三井葉子「花野のいくさ」ほか(「若葉頃」64、2012年05月発行)
三井葉子「花野のいくさ」には、いくつかの時間が交錯する。
若いころ、男に逢いに行った時間。医者通いしているいまの時間。そして粟津則雄の講演を聞いた時間。そして、その時間に、若いころの肉体、いまの肉体、幸田露伴の臨終の肉体、それを見つめる娘の肉体。--時間が、時間という抽象のままあるのではなく、肉体として重なってくる。
肉体には、時間を統合する力が自然とそなわっている。時間が過ぎていっても、「私の肉体」は「私の肉体」のままだからねえ。細胞が次々に死んで、細胞が次々に生まれる。その切断と接続。これが「私の肉体」だけなら、なんともないのだが、どうして人間は「他人の肉体」とも重なってしまうのだろう。「他人の肉体」まで、統合してしまうのだろう。
肉体には、何かしら不思議な力がある。
それはたとえば、「濃いもんはなるべくつつしんで」と医者から忠告される「肉体」と臨終の露伴の肉体と重なりながら、すーっとそこからずれて露伴の娘・文の肉体を往復する。
さらに、これが粟津則雄のことばというか、それを話している粟津則雄とも重なる。
厳密にあれこれ言おうとすると、だんだん書きたいことが(書きたかったことが)ずれてきて、ことばが乱れてくるが……。
そういうものをひっくるめて、三井は全部「自分の肉体」にしてしまう。自分の肉体をとおして、ことばにしてしまう。
そのとき、ことばにあわせて、それぞれの肉体が三井の肉体から飛び出す。溢れだす。ことばと肉体も往復(?)する。
あ、ますます混乱してくるなあ。
まあ、いいか。
で。
最後の。
これが、不思議。とても不思議。
「お父さま」は露伴? それとも三井の父? 父の臨終に立ち会ったことを思い出して、ああ、あのとき「お父さま/おしずまりなさいませ」と言えばどんなによかったろうと思い出している?
それとも、三井自身?
こんなことを書くのは不謹慎と言われるかもしれないけれど……。もし、自分が臨終のときを迎えたら、この「お父さま/おしずまりなさいませ」を自分に言い聞かせようと思ったのかな?
他人の肉体が自分に重なるなら、自分の肉体を他人の肉体に重ねてもいいじゃないか、と私は思う。そういう「思想(肉体)」を三井のことばの運動に感じる。
*
斎藤京子「阿蘇」は同窓会であった同級生のことを書いている。シスターになり、チャドで奉仕の生活。水が貴重なので15年間風呂に入らなかったという。そのシスターが、
ふいに他人の肉体が動く。いまの肉体。そして若い頃の肉体。その瞬間、斎藤の肉体も一瞬、若い肉体にもどる。その重なりが自然でおもしろい。そこにあらわれる時間の姿がおもしろい。
三井葉子「花野のいくさ」には、いくつかの時間が交錯する。
勝ってくるぞといさましく出でし花野の夕月夜かな
ほほ
ほ
下半身溶けるとあしはみえなるなる円山公園
そこはお曳きずりの裾で隠して男に逢いに行った
女
の
はきものがそろえてある芋坊(いもぼう)の京の煮物
おいしい
とも
言われへんけど
その なんともうすい味がよろしいのやろ
そうじて
濃いもんはなるべくつつしんで
うす味(あじ)に
と
きょうも医者に言われた
日本の体は濃いモンがきらいですのやろか
お父さま
おしずまりなさいませ と幸田文さんが父露伴の臨終に言った
という話は粟津則雄さんの講演で聞いたが
いいことばですねと粟津さんも言われたけれど
わかしもそう思う
お父さま
おしずまりなさいませ
若いころ、男に逢いに行った時間。医者通いしているいまの時間。そして粟津則雄の講演を聞いた時間。そして、その時間に、若いころの肉体、いまの肉体、幸田露伴の臨終の肉体、それを見つめる娘の肉体。--時間が、時間という抽象のままあるのではなく、肉体として重なってくる。
肉体には、時間を統合する力が自然とそなわっている。時間が過ぎていっても、「私の肉体」は「私の肉体」のままだからねえ。細胞が次々に死んで、細胞が次々に生まれる。その切断と接続。これが「私の肉体」だけなら、なんともないのだが、どうして人間は「他人の肉体」とも重なってしまうのだろう。「他人の肉体」まで、統合してしまうのだろう。
肉体には、何かしら不思議な力がある。
それはたとえば、「濃いもんはなるべくつつしんで」と医者から忠告される「肉体」と臨終の露伴の肉体と重なりながら、すーっとそこからずれて露伴の娘・文の肉体を往復する。
さらに、これが粟津則雄のことばというか、それを話している粟津則雄とも重なる。
厳密にあれこれ言おうとすると、だんだん書きたいことが(書きたかったことが)ずれてきて、ことばが乱れてくるが……。
そういうものをひっくるめて、三井は全部「自分の肉体」にしてしまう。自分の肉体をとおして、ことばにしてしまう。
そのとき、ことばにあわせて、それぞれの肉体が三井の肉体から飛び出す。溢れだす。ことばと肉体も往復(?)する。
あ、ますます混乱してくるなあ。
まあ、いいか。
で。
最後の。
お父さま
おしずまりなさいませ
これが、不思議。とても不思議。
「お父さま」は露伴? それとも三井の父? 父の臨終に立ち会ったことを思い出して、ああ、あのとき「お父さま/おしずまりなさいませ」と言えばどんなによかったろうと思い出している?
それとも、三井自身?
こんなことを書くのは不謹慎と言われるかもしれないけれど……。もし、自分が臨終のときを迎えたら、この「お父さま/おしずまりなさいませ」を自分に言い聞かせようと思ったのかな?
他人の肉体が自分に重なるなら、自分の肉体を他人の肉体に重ねてもいいじゃないか、と私は思う。そういう「思想(肉体)」を三井のことばの運動に感じる。
*
斎藤京子「阿蘇」は同窓会であった同級生のことを書いている。シスターになり、チャドで奉仕の生活。水が貴重なので15年間風呂に入らなかったという。そのシスターが、
温泉はわたし初めてなのよ
どうやって入るの?
不安そうに尋ねる顔に
若い頃の面影がよぎった
ふいに他人の肉体が動く。いまの肉体。そして若い頃の肉体。その瞬間、斎藤の肉体も一瞬、若い肉体にもどる。その重なりが自然でおもしろい。そこにあらわれる時間の姿がおもしろい。
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