藤維夫「遠い花」ほか(「SEED」29、2012年06月15日発行)
藤維夫「遠い花」を読み、何か書こうと思った。思ったのだけれど、その何かが、うまく近づいてくれない。
3連目の「二三日して乱れた心が起き出し/ふいに防風林の山なみのひろい展望に出よう」という2行のなかにある「主語」の省略が、それこそ「遠い」何かを感じさせる。
「乱れた心が起き出し」は「乱れていた心が正常(?)になって」ということなのだろうか。それとも「正常だった心が乱れはじめた」ということなのか。わからない。正常になったから、「ひろい展望」がほしくなったのか、乱れたから「ひろい展望」がほしくなったのか。--どちらも、ありうる。
何か、詩には、そういう両義性があって、それが一種の「パラレル」な構造をつくりだす。「パラレル」というのは「平行」ということになるのだろうけれど……私はちょっと別な意味でつかっている。
「平行」して何かが存在する。それは、まあ、平面的なことになってしまうかもしれないけれど、私は何かが「平行」するとき、そのふたつの間に「隙間」(空間)があるということがおもしろいと思うのだ。
間。ま。魔。
平行をつくりだす「もの」からはみだしたものが、ふたつの「もの」のあいだで「もの」から自由になって動く。そして、何か、いままでそこには存在しなかったものになって動いていく。--魔、というのは、その変化のことか。それともそこで生まれたもののことか。よくわからないが、「間」と何かしら関係がある。
こういうのは、私のことばで言うと「感覚の意見」であって、論理的な考証でも分析でもないのだけれど……。
そう思って読み返すと、たとえば2連目。
この「陽」と「つめたさ」の矛盾。ふつうは陽はあたたかい。でも、それが「つめたさ」としてあらわれてくるとき、何か私たちの知らないものが動いているのである。
それは「遠い花」(1連目)と「とおい視線」(2連目)の「遠い-とおい」の「間」を動いている何かが噴出してきたのかもしれない。
「遠い-とおい」の「間」は、藤にしかわからない。そして、藤にしかわからないからこそ、私は「わかる」と感じる。私の肉体のなかに、漢字で「遠い」と書くときと、「とおい」と音そのものだけを喉でうごかし耳で聞くときの「間」のようなものができあがり、その「間」が私の何かを誘っている。その誘いを感じる。それを「わかる」と私は言ってみるのだが、まあ、これも「感覚の意見」だね。
で、「遠い-とおい」の「間」のなかで、陽がつめたくなるとき、「永遠の佇まいのふかさ」の「ふかさ」がずしんに肉体に響いてくる。「永遠の佇まい」というような抽象的なことは何が何だかわからないが、そのあとの「ふかさ」が、そのひらがなで書かれた何かが、あ、それを見たことがあると感じてしまうのである。
というようなことを思っている……。
この1連目の2行目は、「今日一日の風貌にたえていると」ではないか、と思ってしまうのだ。「こたえている」ではなく「たえている(耐えている)」。
というのは、実は、正確ではなくて……。
私は「たえている」と読みはじめて、引用するとき、あ、「こたえている」か、と驚き、その驚きのなかで、最初に書こうと思っていたことが消えてしまった。でも、その消えてしまったことをなんとか書きたいと思い、そのことを隠しながら、ここまで書いてきたのである。
「たえている」だと「どうしてもという一瞬」「動くことができない」が近づきすぎておもしろくないのかもしれないけれど、耐えて、動かないからこそ、幻の動きに肉体が揺さぶられ、そこに「間」ができ、「魔」にかわるという気がする。それが「乱れた心が起き出し」という具合につながっていくと、「わたし」という主語が肉体になってくれるのだけれど。
まあ、私の「誤読」だね。
「夢の比喩のなかで」の書き出し、
の3行目が、とても好きである。
それから2連目、
の2行目もいいなあ。
「空しか」の「しか」と「しかたなく」の「しか」は違うものだけれど、同じだっていいよね。同じだと錯覚したって、いいよね。学校の国語の授業じゃないのだから。
で、それを同じだと錯覚すると……。
「あるとき」の「ある」、「浮かんでなくて」の「なく」が、何といえばいいのかなあ、「同じもの」に感じられる。「ある」は「ない」、「ない」は「ある」。そのふたつの間で、ゆらぐもの。
魔。
見えてこない?
