詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

NODA・MAP番外公演「THE BEE」

2012-06-09 08:54:11 | その他(音楽、小説etc)
NODA・MAP番外公演「THE BEE」(2012年06月08日、北九州芸術劇場)

演出 野田秀樹 出演 野田秀樹、宮沢りえ

 シンプルな舞台構成と演劇の特権が巧みに溶け合った刺激的な舞台である。
 演劇の特権--と私が呼ぶのは、演劇は本物ではなく嘘である、ということである。本物はどこか別のところにあり、それを演じる(真似て見せる)というのが演劇である。芝居である。
 たとえばある事件が起きたとする。その事件をコピーして舞台で演じる。そのとき演じるひとたちは事件の当事者そのものではない。だれかがだれかのふりをしている。どうしても、そこには嘘が入る。そして、その嘘こそ事件の本質でもある。省略できないものである。
 その本質、省略できないものを、想像力でつかみ取る。想像力へ向けて投げつける。
 その嘘と本質を役者が肉体で表現するというのが演劇の特権である、ともいえる。これを、この芝居では登場人物よりも役者が少ないという手法で見せる。一種の早変わり。ある人物が、次の瞬間別の人物になるが役者は同じ。想像力のなかで、ストーリーは動きはじめる。
 この芝居では、具体的には野田秀樹の妻とこどもを人質に取っている犯人の家(宮沢りえ)へ、警官が野田秀樹を届ける。警官はそこで野田秀樹によって殴られ、外へ放り出される。その瞬間から警官は宮沢りえの息子を演じはじめる。--という具合である。そして、その息子は、あるときは野田秀樹の家族を人質に取った犯人も演じる。被害者と加害者、加害者と被害者をひとつの肉体で演じる。
 野田秀樹も、宮沢りえも同じである。最初は被害者であったのに加害者になり、被害者なのに加害者に同情したりする。
 そのとき観客のなかで動く想像力--それが演劇なのだ。観客の想像力を刺激しながら、いま起きている関係をリアルに感じさせるのが演劇なのだ。
 しかし、ただ関係を浮き彫りにする--現実(世界)の構造の謎解きをするというだけなら、演劇である必要はない。小説でも評論でもいい。それが演劇であるというときには、そこに役者の肉体がからんでこなくてはいけないのだが。
 うまいなあ。
 野田秀樹がうまいなあ。宮沢りえも、警官→こども→犯人を演じた役者(だれ?)もうまいが、野田がうまい。早変わりだとか、被害者・加害者の入れ代わりによる世界の構造というようなことをぶっとばして、そこに肉体がある。観客の視線を惹きつける。ときにはスローな動きで開脚開き(バレエダンサーみたいだ)をやったり激しく踊ったり、蜂の羽根音に苦しみ動けなくなったり--ストーリーを逸脱(?)しているような部分で、しっかりと存在をみせつける。演じられている役者の過去を噴出される。野田の肉体訓練の過去を噴出させる。そこに、演じられている「役」以上のものが溢れてくる。
 つまり(言い換えると?)、ストーリーを肉体がなぞり、想像力が世界の真実にふれる瞬間を演じながら、そのストーリーや真実と思われるものまで、肉体で破壊して見せる。私たちが真実と思い込んでいるものは単なる想像力の名残である。現実の本質は想像力ではない、と否定して見せる。こにあるのは肉体である、ここに生きているのは不透明な人間であると宣言する。
 まあ、それも演劇の特権。役者の特権、役者の肉体の特権というものだろうけれど。
 それにしても野田秀樹は立ち姿が美しいなあ。無駄がない。余分な力が入っていない。いや、こんなに美しく見えるのは、どこかに無理をしているからなのだろうけれど、そう感じさせない。だから小さい体なのに、小さく見えない。
 宮沢りえも、後半の台詞のない部分が美しかったなあ。「下谷万年町」のヒロインのときほどの魅力はないが、今回は受けの演技でむずかしい面があるのかもしれない。

 と、その野田の特権的な肉体に非常に感心した上でのことなのだが。
 この芝居には、しかし、不満がある。ほんとうは、これを書きたくて、私は感想を書いている。
 北九州芸術劇場の「中劇場」でやったのだが、その劇場に役者の肉体がなじんでいない。野田の肉体でさえ、この劇場を支配しているとはいえない。
 なぜ、こんなことが起きるのか。それは単純に言ってしまえば、中劇場でさえ、この芝居には広すぎるということになるのだが、それとは別の問題もあると思う。それは、この芝居が「地方巡回興行」だからという点だ。北九州芸術劇場の「中劇場」で何度も練習し、何度も上演し、観客の反応を見ながら声の出し方、体の動かし方を調整するという時間が、役者の肉体のなかに蓄積されていない。よその場所で練習してきて、本番前に実際に劇場をつかってリハーサルはしたかもしれないが、それだけでは不十分なのが演劇だと思う。劇場の空気と役者の肉体がなじみ、劇場のなかに役者の肉体のなごりが漂っていないと、役者の肉体は自然な動きにはならない。劇場のなかに残っている過去の役者の肉体の時間が、そのはるかな遠くから舞台の上の役者の肉体を、「ほら、こっちのほうへ動いて」と自然に誘う感じになると、劇場全体が非常に濃密な空間になる。
 声にその問題がいちばん大きく影響する。役者の声が劇場の空間そのものをつかみきっていない。野田秀樹にしても、そういう問題をここではかかえていたように私には感じられる。どこかに隙間ができる。静かな声も大声もきちんと聞こえるのだが、耳のなかから肉体に入ってくるときに、余分な空隙のようなものを抱き込んでしまう。そうすると、ぎすぎす--という感じが残る。こういうとき、どうしても観客の意識は役者の肉体から離れてしまう。ストーリーのほうにひっぱられてしまう。肉体がストーリーを動かしているはずなのに、逆に見えてしまう。
 舞台のうえにではなく、劇場内に、隙間を感じてしまう。舞台の上ではあんなに濃密なのに、それを劇場の空間が薄めてしまう。
 せめて月単位で劇場をつかいこなさないと、役者の肉体は空間になじまないのかもしれない。観客の方も、たぶんなじみの劇場でないと、芝居を正確には受け止めることがむずかしいのかもしれない。イギリスであった初演(りえちゃんは、その芝居に通いつめたということだけれど)を見たかったなあ、と思う。あるいは、せめてここではなく野田が本拠地にしている劇場で見たかったなあ、と思った。
コメント
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