依田冬派「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」(「現代詩手帖」2012年06月号)
依田冬派は第50回現代詩手帖賞の受賞者。「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」は、とてもかっこいい作品である。
意味はわからないけれど、かっいいなあ、とまず思う。このかっこよさは、意味はわからないけれど一瞬一瞬イメージが鮮明に浮かぶからだ。
白い波--海、海の近く。放牧された馬。緑の草。健康な歯。たてがみ。
一方に、喪があり、他方に光あふれる健康な馬がいる。
そしてその馬には不思議な能力がある。方位を見わける。
そこにどんな関係があるのか、それもわからない。むしろ、あらゆる関係を断ち切って、ただイメージとしてそこにある。ことばがある。そういうことが、かっこいいのだと思う。
ことばはすぐに「意味」につかまってしまう。依田のことばは意味を逃れて、イメージとして純粋性を保っている。
これが、かっこいい、という印象を呼ぶのだと思う。
これは、逆に言えば、意味を飛び越えて、そこにただ存在していることば--それが、詩、ということになる。
かっいこいいなあ、こういう詩を書きたいなあ、と心底思う。
どんなふうに書かれているのかな。ゆっくり読み直してみようかな。
で、ここから、私の印象は少しずつ変わっていく。
書き出しからかっこいい。それは「白い波」が視覚的なのに対し、すぐ視覚を飛び越えて「音をききつづけ」と聴覚がやってくるからだ。「白い波をみつづけていると」を考えると違いがわかる。後者は「白い」(視覚)「みつづける」(視覚)と繋がり、そこに粘着力が生まれる。重たくなる。
「輪郭」は視覚だね。音を聞いていると、白い波という視覚でとらえたものの輪郭(視覚)が「さらわれる」。白い波の形が見えなくなる--というより、これは肉眼の問題ではなく、肉体のなかの感じだね。視覚と聴覚が出合い、視覚が視覚のまま存在しえなくなる。融合し、何か違ったものが見えはじめる。それが「輪郭がさらわれ」た何か。形ではなく、色とか、光の反射とか。--まあ、このあたりを厳密にいわないところが「みそ」。詩だね。
で、そのあと、
「その変化」とは視覚の変化、見えていたものが輪郭を失くし、融合する。それに「敏感なものだけが」。
あ、敏感か。
そうだねえ、これが鈍感だったら、それまで書いてきた微妙な感覚の融合の感じがくずれる。「敏感」でなくてはならない。--と思うけれど、ここがちょっと「流通言語」的かもしれない。つまり、何かしら古い印象を呼び起こす。
依田の詩はかっこいい。いま、こういう詩を書くひとは少ない。けれど、どこか何かなつかしい。それは、この「敏感」ということばのつかい方が、独特のものではなく、文学の流通言語--定型を踏まえているからだね。
「生き残る場所」の「生き残る」は、前にでてきた「さらわれ(る)」に対応する。さらわれて、なくなるという一種の否定的な感じ、無の感じに「生き残る」ということばが対峙する。そうすると、そこに感覚の拮抗が生まれる。
そのあと「馬」が出てくる。なぜ、犬ではないのか。猫ではないのか。なぜ虎ではないのか。--まあ、馬が一番しずかな感じがするねえ。りこうそうな感じもあって、納得できるねえ。というのは、これも、もしかすると文学の定型かもしれない。
だれの喪かは書かれていない。その省略が、馬を象徴的に感じさせる。馬のなかに、馬いがいのものがまじりこんでくる。さらに「無関心をよそおいながら」と嘘(よそおう)で増幅する。馬が、いわば人間のように見えてくる。
しかし、すぐにそれを
と馬のイメージで分断する。ここが、この詩の一番いいところだなあ。馬がいきいきする。それまでのことはすっかり忘れる。光あふれる海辺の草原。そこで馬が草を食べている。しかもその馬を歯の美しさでつかみ取る。
それまで書かれてきた微妙なことがら、白い波の音をきく、変化に敏感、無関心をよそおう--というようなことがふっきれてしまう。
ここから飛躍する。
健康な馬の健康なたてがみ。それが何か特別な能力を持っているのというのは納得できるなあ。説得力があるなあ。それまでに書かれていたことが一種の不健康(微妙なことにこだわるのは不健康でしょ?)であるだけに、この健康が増殖する感じが美しい。かっこいい。
でも、
これは、どうかなあ。「方位」の言い直しが「真昼の月のなかで鼻筋のとおった少女が笑ったとか」や「むこうから楽団がやってくるとか」。うーん、古い映画を見ている感じ。映画の一シーンのような感じ。
この1行のために、それ以前のすべてが一気に古くさくなってしまう感じを私は受けてしまう。
ここに書かれているのは、いつの時代? 現代?
この1連目の締めの行も、意味ありげで、なんとなくいやだなあ。馬に乗って、どこへでも行ける。馬はどこへでも連れて行ってくれる。でも、それは現代? どの街?
