詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋順子「3・11あれから」

2012-06-13 09:07:36 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋順子「3・11あれから」(「歴程」579 、2012年05月15日発行)

 高橋順子「3・11あれから」を読むと、東日本大震災が高橋のなかで詩のことばになるまで時間がかかったことがわかる。季村敏夫が『日々の、すみか』で書いていたように、すべては遅れてやってくる。--すぎてしまってから、わかるようになる。

古里の家の柱の上のほうに
黒い波が来たしるしがあったから
ゆめではなかった
けれどさめないわるいゆめのようだった
ゆめは海が見るゆめ
海のための

 1連目の最後の、

ゆめは海が見るゆめ
海のための

 を私は何度も何度も繰り返し読んだ。
 私は震災の被害者ではないし、また親族に被害者がいるわけではないので、実感が高橋の感じていることとは違うかもしれないが--違うからこそ、感想を書いて置きたい。
 津波--その瞬間、海は何を感じていたのか。
 こういうことは、考えなくてもいいことかもしれない。けれど、高橋の詩を読むと、考えてしまう。それは私は海が好きだからだ。私は体質の問題もあって、いまは夏の海へは近づかないことにしているが、海が好きでたまらない。
 人が夢を見るなら、海も夢を見る。
 どんな夢?
 そう考えたとき、私は海の夢について考えてこなかったことがわかる。
 海の夢というタイトルで詩を書いたとする。そのとき私が書くのは「海の夢」ではなく、海に託した「私の夢」だ。「私のための海の夢」だ。
 でも、高橋は、

海のための

 と書いている。
 ああ、そうなんだ。
 海だって、自分のための夢を見たいのだ。
 津波となって、高橋の古里の家の柱の上の方まで押し寄せてきた。それはいったい何のためだったのか。海がしたかったのは、どういうことだったのだろう。もし津波がなかったら、海はどんな夢を見ていただろうか。
 わからない。
 けれど、そのわからないものがある--ということが、いま、やっとはわかった。
 そのことを高橋は書いている。

 海の夢はわからない。わからないけれど、「黒い波が来たしるしがあった」から、海はそこまで来たことを覚えているはずだ。そのことは、これから先の海の夢にどんなふうに影響するだろうか。海は夢のなかで高橋の家の柱を思い出すだろうか。
 高橋は、きっと海に思い出して夢を見てもらいたいと思っていると思う。海がそのとき感じたことが、ずーっと海のなかで残っていればいいと願っていると思う。そこまでやってきた海と、記憶を、そして夢を共有したいのだ。
 ひとつのことがら。そのことについて、思うことはそれぞれにある。高橋には高橋の思いがある。海には海の思いがある。それは違っていてもいい。けれど、そこまで来たという事実から、いっしょに何かを感じたい。感じることが違っていてもいい。違っていても、そのとき「思う」という時間のなかで、「ここまで来た」という事実が事実になる。
 海の夢、海のための海の夢。
 たしかな「他者」とそのときに触れあうのだ。

 海は、新しく海になる。

気流が悪くなって録音テープが途切れる
ザーッと通信不可能の音
不可能の音 あれこそが
海の音
海の音はわたしの頭の中で海馬となって嘶いている
 *
実家の庭を海がのぞいていた
海にはのぞかれないようにしなければ

 これは、新しく出会った海。「海のための」夢を見ているはずの海。「不可能」とは、私とはまったく違うということだ。「他人」ということだ。だから「海にはのぞかれないようにしなければ」という生々しい感覚となって、そこに存在する。
 でも、これはあくまで高橋の海。高橋が「他人」と感じる海。
 海は、ほんとうは違うかもしれない。海は違うことを見ているかもしれない。
 たとえば、

海は人の居住区なんて知らない
魚は魚の居住区もべつに定めてなんかいない
定めるとは日と月の仕事である
と海は考えている

 でも、これも海の考えではなく、「高橋が考えた海」の考え。
 どこまでいっても、これはかわらない。
 かわらないから、そこに「海」がある。

しばらく鳴らなかった近所の電子オルガンが聞こえる
「会わなきゃよかった」と弾いて 同じところで間違える
繰り返しがこんなに新鮮だとは思わなかった

 ふいにあらわれる、この「日常」が美しい。「繰り返し」とは「繰り返せる」ということなのかもしれない。ようやく「日常」を繰り返せるところまでもどってきた。そうして、繰り返してみると、実は自分とは違うところに「海」がある、ということに気がついたということかもしれない。
 「海」がこれから高橋の中でどう変わっていくかわからない。けれど、高橋は「他人」としての海に出合いながら、やはり変わっていくのだと思う。
 「遅れて」変わっていく。そこに私は「真実」を感じる。真実としか呼べない見知らぬものを感じる。


 私は間違えたかもしれない。いや、完全に間違えた。
 感想を書いているうちに、知らず知らずに違う道を歩いていた。最初に書いたことが、なぜか、遠くなる。

海のための

 海のために、だれかが海の夢をことばにしなくてはならない。「他人」の夢をことばにしなくてはならない。
 そこまで高橋のことばは動いたが、やはりそれから先は難しかった。どうしても高橋の夢、高橋の記憶になってしまう。海のための記憶でも、海のための夢--つまり海自身の記憶や夢ではない。
 それはあたりまえのことなのだが。
 あたりまえのことなのだが、そのあたりまえのことの前で、高橋はたたずんでいる。たちどまっている。
 その瞬間の、不思議な「自己離脱(エクスタシー)」。
 それが、それ以後の高橋のことばを揺さぶっている--そのことを書くべきだったのだと思う。
 書き直すべきか。
 でも、書き直せないだろう。書き直すとまたちがった感想になる。きっと。ことばとはそういうものだと思う。



あさって歯医者さんに行こう
高橋 順子
デコ
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