白井明大『島ぬ恋』(私家版、2012年04月20日発行)
白井明大『島ぬ恋』は珍しいつくりの本である。奥付(?)に、
と書いてある。
とてもていねいに、こころをこめてつくった詩集なのだ。
申し訳ないが、私は、こういうことには一瞬は感心はするけれど、それは長続きはしない。でもまあ、こういうことを書いているのは、そこに白井の「気持ち」があるということをつたえておく必要があると思ったからである。
装丁とは関係なく、私は、ただことばがどう動いているかにしか関心がない。というか、引用し、そのことばについて書きはじめるとき、私は装丁を離れてしまっている。装丁とことばをどう結びつけていいかわからない。いつものように書くしかないのである。
「島ぬ恋」には琉球のことばの動きが影響しているのだろうか。私にはつかみきれない動きがある。
「みてて」「近くてて」。この「て+て」という構文。あとの方の「て」は「……の状態にあるので」という感じなのだろうか。「いま/ここ」という一点が、何といえばいいのだろうか、「一点」ではなく「広がり」を含んでいるように動く。
「君みてて」は目をつむって、いまいっしょにいる君のけはいを見ているめのとき、気配のなかに自分もいて、その気配がふたりをつつみこむ--そのつつみこむ気配の広がりをしっかり引き寄せるというか、放さない感じがある。
君は背後にいて、その息が首筋にかかる--かかるくらい君は近くにいて、その近さが「距離(二人の隔たり)」をつつみこんで動く。首すじから君の息を吐く口までの距離ではなく、ふたりの肉体のすべてをつつんでいる空気、実際の距離を越える広がりを感じさせる。
それが肉体全部を引き寄せるから、そのほんとうの「距離」のなかで、広がりは感情そのものとなって、透明に、美しく動く。
息をのんでしまうなあ。こんな恋をいつしただろうか。「初恋」をとおりこした何かだねえ。「背中澄ませてく」--これは、背中ではないね。いや、背中なのだけれど、背中は背中だけではなく、肌であり、こころであり、心臓、鼓動そのものだ。
だから、
自然に、体が動いていく。体が反応し、こころになる。
で。
「も一度背中澄ませてく」の「く」。これが、また不思議だなあ。「足踏み出してく」の「く」も同じつかい方。「澄ませていく」「踏み出していく」と同じ意味だろうけれど、ことばは意味じゃないからねえ。
ここにもさっきの「て+て」と同じような何か、同じようなのだけれど、実は反対の何かがある。
「て+て」が広がりをとらえるのに対して「連用形+く」は広がりのあるものを凝縮、あるいは濃密にする言えばいいのか。掘り下げるといえばいいのか。物理的(空間的)な「距離」は実際はかわらないのだけれど、こころとこころの距離が「い」がない分だけ縮まった感じがする。
なるほど、恋というのは、二人独自の「空間」の広がりと狭さなのだと、はっきりわかる。
白井はこういう「距離」感覚がとても独特だと思う。そこに引き込まれる。
「葉と空 道と」は、以前感想を書いた気がする。どんな感想か覚えていないが、そのことばにも不思議な距離感がある。そのときとまったく違う感想になるのか、同じ感想を書いてしまうのか、よくわからないが……。まあ、書いてみると。
1行目の「境」。これが白井独特の「空間(距離)」感覚である。この「境」とは何か。まあ、「公園」と道路の「境」などを考えてみればいいのだろうけれど、こういうときふつうは「境」とは言わない。公園に沿う道を、あるいは川に沿う道を。けれど、白井はその「境」を構成している道以外のものを省略し、「境」と書く。このとき、「距離感」が揺らぐでしょ?
「いき」は「行き」なのだが、「境」がありもしない「距離(空間)」を浮かび上がらせるせいだろうか(ありもしない空間--というのは、公園に沿って、川に沿って歩くとき、そこには「境」というものはだれも書き記していないでしょ? フェンスとか具体的な「もの」がないでしょ?)、その「空間」のようなものに誘われて「息」がもれるような、そしてそのもれた息がそのまま「空間」になるような感じがする。
「空間」がだれもみたことがない(だれも書いたことがない)空間にかわっていく。樹木があり、空があり、色づいた葉があるだけなのだが、「とおくかさならないで」、つまり空間を広げながら、「こまかくしるしあっている」、つまり空間内部を綿密に区切りはじめている。
拡大と細分。--遠心と求心、とは違う何か。違うのだけれど、これが白井の遠心・求心なのかもしれない。
この感覚を、白井は、人間に、つまりいっしょに「いま/ここ」に生きているひとにあてはめて暮らしている。--と書けば、前の詩集につながるのかな? この詩集の装丁へのこだわり、職人さんへのこだわりになるのかな?