まあ、それは「夢のなかの比喩」(私は、こんなふうにして間違えるのである)みたいなものだ。これも「感覚の意見」である。
藤維夫「遠い花」を読み、何か書こうと思った。思ったのだけれど、その何かが、うまく近づいてくれない。
ずっと遠い花が見えて
今日一日の風貌にこたえている
どうしてもという一瞬もあったはずで
わたしは動くことができない
風も語りかけて揺れたようだったが
とおい視線の渦のなかにいて
陽にさらされるつめたさではなく
もう永遠の佇まいのふかさにしまわれている
二三日して乱れた心が起き出し
ふいに防風林の山なみのひろい展望に出よう
待ちぼうけのような熱い炎
そばにひとがじっといるだけだ
3連目の「二三日して乱れた心が起き出し/ふいに防風林の山なみのひろい展望に出よう」という2行のなかにある「主語」の省略が、それこそ「遠い」何かを感じさせる。
「乱れた心が起き出し」は「乱れていた心が正常(?)になって」ということなのだろうか。それとも「正常だった心が乱れはじめた」ということなのか。わからない。正常になったから、「ひろい展望」がほしくなったのか、乱れたから「ひろい展望」がほしくなったのか。--どちらも、ありうる。
何か、詩には、そういう両義性があって、それが一種の「パラレル」な構造をつくりだす。「パラレル」というのは「平行」ということになるのだろうけれど……私はちょっと別な意味でつかっている。
「平行」して何かが存在する。それは、まあ、平面的なことになってしまうかもしれないけれど、私は何かが「平行」するとき、そのふたつの間に「隙間」(空間)があるということがおもしろいと思うのだ。
間。ま。魔。
平行をつくりだす「もの」からはみだしたものが、ふたつの「もの」のあいだで「もの」から自由になって動く。そして、何か、いままでそこには存在しなかったものになって動いていく。--魔、というのは、その変化のことか。それともそこで生まれたもののことか。よくわからないが、「間」と何かしら関係がある。
こういうのは、私のことばで言うと「感覚の意見」であって、論理的な考証でも分析でもないのだけれど……。
そう思って読み返すと、たとえば2連目。
陽にさらされるつめたさはなく
この「陽」と「つめたさ」の矛盾。ふつうは陽はあたたかい。でも、それが「つめたさ」としてあらわれてくるとき、何か私たちの知らないものが動いているのである。
それは「遠い花」(1連目)と「とおい視線」(2連目)の「遠い-とおい」の「間」を動いている何かが噴出してきたのかもしれない。
「遠い-とおい」の「間」は、藤にしかわからない。そして、藤にしかわからないからこそ、私は「わかる」と感じる。私の肉体のなかに、漢字で「遠い」と書くときと、「とおい」と音そのものだけを喉でうごかし耳で聞くときの「間」のようなものができあがり、その「間」が私の何かを誘っている。その誘いを感じる。それを「わかる」と私は言ってみるのだが、まあ、これも「感覚の意見」だね。
で、「遠い-とおい」の「間」のなかで、陽がつめたくなるとき、「永遠の佇まいのふかさ」の「ふかさ」がずしんに肉体に響いてくる。「永遠の佇まい」というような抽象的なことは何が何だかわからないが、そのあとの「ふかさ」が、そのひらがなで書かれた何かが、あ、それを見たことがあると感じてしまうのである。
というようなことを思っている……。
ずっと遠い花が見えて
今日一日の風貌にこたえている
どうしてもという一瞬もあったはずで
わたしは動くことができない
この1連目の2行目は、「今日一日の風貌にたえていると」ではないか、と思ってしまうのだ。「こたえている」ではなく「たえている(耐えている)」。
というのは、実は、正確ではなくて……。
私は「たえている」と読みはじめて、引用するとき、あ、「こたえている」か、と驚き、その驚きのなかで、最初に書こうと思っていたことが消えてしまった。でも、その消えてしまったことをなんとか書きたいと思い、そのことを隠しながら、ここまで書いてきたのである。
「たえている」だと「どうしてもという一瞬」「動くことができない」が近づきすぎておもしろくないのかもしれないけれど、耐えて、動かないからこそ、幻の動きに肉体が揺さぶられ、そこに「間」ができ、「魔」にかわるという気がする。それが「乱れた心が起き出し」という具合につながっていくと、「わたし」という主語が肉体になってくれるのだけれど。
まあ、私の「誤読」だね。
「夢の比喩のなかで」の書き出し、
ふるい歳月が去り
空はくらく閉じられる
しかたなく何かを思い出すことだってあるとき
の3行目が、とても好きである。
それから2連目、
さしずめ反対側の家の裏には
おいてきぼりの白昼の空しか浮かんでなくて
の2行目もいいなあ。
「空しか」の「しか」と「しかたなく」の「しか」は違うものだけれど、同じだっていいよね。同じだと錯覚したって、いいよね。学校の国語の授業じゃないのだから。
で、それを同じだと錯覚すると……。
「あるとき」の「ある」、「浮かんでなくて」の「なく」が、何といえばいいのかなあ、「同じもの」に感じられる。「ある」は「ない」、「ない」は「ある」。そのふたつの間で、ゆらぐもの。
魔。
見えてこない?
まあ、それは「夢のなかの比喩」(私は、こんなふうにして間違えるのである)みたいなものだ。これも「感覚の意見」である。
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谷内 修三 | |
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