渡辺めぐみ「遥か」(「イリプスⅡnd」9、2012年05月25日発行)
渡辺めぐみ「遥か」には、わからないところがある。そして、誰の詩についても思うことなのだが、そのわからないところが一番わかる。いいかえると、そのわからないところへ向けて、私のこころは動いていく。そして、それを「誤読」する。
私が驚いたのは、「枝が心を破ると」である。こころのなかに生えてきた木、その枝。それが、こころを突き破って育っていく。
あ、すごい。
頭で考え出した比喩の場合は、こういう具合には行かない。
「比喩」とは人間が思うものであって、その比喩が育っていくにしろ、その領域は想像力に限定される。「心に枝が生え」たときは、とはこころが枝を思い描いたとき、想像したときということであり、枝の育つ範囲は「心のなか」だけである--というのが頭の論理である。
でも、渡辺の枝は「心を破る」。
もちろん「破る」も「比喩」であり、「破る」は「傷つける」という意味であるという具合に読むこともできるはできるが。
違うね。
こころを突き破って、こころの外へと枝が育っていく。これは、枝が渡辺のこころなんかには配慮しないで、木のエネルギー(枝のエネルギー)そのものとして育っていくということだ。(想像力が独立して育っていくこと--という具合にも考えられるけれど、ちょっとそこまで書くと、面倒でうるさいことになるので、省略。)
それはもう一度言い換えると、木が木になってしまうということ。自然になってしまうということ。人間とは無関係になってしまうということ。人間の思い、渡辺の思いを裏切って、育っていく。
自然は、いつでもそういうものだ。
自然は非人情で、人間のこころなどに配慮はしない。うれしかろうが、悲しかろうが、そんなこととは関係なく、木は育つのである。
この非人情は、人間を洗い流す。それが気持ちがいい。
何のことかわからない。わからないけれど、わかる。
枝は、そこに書いてあるように囁いた。それが渡辺には聞こえた。それは、もしかすると渡辺の「こころ」がつくりあげたもう一つの「声」、自分自身の「声」かもしれないが、そんなことを考えるとおもしろくないので、ここはやはり枝が囁いたと思いたい。
その声を聞いてしまったから、渡辺は、その瞬間から、木そのものになるのだ。
もう「心に枝が生え」の「心」はそこには存在しない。
「心」があるとすれば、それは「木」の形になって、育ちながら、「心」とは違う声を発している。
「育つ」とは、別のものになる、ということだ。「育つ」は、「生える」から始まって、「破る」を経て、どこまでも動いていく。「育つ」は「動く」ことなのである。
「互いにこすり合わせ」。これがまた、頭ではつくりだせない1行である。育った木が、その枝がかってに、そういうことをしている。人間の(渡辺の)思いなどは無視して、そこで動いて、自然そのものになる。木は、植物ではなく、このとき「動物」である。「動くもの」である。
「悲しみが飛散し/悲しみが笑う」。「悲しみが飛散」するは、わかる。だが、「悲しみは笑う」はどうか。矛盾している。--けれど、矛盾しているからこそ、「わかる」。頭は矛盾を指摘するが、肉体は悲しくて笑うということを覚えているので、その矛盾を肉体で突き破って、わかってしまうのである。
「火にくべられても/くべられても」の繰り返し。そこに、激しさがある。もうひとつの「自然」の力がある。「自然」はへこたれるということを知らない。
だから「間に合わない」ということはない。「遠すぎる」ということもない。そういう「意識」を突き破って動いている。
そういう力と呼応して動いていることば、それが今回の渡辺の詩だ。
渡辺めぐみ「遥か」には、わからないところがある。そして、誰の詩についても思うことなのだが、そのわからないところが一番わかる。いいかえると、そのわからないところへ向けて、私のこころは動いていく。そして、それを「誤読」する。
地を光が這い
風が這い
木々が凪ぎ倒されると
大切なものが失われた
それを見ていたものの
