田中清光「草」(「午前」創刊号、2012年06月05日発行)
私は私自身を意地悪な人間だなあと感じるときがある。気に食わないものは知らん顔をすればいいのだが、なんとなくここが気に食わないといわないと気がすまないときがある。まあ、体調とか、いろんなことが関係しているのだと思うが、きょうのように雨が降るでもなく降っていて、目の調子も変だなあと感じるときは、そういういらいらが出てきてしまう。
これから書くことはそういうことなので、まあ、……。
田中清光「草」は、いわゆる「詩の感性と美しい言葉の表現」を目指したものらしい。「午前」の「創刊の辞」にそういうことが書いてあって、その巻頭の詩なのだから、そういうことなのだろうと思って読んだ。
草はもちろん語れない。ことばをもたない。したがって、もし語るとすれば、その声を聞き取ったひとが代弁するしかない。こういうやさしこころ、ことばをもたない何かのために自分のことばをつかうということが「詩の感性」の「定義」になるかもしれない。
田中は、何を聞いたのか。「一晩じゅう沈黙していた」とまず、ことばから遠い世界を描く。この「遠い世界」が、いわゆる抒情の出発点である。遠いところから、はるばるとやってくる。だれかのために。「語ろうとしている」と「沈黙」のあいだに、ひとつの宇宙がある。それを田中は自分の宇宙として受け止める。
で、そのあと。
「一刻だけの固有の」という繰り返される強調が、私にはうるさく感じられる。「固有」ということばも、なんだか苦しい。「草」にはそぐわない感じがする。草って、「固有」であることを思うのかなあ。草って、たいてい群がってはえている。その群がってはえていることが草の性質だと思うけれど、群がっているからこそ「固有」にあこがれるのかなあ。
それはそれで田中の生き方と重なるのかもしれないけれど、そのあこがれが「一刻だけ」「固有」と二回個別性が強調されると、過剰な感じがするのである。繊細な感じがしない。いや、詩は別に繊細でなくてもいいし、美しいことばが繊細である必要もないのかもしれないけれど、私は、まずここでつまずいてしまった。
「ほとんど語られたことのない」ということは、逆に言えば、少しは語られたことがあるということになる。 そうなの?
まあ、いいけれど。
わからないのは、1連目の「一刻だけの固有の」が2連目では、どうも違っている感じがすることだ。「一刻だけの固有の」というのなら、ていねいに語れば語りきれるのではないだろうか。「複数の時間の複数の」こと、あふれだしてくる様々なことだから「語り尽くせない」ということが生じるのではないのか。
いや、たとえ「一刻だけの固有」であっても、その内容が多いのだということもあるんだろうけれど、そうなら「一刻だけの固有の」とはいわない方が、と思う。
「一刻だけの固有の」何かに、すべてを象徴させる--というのが1連目の意識だと思うが、そういう行為を2連目で「内部から溢れようとしている断片 断片を」と複数化し、「語り尽くせるはずもない」と言われてもねえ。
1連目と「方法論」が違っていない?
詩だから、語り方の方法論は違ってきてもいいのかな?
語ろうとしているが、語り尽くせるはずもないので、沈黙を守っている。--という「意味」になるのかなあ。そういう生き方に田中は自分を重ねているということだろう。草を描写する形で自分自身を語っている、ということなのだと思う。
何かを語りたい、でも語り尽くせない--これは共感をよびやすい感覚だなあ。
で。
そういうことは、わかるのだけれど。
わかりすぎるのだけれど。(もし、私の読み方でいいのなら。)
「天上の一つの眼」「まぶしい一つの眼」って何? 太陽? たぶん太陽なのだと想像するのだが。
変じゃない?
ここに書かれている「朝」というのは、明けたばかりの朝だ。「朝の光」が生きているのは「一晩中」があるからただ。暗い夜、その沈黙をこえて、いま朝の光が射している。このとき太陽って、どこにある?
空は空だけれど、天上?
天上にもいろいろな位置があるから、低くても天上は天上と言えるだろうけれど、うーん、私は「真上」を思い浮かべてしまう。「天上」の「太陽」--それは真昼だ。
なぜ、こんなことになったのかな?
