山田由紀乃「「で」でも「が」でも」ほか(現代詩講座@ リードカフェ、2012年06月27日)
ことばは、突然、発見される。でも、ほんとうは突然ではない、ということがわかる。山田由紀乃「「で」でも「が」でも」を読む。
「骨均(ほねなら)し」ということばは初めて聞く。山田さんの造語だという。でも、「意味」はわかるなあ。
では、なぜ,その意味がわかったのか。わかったと、勝手に思い込むのか。
3連目に「居場所」ということばが出てくる。山田さんは、「居場所」をしっかり守っている。「居場所」というのは、別のことばで言えば「落ち着き先」である。
ふつうなら(いつもなら)二人掛けの椅子に座っているのに、隣に男が座ったために「居場所」が窮屈になる。「落ち着き先」が定まらず、窮屈に感じる。
そういう思いを無視して、隣り男は自分の「居場所」を整える。骨をぼきぼき鳴らして(?)、凝りをほぐして、それぞれの骨を、それぞれの「落ち着き先」に落ち着かせ、体の緊張をほどく。そうして、体全体の調子を均(なら)す。
ああ、こんなわがままな、自分勝手な男によって、私の席が窮屈になるなら、ふまんがあれこれあるけれど、家の男といっしょの方がよかったかもしれない。なぜって、ほら、わたしの「居場所」がはっきりする。わたしの「落ち着き先」がはっきりしている。
ことばにこだわり、「パンでいい」じゃなくて「パンがいい」と言いなさい--と叱り飛ばせる。それが、山田さんの、わたしと家の男の位置関係(居場所、落ち着き先)である。
そんなふうにがみがみ(?)いうのは、まあ、男が「骨均し」しているのだとすれば、山田さんは「関係均し」をしているということになるのだろう。
人はだれでも、自分の「居場所」(落ち着き先)を、自分の都合のいいように「均す」ということを自然に身につけるものである。
そうして、そういうことを「肉体」で覚えて、それをそのまま動かすと「骨均し」という造語も、なんとも自然な感じに落ち着く。
とても幸福なことばの誕生の瞬間である。
*
福間明子「豆の種を蒔く」。
この3行の、2行目と3行目がとても美しい。
人はだれでも何かを言おうとして、言い切れないものを自分の「肉体」のなかに残してしまう。そうして、その「肉体」のなかに残ったものをなんとかしてもう一度外に出す。山田さんの詩では「居場所」が「落ち着き先」と言いなおされて、「肉体」のなかに取り残されたものが外に出ることができた。
福間さんの作品では「淋しい雨」の「淋しい」が「想いだけが煩わしくはためいている」と言いなおされている。これは、肉体の深い部分を刺激するとてもいい表現だ。「淋しさ」のなかには「煩わしい」ものがたしかにあると思う。「淋しさ」は「煩わしさ」だと思う。「想い」の「ざわめき」。想いの「居場所」(落ち着き先)がはっきりしないとき、人は淋しい。
山田さんの詩と福間さんの詩には関係はないのだが、いっしょに読むと、そういうことを感じる。
ひとりで詩を読んでいるときは、まあ、こういう出合いはない。たまたまいっしょに二人の作品を読むという時間があったから、そこで二人のことばが出会って、私のなかでそういう「誤読」を誘う。
ひとといっしょに詩を読むというのは、案外、おもしろいものがあるものだと思った。
ことばは、突然、発見される。でも、ほんとうは突然ではない、ということがわかる。山田由紀乃「「で」でも「が」でも」を読む。
いつもは二人掛けに座る
ゆったりペース
それが楽しみなJRだ
その席の隣が埋まった
骨太の男が座ったので
突然きゅうくつ
同じ姿勢でいるわたしてのに
きゅっと小さく縮んでしまう
男は体中の骨に居場所を与えようと
首 肩 腕 背骨 腰 脚と
びくびく動かし
落ち着き先を探している
気になる
ヒザノ開閉
小刻みに揺する足
手のひらを体中にこすりつける
「お留守番頼むね」
「わっかりました」
と答えたのはテレビの九官鳥
「また出かけるのか」
とこたえたのは家(うち)のおとこ
ご飯がいいか パンがいいか
パンでいいとおとこが言う
「でじゃなくてがといって」
おんなは言葉を叩き固めて出て来たが
こんなに窮屈なら
「で」でも「が」でも
家の男と出かけたらよかったなあ
ででもがでもない男
骨均(ほねなら)しを終えたひろばの
なかにいる
「骨均(ほねなら)し」ということばは初めて聞く。山田さんの造語だという。でも、「意味」はわかるなあ。
では、なぜ,その意味がわかったのか。わかったと、勝手に思い込むのか。
3連目に「居場所」ということばが出てくる。山田さんは、「居場所」をしっかり守っている。「居場所」というのは、別のことばで言えば「落ち着き先」である。
ふつうなら(いつもなら)二人掛けの椅子に座っているのに、隣に男が座ったために「居場所」が窮屈になる。「落ち着き先」が定まらず、窮屈に感じる。
そういう思いを無視して、隣り男は自分の「居場所」を整える。骨をぼきぼき鳴らして(?)、凝りをほぐして、それぞれの骨を、それぞれの「落ち着き先」に落ち着かせ、体の緊張をほどく。そうして、体全体の調子を均(なら)す。
ああ、こんなわがままな、自分勝手な男によって、私の席が窮屈になるなら、ふまんがあれこれあるけれど、家の男といっしょの方がよかったかもしれない。なぜって、ほら、わたしの「居場所」がはっきりする。わたしの「落ち着き先」がはっきりしている。
ことばにこだわり、「パンでいい」じゃなくて「パンがいい」と言いなさい--と叱り飛ばせる。それが、山田さんの、わたしと家の男の位置関係(居場所、落ち着き先)である。
そんなふうにがみがみ(?)いうのは、まあ、男が「骨均し」しているのだとすれば、山田さんは「関係均し」をしているということになるのだろう。
人はだれでも、自分の「居場所」(落ち着き先)を、自分の都合のいいように「均す」ということを自然に身につけるものである。
そうして、そういうことを「肉体」で覚えて、それをそのまま動かすと「骨均し」という造語も、なんとも自然な感じに落ち着く。
とても幸福なことばの誕生の瞬間である。
*
福間明子「豆の種を蒔く」。
両手を広げる形の半島の突端では
今も変わらず祈りのような淋しい雨が降るのだ
そこでは想いだけが煩わしくはためいているが
この3行の、2行目と3行目がとても美しい。
人はだれでも何かを言おうとして、言い切れないものを自分の「肉体」のなかに残してしまう。そうして、その「肉体」のなかに残ったものをなんとかしてもう一度外に出す。山田さんの詩では「居場所」が「落ち着き先」と言いなおされて、「肉体」のなかに取り残されたものが外に出ることができた。
福間さんの作品では「淋しい雨」の「淋しい」が「想いだけが煩わしくはためいている」と言いなおされている。これは、肉体の深い部分を刺激するとてもいい表現だ。「淋しさ」のなかには「煩わしい」ものがたしかにあると思う。「淋しさ」は「煩わしさ」だと思う。「想い」の「ざわめき」。想いの「居場所」(落ち着き先)がはっきりしないとき、人は淋しい。
山田さんの詩と福間さんの詩には関係はないのだが、いっしょに読むと、そういうことを感じる。
ひとりで詩を読んでいるときは、まあ、こういう出合いはない。たまたまいっしょに二人の作品を読むという時間があったから、そこで二人のことばが出会って、私のなかでそういう「誤読」を誘う。
ひとといっしょに詩を読むというのは、案外、おもしろいものがあるものだと思った。