松川穂波「傷川」ほか(「イリプスⅡnd」9、2012年05月25日発行)
松川穂波「傷川」の前半はひらがなで書かれている。
この場合、ひらがなは何を意味しているだろうか。漢字がわからない(漢字を書けない人間)が発言者であることを意味しているかもしれない。その証拠(?)に、この詩は次のようにつづく。
「わたし」には「おかあさん」がいる。そして、その「おかあさん」と「おばさんたち」は同じような年代。「わたし」は小学生(低学年)とか、幼稚園とか、そういう設定でことばが書かれていると思う。
そう思って読むと、しかし、どうも私の肉体がむずむずする。違和感があるのだ。こどものことばとは思えない。
「れんこうされるのを」というのは、これはこれで正しい(?)と思う。子どもというのはことばの意味など知らない。知らないけれど、みんながそう言うからそういうだけなのである。そのうち、それが積みかさなって、からだのなかではっきりした意味に育つ。その意味を育てるのが、まあ、社会というものだと思う。
私が変だ、ありえないと思うのは、
この「ずれる」という感覚。これは、子どもにはわからない。だいたい、話している「おばさんたち」にもこれは実感としてはありえない。「ずれ」が意識できるなら、そのひとは話をずらさない。踏みとどまる。「ずれ」が意識できないからずれる。その「ずれ」を認識できるのは、テーマとことばを明確に識別できるひとだけである。
ここに書かれている「わたし」は、子どもではない。こどものふりをしている。
もちろん、子どものふりをしていてもいいのだが、そういうときは最後まで子どもで押し通さないと、気持ちが悪い。--私の場合は、肉体に、ぞくっとした感じが生まれる。このぞくっは、ときには「好き」にかわるものもあるが、松川のことばがかかえているぞくっは、私には絶対になっとくできないものである。私の肉体が完全に拒絶している。
この笑いの描写の「常套句」も、とても気持ちが悪い。何も見ていない。子どもはおかあさんが笑うとき、「かたをゆすって」など意識できない。肩など見ない。これは、笑いをどこか客観的に見ている。笑いではなく、肉体の動きとしてみている。そういう動きがことばに定着するのは、子どもの時代ではない。「れんこう」はわからないまま子どもの肉体のなかに流れ込み、しみつく。しかし、「肩を揺すって笑う」というのは、子どもの肉体には流れ込まない。
なぜか。
「れんこう」はわからないことばである。だから、それを繰り返し繰り返し口にする。そして音が肉体に入っていく。そして意味になる。ところが「肩」も「揺する」も「笑う」も、それは子どもにはわかることがらなのだ。そういうものは肉体に堆積せずに「意味」をつくる。
この「意味」をつくるということ、そしてそれが共有される(常套句になる)ということは、子どものことばの運動とは違う、と私は思う。
これは、子どもっぽい発想だろうか。子どものことばだろうか。たぶん松川はそう頭で考えて書いている。
私は違うと思う。こんなことを子どもが考えるとは思えない。見も知らない「友達」のことなど、子どもには想像できない。ここで書かれているのは、大人が作り上げた子どもの「純情」(?)というものである。こういう純情が、私は大嫌いである。
詩の最後(前半の最後なのだけれど)にきて、世界は一転する。「わたし」はどうやら殺された子どもらしい。おかあさんははんにんらしい。だから、詩の最初の方とは、なにやら世界がねじれていることになる。--まあ、こういうねじれは、詩なのだから別に気にならないが、
これが、またまた非常に気持ちが悪い。なぜ「かおはみえないけど」ということわりがあるのだろうか。子どもはそんなことを考えない。少なくとも、私は考えたことがなかった。手が見える。足が見える。背中が見える。それだけで、おかあさん。手からおかあさんとわかった。背中でわかった。--そのとき、「顔は見えないけど」って、意識がある?
ない。絶対にない。私の肉体の記憶ではそういうことは絶対にない。
「かおがみえないけど」というのは一種の強調である。こういうレトリックは子どもにはない。そういうことを無視して書かれたことばは、私は大嫌いだ。
子どものふりをするな。子どものふりをして、子どもの純情を語るな。
私は子どもが好きではないが、こういう子ども像を作り上げる大人はもっと大嫌いだ。こういう大人に育てられる子どもは不幸だ、と思う。子どもがかわいそうと思うのは、こういう瞬間だ。
*
江夏名枝「いのこり天使」には、ひらがなをたくみにつかった部分がある。
「いのこり」と「いのり」が交錯する。これは大人のことば遊び--に似ているが、ここに子どもがいる。その子どもというのは「れんこう」ということばを口にする松川の子どもに通じるものである。
「いのり」って何?