白井明大『島ぬ恋』は珍しいつくりの本である。奥付(?)に、
この詩集は、内外文字印刷の職人が活版組版、活版印刷し、
美篶堂の職人が一冊一冊手仕事で製本しています。
百五十部を雁垂れ、百五十部をフランス荘とし、少部数、
安慶名清(蕉紙菴)の琉球和紙を用いた別装があります。
と書いてある。
とてもていねいに、こころをこめてつくった詩集なのだ。
申し訳ないが、私は、こういうことには一瞬は感心はするけれど、それは長続きはしない。でもまあ、こういうことを書いているのは、そこに白井の「気持ち」があるということをつたえておく必要があると思ったからである。
装丁とは関係なく、私は、ただことばがどう動いているかにしか関心がない。というか、引用し、そのことばについて書きはじめるとき、私は装丁を離れてしまっている。装丁とことばをどう結びつけていいかわからない。いつものように書くしかないのである。
「島ぬ恋」には琉球のことばの動きが影響しているのだろうか。私にはつかみきれない動きがある。
目つむって
君みてては
吐く一褪せた息の
首すじかすめる位近くてて
「みてて」「近くてて」。この「て+て」という構文。あとの方の「て」は「……の状態にあるので」という感じなのだろうか。「いま/ここ」という一点が、何といえばいいのだろうか、「一点」ではなく「広がり」を含んでいるように動く。
「君みてて」は目をつむって、いまいっしょにいる君のけはいを見ているめのとき、気配のなかに自分もいて、その気配がふたりをつつみこむ--そのつつみこむ気配の広がりをしっかり引き寄せるというか、放さない感じがある。
君は背後にいて、その息が首筋にかかる--かかるくらい君は近くにいて、その近さが「距離(二人の隔たり)」をつつみこんで動く。首すじから君の息を吐く口までの距離ではなく、ふたりの肉体のすべてをつつんでいる空気、実際の距離を越える広がりを感じさせる。
それが肉体全部を引き寄せるから、そのほんとうの「距離」のなかで、広がりは感情そのものとなって、透明に、美しく動く。
後ろへ手差し出すとたん
淡い胸に当たってか
手引っ込め背すじ張って
も一度背中澄ませてく
息をのんでしまうなあ。こんな恋をいつしただろうか。「初恋」をとおりこした何かだねえ。「背中澄ませてく」--これは、背中ではないね。いや、背中なのだけれど、背中は背中だけではなく、肌であり、こころであり、心臓、鼓動そのものだ。
だから、
後ろ隣りのすぐのところに熱もって誰か
いるいて
鼓動がテニスコートのボールの弾み音みたくて鳴る
足踏み出してく
自然に、体が動いていく。体が反応し、こころになる。
で。
「も一度背中澄ませてく」の「く」。これが、また不思議だなあ。「足踏み出してく」の「く」も同じつかい方。「澄ませていく」「踏み出していく」と同じ意味だろうけれど、ことばは意味じゃないからねえ。
ここにもさっきの「て+て」と同じような何か、同じようなのだけれど、実は反対の何かがある。
「て+て」が広がりをとらえるのに対して「連用形+く」は広がりのあるものを凝縮、あるいは濃密にする言えばいいのか。掘り下げるといえばいいのか。物理的(空間的)な「距離」は実際はかわらないのだけれど、こころとこころの距離が「い」がない分だけ縮まった感じがする。
なるほど、恋というのは、二人独自の「空間」の広がりと狭さなのだと、はっきりわかる。
白井はこういう「距離」感覚がとても独特だと思う。そこに引き込まれる。
「葉と空 道と」は、以前感想を書いた気がする。どんな感想か覚えていないが、そのことばにも不思議な距離感がある。そのときとまったく違う感想になるのか、同じ感想を書いてしまうのか、よくわからないが……。まあ、書いてみると。
曲がるほどではなく境に沿う道を
右に左にゆるやかに辿りながらいき
1行目の「境」。これが白井独特の「空間(距離)」感覚である。この「境」とは何か。まあ、「公園」と道路の「境」などを考えてみればいいのだろうけれど、こういうときふつうは「境」とは言わない。公園に沿う道を、あるいは川に沿う道を。けれど、白井はその「境」を構成している道以外のものを省略し、「境」と書く。このとき、「距離感」が揺らぐでしょ?
「いき」は「行き」なのだが、「境」がありもしない「距離(空間)」を浮かび上がらせるせいだろうか(ありもしない空間--というのは、公園に沿って、川に沿って歩くとき、そこには「境」というものはだれも書き記していないでしょ? フェンスとか具体的な「もの」がないでしょ?)、その「空間」のようなものに誘われて「息」がもれるような、そしてそのもれた息がそのまま「空間」になるような感じがする。
みあげたら樹上に生い茂る葉が黄赤く
雲のない空の青さがとおくかさならないで
色と色とが葉のかたちをこまかくしるしあっている
「空間」がだれもみたことがない(だれも書いたことがない)空間にかわっていく。樹木があり、空があり、色づいた葉があるだけなのだが、「とおくかさならないで」、つまり空間を広げながら、「こまかくしるしあっている」、つまり空間内部を綿密に区切りはじめている。
拡大と細分。--遠心と求心、とは違う何か。違うのだけれど、これが白井の遠心・求心なのかもしれない。
この感覚を、白井は、人間に、つまりいっしょに「いま/ここ」に生きているひとにあてはめて暮らしている。--と書けば、前の詩集につながるのかな? この詩集の装丁へのこだわり、職人さんへのこだわりになるのかな?
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白井 明大 | |
思潮社 |