詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

タル・ベーラ監督「ニーチェの馬」(★★)

2012-06-11 08:48:42 | 映画
監督 タル・ベーラ 出演 ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ

 この映画には嫌いなところがたくさんある。台詞が多すぎる。そのために映画に映画になっていない。
 映画は6日間、同じことを繰り返し、繰り返しながら違っていくのだが、その違いの部分を台詞に頼っている。特に序盤がそうである。一日目の終わり、「風がおさまらず、屋根の瓦が落ちて割れた」というような台詞がナレーションで入る。どうして、それを映像で見せない? 映画でしょ?
 2日目(3日目だったかな、忘れた)、男が焼酎をわけてくれと言ってくる。それはいいのだが、その男が終末思想?を延々と語る。おーい、私は字幕を読みに来たんじゃないんだぞ。飲んでいる缶コーヒーの缶をスクリーンに投げつけたくなったなあ。男の言っていることがどんなに「正しい哲学」であろうと、それをふいに現われた男に語らせて何になるのだろうか。どんな哲学も、いま、ここにある日常の映像(そこにあるものの形と時間)をとおして具体化しないと哲学にはならない。哲学は「ことば」ではなく、ものの存在感そのものなのだ。
 せっかく茹でたじゃがいもを、その熱さにもかかわらず素手で皮をむき、塩をかけて手だけで食べるという「暮らし」を描きながら、ことばを持ち込んでどうなるのだ。朝は焼酎(父親は2杯、娘は1杯)、夜はじゃがいも1個という美しい哲学を具体的に描きながら、台詞で全部叩き壊してしまう。
 カメラが映し出すじゃがいも、焼酎、テーブル、皿、窓、あらゆるものが象徴でも意味でもなく、一回かぎりの具体物なのに、一回かぎりなのに繰り返すしかない具体物なのに、それをことばが壊していく。
 無残だなあ。

 台詞がなかったものとして、この映画を見てみる。
 そうすると、おもしろい部分がたくさんある。
 じゃがいもだけの食事がとりわけ、すばらしい。一日たった一回の食事だ。その食べ方が強烈なのだが、それをいったん強烈に見せた後は、繰り返しのなかでだんだん虚無的にしていく。一日目、父親の夢中な手つきが飢えを鮮烈につたえるが、二日目、反対側から映し出される娘の仕方がないという手つき、食べ方、三日目(ここからは、適当に書いている)二人を左右に映し出し、その二人の間の空間、虚無を完璧にとらえるカメラ。その変化。四日目は父と娘の位置が違っている--のは、実はカメラが移動したのであって、二人はおなじ位置にいる--という日常の不思議。虚無はおなじ。おなじであっても、それを表現的には逆にできるという世界の謎。いやあ、おもしろいなあ。繰り返しに見えるものも、繰り返すことで違いを表現でき、違うように表現しながらおなじところへ帰っていくという暮らしの不思議さ。
 右手が不自由な父親の着替え。これもいいなあ。外に出かけるときと、家にいるときでは服が違うのだが、それを着替えるとき、あたりまえだが手順はおなじである。娘がそれを手伝うのだが、それおなじ手順である。繰り返されることでできあがる美しい何かがある。美しいけれど、同時にいやらしいなにかがある。うんざりするものがある。そして、それに耐えるものがある。その濃密さのなかに、うごめいているどうしようもないのもがいい。「どうしようもない」と書いたけれど、これはどうことばにしていいかわからないもの、とおなじことだ。ことばにできないから、それが真実なのだ。台詞なんか、嘘にきまっている。
 さらに。
 ていねいだなあと思うのが、娘が井戸から水を汲むシーン。一日目に比べると二日目は汲み上げのロープをひっぱっている時間が長い。水が減っているのだ。それは最後にはかれることを暗示している。このあたりが、映画ならではだねえ。おもしろいなあ。

 逆に、いやな部分。
 これは私の見間違い(?)かもしれないが、最初に出てくる馬と二日目からの馬が違う。冒頭の馬は、いかにも農耕馬という感じの、足も不細工に太い馬なのだが、二日目以後の馬はどちらかというとサラブレッドに近い。足が細い。三日目以降も、毎日馬が違って見える。馬も変わっていく--ということを表現しているのかもしれないが、その感じがよくわからない--というか、最初の馬と二日目の馬が違いすぎて、違和感が残る。
 娘が本を読むのもいやだなあ。そこにも、ことばの過剰がある。
 いったん家を出ていこうとするときの馬の描写も嫌いだなあ。食べるのを拒否している馬。動かない馬。それが引っ越しのとき、馬車をひかないからといって、いっしょについてくる? ご都合主義だなあ。あそこは、馬はやっぱり動かず、娘と父と二人で荷車をひいて峠をこえる、けれどどこにも行くところがなくて、家へ、ではなく、馬のところへ帰ってくるという感じになると人間味が出ると思うなあ。
 馬が最後に、顔にロープをつけいてるというもの嫌だなあ。ことばではないけれど、ことばに匹敵する意味の過剰がある。

 で、元にもどるのだが、そのことばの過剰、意味の過剰が、せっかくじゃがいもを食べる、服を帰る、井戸から水をくむというような肉体の動きで、観客を肉体の方へ引き込むのに、ことばがそれを切り離す。
 変だなあ。



 私の見た回のあと、公開記念トークというのがあった。西南学院大学の森田団(かな?資料の字がよく見えない)教授が「終末のヴィジョンと馬」というタイトルで話したのだが、これがまたまたことばが過剰で、映画をさらに台無しにしてしまった。
 唯一納得できたのは、ふつうの終末思想は洪水、火事(火山の爆発?)、地震などものが人間の暮らしを破壊することで表現されるが、この映画では逆。ものがなくなる。油がなくなり明かりがともせない。じゃがいももやがて尽きる。(その前に、茹でていたものをなまで齧るのだけれど--これは、私の追加。)そこにこの映画の終末思想の特徴があるという指摘である。
 あとは情報が過剰すぎた。森田がいろいろなことを知っている(学者だからね)というのはわかるけれど、知っていることと感じとれることは別じゃない? 映画から何を感じたのかなあ。それが、さっぱりわからない。いくらいろいろ知っていても、それを自分の肉体をとおして表現できなければ、単なる「文献の紹介」。
 それにね、と、あえて書くのだが、「文献の紹介」は森田の考えとは何の関係もないでしょ? それはだれかが考えたこと。森田が考えたことではない。そんな他人の考えたことを、だれそれがこう言っています、ということが学者のすること? 学者というのは、自分で考えることじゃないのかなあ。自分のことばを動かして、何かを明らかにする。たにんのことばを紹介して、私はこれだけ知っています--だなんて。
 大学でどういう講義をしているのかしらないけれど、聞きたくないなあ。こういう講義を聞かされているのなら、学生はかわいそうだなあ、と思った。




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