心に枝が生え
枝が心を破ると
枝々は囁いた
少しだけ間に合わないかもしれない
少しだけ遠すぎるかもしれない
(谷内注・「凪ぎ倒される」は「薙ぎ倒される」の誤植だと思う。)
私が驚いたのは、「枝が心を破ると」である。こころのなかに生えてきた木、その枝。それが、こころを突き破って育っていく。
あ、すごい。
頭で考え出した比喩の場合は、こういう具合には行かない。
「比喩」とは人間が思うものであって、その比喩が育っていくにしろ、その領域は想像力に限定される。「心に枝が生え」たときは、とはこころが枝を思い描いたとき、想像したときということであり、枝の育つ範囲は「心のなか」だけである--というのが頭の論理である。
でも、渡辺の枝は「心を破る」。
もちろん「破る」も「比喩」であり、「破る」は「傷つける」という意味であるという具合に読むこともできるはできるが。
違うね。
こころを突き破って、こころの外へと枝が育っていく。これは、枝が渡辺のこころなんかには配慮しないで、木のエネルギー(枝のエネルギー)そのものとして育っていくということだ。(想像力が独立して育っていくこと--という具合にも考えられるけれど、ちょっとそこまで書くと、面倒でうるさいことになるので、省略。)
それはもう一度言い換えると、木が木になってしまうということ。自然になってしまうということ。人間とは無関係になってしまうということ。人間の思い、渡辺の思いを裏切って、育っていく。
自然は、いつでもそういうものだ。
自然は非人情で、人間のこころなどに配慮はしない。うれしかろうが、悲しかろうが、そんなこととは関係なく、木は育つのである。
この非人情は、人間を洗い流す。それが気持ちがいい。
枝々は囁いた
少しだけ間に合わないかもしれない
少しだけ遠すぎるかもしれない
何のことかわからない。わからないけれど、わかる。
枝は、そこに書いてあるように囁いた。それが渡辺には聞こえた。それは、もしかすると渡辺の「こころ」がつくりあげたもう一つの「声」、自分自身の「声」かもしれないが、そんなことを考えるとおもしろくないので、ここはやはり枝が囁いたと思いたい。
その声を聞いてしまったから、渡辺は、その瞬間から、木そのものになるのだ。
もう「心に枝が生え」の「心」はそこには存在しない。
「心」があるとすれば、それは「木」の形になって、育ちながら、「心」とは違う声を発している。
「育つ」とは、別のものになる、ということだ。「育つ」は、「生える」から始まって、「破る」を経て、どこまでも動いていく。「育つ」は「動く」ことなのである。
心から突き出た枝々は
互いをこすり合わせ
不気味な音を立てて
記憶の風を脱ぐ
十六枚 八十二枚 百六十八枚
脱ぐたびに
悲しみが飛散し
悲しみが笑う
「互いにこすり合わせ」。これがまた、頭ではつくりだせない1行である。育った木が、その枝がかってに、そういうことをしている。人間の(渡辺の)思いなどは無視して、そこで動いて、自然そのものになる。木は、植物ではなく、このとき「動物」である。「動くもの」である。
「悲しみが飛散し/悲しみが笑う」。「悲しみが飛散」するは、わかる。だが、「悲しみは笑う」はどうか。矛盾している。--けれど、矛盾しているからこそ、「わかる」。頭は矛盾を指摘するが、肉体は悲しくて笑うということを覚えているので、その矛盾を肉体で突き破って、わかってしまうのである。
きっとこの地は眠らない
心を突き破った枝々が
火にくべられても
くべられても
激しい心音を
刻み続けて行くだろう
「火にくべられても/くべられても」の繰り返し。そこに、激しさがある。もうひとつの「自然」の力がある。「自然」はへこたれるということを知らない。
だから「間に合わない」ということはない。「遠すぎる」ということもない。そういう「意識」を突き破って動いている。
そういう力と呼応して動いていることば、それが今回の渡辺の詩だ。
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