渡辺松男『蝶』五十首抄(「短歌」2012年06月号)
第46回迢空賞を受賞した渡辺松男の『蝶』の50首が「短歌」に掲載されていた。
この歌は非常に印象的である。「私」のことを書かずに木のことを書いているように感じられるからかもしれない。木に光が差して、影ができる。影ができると木は存在を増すというのだが、最後の「存在を増す」が「哲学的」に響くから、木のことを書いているように感じられるのかな? 木の存在を光と影との関係で描いていて、そこに「私」が入っていないから、「理性的(?)」な印象が生まれるのかな?
よくわからない。わからないけれど、
でも、
「存在を増す」は一見抽象的、あるいは哲学的言及に見えるけれど、「存在感を増す」とどう違うのかな? 「感(じ)」を取り除くと、描写は哲学的になるのかな?
まさか。
でも、よくわからないね。
「存在感」ではなく、「存在」。しかし、存在「感」なら増えたり減ったりはするけれど、「存在」そのものは増えたり減ったりはしない。
だとすると「感(じ)」は書かれていないけれど、その書かれていない「感(じ)」をこそ、渡辺は書こうとしているようにも思える。書くのではなく、消すことによって、その消したもののなかへ読者を誘い込むのかもしれない。
この一首には、「漢字」は「木」という文字しかつかわれていない。これもおもしろいと思う。
漢字はイメージをはっきりさせる。というか、まあ、私はずぼらなのか、漢字の方が意味をつかみやすい。ただ「漢字」になれ親しんでいるだけなのだが。
それがほどかれて、音になる。ひかり、かげ、という名詞だけではなく、さす、うまれる、も音になる。ひらがなを読んでいる(見ている)のだが、ひらがなのことばは目から脳へと直接結びつかない。私の場合は。
私の場合は、ひらがなは、いったん喉を通る。口を通る。耳を通る。そうして、「脳」のなかへ入ってくる--ではなく、どうも「脳」をすりぬけて、体のどこかわからない部分へ入ってくる。これは、入ってくる--という「感じ」がするだけのことで、はっきりとはわからない。
で、その「感じ」と「存在感」の「感」の欠落が、なにか妙に響きあうというか、手を取り合う。ひとつになる。それが「そんざい」を「ます」という感じになる。
そして、このことには、「かげうまれたり」「かげうまれ」ということばの重複も影響していると思う。
繰り返し同じところを通ることば。
でも、おなじところと書いたけれど、ほんとうかな?
違うと思うのだ。
「かげうまれたり」「かげうまれ」ということばが喉を通るとき(私は音読はしないが、やはり音は喉を通る)、そして口を、舌を、耳を通るとき、最初の「かげ」と次の「かげ」は微妙に違う。二度目の「かげ」の方が明確である。「うまれ(る)」も二度目の方がしっかりしている。そして、それがしっかりしているということは、音と肉体の接触面が微妙に違うということだ。それは同じように、喉、口、耳を通るけれど、実際は、喉の奥(内部?)、口の奥、耳の奥--うーん、肉体の「核」のようなものを通るということだと思う。
だからこそ、「そんざいをます」ということが起きる。
最初「肉体」の外にあったものが、次は「肉体」の内部、「肉体」の核を刺激する。それは「肉体」を内部から目覚めさせるということかもしれない。
だからね。
というのは、私の「飛躍」(誤読)なのだけれど、渡辺が省略した「存在感」の「感」は、「感」というときにすぐに思い出すもの、たとえば「感情」「感性」というものではなくて、もっと「肉体」そのものなのだ。
「感触」というのが近いことばかもしれない。なにかに触れて感じる肉体の感覚。気持ちではなく、あくまで肉体。
渡辺は、あくまで「肉体」を書いているだ。
この歌には「時間」という、それこそ哲学的なことばがでてくるけれど、この時間も抽象的なものではない。渡辺にとっては、肉体そのもの経過というか、変化なのだ。渡辺は肉体=からだと向き合っている。だから、この歌は
と読み替えると、ぐいと、そこにのみこまれてしまう。「時間」では抽象的だが、それが「からだ」だと思った瞬間、私の肉体は渡辺の肉体になってしまう。
ちょうど道にうずくまり腹を抱えているひとを見たら、あ、腹が痛くて苦しんでいると、自分のからだでもないのにその痛みを感じるように。このときの「感じ」は「感情」ではないよね。「感性」でもないよね。「肉体の感じ」そのものだ。
第46回迢空賞を受賞した渡辺松男の『蝶』の50首が「短歌」に掲載されていた。
木にひかりさしたればかげうまれたりかげうまれ木はそんざいをます
この歌は非常に印象的である。「私」のことを書かずに木のことを書いているように感じられるからかもしれない。木に光が差して、影ができる。影ができると木は存在を増すというのだが、最後の「存在を増す」が「哲学的」に響くから、木のことを書いているように感じられるのかな? 木の存在を光と影との関係で描いていて、そこに「私」が入っていないから、「理性的(?)」な印象が生まれるのかな?
