境節『歩く』(思潮社、2012年06月20日発行)
境節『歩く』のことばは、私には無造作に感じられる。そして、無造作には無造作にしか描けない美しいものがある。
「虫の」のなかほど。
境は何を描いているのだろうか。虫を描いているのだと思うが、虫ではなんのことかわからない。まあ、それはいいのだけれど。
「構図なんか気にしなくても」「ただ虫のきもちに近づく」。ここに出てくる「気」と「きもち(気持ち)」は同じかな? 似ているような、似ていないような。
「構図なんか気にしなくても」というのは、「気(持ち)」とはちょっと違う。どちらかというと「頭」だね。
それが「教えられることもなく」ということばを挟んで「きもち」にかわる。
「教える」というのは--「構図を教える」というのは授業。授業で問題にあるのは「頭」。学校で教えるのは、そういう「頭」で判断できることがらだ。「構図」というのは「頭」で整理した存在の配置だね。頭で整理しなおして、「図」を「構える」。「図」を整える。それは、世界を整えるということになるかもしれない。
でも、学校で教えないものもある。
「虫のきもち」。虫にきもちがあること自体、学校からは、逸脱している。教えようがない。
でも、境は、その「きもち」に近づいていく。
教えられないものに、自分の肉体で近づいていく。
そうして、「水たまりに足をとられて」、
この「気」は何?
「構図なんて気にしない」の「気」、「虫のきもち」の「き」、どっちに似ている?
とてもむずかしい。
「気づく」は「発見」である。発見するのはたぶん「頭」である。「発見」したとき、頭の中で「世界の構図」が変化する。世界の構図を変化させるものだけが「発見」と呼ばれる。
でも。
「虫のきもち」の「き」と、この「気づく」の「気」は重ならない? 一体になってしまわない? 「小さな いきもの」の「きもち」そのものになる。「いきもの」という外見を発見するのではなく、その瞬間、境は「いきもの」になっている。こうやって、ここに、こうやっていきているものがいる--ということを発見して、そのいきものそのものになってしまう。
この「気」(きもち)も、きっと学校では教えられない。
教えてもらえない。
それは、自分で「気づく」しかない。自分で見つけ出すしかない。発見するしかない何かである。
さっき「気づく」を「発見」と言い換えたけれど……。
「発見」のなかには「見る」がある。
境は「ちいさな いきもの」を「見つけた(見た)」。それを「気づく」といった。目で見るのではなく、「気持ち(きもち)」で見つけた、見たのである。
このときの「気持ち(きもち)」は「目」ではなく「肉眼」そのものだね。
で、「気持ち(きもち)」という肉体のなかにある「肉眼」そのもので見るから、ふつうは見えないものが、その瞬間に、肉眼を破って出現する。
「神さま」というものを私は信じるわけではないが、あ、たしかに「見える」とすれば、こういう瞬間だなあと実感できる。言い換えると、あ、境はほんとうに「神さま」を見たのである。神さまに気づいたのである。小さないきものに気づくように。そうして、虫のきもちに近づき、虫になるように、一瞬、境自身が「神さま」になってしまったのかもしれない。その「神さま」が、境から飛び出して、そこに一瞬だけ、姿をあらわした。「この辺」というぼんやりとした--けれど境自身にとってははっきりした場所に。
それは、見えるけれど、見えない。見えないけれど、見える。
「ふい」という一瞬。
そして「思い出す」という一瞬。
「思い出す」のは「頭」で思い出すのではないなあ、と思う。「思う」のなかには「気持ち(きもち)」がある。「気」で思い出すのだ。「気」と「思う」は重なる。
これも、教えられるものではなく、自分で見つけ出すものだね。繰り返し繰り返し自分を生きることで。
境の詩には、そういう「気(気持ち・きもち)」が静かに動いている。
境節『歩く』のことばは、私には無造作に感じられる。そして、無造作には無造作にしか描けない美しいものがある。
「虫の」のなかほど。
絵を描くことを忘れていたので
上手には描けない
構図なんて気にしなくても
