肉体」が「ありがとう」と感じている。
電気は違うなあ。というと、電力会社で働いている人に申し訳ないような気もするが、いや、しないなあ。国や電力会社が間違えて、いまの状況がある。以前はつかわないことが「もったいない」だったのに、(だから夜間湯沸器なんていうものがある)、いまはつかうことが「もったいない」。
こりゃあ、変だね。
で、この奇妙さが、
どうして生まれてきたのですかと聞かれたら
円盤にのってやってきました
正直にいうしかない
でも電人だからかなしくならない
の、不思議な行のなかにすーっと吸収されていく。(行の展開は逆なのだけれど。)
「電人」って何? 電気をつかって(食って)生きている人。そういうひとは「かなしくならない」は、わかったようでわからないけれど、まあ、悲しみというのは「肉体」と密接なもの。その密接であるべき「肉体」がどこか普通と違うというようなことが、ここから読みとれるかもしれないし、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
だいたいが廿楽の詩は、こう読みとれるかもしれないけれど、そうでもないかもしれない。適当に、自分の感じたいように感じればそれでいいんじゃない? というようなものである。これはいいかげんなようであって、その「いいかげん」が廿楽の明確な「思想」なのだ。
「いいかげん」だと、ひとは、そのひとを信用しない。ちょっと変な言い方になるが、たとえば廿楽が「いいかげん」だとする。そうすると、私は廿楽を信用しない。で、どうするか。自分を信用して、自分で考えはじめる。廿楽はこんなことを言っているが、そのままでは信用できない。これはきっとこういうことなんだ、と考えはじめる。
そのことをちょっと反省して見つめなおすと……。(逆の言い方をすると、ともいえるのだが。)
廿楽のことばは、私のことばを鍛え直させる。私のなかのあいまいなものを明確な方向にむけさせる。これは、あくまで「むけさせる」であって、結論がでるわけではないのだが。
で。
ようするに。(私は、ちょっとことばにつまっている……。)
こんなふうに他人のことばに作用し、何かを考えさせるもの--それこそ「思想」(他人の肉体)の魅力なんだなあ。わけがわからない。でも、好き。ということが、人間の、実際に生きているときにはしょっちゅう起きる。そして、何かを好きになったひとは、好きになることで自分が変わっていく。
これって、すごいことでしょ?
廿楽は、それを「これが哲学です、思想です」という感じではなく、なまな、芯だけがある肉体のようにして動かす。
うーん、おもしろい。
宇田川の版画もおもしろい。一連目の「円盤にのって」に刺激された版画が1連目と2連目の間にある。映画「マーズ・アタック」の円盤のようなチープな円盤。それが白で描かれ、まわりは取り囲むような形で、三つ。それが三つ並ぶと、目と口に見える。顔に見える。--変だねえ。宇田川は円盤を描いたの? 顔を描いたの?
ここにも「いいかげん」の魅力がある。
見た人が判断すればいい。「いいかげん」は見た人の判断で「確定」する。いわば「共同作業」だね。
で、ね。
この「共同作業」は、やっぱり「もったいない」という思想につながるんだと思うなあ。自分の労力だけではなく、いっしょに仕事をしている人の時間も「無駄」にしてしまう。それって「もったいない」、つまり「申し訳ない」。
まあ、こんなことをいうとうるさいよね。
なんだか日本ってうす暗いよね
ひまだからあの自動車をおってやりませう
それから
ゆっくり踏みつぶす
どんなにあたたかい汁がでるのか
電人にはわからない
後のことはどうでもいい
動いていよう
電人のくせに「われわれは」とか
「現実は」とか言っている
なんだか嫌味で
電圧的ですね
まあ、私の「読み方」も、うるさいひとつのことにはいるのだけれど。
だから、ここではうるさいとこは言わずに。
どんなにあたたかい汁がでるのか
ここが好き。しかも、「ゆっくり踏みつぶす」のあとに「どんなにあたたかい汁がでるのか」ということばの動きが好き。何か乱暴なこと、暴力的なことがしたいよねえ。その結果何が起きるのか。
「あたたかい汁」か。
暴力(踏みつぶす)の対極にあるものなんだろうなあ。それは踏みつぶすという肉体の力によって、相手から生じる反応。このあたりの「呼吸」のつかみ方、あらわした(手放し方)が、廿楽の魅力だなあ。「いいかげん」なのだけれど、「肉体」の呼吸をもっている。
この「肉体の呼吸」の対極にあるのが「われわれは」とか「現実は」ということばとともにあるものだね。それを廿楽は高圧的、じゃなかった「電圧的」と言っている。
と、まあ、「時事詩」ふうに今回は読んでみました。
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