詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みず紀「啓示」

2012-06-02 10:34:34 | 詩(雑誌・同人誌)
三角みず紀「啓示」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 三角みず紀「啓示」は具体的に状況としては母の死を描いているのだと思う。

とっくに絶えましたと
まだ生きている母を
ゆびさし告げられる
まだ生きているでしょうと
わたしが叫ぶも
そのまま隙間からこぼれる

とっくに絶えた母はまだ生きたまま
三日に一度、電話をよこす
いつかは忘れるのだから安心なさい
そう言う
母の顔を忘れ
私は満ち引きを無視したまま
毛布にくるまり
ほの明るい部屋にて
静止している

さも暴力かのように
忘れた母の顔が拡大して宇宙になる
水晶体をつらぬいて
これは壁か

 母が死ぬ。それを認めたくない気持ち。その気持ちのなかでつながっている生きている母。「三日に一度、電話をよこす」。これは、とてもよくわかる感覚である。かってに、私がわかると思うだけかもしれないけれど。

 3連目の「さも暴力かのように」。私は、ここで立ち止まってしまった。「暴力」? 「かのように」? このことばを動かしているのは何?
 そして、ふいに、その直前に読んだ最果タヒ「夏」にも「暴力」が出てきたことを思い出した。

きみを、私が知らないことはひとつの暴力だ。

 知らないこと、とは存在を存在として成立させないこと、くらいの「意味」になるかもしれない。きみを私が知らないとき、きみは存在しない。私のなかでは存在しない。そういう存在の拒否の仕方は暴力である。
 何かしら三角と最果のことばには共通性かある。実際、私はうっかりしていて、二人の死を取り違えることもあるのだが、その親密性(近似性)は、存在をどうやって存在させるか--存在と私の「接続」のあり方、あるいは「断絶」のあり方と関係しているかもしれない。
 でも、これは簡単には言えないなあ。
 きょうは、ちょっと違った感想を書く。三角の詩についてだけ、書く。

 3連の短い詩だが、ことばの動きが連語とによって微妙に違っている。その違いから「暴力」にまでことばを動かしたいのだが、動いてくれるかどうかわからない。

とっくに絶えましたと
まだ生きている母を
ゆびさし告げられる
まだ生きているでしょうと
わたしが叫ぶも
そのまま隙間からこぼれる

 ここでは、私は1行目と4行目の「と」がかわっているなあ、と感じた。かわっているなあ、というのは--うーん、もったりしているなあというか。非常に散文的である。「と」によって、それ以前のことばと「話者」が緊密に結びつく。
 「とっくに絶えました」と言ったのは医師だろう。医師が「(あなたのおかあさんは)息絶えました」と言った。「まだ生きているでしょう」と叫ぶのは「私」。そこでは「息絶えた」「生きている」ということが主題として語られながら、実は、「主語」の違いが明確にされているのである。「話者」が問題にされているである。
 「話者」が対象(冷たいことばでごめんなさい)である「母」とどうつながるか。その強い接続が「と」で強調され、接続を強調することで「話者」を浮かび上がらせる。
 作品から「と」を取ってみるとわかる。意味は変わらない。そして、「と」がない方が「息絶えた」のか「生きているのか」で争っていることがわかる。「と」があると、テーマが「客観的」になって、感情が見えない。変な言い方だが、感情よりも、それを言っている「ひと(話者)」が見えてしまう。

わたしが叫ぶも
そのまま隙間からこぼれる

 この2行もとても奇妙である。つまり、独特である。思想というものがあるとすれば、たぶん、このあたりに根深く存在している。
 「わたしが叫ぶも」の「も」。これは何? 「私は叫んだ」+「けれども」の「けれど」が省略された形だろうか。そこには、私がそういうことばで何かをつなぎとめようとしたのだけれど、それができなかった、という気持ちがにじむ。いや、そうではなくて……。「けれど」ということばを省略したい強い気持ちが浮かび上がる。私が叫んだならば、それはそのまま現実になるべきだ、という強い気持ち。
 母はまだ生きている--そう言えば、母は生き返るのだ。
 でも、ことばはむなしい。「気持ち」にこめたことばの力は、「私」と「ことば」の隙間からこぼれ落ちる。ことばは母をつなぎとめられない。
 そうして「わたし」が取り残される。

 母と私の「接続」がなくなる。そうすると、ことばと主語の関係も揺らいでくる。

いつかは忘れるのだから安心なさい
そう言う
母の顔を忘れ

 1連目の「文法」に従うなら、ここは

いつかは忘れるのだから安心なさいと
言う母の顔を忘れ

 になるだろう。
 「と」によることばの接続は、電気で言うと「直列」の接続である。「そう」という指示代名詞をつかったことばの接続は「並列」である。並列からは、パワーの増幅は起きない。そうして、その瞬間から、つまり「並列」になった瞬間から、「接続」は「隙間」そのものになる。
 
 この「並列」が「暴力」である。「並列」がつくりだす「隙間」--それが「わたし」を襲ってくる。不在が、「わたし」を襲ってくる。
 その瞬間を「暴力」と三角は呼んでいるように感じられる。

さも暴力かのように
忘れた母の顔が拡大して宇宙になる
水晶体をつらぬいて
これは壁か

 「水晶体」とは目の水晶体のことだろう。目から入り込み、肉体のなかで宇宙全体のように母の顔が拡大する。「わたし」のなかには母の顔しかない。そのとき、「わたし」は否定される。
 --ここにも強い「暴力」がある。
 けれど、この「暴力」が引き起こす苦痛は、苦痛であって、苦痛ではない。母が私のなかで生きる、甦るということだから。
 三角の「暴力」には、何か、不在になったものが、自分のなかで肉体として甦るときの苦痛と官能がある。それによりかかってはいけないのかもしれないが、よりかかってしまう。
 

オウバアキル
三角 みづ紀
思潮社
コメント
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