田島安江「ゾウガメ」(現代詩講座@ リードカフェ、2012年06月27日)
「思想」はどこにあるか--というのは、なかなか難しい問題だけれど、私はおおげさなことばではなく、小さなことば、無意識のことばのなかに、思想を探すのが好きだ。
田島安江「ゾウガメ」は、月に一回、カフェで開いている「現代詩講座」のときの作品。
出席者の感想は、
「読んで胸がきゅんとした」
「1連目、突然、カメが出でくる。それが好き」
「発想がいい」
「タイトルはゾウガメだけれど、最初はカメということばで登場するのがいい」
というような感じだった。
田島さんは、「この詩はスケッチで、まだ作品としては完成していない云々」のような発言をした。特に3連目「夜のニュースでこの地球上に生息する/最後のゾウガメが死んだことを知った」が事実をそのまま書いているので、不満を持っている(?)、「書いていいかどうか悩んだ」というようなことを言った。
これに対しては、
「すっきりしていて読みやすい」
「3連目の2行が特に問題だとは思わない」
私の第一印象は、ことばの運びにむりがなく、とてもスムーズで読みやすく、なおかつ印象が鮮烈と感じた。とてもいい作品だと思った。
で、「いいね、いいね」だけでは、詩がどこにあるのか、どのことばに注目すれば、この詩の印象がより強く胸に刻まれるのか--ということに焦点をしぼって作品を読み直してみた。
この作品で私が取り上げたことばは1連目の「なんの違和感も覚えなかった」の「なんの」である。
ほかにも、「じっとみつめる」の「じっと」、「たしかに突然」の「たしかに」など、無造作に書かれたことばがある。田島さんが「スケッチ」と呼んでいるのは、そういう無造作の部分、詩的操作(?)がほどこされていないことばがたくさんあるという思いのためだと感じた。
そして、この無造作のことばのなかでも、特に無造作なのが、「なんの」だと私は感じた。そこで、質問。
というのは、ちょっと意地悪すぎたようで、答えが出てこなかった。書いた田島さんも、まさかそんなことばがこの作品のなかで取り上げられるとは思っていなかったようだ。
私も、そう思う。
(このあと、私はちょおしたミスをしてしまった。回答が期待通りの部分に触れたので、そのあとさらに質問して、受講生の読みが進むのをまつ--というのではなく、私が喋りすぎた。で、そのしゃべりすぎたというのは……)
「いつも」と同じだったから、「違和感」がなかった。単に違和感がないのではなく、「いつも」と同じだから、「なんの」という一種の強調形(違和感を修飾することば)がついてしまった。
「いつも」というのは、繰り返し。繰り返しのなかには、いま見た一瞬のできごとではなく、それから先のことも含まれる。連続する日常の時間が含まれる。
この詩の場合、「ああすぐに帰ってくるのだなあと思った」の「すぐに」帰ってくるが、繰り返しの日常、繰り返しの「未来」である。
いつもは、出でいってもすぐに帰ってくる。このすぐには、まあ、その日のうちにくらいの意味だろう。どこかへ行きっぱなしになるというわけではないというくらいの意味だろう。
そういう暮らしに田島さんは「違和感」を感じていない。
その「違和感」のなさと、カメがいるということに対する「違和感」のなさがつながっている。
ある一瞬のできごと(カメをいる、と気づいたこと)を、一瞬ではなく、暮らしの繰り返される時間のなかにおいてみると、それは「いつも」の風景のように感じられる。
田島さんは、「いつも」何かを、その一瞬ではなく、暮らしのなかの時間においてみつめなおす、とらえなおすという詩人なのだ。田島さんのことばの肉体は、暮らしのなかの時間をとおり、「いま」だけではなく、それを「未来」「過去」と結びつけながら消化していく。田島さん自身の肉体がそういう構造(?)を生きているということだろう。
そういうことが、この「なんの」という何気ないことばのなかに見える。
「なんの」は田島さんが意識して書いたことばではない。無意識に書いたことばである。そして、そういうことばは、往々にして「意味」がない。たとえば、「なんの違和感がなかった」から「なんの」を省略しても、この1行のもっている「意味」はかわらない。「なんの」には「意味」が付加されていない。
しかし、だからこそ大切。
そこには「意味」にできない田島さんの「肉体」そのものが関係している。「なんの」は田島さんの肉体そのものなのである。思想そのものなのである。「いま」を「過去-いま-未来」と結びつけてとらえる生き方が田島さんそのものになっていることを告げる重要なことばなのである。
「過去-いま-未来」。そういう時間のなかに、たとえば3連目の「名前をもらって」ということばが入ってくる。「名前をもらった」過去が浮かび上がり、同時に、ある存在に「名前をつける」という行為の時間が深くかかわってくる。「名前」をつけるのは、その対象が特別な存在だからである。
たとえば近くの公園にいるカメの一匹一匹にだれも名前をつけない。「名前」をつける瞬間から、私たちはその存在と親密にかかわり、その存在の未来をも自分の未来と結びつけて見てしまうものである。
「ロンサム・ジョージ」と名前をつけたとき、ひとはそのカメの孤独ないまだけを見ているわけではない。「なんの」意識もないまま、つまり無意識のまま、それがどうなるかを見てしまっている。「無意識」とは、そこに意識が存在しないというのではなく、意識として意識されないというだけで、ほんとうは存在している。意識として意識されないというのは、意識が意識の領域にあるのではなく、「肉体」の領域に入りこみ、「肉体」に隠れている--見えなくなっているというだけのことである。
「ロンサム・ジョージ」という名前をもらったとき、カメにその未来(だれにも会えない)がわかっているように、名前をつけた人にもそれがわかっている。
名前をつけられたもの-名前をつけた人。そこでは「未来」が共有されている。そのことに私たちは「なんの違和感」も覚えないまま、そのことばを読んでしまう。
だから、そこで、立ち止まって、そのことばを読み直す。--あるいは、私の大好きな表現でいえば「誤読」しなおす。
そのとき、詩は動く。
「未来」が共有されたあと、では、ひとは(詩人は)どうなるか。
「まっすぐにわたしを見たカメ」は「わたし」になってしまう。そのカメの「眼がわたしのなかで消えない」のは、「わたし」がカメになったしまったからである。
カメとわたしは同じ存在--区別できない存在になった。
カメがわたしであり、わたしがカメなのだから、「カメがあらわれなくなった」というのは当然のことであり、また「カメの/眼」が私のなかにある、というのも当然のことなのである。
ことばを動かすと、人はそれまでの人ではなくなる。ことばを書くまえと書いたあとでは、人は違ってしまう。そして、その変化に、書いた人は「なんの違和感も覚えない」のがふつうである。自分の肉体のなかで無意識として存在しているものが、無意識のまま動いただけなのだから。
でも、そういう運動をみると、人は(私は)感動する。
で、その「無意識」の部分をさぐっていく。そうして、そこに肉体をつかまえる。そうすると、うれしくなる。
この講座のとき、田島さんは私の隣に座っていて、私の言っていること、そのひとことひとことに驚いていた。私のことばの肉体が、田島さんのことばの肉体に触れて、そのために田島さんのことばの肉体がびっくりすると同時に、田島さんの肉体そのものも(無意識も)驚いている。
--これって、ことばのセックスです。
と書いてしまうと、まあ、セクハラ(セックスの強要?)になるのかなあ。
でも、まあ、私が詩を読むときやっているのは、そういうことです。
どこに触ると、どうことばが反応するのか。私のことばも変われば、そこに書かれていることばも変わる。どちらも自分が自分でなくなる。エクスタシーというと、ほんとうにセックスそのものになってしまうけれど、そういうとこを「ことば」の場で楽しむというのが、詩のよろこび、と私は思っている。
「思想」はどこにあるか--というのは、なかなか難しい問題だけれど、私はおおげさなことばではなく、小さなことば、無意識のことばのなかに、思想を探すのが好きだ。
田島安江「ゾウガメ」は、月に一回、カフェで開いている「現代詩講座」のときの作品。
朝目覚めると枕元にカメがいた
わたしをうかがうようにじっとみつめている
たしかに突然だったけれど
どういうわけか
わたしはその大きなカメがそこにいることに
なんの違和感も覚えなかった
あたふたと起きだし洋服を着て
洗面所の鏡の前に立つと
鏡の奥に
ちらっと歩いていくカメの姿が見えたけれど
振り向いたときにはもう姿はなかった
いつもいっしょに暮らしている人のようだったから
ああすぐに帰ってくるのだなあと思った
夜のニュースでこの地球上に生息する
最後のゾウガメが死んだことを知った
ガラパゴスという
南の島にいたのだ
地球上でたった一人になったゾウダメ
「ロンサム・ジョージ」という名前をもらって
最後までただひとりで生きた
彼はもう
だれにも会えないとわかっていたにちがいない
あれからカメはあらわれなくなった
まっすぐわたしを見たカメの
眼がわたしのなかで消えない
出席者の感想は、
「読んで胸がきゅんとした」
「1連目、突然、カメが出でくる。それが好き」
「発想がいい」
「タイトルはゾウガメだけれど、最初はカメということばで登場するのがいい」
というような感じだった。
田島さんは、「この詩はスケッチで、まだ作品としては完成していない云々」のような発言をした。特に3連目「夜のニュースでこの地球上に生息する/最後のゾウガメが死んだことを知った」が事実をそのまま書いているので、不満を持っている(?)、「書いていいかどうか悩んだ」というようなことを言った。
これに対しては、
「すっきりしていて読みやすい」
「3連目の2行が特に問題だとは思わない」
私の第一印象は、ことばの運びにむりがなく、とてもスムーズで読みやすく、なおかつ印象が鮮烈と感じた。とてもいい作品だと思った。
で、「いいね、いいね」だけでは、詩がどこにあるのか、どのことばに注目すれば、この詩の印象がより強く胸に刻まれるのか--ということに焦点をしぼって作品を読み直してみた。
この作品で私が取り上げたことばは1連目の「なんの違和感も覚えなかった」の「なんの」である。
ほかにも、「じっとみつめる」の「じっと」、「たしかに突然」の「たしかに」など、無造作に書かれたことばがある。田島さんが「スケッチ」と呼んでいるのは、そういう無造作の部分、詩的操作(?)がほどこされていないことばがたくさんあるという思いのためだと感じた。
そして、この無造作のことばのなかでも、特に無造作なのが、「なんの」だと私は感じた。そこで、質問。
質問 「なんの」を自分のことばでいいなおすと、どうなる?
というのは、ちょっと意地悪すぎたようで、答えが出てこなかった。書いた田島さんも、まさかそんなことばがこの作品のなかで取り上げられるとは思っていなかったようだ。
質問 ちょっと質問の仕方をかえますね。
「なんの」に対応することばを、この詩のなかから探すと、どこかにない?
受講生 「いつもいっしょに暮らしている人のようだったから
ああすぐに帰ってくるのだなあと思った」かなあ。
私も、そう思う。
(このあと、私はちょおしたミスをしてしまった。回答が期待通りの部分に触れたので、そのあとさらに質問して、受講生の読みが進むのをまつ--というのではなく、私が喋りすぎた。で、そのしゃべりすぎたというのは……)
「いつも」と同じだったから、「違和感」がなかった。単に違和感がないのではなく、「いつも」と同じだから、「なんの」という一種の強調形(違和感を修飾することば)がついてしまった。
「いつも」というのは、繰り返し。繰り返しのなかには、いま見た一瞬のできごとではなく、それから先のことも含まれる。連続する日常の時間が含まれる。
この詩の場合、「ああすぐに帰ってくるのだなあと思った」の「すぐに」帰ってくるが、繰り返しの日常、繰り返しの「未来」である。
いつもは、出でいってもすぐに帰ってくる。このすぐには、まあ、その日のうちにくらいの意味だろう。どこかへ行きっぱなしになるというわけではないというくらいの意味だろう。
そういう暮らしに田島さんは「違和感」を感じていない。
その「違和感」のなさと、カメがいるということに対する「違和感」のなさがつながっている。
ある一瞬のできごと(カメをいる、と気づいたこと)を、一瞬ではなく、暮らしの繰り返される時間のなかにおいてみると、それは「いつも」の風景のように感じられる。
田島さんは、「いつも」何かを、その一瞬ではなく、暮らしのなかの時間においてみつめなおす、とらえなおすという詩人なのだ。田島さんのことばの肉体は、暮らしのなかの時間をとおり、「いま」だけではなく、それを「未来」「過去」と結びつけながら消化していく。田島さん自身の肉体がそういう構造(?)を生きているということだろう。
そういうことが、この「なんの」という何気ないことばのなかに見える。