わからないけれど、「いのこり天使のいのり」と言ってしまうと、そこに「いのこる」ことが何だか正しいもののように思えている。のこっている。まっている。そうすると、いのりがかなう--かどうかわからないけれど、そういうわからないことのなかに「いのり」がだんだん肉体化してくる。
ひらがなは、こんな具合につかうと、とても有効である。「居残り天使の祈り」では、意味がぎすぎすしてきてしまう。
松川穂波「傷川」の前半はひらがなで書かれている。
じぶんのこどもをころして かわにすてたおんなのひとがいました。ふくろのようなものをかぶせられて れんこうされるのをてれびでみていました。かわのなまえはわすれましたが おばさんたちがおしゃべりをしていました。むかしはなんでもかわにすてましたね。 あら いまだっておんだじですよ。れいぞうこをすてたひともいたんんですって。おしゃべりがだんだんずれていって さいごにおおきなこえでみんなわらいました。
この場合、ひらがなは何を意味しているだろうか。漢字がわからない(漢字を書けない人間)が発言者であることを意味しているかもしれない。その証拠(?)に、この詩は次のようにつづく。
わたしのおかあさんも いっしょにかたをゆすってわらっていました。まんしょんのじてんしゃおきばのことでした。
「わたし」には「おかあさん」がいる。そして、その「おかあさん」と「おばさんたち」は同じような年代。「わたし」は小学生(低学年)とか、幼稚園とか、そういう設定でことばが書かれていると思う。
そう思って読むと、しかし、どうも私の肉体がむずむずする。違和感があるのだ。こどものことばとは思えない。
「れんこうされるのを」というのは、これはこれで正しい(?)と思う。子どもというのはことばの意味など知らない。知らないけれど、みんながそう言うからそういうだけなのである。そのうち、それが積みかさなって、からだのなかではっきりした意味に育つ。その意味を育てるのが、まあ、社会というものだと思う。
私が変だ、ありえないと思うのは、
はなしがだんだんずれていって
この「ずれる」という感覚。これは、子どもにはわからない。だいたい、話している「おばさんたち」にもこれは実感としてはありえない。「ずれ」が意識できるなら、そのひとは話をずらさない。踏みとどまる。「ずれ」が意識できないからずれる。その「ずれ」を認識できるのは、テーマとことばを明確に識別できるひとだけである。
ここに書かれている「わたし」は、子どもではない。こどものふりをしている。
もちろん、子どものふりをしていてもいいのだが、そういうときは最後まで子どもで押し通さないと、気持ちが悪い。--私の場合は、肉体に、ぞくっとした感じが生まれる。このぞくっは、ときには「好き」にかわるものもあるが、松川のことばがかかえているぞくっは、私には絶対になっとくできないものである。私の肉体が完全に拒絶している。
わたしのおかあさんも いっしょにかたをゆすってわらっていました。
この笑いの描写の「常套句」も、とても気持ちが悪い。何も見ていない。子どもはおかあさんが笑うとき、「かたをゆすって」など意識できない。肩など見ない。これは、笑いをどこか客観的に見ている。笑いではなく、肉体の動きとしてみている。そういう動きがことばに定着するのは、子どもの時代ではない。「れんこう」はわからないまま子どもの肉体のなかに流れ込み、しみつく。しかし、「肩を揺すって笑う」というのは、子どもの肉体には流れ込まない。
なぜか。
「れんこう」はわからないことばである。だから、それを繰り返し繰り返し口にする。そして音が肉体に入っていく。そして意味になる。ところが「肩」も「揺する」も「笑う」も、それは子どもにはわかることがらなのだ。そういうものは肉体に堆積せずに「意味」をつくる。
この「意味」をつくるということ、そしてそれが共有される(常套句になる)ということは、子どものことばの運動とは違う、と私は思う。
なんでもすてるんだったら くれよんしんちゃんのでいびいでいとかまんがとか げーむぷれーやーないか かわになげてあげたらいいのに。そしたら ころされたこどもが たいくつせずにああべるでしょ。ともだちもできるとおもいます。
これは、子どもっぽい発想だろうか。子どものことばだろうか。たぶん松川はそう頭で考えて書いている。
私は違うと思う。こんなことを子どもが考えるとは思えない。見も知らない「友達」のことなど、子どもには想像できない。ここで書かれているのは、大人が作り上げた子どもの「純情」(?)というものである。こういう純情が、私は大嫌いである。
ゆらゆらするおうちでは はんにんのおんなのひとが あしたようちえんにもっていいくふくろをそろえています。かおはみえないけど せなかのかっこうが わたしのおかあさんそっくりです。かわのなかはおにわみたいに とてもあかるくて おにゆりのはながまんかいです。
詩の最後(前半の最後なのだけれど)にきて、世界は一転する。「わたし」はどうやら殺された子どもらしい。おかあさんははんにんらしい。だから、詩の最初の方とは、なにやら世界がねじれていることになる。--まあ、こういうねじれは、詩なのだから別に気にならないが、
かおはみえないけど せなかのかっこうが わたしのおかあさんそっくりです。
これが、またまた非常に気持ちが悪い。なぜ「かおはみえないけど」ということわりがあるのだろうか。子どもはそんなことを考えない。少なくとも、私は考えたことがなかった。手が見える。足が見える。背中が見える。それだけで、おかあさん。手からおかあさんとわかった。背中でわかった。--そのとき、「顔は見えないけど」って、意識がある?
ない。絶対にない。私の肉体の記憶ではそういうことは絶対にない。
「かおがみえないけど」というのは一種の強調である。こういうレトリックは子どもにはない。そういうことを無視して書かれたことばは、私は大嫌いだ。
子どものふりをするな。子どものふりをして、子どもの純情を語るな。
私は子どもが好きではないが、こういう子ども像を作り上げる大人はもっと大嫌いだ。こういう大人に育てられる子どもは不幸だ、と思う。子どもがかわいそうと思うのは、こういう瞬間だ。
*
江夏名枝「いのこり天使」には、ひらがなをたくみにつかった部分がある。
あいたい
あいたい
あいたい
天使の改行は祈りに似て、いのこり天使のいのり
「いのこり」と「いのり」が交錯する。これは大人のことば遊び--に似ているが、ここに子どもがいる。その子どもというのは「れんこう」ということばを口にする松川の子どもに通じるものである。
「いのり」って何?
わからないけれど、「いのこり天使のいのり」と言ってしまうと、そこに「いのこる」ことが何だか正しいもののように思えている。のこっている。まっている。そうすると、いのりがかなう--かどうかわからないけれど、そういうわからないことのなかに「いのり」がだんだん肉体化してくる。
ひらがなは、こんな具合につかうと、とても有効である。「居残り天使の祈り」では、意味がぎすぎすしてきてしまう。
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