詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小笠原鳥類「落馬ではない。なぜか知らないが気絶して倒れた……」

2012-06-06 10:09:55 | 詩(雑誌・同人誌)
小笠原鳥類「落馬ではない。なぜか知らないが気絶して倒れた……」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 小笠原鳥類「落馬ではない。なぜか知らないが気絶して倒れた……」は「意識の流れ」と言っていいのか、あるいは意識の分断(切断)と言っていいのかわからないが、切断しても切断してもつながってしまうのが意識なんだろうなあ。「気絶」の「気」は「意識」でもあるのだが。

ハトの小屋は少なくない
と思うが、その
道 その道で、ニワトリを
見たことがあった。ニワトリの
小屋が、あったんだろうか。私は
左側を見てたんだろうか
すべてが紫色になる。その以前
(数分前まで)右に、左に
いろいろな
暗い人の姿が次々に現れて、消える
のを見ていた(これは違う日だったかもしれないな。)--それから数年前
近くで、歩いている人が
地面の中に
消えるのを
見ていた。地面に、ストンと消えるんだな

 小笠原にとって「見る」ということが「意識(気)」と緊密につながっている。見えるものと、見えないもの(そこに存在しないもの)の不思議な出合いがあって、そこから意識の切断(分断)が広がっていく。
 「その道で、ニワトリを見たことがあった」は、「いまはそこにニワトリはいないが」ということを前提としている。その前提のさらに前に「ハトの小屋は少なくない」という意識がある。そこには、ニワトリではなくハトこそそこにいるべきだったという意識がある。ハトならいてもいいが、そんなところにニワトリを見たことがあった。どこかにニワトリ小屋があったんだろうか。
 あ、この「あったんだろうか」が、すごいなあ、と感じる。
 何が、と言われると、ちょっと困るけれど、「時制の意識」がすごい。
 「ニワトリを見たことがあった」(過去形)、だから「ニワトリの小屋が、あったんだろうか」(過去推量形)と時制が一致するのだが、うーん、日本語はどちらかというと時制なんて気にしないのにねえ。時制を突き破って感覚が「現在形」として動いていくところに日本語のおもしろい部分があるのだけれど。
 つまり。
 あ、つまり、はまずいかな。あくまで私の「時制」、「感覚の時制」でいうと、
 「ニワトリを見たことがあった」が過去形であっても、つぎにくることばは「ニワトリ小屋があるんだろうか」と現在形になる。現象としての事実は「過去形」でも、意識は常に現在でしかないから、もし厳密に過去形の文章にしなければならないのだとしたら、「ニワトリ小屋があるんだろうか、と思った」き「思った」の方で「過去」であることをつけくわえる。
 そうではなくて、小笠原の場合は、「ニワトリの/小屋があったんだろう」と推量そのものを過去形にする。
 この時制に対する意識の強さ(?)と関係するのかどうかよくわからないが、

暗いい人の姿が次々に現れて、消える
のを見ていた

 この「見る」ことに対する意識の強さも印象的だ。「現れて、消える」はたいてい見ることによって認識する。何かが現われるのを見る。何かが消えるのを見る。消えるとは、視界から消えるということだろう。そのとき、そこには「見る」は必然的に含まれている。
 でも、小笠原は、それでは満足しない。

暗い人の姿が次々に現れて、消える
のを見ていた

 あくまで「見ていた」を言わずにはいられない。それも「暗い人の姿が次々に現れて、消えるのを見ていた」ではなく、見ていたものを「現在形」として「現れては、消える」と書いた上で、「見ていた」とつけくわえる。「現れては、消える」と「見ていた」の間に「時制」の違いを持ち込む。
 この時制の持ち込み方、排除の仕方に、不思議な振幅がある。大きな振幅がある。
 「暗い人の姿が次々に現れて、消えた」なら、単なる過去形なのだが、そうではなくそれが現在形であるということは、さっきのニワトリ小屋と比較するとおもしろいのだが、「現れては、消える」はあくまで「現在形」のなまなましい感覚とともにあるということだね。
 どんな過去でも、なまなましいものは「現在」である。つまり、現在と過去とのあいだに、時間が割り込まない。何年前とか何日前という具合に、ひとは言うけれど、それを思い浮かべるとき「何年前」と「何日前」では、区別がある? つまり、そのあいだに、明確な「時間の隔たり」を認識することができる?
 私はできない。「いま-何年前」「いま-何日前」の「-」の部分は同じ「時間のへだたり」である。これは、自分の感覚にとって、という意味だけれど。
 これは、私と小笠原に共通する感覚だと思う--というか、そのつぎに書かれていることばが、私にはとてもよく実感できる、ということなのだけれど。

のを見ていた(これは違う日だったかもしれないな。)--それから数年前

 「のを見ていた」日、それとは「違う日」、さらに「数年前」が「いま-あのとき」の「-」であらわした分断/接続のなかで区別を失くしてしまう。
 小笠原の書きたいのは、これなんだね。「いま-過去」の「-」の分断/接続に区別はない。いつでも融合する。そして、その融合のなかで時間は空間をもって増殖する。意識は次々に何かにじゃまされながら、そのじゃまを吸収し増殖する。
 そときの意識は、流れている? 分断している? わからないね。そこには「乱調」しかないのかもしれないけれど、それが乱調であっても、なぜか、それを「接続」させ、全体にしてしまう「意識」がある。
 小笠原の中に? 読者の中に? 区別がなくなる。小笠原がそのように書き、私がそのように誤読する。その瞬間、何かが融合して、別なものになる。

 何か、わけのわからないことを書きはじめてしまった。きょうは、このまま中断する。


テレビ (新しい詩人)
小笠原 鳥類
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする