詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小長谷清実「迷図のどこか」

2012-06-18 10:26:19 | 詩(雑誌・同人誌)

小長谷清実「迷図のどこか」(「交野が原」72、2012年04月01日発行)

 どんな詩にも意味はある。でも、意味が意味になるためには、論理以上のものが必要である--というのは、たぶん、性急すぎる言い方なのだが。
 小長谷清実「迷図のどこか」の1連目。

何やら声高に喋くりながら
どこかわたしと似たような感じの
老若男女がぞろぞろ入ってくる
喋っている言葉は
シャモが互いに向き合ったときのよう
意味は殆ど交差することなく
威嚇が幅をきかしている
威嚇の響きと威嚇の谷間に
怯えがかすかにこだましている

 そうか「威嚇と威嚇の谷間に怯えがこだましている」のか。うーん、人間の威嚇はつねに怯えが原因なのか--なあんて意味は、それなりに「意味」を誘うねえ。つまり、そうか、と考えさせるねえ。
 でも、そんなことより。
 いや、でも、そういう考えというか、「意味」は最後の2行だけでは成立しない。というのは変な言い方だが、その最後の2行から「意味」、あるいは「論理」のようなものを感じるのだけれど、この「感じ」ははるか前から始まっている。
 と、私は感じる。
 最後の2行のつくりだす「意味」は、それはそれはとして--と書くとまた間違えてしまうのだけれど。この2行の「意味」の奥底、意味になる前の不安定なうごめきは、この2行のはるか前から始まっている。

何やら声高に喋くりながら

 なんでもないような1行なのだが、ここに「響きと響きの谷間」のようなものがすでに存在している。「なにやらこえだかにしゃべくりながら」と声に出してみると(私は音読はしないけれど、声を耳で確かめる癖がある--つまり、無意識に喉や舌を動かし、その動きを耳で感じる癖がある)、微妙でしょ? ふつう、こんな言い方をしないなあ。私ならば。
 「何やら声高に喋りながら」と私は書いてしまう。言ってしまう。「喋る」ではなく「喋くり」とそこに「く(か行)」が入ると、音が一気に二倍になる。「何やら声高に喋りながら」だと「な」にやら、「な」がらと「な」が響きあう。な「に」やら、こえだか「に」という「に(な行)」の音も響きあう。そうてして「こえだかに」が、ちょっといらいらする。舌の動きが忙しくて、その筋肉(神経?)の動きがわずらわしい。
 で、そのわずらわしいものに、しゃべ「く」り、と「か行」音がひとつ加わると、いっそう騒がしくなるはずなのに、これが騒がしくない。騒がしさになれてしまうというか、もっと騒がしくなってもいいという感じというか。
 矛盾した感覚が肉体の中でうごめく。
 この肉体のなかの感じが「威嚇の響きと威嚇の谷間に/怯えがかすかにこだましている」という表現と、生理的に結びつく。

 こういうことは、きっと、こんなふうに書いてもだれにもわからないかもしれない--と思いながら、でも、こういうことこそわかってほしいなあ、とも思う。

 「意味」はことばの論理の運動のようだけれど、そのことばが「音」を欠いたまま「頭」のなかだけに入ってくると詩にならない。「音」が耳から入ってきて、肉体のどこかに触れる。私の意識していないどこかに触れる。その微妙な接触が、「意味」をぐいと突き動かす。
 「音」のなかにある何か、声のなかにある何かが、意識できない「真実」を揺さぶる。まあ、この「真実」というのはほんとうは真実ではなく、「感覚の意見」というものかもしれないけれどねえ。

 あ。

 「感覚の意見」か--どこから、こんなことばがふいにでてきたのだろうか。書きながら、私は自分で驚いているのだが、そういう何か、思いもかけない考え(?)、勘違い、「誤読」を誘ってくれる。
 それが詩の魅力なのだと思う。

 ちょっと脱線しすぎたかな。というか、このまま「感覚の意見」を追いかけていくと、長くなりすぎるし、私自身、どうなっしまうかわからないので--これは、ふいに挿入された「欄外のメモ」と思ってください。

 詩にもどると……。
 私は小長谷の「音」がとても好きなのだ。小長谷の音には「周辺」があって「中心」がない--というのは、また変な言い方だが、音が「意味」の中心のことばではなく、「意味」の周辺のことばで響きあうところがあって、それが肉体なのかに不思議な空間(隙間」をつくる。小長谷のことばを借りて言えば「谷間」かもしれないけれど。
 「どこかわたしと似たような感じの」の「か」とか、「ろうにゃくなんにょ」という音、「ぞろぞろ」という音、さらに「しゃべる」「しゃも」という音。
 私だけの感覚なのかもしれないけれど、こういう音を聞いていると、私の肉体のなかに「音の肉体」ができてきて、「私」というものが二重化(?)され、あいまいにされる感じがするのである。そして、そのあいまいが、なぜか気持ちがいい。「音」が「意味」を解放しながら、どこにもなかった「意味」がそこから生まれてくるという感じかなあ。
 まあ、これも「感覚の意見」。真実を踏まえたことばではありません。つまり、厳密にテキストを読み、意味をまさぐった果ての結論ではないのだけれどね。

 2連目を省略して、3連目。

わたしは今 ノートを
慌ただしく捲り 捲り捲って
直線やら曲線やら斜線やらを
とめどなく走らせている
あたふたと書き込んでいる
迷図みたいな自画像みたいな
何かをスケッチしようとしている
迷図のどこか 中心でもなく辺境でもなく
あいまいな一点にあって

 「捲り 捲り捲って」よりも、「……やら……やら……やら」「……みたいな……みたいな」という音の繰り返しがつくりだす「感覚の意見」。
 ええっと。私の現代詩講座では、こういうとき受講生に質問する。

質問 「……やら……やら……やら」「……みたいな……みたいな」。
   意味はわかるよね。で、その「やら」や「みたいな」を自分のことばで
   言いなおすとどういう具合になる?

 答えられないよねえ。急に言われたって。
 私自身と、どういっていいかわからないから、時間稼ぎに質問するんだけれど。
 で、なんと言っていいかわからないのだけれど、この音の繰り返しがあって、

中心でもなく辺境でもない
 
 の「……でもなく……でもない」の「論理」が肉体のなかに自然にできて、それが「あいまいな一点」を納得させてしまう。(説得されてしまう。)
 しかも。

あいまいな一点にあって

 「あって」って、何だよ。「あって」どうしたんだよ、と言いたくなるひともいるかもしれないけれど、この連用形(?)の中途半端が、「感覚の意見」みたいな、感じ。

 うまいなあ。




わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする