白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』(思潮社、2012年05月15日発行)
白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』は活字がとても小さい。いまの私には読むのが非常に難しい。だから、いろいろなことを読み落とし、読みとばし、さまざまな誤読をしているかもしれない。でも、私がしたいのは「正しい読み方」ではなく「誤読」なのだから、それはそれでいいのだと自分に言って聞かせる。
「宙に消え入る歌」の書き出し。
「煉獄」が私にはわからないのだけれど(つまり自分のことばにはない、そういうものを肉体で覚えたことがないので、何をイメージしていいのかわからない)、そのあとが魅力的だ。
「海を描いている」は「描いている」だから「絵(イメージ)」になるのだろうけれど、「海」と漢字を書いたときに、瞬間的に思い出す海そのものという感じがする。絵では描けないもの、絵をこえてそこにある「本来的な海」を思い出す。
「本来的」なのものは遠くて近い。どんなに遠くても肉体のなかに覚えているものが「本来的」である。
この感覚が「とおいとおい街」の「とおい」を「ちかいちかい」ものに変える。そして、もっとも「ちかい」存在である「あなた」と結びつく。
けれど、この「とおい」と「ちかい」の矛盾した結びつき--接続と切断は、「ぼく」を不思議な具合に混乱させる。
「いる」ではなく「いない」ということで存在を明らかにする。
どこにいるの?
言わない。言えない。
この矛盾のなかに抒情がある。
この不安定な抽象がいい。
どこかに「いる」ことを「いない」ということで抽象化することばが、「世界史の外がわ」という抽象と「泳ぐ」という肉体の動きを結びつける。
「本来的な海」が「世界史の外がわ」にある。
でも、「世界史の外がわ」って、どこ?
あ、これはわからなくていいんですね。
「本来的な海」なのだから、どこにだって存在する。それを思うとき、そこに存在する。それが「本来的」ということだから。
白鳥のことばは、何かしら「本来的」なものを中心におき、そのまわりに「本来的」なものと結びつく具象--具象なのだけれど、結びついた瞬間に抽象になってしまうようなものを接続させる。「本来的」な何かが、具象を抽象化し、普遍化するとでも言えばいいのかなあ。
まあ、詩なのだから、これくらいにあいまいにごまかしておいて……。あ、これは白鳥のことではなく、私自身に向けて私が言っているんです。わけがわからなくなる前に、このへんでことばを中断して、次の思いつきを書こう--と促しているのです。
で。
なぜだろう。「ひい、ふう、みい、よう」という数え方を思い出し、あ、ひいふ「うみ」いよう--「うみ」があると、海を見つけた感じ。
「海のなかに母がある」なんていう気障(?)なことばではなく、そうか数を数えるときも「うみ」に触れているのか。それは、きっと「海のなかに母がある」の「海」よりも「本来的」だなあ、と思う。「海のなかに母がある」は「文字(視覚)」であるのに対し「ひいふうみいよう」は声(聴覚)だ。肉体そのものとの交渉が多い。文字は目と脳の結びつき。音は聴覚といいながら、喉をつかう。音のなかには喉と耳の出合いがあり、そこで感覚が融合する。感覚が肉体になる。そういうなかで覚える「うみ」は体から離れない。まあ、「海のなかに母がある」は「頭」から離れないだろうけれど、ね。
ずーっと、飛ばして。「遮音室」。
ここが美しい。なぜ、美しい、どこがどんなふうに、と問いかけられるとわからないのだけれど、美しいなあと思う。
「日の色から 灯の白へうつり」というのは「ひ」という音がが「日」と「灯」の二つの文字に分かれ,その「日」という文字から「白」という文字経由の(?)音が生まれる--その不思議な感覚の融合が美しいのかもしれない。
うーん、でも、こういうことは、書いてしまうと何かうるさいかなあ。
そのあとの「写真にない節気をおいて」の「ない」は最初の詩に出てきた「いない」と同じだね。
何かしら「不在」のものが「本来的」なものを引き寄せる。「ない(いない)」はブラックホールのようにすべてをのみこむのかな?