たぶんことばを無意識に「美しい」とか「詩的」という枠でくくっているから、こうなってしまったんだね。詩の感性、美しいことばという意識が先にあり、それにひっぱられて「天上」ということばが動いてしまった。「空」という単純なことばでは「詩の感性」とはいえないと思ったのかもしれない。
こういうことばが、この詩には「溢れている」と私には感じられる。
「一刻だけの固有の」もそうだし、「ほとんど語られたことのない」「たやすく読みとらせることもなく」「闇という闇の混濁」「静かにゆだねている」--これらは、「詩の感性」というより「詩の感性としての流通言語」だと私は思う。
「草が何かを語ろうとしている」という1行目は美しいと思うが、そのあとが「流通言語」の洪水という感じがする。
私は私自身を意地悪な人間だなあと感じるときがある。気に食わないものは知らん顔をすればいいのだが、なんとなくここが気に食わないといわないと気がすまないときがある。まあ、体調とか、いろんなことが関係しているのだと思うが、きょうのように雨が降るでもなく降っていて、目の調子も変だなあと感じるときは、そういういらいらが出てきてしまう。
これから書くことはそういうことなので、まあ、……。
田中清光「草」は、いわゆる「詩の感性と美しい言葉の表現」を目指したものらしい。「午前」の「創刊の辞」にそういうことが書いてあって、その巻頭の詩なのだから、そういうことなのだろうと思って読んだ。
草が何かを語ろうとしている
一晩じゅう沈黙していた草が
朝の光のなかから
この一刻だけの固有の語りかけを
草はもちろん語れない。ことばをもたない。したがって、もし語るとすれば、その声を聞き取ったひとが代弁するしかない。こういうやさしこころ、ことばをもたない何かのために自分のことばをつかうということが「詩の感性」の「定義」になるかもしれない。
田中は、何を聞いたのか。「一晩じゅう沈黙していた」とまず、ことばから遠い世界を描く。この「遠い世界」が、いわゆる抒情の出発点である。遠いところから、はるばるとやってくる。だれかのために。「語ろうとしている」と「沈黙」のあいだに、ひとつの宇宙がある。それを田中は自分の宇宙として受け止める。
で、そのあと。
朝の光のなかから
この一刻だけの固有の語りかけを
「一刻だけの固有の」という繰り返される強調が、私にはうるさく感じられる。「固有」ということばも、なんだか苦しい。「草」にはそぐわない感じがする。草って、「固有」であることを思うのかなあ。草って、たいてい群がってはえている。その群がってはえていることが草の性質だと思うけれど、群がっているからこそ「固有」にあこがれるのかなあ。
それはそれで田中の生き方と重なるのかもしれないけれど、そのあこがれが「一刻だけ」「固有」と二回個別性が強調されると、過剰な感じがするのである。繊細な感じがしない。いや、詩は別に繊細でなくてもいいし、美しいことばが繊細である必要もないのかもしれないけれど、私は、まずここでつまずいてしまった。
秘められた草の生涯
ほとんど語られたことのない節から節へ
内部からあふれようとしている断片 断片を
語り尽くせるはずもなかろうが
「ほとんど語られたことのない」ということは、逆に言えば、少しは語られたことがあるということになる。 そうなの?
まあ、いいけれど。
わからないのは、1連目の「一刻だけの固有の」が2連目では、どうも違っている感じがすることだ。「一刻だけの固有の」というのなら、ていねいに語れば語りきれるのではないだろうか。「複数の時間の複数の」こと、あふれだしてくる様々なことだから「語り尽くせない」ということが生じるのではないのか。
いや、たとえ「一刻だけの固有」であっても、その内容が多いのだということもあるんだろうけれど、そうなら「一刻だけの固有の」とはいわない方が、と思う。
「一刻だけの固有の」何かに、すべてを象徴させる--というのが1連目の意識だと思うが、そういう行為を2連目で「内部から溢れようとしている断片 断片を」と複数化し、「語り尽くせるはずもない」と言われてもねえ。
1連目と「方法論」が違っていない?
詩だから、語り方の方法論は違ってきてもいいのかな?
草は表情を
たやすく読みとらせることもなく
天上の一つの眼
朝露を通りぬけ 闇という混濁を抜けてきた
まぶしい一つの眼に
静かにゆだねている
語ろうとしているが、語り尽くせるはずもないので、沈黙を守っている。--という「意味」になるのかなあ。そういう生き方に田中は自分を重ねているということだろう。草を描写する形で自分自身を語っている、ということなのだと思う。
何かを語りたい、でも語り尽くせない--これは共感をよびやすい感覚だなあ。
で。
そういうことは、わかるのだけれど。
わかりすぎるのだけれど。(もし、私の読み方でいいのなら。)
「天上の一つの眼」「まぶしい一つの眼」って何? 太陽? たぶん太陽なのだと想像するのだが。
変じゃない?
一晩じゅう沈黙していた草が
朝の光のなかから
この一刻だけの固有の語りかけを
ここに書かれている「朝」というのは、明けたばかりの朝だ。「朝の光」が生きているのは「一晩中」があるからただ。暗い夜、その沈黙をこえて、いま朝の光が射している。このとき太陽って、どこにある?
空は空だけれど、天上?
天上にもいろいろな位置があるから、低くても天上は天上と言えるだろうけれど、うーん、私は「真上」を思い浮かべてしまう。「天上」の「太陽」--それは真昼だ。
なぜ、こんなことになったのかな?
たぶんことばを無意識に「美しい」とか「詩的」という枠でくくっているから、こうなってしまったんだね。詩の感性、美しいことばという意識が先にあり、それにひっぱられて「天上」ということばが動いてしまった。「空」という単純なことばでは「詩の感性」とはいえないと思ったのかもしれない。
こういうことばが、この詩には「溢れている」と私には感じられる。
「一刻だけの固有の」もそうだし、「ほとんど語られたことのない」「たやすく読みとらせることもなく」「闇という闇の混濁」「静かにゆだねている」--これらは、「詩の感性」というより「詩の感性としての流通言語」だと私は思う。
「草が何かを語ろうとしている」という1行目は美しいと思うが、そのあとが「流通言語」の洪水という感じがする。
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