それが感じられない。
まあ、象徴的に書いているといわれれば、そうなんだけれど。
と、わけのわからない不満を書いたけれど、かっこいいよ。依田の詩は。真似して書いてみたいなあ。そう気持ちになる。真似したいという気持ちを呼び起こすものは、どういうものでも、私は大好きだ。
真似するというのは、自分が自分から脱出する一番の近道だからね。
自分が自分ではなくなることほど、おもしろいことはない。
依田冬派は第50回現代詩手帖賞の受賞者。「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」は、とてもかっこいい作品である。
白い波の音をききつづけていると、輪郭がさらわれ、その変化に敏感なものだけ
が生き残る場所で、放牧された馬たち。無関心をよそおいながら藻に服している。
草をはむ歯は健康そのものだ。たてがみには方位を見わける力があり、真昼の月の
なかで鼻筋のとおった少女が笑ったとか、むこうから楽団がやってくるとか。いつ
でもかれらはせなかを用意している。
意味はわからないけれど、かっいいなあ、とまず思う。このかっこよさは、意味はわからないけれど一瞬一瞬イメージが鮮明に浮かぶからだ。
白い波--海、海の近く。放牧された馬。緑の草。健康な歯。たてがみ。
一方に、喪があり、他方に光あふれる健康な馬がいる。
そしてその馬には不思議な能力がある。方位を見わける。
そこにどんな関係があるのか、それもわからない。むしろ、あらゆる関係を断ち切って、ただイメージとしてそこにある。ことばがある。そういうことが、かっこいいのだと思う。
ことばはすぐに「意味」につかまってしまう。依田のことばは意味を逃れて、イメージとして純粋性を保っている。
これが、かっこいい、という印象を呼ぶのだと思う。
これは、逆に言えば、意味を飛び越えて、そこにただ存在していることば--それが、詩、ということになる。
かっいこいいなあ、こういう詩を書きたいなあ、と心底思う。
どんなふうに書かれているのかな。ゆっくり読み直してみようかな。
で、ここから、私の印象は少しずつ変わっていく。
白い波の音をききつづけていると、
書き出しからかっこいい。それは「白い波」が視覚的なのに対し、すぐ視覚を飛び越えて「音をききつづけ」と聴覚がやってくるからだ。「白い波をみつづけていると」を考えると違いがわかる。後者は「白い」(視覚)「みつづける」(視覚)と繋がり、そこに粘着力が生まれる。重たくなる。
輪郭がさらわれ、
「輪郭」は視覚だね。音を聞いていると、白い波という視覚でとらえたものの輪郭(視覚)が「さらわれる」。白い波の形が見えなくなる--というより、これは肉眼の問題ではなく、肉体のなかの感じだね。視覚と聴覚が出合い、視覚が視覚のまま存在しえなくなる。融合し、何か違ったものが見えはじめる。それが「輪郭がさらわれ」た何か。形ではなく、色とか、光の反射とか。--まあ、このあたりを厳密にいわないところが「みそ」。詩だね。
で、そのあと、
その変化に敏感なものだけが生き残る場所で、
「その変化」とは視覚の変化、見えていたものが輪郭を失くし、融合する。それに「敏感なものだけが」。
あ、敏感か。
そうだねえ、これが鈍感だったら、それまで書いてきた微妙な感覚の融合の感じがくずれる。「敏感」でなくてはならない。--と思うけれど、ここがちょっと「流通言語」的かもしれない。つまり、何かしら古い印象を呼び起こす。
依田の詩はかっこいい。いま、こういう詩を書くひとは少ない。けれど、どこか何かなつかしい。それは、この「敏感」ということばのつかい方が、独特のものではなく、文学の流通言語--定型を踏まえているからだね。
「生き残る場所」の「生き残る」は、前にでてきた「さらわれ(る)」に対応する。さらわれて、なくなるという一種の否定的な感じ、無の感じに「生き残る」ということばが対峙する。そうすると、そこに感覚の拮抗が生まれる。
そのあと「馬」が出てくる。なぜ、犬ではないのか。猫ではないのか。なぜ虎ではないのか。--まあ、馬が一番しずかな感じがするねえ。りこうそうな感じもあって、納得できるねえ。というのは、これも、もしかすると文学の定型かもしれない。
無関心をよそおいながら喪に服している。
だれの喪かは書かれていない。その省略が、馬を象徴的に感じさせる。馬のなかに、馬いがいのものがまじりこんでくる。さらに「無関心をよそおいながら」と嘘(よそおう)で増幅する。馬が、いわば人間のように見えてくる。
しかし、すぐにそれを
草をはむ歯は健康そのものだ。
と馬のイメージで分断する。ここが、この詩の一番いいところだなあ。馬がいきいきする。それまでのことはすっかり忘れる。光あふれる海辺の草原。そこで馬が草を食べている。しかもその馬を歯の美しさでつかみ取る。
それまで書かれてきた微妙なことがら、白い波の音をきく、変化に敏感、無関心をよそおう--というようなことがふっきれてしまう。
ここから飛躍する。
たてがみには方位を見わける力があり、
健康な馬の健康なたてがみ。それが何か特別な能力を持っているのというのは納得できるなあ。説得力があるなあ。それまでに書かれていたことが一種の不健康(微妙なことにこだわるのは不健康でしょ?)であるだけに、この健康が増殖する感じが美しい。かっこいい。
でも、
真昼の月のなかで鼻筋のとおった少女が笑ったとか、むこうから楽団がやってくるとか。
これは、どうかなあ。「方位」の言い直しが「真昼の月のなかで鼻筋のとおった少女が笑ったとか」や「むこうから楽団がやってくるとか」。うーん、古い映画を見ている感じ。映画の一シーンのような感じ。
この1行のために、それ以前のすべてが一気に古くさくなってしまう感じを私は受けてしまう。
ここに書かれているのは、いつの時代? 現代?
いつでもかれらはせなかを用意している。
この1連目の締めの行も、意味ありげで、なんとなくいやだなあ。馬に乗って、どこへでも行ける。馬はどこへでも連れて行ってくれる。でも、それは現代? どの街?
それが感じられない。
まあ、象徴的に書いているといわれれば、そうなんだけれど。
と、わけのわからない不満を書いたけれど、かっこいいよ。依田の詩は。真似して書いてみたいなあ。そう気持ちになる。真似したいという気持ちを呼び起こすものは、どういうものでも、私は大好きだ。
真似するというのは、自分が自分から脱出する一番の近道だからね。
自分が自分ではなくなることほど、おもしろいことはない。
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