榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』(思潮社、2012年06月30日発行)
榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』はタイトル通り、「眼球」の詩集である。榎本は視力の詩人である。私のような、目の弱い人間には、読み通すのが厳しいものがある。榎本の詩を最初に読んだときは、これは詩集になってから読んだ方が全体像がわかると思ったが、詩集になってみると今度はその視力を強要することばがつらくなる。まあ、視力のいいひとは大丈夫なのだろうけれど。
「増殖する眼球にまたがって」の書き出しである。
ここにあらわれる「聴力を頼りに痺れた光線を辿ろうと企てる」という表現は、とてもおもしろいが、最初に書いたように、榎本はなによりも視覚の詩人である。聴覚は、瞬間的にはあらわれるが、しっかりと融合しない。「増殖する……」では、このあと「聞きなさい」という美しいことばが輝くのだが、それは一瞬のことであり、視力の闇がすぐに襲いかかる。見えすぎることによる闇が。
ことばはどんなふうにして動くのかわからないが、私には、音といっしょに動くように思える。それは視力を生きる榎本の場合でも同じだ。書き出しには、音がある。
巻頭の「あなたのハートに仏教建築」はタイトルそのものに音がある。書き出しにも音がある。
(岸辺に)打ち上げられた轢死体を跨ぎ越し、開かれた頸部に流水を圧しあてては、返すがえすも惜しくなる臀部の臭気、縊死の殺虫成分に毒される糠、開かれた帆布にまき散らしてまき散らされて、そのうち川を渡って--渡し賃に一枚の帆布--対岸で蹲る夜、
「返すがえすも惜しくなる臀部の臭気」はいい響きである。「返すがえすも」「惜しくなる」という「漢字熟語」ではない口語の響きが、「臀部」「臭気」という「ん」とか「ゅ」とか、発音器官(聴覚器官)をくすぐる音を含みながら「漢字熟語」に溶け込んで行く。これは、とても、とても、とても美しい。
でも「毒される糠」はどうかなあ。「まき散らしてまき散らされて」は、どうかなあ。まあ、こういう問題は、厳密に言おうとすると難しくなる。私は「音韻学」というものは「名前」でしか知らないから、適当なことを書くのだが、どうも「返すがえすも惜しくなる臀部の臭気」のような音楽がない。
音楽の崩れというのは、立ちなおすことがなかなか難しいと思う。くずれる方へひっぱられていくような気がする。
「返すがえすも……」までは、榎本も文字を書きながら口を(喉を、耳を)動かしているように感じられるが、それ以後は、そういう肉体を封印し、視力でことばを選んでいるように感じられる。
私が特に気になるのは「勾引す御仏」の「勾引す」である。どう読むの? 私には読めないのである。音が消えてしまう。そして、文字だけが残る。
2連目は、
と始まる。「視覚」ということばを必要としてしまうくらい、榎本のことばは、これからあとさらに文字だけになる。そして、文字は漢字熟語となって撒き散らされる。
「いずれにせよ集積せよと云いながら痺れていった涅槃は」には「集積」「痺れ」「涅槃」という漢字だけが、「感じ」を浮かび上がらせようとしている。
目の状態がいいときに読み直そう。
モーツァルトの音楽は、私には、体調のいいときには快感だが、体調が悪いときには苦痛である。それによく似ている。榎本の詩は、視力がいいときには快感だろうけれど、視力が低下しているときには苦痛である。肉体の仲に入って来ない。
--これが、まあ、私のきょうの状態ということであって、榎本の詩は、また別の生き物と考えた方がいい。
視力の暴力に、視力で立ち向かえるひとが、きちんとした感想を書くだろうと思う。
榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』はタイトル通り、「眼球」の詩集である。榎本は視力の詩人である。私のような、目の弱い人間には、読み通すのが厳しいものがある。榎本の詩を最初に読んだときは、これは詩集になってから読んだ方が全体像がわかると思ったが、詩集になってみると今度はその視力を強要することばがつらくなる。まあ、視力のいいひとは大丈夫なのだろうけれど。
世界の総体は悉く文字のみによってなりたっているので、《私》ですら例外なく、許多のまなざしに射貫かれ、夥しい文字を前に失明することを免れえぬ恐怖にうち震える《我々》は、さもしい聴力を頼りに痺れた光線を辿ろうと企てるが、
「増殖する眼球にまたがって」の書き出しである。
ここにあらわれる「聴力を頼りに痺れた光線を辿ろうと企てる」という表現は、とてもおもしろいが、最初に書いたように、榎本はなによりも視覚の詩人である。聴覚は、瞬間的にはあらわれるが、しっかりと融合しない。「増殖する……」では、このあと「聞きなさい」という美しいことばが輝くのだが、それは一瞬のことであり、視力の闇がすぐに襲いかかる。見えすぎることによる闇が。
ことばはどんなふうにして動くのかわからないが、私には、音といっしょに動くように思える。それは視力を生きる榎本の場合でも同じだ。書き出しには、音がある。
巻頭の「あなたのハートに仏教建築」はタイトルそのものに音がある。書き出しにも音がある。
(岸辺に)打ち上げられた轢死体を跨ぎ越し、開かれた頸部に流水を圧しあてては、返すがえすも惜しくなる臀部の臭気、縊死の殺虫成分に毒される糠、開かれた帆布にまき散らしてまき散らされて、そのうち川を渡って--渡し賃に一枚の帆布--対岸で蹲る夜、
「返すがえすも惜しくなる臀部の臭気」はいい響きである。「返すがえすも」「惜しくなる」という「漢字熟語」ではない口語の響きが、「臀部」「臭気」という「ん」とか「ゅ」とか、発音器官(聴覚器官)をくすぐる音を含みながら「漢字熟語」に溶け込んで行く。これは、とても、とても、とても美しい。
でも「毒される糠」はどうかなあ。「まき散らしてまき散らされて」は、どうかなあ。まあ、こういう問題は、厳密に言おうとすると難しくなる。私は「音韻学」というものは「名前」でしか知らないから、適当なことを書くのだが、どうも「返すがえすも惜しくなる臀部の臭気」のような音楽がない。
音楽の崩れというのは、立ちなおすことがなかなか難しいと思う。くずれる方へひっぱられていくような気がする。
「返すがえすも……」までは、榎本も文字を書きながら口を(喉を、耳を)動かしているように感じられるが、それ以後は、そういう肉体を封印し、視力でことばを選んでいるように感じられる。
濡れている備忘録を唆すように隠蔽し、祭壇の技術的欠陥を勾引す御仏の遺恨を懐に仕舞って仕舞われて……(舌肥大)
私が特に気になるのは「勾引す御仏」の「勾引す」である。どう読むの? 私には読めないのである。音が消えてしまう。そして、文字だけが残る。
2連目は、
夥しい残骸に緊縛される視覚へ、
と始まる。「視覚」ということばを必要としてしまうくらい、榎本のことばは、これからあとさらに文字だけになる。そして、文字は漢字熟語となって撒き散らされる。
「いずれにせよ集積せよと云いながら痺れていった涅槃は」には「集積」「痺れ」「涅槃」という漢字だけが、「感じ」を浮かび上がらせようとしている。
目の状態がいいときに読み直そう。
モーツァルトの音楽は、私には、体調のいいときには快感だが、体調が悪いときには苦痛である。それによく似ている。榎本の詩は、視力がいいときには快感だろうけれど、視力が低下しているときには苦痛である。肉体の仲に入って来ない。
--これが、まあ、私のきょうの状態ということであって、榎本の詩は、また別の生き物と考えた方がいい。
視力の暴力に、視力で立ち向かえるひとが、きちんとした感想を書くだろうと思う。
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