いいから 力いっぱい描いていく
教えられることもなく
ただ虫のきもちに近づく
水たまりに足をとられて
小さな いきものに気づく
神さまはこの辺にいたのか
あぜに咲いていた野アザミを
ふいに思い出す
境は何を描いているのだろうか。虫を描いているのだと思うが、虫ではなんのことかわからない。まあ、それはいいのだけれど。
「構図なんか気にしなくても」「ただ虫のきもちに近づく」。ここに出てくる「気」と「きもち(気持ち)」は同じかな? 似ているような、似ていないような。
「構図なんか気にしなくても」というのは、「気(持ち)」とはちょっと違う。どちらかというと「頭」だね。
それが「教えられることもなく」ということばを挟んで「きもち」にかわる。
「教える」というのは--「構図を教える」というのは授業。授業で問題にあるのは「頭」。学校で教えるのは、そういう「頭」で判断できることがらだ。「構図」というのは「頭」で整理した存在の配置だね。頭で整理しなおして、「図」を「構える」。「図」を整える。それは、世界を整えるということになるかもしれない。
でも、学校で教えないものもある。
「虫のきもち」。虫にきもちがあること自体、学校からは、逸脱している。教えようがない。
でも、境は、その「きもち」に近づいていく。
教えられないものに、自分の肉体で近づいていく。
そうして、「水たまりに足をとられて」、
小さな いきものに気づく
この「気」は何?
「構図なんて気にしない」の「気」、「虫のきもち」の「き」、どっちに似ている?
とてもむずかしい。
「気づく」は「発見」である。発見するのはたぶん「頭」である。「発見」したとき、頭の中で「世界の構図」が変化する。世界の構図を変化させるものだけが「発見」と呼ばれる。
でも。
「虫のきもち」の「き」と、この「気づく」の「気」は重ならない? 一体になってしまわない? 「小さな いきもの」の「きもち」そのものになる。「いきもの」という外見を発見するのではなく、その瞬間、境は「いきもの」になっている。こうやって、ここに、こうやっていきているものがいる--ということを発見して、そのいきものそのものになってしまう。
この「気」(きもち)も、きっと学校では教えられない。
教えてもらえない。
それは、自分で「気づく」しかない。自分で見つけ出すしかない。発見するしかない何かである。
さっき「気づく」を「発見」と言い換えたけれど……。
「発見」のなかには「見る」がある。
境は「ちいさな いきもの」を「見つけた(見た)」。それを「気づく」といった。目で見るのではなく、「気持ち(きもち)」で見つけた、見たのである。
このときの「気持ち(きもち)」は「目」ではなく「肉眼」そのものだね。
で、「気持ち(きもち)」という肉体のなかにある「肉眼」そのもので見るから、ふつうは見えないものが、その瞬間に、肉眼を破って出現する。
神さまはこの辺にいたのか
「神さま」というものを私は信じるわけではないが、あ、たしかに「見える」とすれば、こういう瞬間だなあと実感できる。言い換えると、あ、境はほんとうに「神さま」を見たのである。神さまに気づいたのである。小さないきものに気づくように。そうして、虫のきもちに近づき、虫になるように、一瞬、境自身が「神さま」になってしまったのかもしれない。その「神さま」が、境から飛び出して、そこに一瞬だけ、姿をあらわした。「この辺」というぼんやりとした--けれど境自身にとってははっきりした場所に。
それは、見えるけれど、見えない。見えないけれど、見える。
あぜに咲いていた野アザミを
ふいに思い出す
「ふい」という一瞬。
そして「思い出す」という一瞬。
「思い出す」のは「頭」で思い出すのではないなあ、と思う。「思う」のなかには「気持ち(きもち)」がある。「気」で思い出すのだ。「気」と「思う」は重なる。
これも、教えられるものではなく、自分で見つけ出すものだね。繰り返し繰り返し自分を生きることで。
境の詩には、そういう「気(気持ち・きもち)」が静かに動いている。
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