よくわからない。わからないけれど、
でも、
「存在を増す」は一見抽象的、あるいは哲学的言及に見えるけれど、「存在感を増す」とどう違うのかな? 「感(じ)」を取り除くと、描写は哲学的になるのかな?
まさか。
でも、よくわからないね。
「存在感」ではなく、「存在」。しかし、存在「感」なら増えたり減ったりはするけれど、「存在」そのものは増えたり減ったりはしない。
だとすると「感(じ)」は書かれていないけれど、その書かれていない「感(じ)」をこそ、渡辺は書こうとしているようにも思える。書くのではなく、消すことによって、その消したもののなかへ読者を誘い込むのかもしれない。
この一首には、「漢字」は「木」という文字しかつかわれていない。これもおもしろいと思う。
漢字はイメージをはっきりさせる。というか、まあ、私はずぼらなのか、漢字の方が意味をつかみやすい。ただ「漢字」になれ親しんでいるだけなのだが。
それがほどかれて、音になる。ひかり、かげ、という名詞だけではなく、さす、うまれる、も音になる。ひらがなを読んでいる(見ている)のだが、ひらがなのことばは目から脳へと直接結びつかない。私の場合は。
私の場合は、ひらがなは、いったん喉を通る。口を通る。耳を通る。そうして、「脳」のなかへ入ってくる--ではなく、どうも「脳」をすりぬけて、体のどこかわからない部分へ入ってくる。これは、入ってくる--という「感じ」がするだけのことで、はっきりとはわからない。
で、その「感じ」と「存在感」の「感」の欠落が、なにか妙に響きあうというか、手を取り合う。ひとつになる。それが「そんざい」を「ます」という感じになる。
そして、このことには、「かげうまれたり」「かげうまれ」ということばの重複も影響していると思う。
繰り返し同じところを通ることば。
でも、おなじところと書いたけれど、ほんとうかな?
違うと思うのだ。
「かげうまれたり」「かげうまれ」ということばが喉を通るとき(私は音読はしないが、やはり音は喉を通る)、そして口を、舌を、耳を通るとき、最初の「かげ」と次の「かげ」は微妙に違う。二度目の「かげ」の方が明確である。「うまれ(る)」も二度目の方がしっかりしている。そして、それがしっかりしているということは、音と肉体の接触面が微妙に違うということだ。それは同じように、喉、口、耳を通るけれど、実際は、喉の奥(内部?)、口の奥、耳の奥--うーん、肉体の「核」のようなものを通るということだと思う。
だからこそ、「そんざいをます」ということが起きる。
最初「肉体」の外にあったものが、次は「肉体」の内部、「肉体」の核を刺激する。それは「肉体」を内部から目覚めさせるということかもしれない。
だからね。
というのは、私の「飛躍」(誤読)なのだけれど、渡辺が省略した「存在感」の「感」は、「感」というときにすぐに思い出すもの、たとえば「感情」「感性」というものではなくて、もっと「肉体」そのものなのだ。
「感触」というのが近いことばかもしれない。なにかに触れて感じる肉体の感覚。気持ちではなく、あくまで肉体。
渡辺は、あくまで「肉体」を書いているだ。
粥を食みつゆさきほどの時間さへとりもどせねば粥どこへおつ
この歌には「時間」という、それこそ哲学的なことばがでてくるけれど、この時間も抽象的なものではない。渡辺にとっては、肉体そのもの経過というか、変化なのだ。渡辺は肉体=からだと向き合っている。だから、この歌は
粥を食みつゆさきほどの「からだ」さへとりもどせねば粥どこへおつ
と読み替えると、ぐいと、そこにのみこまれてしまう。「時間」では抽象的だが、それが「からだ」だと思った瞬間、私の肉体は渡辺の肉体になってしまう。
ちょうど道にうずくまり腹を抱えているひとを見たら、あ、腹が痛くて苦しんでいると、自分のからだでもないのにその痛みを感じるように。このときの「感じ」は「感情」ではないよね。「感性」でもないよね。「肉体の感じ」そのものだ。
蝶―歌集 (かりん叢書) | |
渡辺松男 | |
ながらみ書房 |