そして、感覚(たとえば視覚と聴覚)を融合させ、そこに肉体を生み出し、その肉体を動かしはじめる。
何か、そういうことを感じさせることばの運動が、白鳥の詩にはある。
白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』は活字がとても小さい。いまの私には読むのが非常に難しい。だから、いろいろなことを読み落とし、読みとばし、さまざまな誤読をしているかもしれない。でも、私がしたいのは「正しい読み方」ではなく「誤読」なのだから、それはそれでいいのだと自分に言って聞かせる。
「宙に消え入る歌」の書き出し。
煉獄の地図を引く
春風におされてしまう羽根ペンが
海を描いている
きのうとおいとおい街のポスターに
あなたのなまえをみたよ ということは
ぼくはいま、どこかその辺りには いない
「煉獄」が私にはわからないのだけれど(つまり自分のことばにはない、そういうものを肉体で覚えたことがないので、何をイメージしていいのかわからない)、そのあとが魅力的だ。
「海を描いている」は「描いている」だから「絵(イメージ)」になるのだろうけれど、「海」と漢字を書いたときに、瞬間的に思い出す海そのものという感じがする。絵では描けないもの、絵をこえてそこにある「本来的な海」を思い出す。
「本来的」なのものは遠くて近い。どんなに遠くても肉体のなかに覚えているものが「本来的」である。
この感覚が「とおいとおい街」の「とおい」を「ちかいちかい」ものに変える。そして、もっとも「ちかい」存在である「あなた」と結びつく。
けれど、この「とおい」と「ちかい」の矛盾した結びつき--接続と切断は、「ぼく」を不思議な具合に混乱させる。
ぼくはいま、どこかその辺りには いない
「いる」ではなく「いない」ということで存在を明らかにする。
どこにいるの?
言わない。言えない。
この矛盾のなかに抒情がある。
少女が
泳ぐのは
世界史の外がわ
この不安定な抽象がいい。
どこかに「いる」ことを「いない」ということで抽象化することばが、「世界史の外がわ」という抽象と「泳ぐ」という肉体の動きを結びつける。
「本来的な海」が「世界史の外がわ」にある。
でも、「世界史の外がわ」って、どこ?
あ、これはわからなくていいんですね。
「本来的な海」なのだから、どこにだって存在する。それを思うとき、そこに存在する。それが「本来的」ということだから。
白鳥のことばは、何かしら「本来的」なものを中心におき、そのまわりに「本来的」なものと結びつく具象--具象なのだけれど、結びついた瞬間に抽象になってしまうようなものを接続させる。「本来的」な何かが、具象を抽象化し、普遍化するとでも言えばいいのかなあ。
まあ、詩なのだから、これくらいにあいまいにごまかしておいて……。あ、これは白鳥のことではなく、私自身に向けて私が言っているんです。わけがわからなくなる前に、このへんでことばを中断して、次の思いつきを書こう--と促しているのです。
で。
うみひいよう、うみ、ひい
なぜだろう。「ひい、ふう、みい、よう」という数え方を思い出し、あ、ひいふ「うみ」いよう--「うみ」があると、海を見つけた感じ。
「海のなかに母がある」なんていう気障(?)なことばではなく、そうか数を数えるときも「うみ」に触れているのか。それは、きっと「海のなかに母がある」の「海」よりも「本来的」だなあ、と思う。「海のなかに母がある」は「文字(視覚)」であるのに対し「ひいふうみいよう」は声(聴覚)だ。肉体そのものとの交渉が多い。文字は目と脳の結びつき。音は聴覚といいながら、喉をつかう。音のなかには喉と耳の出合いがあり、そこで感覚が融合する。感覚が肉体になる。そういうなかで覚える「うみ」は体から離れない。まあ、「海のなかに母がある」は「頭」から離れないだろうけれど、ね。
ずーっと、飛ばして。「遮音室」。
湖底に束ねられた偽書へ
腰掛けていもうとは 七生子の髪を喰うだろう
次第に旧くなる外もまたひと束と数えられ 叫べない部屋を埋めるとしても
落ち髪のいつか凪ぐまでは
夜の訃報に被らせる二の腕は ぶれることを知らない
いもうとを待つゆびの腹が 日の色から 灯の白へうつり
航路の終端に 写真にない節気をおいてもどってゆく
ここが美しい。なぜ、美しい、どこがどんなふうに、と問いかけられるとわからないのだけれど、美しいなあと思う。
「日の色から 灯の白へうつり」というのは「ひ」という音がが「日」と「灯」の二つの文字に分かれ,その「日」という文字から「白」という文字経由の(?)音が生まれる--その不思議な感覚の融合が美しいのかもしれない。
うーん、でも、こういうことは、書いてしまうと何かうるさいかなあ。
そのあとの「写真にない節気をおいて」の「ない」は最初の詩に出てきた「いない」と同じだね。
何かしら「不在」のものが「本来的」なものを引き寄せる。「ない(いない)」はブラックホールのようにすべてをのみこむのかな?
そして、感覚(たとえば視覚と聴覚)を融合させ、そこに肉体を生み出し、その肉体を動かしはじめる。
何か、そういうことを感じさせることばの運動が、白鳥の詩にはある。
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