「なんの」は田島さんが意識して書いたことばではない。無意識に書いたことばである。そして、そういうことばは、往々にして「意味」がない。たとえば、「なんの違和感がなかった」から「なんの」を省略しても、この1行のもっている「意味」はかわらない。「なんの」には「意味」が付加されていない。
しかし、だからこそ大切。
そこには「意味」にできない田島さんの「肉体」そのものが関係している。「なんの」は田島さんの肉体そのものなのである。思想そのものなのである。「いま」を「過去-いま-未来」と結びつけてとらえる生き方が田島さんそのものになっていることを告げる重要なことばなのである。
「過去-いま-未来」。そういう時間のなかに、たとえば3連目の「名前をもらって」ということばが入ってくる。「名前をもらった」過去が浮かび上がり、同時に、ある存在に「名前をつける」という行為の時間が深くかかわってくる。「名前」をつけるのは、その対象が特別な存在だからである。
たとえば近くの公園にいるカメの一匹一匹にだれも名前をつけない。「名前」をつける瞬間から、私たちはその存在と親密にかかわり、その存在の未来をも自分の未来と結びつけて見てしまうものである。
「ロンサム・ジョージ」と名前をつけたとき、ひとはそのカメの孤独ないまだけを見ているわけではない。「なんの」意識もないまま、つまり無意識のまま、それがどうなるかを見てしまっている。「無意識」とは、そこに意識が存在しないというのではなく、意識として意識されないというだけで、ほんとうは存在している。意識として意識されないというのは、意識が意識の領域にあるのではなく、「肉体」の領域に入りこみ、「肉体」に隠れている--見えなくなっているというだけのことである。
「ロンサム・ジョージ」という名前をもらったとき、カメにその未来(だれにも会えない)がわかっているように、名前をつけた人にもそれがわかっている。
名前をつけられたもの-名前をつけた人。そこでは「未来」が共有されている。そのことに私たちは「なんの違和感」も覚えないまま、そのことばを読んでしまう。
だから、そこで、立ち止まって、そのことばを読み直す。--あるいは、私の大好きな表現でいえば「誤読」しなおす。
そのとき、詩は動く。
「未来」が共有されたあと、では、ひとは(詩人は)どうなるか。
あれからカメはあらわれなくなった
まっすぐわたしを見たカメの
眼がわたしのなかで消えない
「まっすぐにわたしを見たカメ」は「わたし」になってしまう。そのカメの「眼がわたしのなかで消えない」のは、「わたし」がカメになったしまったからである。
カメとわたしは同じ存在--区別できない存在になった。
カメがわたしであり、わたしがカメなのだから、「カメがあらわれなくなった」というのは当然のことであり、また「カメの/眼」が私のなかにある、というのも当然のことなのである。
ことばを動かすと、人はそれまでの人ではなくなる。ことばを書くまえと書いたあとでは、人は違ってしまう。そして、その変化に、書いた人は「なんの違和感も覚えない」のがふつうである。自分の肉体のなかで無意識として存在しているものが、無意識のまま動いただけなのだから。
でも、そういう運動をみると、人は(私は)感動する。
で、その「無意識」の部分をさぐっていく。そうして、そこに肉体をつかまえる。そうすると、うれしくなる。
この講座のとき、田島さんは私の隣に座っていて、私の言っていること、そのひとことひとことに驚いていた。私のことばの肉体が、田島さんのことばの肉体に触れて、そのために田島さんのことばの肉体がびっくりすると同時に、田島さんの肉体そのものも(無意識も)驚いている。
--これって、ことばのセックスです。
と書いてしまうと、まあ、セクハラ(セックスの強要?)になるのかなあ。
でも、まあ、私が詩を読むときやっているのは、そういうことです。
どこに触ると、どうことばが反応するのか。私のことばも変われば、そこに書かれていることばも変わる。どちらも自分が自分でなくなる。エクスタシーというと、ほんとうにセックスそのものになってしまうけれど、そういうとこを「ことば」の場で楽しむというのが、詩のよろこび、と私は思っている。
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