詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ペドロ・アルモドバル監督「私が、生きる肌」

2012-06-04 11:27:43 | 映画
監督 ペドロ・アルモドバル 出演 アントニオ・バンデラス、エレナ・アナヤ、マリサ・パレデス

 なぜ、そうなるの? なぜ?
 と、思わず問いかけたくなる展開。予想外の展開。予想外なのだけれど、終わってみれば予想通りの展開。そうだった、これはアルモドバルの映画なのだった。
 変なところにこだわりがある。一番笑ってしまうのは、人工膣の手術後のこと。そのままにしておくと膣が癒着する。癒着を防ぐためには、それを押し広げなくてはならない。で、何をつかって? もちろん「張り型」というか、模造ペニスだね。でもさあ、それって自分で望んで人工膣をつけたときのことでしょ? 望んでしたものじゃないのに、なぜ? おかしいでしょ? 変でしょ? そんなことをしたら、自分はそうなることを望んでいた、ってことにならない? 男ではなく、女として愛されたい--そう思っていた、ということにならない?
 ここが、たぶんアルモドバルの「人生観」の一番奇妙で美しいところ。何か起きる。そのことによって自分がかわっていく。その変化のすべてを人間は受け入れて、乗り切るしかない。それは、バンデラスが演じる人工皮膚の権威、外科医(?)。妻が交通事故で大やけどをした。一時は回復したが、自殺した。娘は男に強姦された。そして精神に異状を来し、死んでしまった。バンデラスは娘を不幸に追いやった男を見つけ出す。そして復讐を試みるのだが。
 で、これが最初に書いた「変なこだわり」へとつながる。男に無理矢理人工膣をつけさせ、整形をくりかえして妻そっくりにする。そして性交する。これはこれで、バンデラスの演じる外科医の「人生の受け入れ方」なのである。
 こんなことって、許されていい?
 倫理的には許されるはずもないことなのだけれど。
 ひとは許してしまう。特に、母というものは、息子が何をしようが、どうなってしまおうが、それを受け入れる。そのシーンが、なぜか、涙を誘う。よかったね、と思ってしまう。よかったことなんか何もない。それでも、よかったと思う。生きているからだねえ。「おまえ、おまえなのかい、息子よ」「そうだよ」。いやあ、びっくり。

 --という世界を、まあ、異常とはまったく感じさせずに演じてしまう(演じさせてしまう)スペイン人の性格って何なのだろう。精神(意識?)よりも感情(血?)が濃密なのか。殺しのシーンには血がべったりと出てくる。アメリカ映画のように「ほんもの」っぽくない。偽物の、真っ赤な血なのだが、この偽物さ加減が、いやあ濃密そのもの。偽物が、本物を超越してしまう。
 全部片づけたはずのベッドが、そのあともまだ赤い、赤く汚れている。あ、バカじゃない。ちゃんと片づけなよ。ではなく、この汚れが「現実」。この「過剰」が現実ということなんだなあ。
 途中、結婚式で歌手が歌を歌う。で、その歌手がいわゆる「すきっ歯」。上の前歯の間が空いている。これって、みっともない。みっともないのに、そのみっともないままの姿で女が出てくる。そのみっともない部分があって、歌の奥行きが出てくる。外見は問題にならない--ではなく、外見を乗り越える「内部」を見せるために、アルモドバルは外見の異常さを利用する。
 これと逆なのが手術のシーン。手術が要ではあるのだけれど、手術そのものではなく、手袋をはめるシーンを手袋が紙につつまれているところ、それを開いて手につけるところから映画にしてしまう。手術の手続きとして、とても正常だねえ。外科医の仲間が手術前に、この男のナニのおおきさは?とカバーをめくってみるところなんていうのも、あまりにも正常(と私は思うのだが……)すぎて、笑える。そういう「正常」を隠れ蓑にして、異常(復讐)がおこなわれる。
 まあ、正常も異常も、それを見せるというより、逆なものによりリアリティーを持たせるための「方便」というところか。
 どうでもいいか、こういうことは。
 あれれ、あれれ、と思う、その不思議な世界にただのみこまれればいい。




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