詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「×」ほか

2012-06-19 10:13:09 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「×」ほか(「交野が原」72、2012年04月01日発行)

 岩佐なを「×」のことばの動きには、何か気持ちの悪いものがある。ひさしぶりに、その気持ち悪さを思い出した。最近は、不思議なことに、岩佐の気持ち悪さになれてしまったのか、あまり気持ち悪いとは感じなかった。逆に快感、と感じたりして、これはよくないなあ。岩佐の感覚を気持ちいいなんていうようになってしまってはダメだぞと思っていたので、今回はちょっと安心(?)。

朝おきると
つかわないじぶんがある
そして
つかえないじぶんがある
手にとってうすむらさきの斑のはいったにくを
親指のはらで丹念にさすって
斑の色をしろにまでたかめる

 「つかわないじぶん」「つかえないじぶん」のほかに、「つかえるじぶん」があって、その「つかえるじぶん」があれこれやっているということなのかもしれないけれど。この「つかわないじぶん」「つかえないじぶん」という分類の仕方、冷静な、科学的な(?)視点と、「手にとってうすむらさきの斑のはいったにくを」という行の関係がとても微妙。「うすむらさき」「にく」というひらがなの表記が、私には、何かぞくってするものがある。なまっぽい。「つかわないじぶん」「つかえないじぶん」という分類は「頭」で仕分ける分類なのだが、「うすむらさき」「にく」は、その分類する頭ではないところで動いている。「はいった」というひらがなもそうだなあ。「はいった」というより、そこに最初からある。最初からあって、「はいった」のではなく「奥から浮き上がってきた」という感覚かなあ。--あ、これは、私の「感覚の意見」。
 この「感覚の意見」を誘う岩佐のことばの動き、その表記が、いやあ、気持ちが悪い。そんな感覚、誘い出されたくない。誘い出されて、岩佐の肉体にぴったり吸い寄せられていくのを感じるはいやだなあ。だって、会ったことはないからわからないが(想像で書くのだが)、岩佐ってぶよっとした肉のおじさんという感じがあるねえ。その肉の感じが「うすむらさきの斑のはいったにく」と自画像に書かれているんだから、あ、離れたい、近づきたくない、と私は思わず思うのだ。(失礼!)
 で、離れたい、近づきたくないと思うのだが、

親指のはらで丹念にさすって
斑の色をしろにまでたかめる

 この不思議な粘着力。「はら」で「さすって」。「丹念に」ということばは漢字で書かれているからさーっとどこかへ消えていくが、「はら」と「さすって」がそれを裏切るように、ぴったりはりついてくる。「さする」というのは、面の接触だよなあ。点の接触じゃない。
 「しろにまでたかめる」の「まで、たかめる」というのは、その面の接触が持続し、その持続の中で白の変化があるということだねえ。
 接触と持続。
 接触と持続--というのが気持ちがいいのは、セックスのときだけ。それ以外はいやだよねえ。たとえば満員電車の、触れたくないからだの接触、その持続なんて、いやでしょ? そのいやな何かを岩佐は気持ちよさそうに、うっとりして書いている。
 吐息、溜息までもらしちゃって。

手にとってうすむらさきの斑のはいったにくを
親指のはらで丹念にさすって
斑の色をしろにまでたかめる
(遠くで風があえいでいますか)
もう少し「あ」と「い」という
ひらがなを書くふうにさすってやれば
しろいところはやんわり

 「溜息」の息のなまなましさを分かりやすくするために、あえて前の部分を重複させて引用したのだけれど、

(遠くで風があえいでいますか)

 この「遠く」って「遠く」ない。ものすごく近い。自分の「肉体」の内部だね。それがもし「遠い」とすれば「頭」から遠いだけ。「にく」そのものの、「肉」にはならない、ひらがなの領域だねえ。
 「あ」とか「い」とか--ああ、溜息では足りなくて、声までもらしちゃって。
 おじさんだろ、しっかりしなさい--というのは、マッチョ思想にそまった叱責か。
 「ひらがなを書くふうに」はふつう「あ」や「い」じゃないね、「な行」の文字じゃないと私は思うけれど、それはただし「さする」とは違うから。
 そうか「さする」ときは「あ」とか「い」か。

 --というより、これは、たとえばセックスだとすると、岩佐のむきあっているのは他者じゃないね。ほんとうの「他者」ではなく、「じぶんのなかの他者」。それを、「しろいところはやんわり」と、溜息、小さくもれる声とともに、うっとり眺めている。

 うっ、気持ち悪い。

 えっ、「誤読」?
 もちろん「誤読」なのだけれど、「誤読」して気持ち悪いと私が言っているだけなのだけれど、そういう「誤読」を誘う力がいいなあ、と私は一方で思う。
 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いというのは、どこかでそれが好きという感じがあって、それに対して私が必死になって抵抗しているのかもしれない。--と感覚の意見は言っています。



 斎藤恵子「耳を澄ませば」の2連目。

生まれたてのつめたさは
わたしの足を火照らせる
ほのあかるい暗がりが広がる

 「つめたさ」が「ほてらせる」というのは矛盾だけれど、こういう矛盾を私の肉体は覚えている。たとえば雪の上を裸足で歩く。だんだん足が熱くなってくる。肉体的には冷たくなっているのだが、感覚的には熱さが内部から発してくる。
 「ほのあかるい」「暗がり」というもの矛盾だね。矛盾だけれど、私の肉体はこういうものを覚えている。
 「頭」で整理すると矛盾。けれど肉体はそれがあることを覚えている。その覚えているものを刺激しながら(覚えているものを刺激されながら)、動いていくことばは、私にはとても納得がゆく。
 岩佐の肉体は、それがそばにあったら困るなあ、と思うが、こういう肉体なら、あ、なつかしいと思う。


 


鏡ノ場
岩佐 なを
思潮社


海と夜祭
斎藤 恵子
思潮社
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