詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高岡淳四「三月、私は前任校の卒業式に行った」

2012-06-10 11:15:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高岡淳四「三月、私は前任校の卒業式に行った」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 高岡淳四は、彼が現代詩手帖に投稿していたころから大好きな詩人である。ことばのリズムが自然で、あ、正直な人間はこんなふうにしてことばを動かすのか、といつも感心していた。一時期、高岡は私の住んでいるところにわりと近いところに住んでいた。そして、私は高岡の教えていた大学病院に入院したことがある。(いまも通院している。)一度会ってみたいと思っていたけれど、ついに会わずじまいである。とても残念だなあ。
 --ということは、詩の感想とは無関係なようで、そうではないかもしれない。
 「三月、私は前任校の卒業式に行った」は、そのタイトル通り、高岡が前に教えていた大学の卒業式に行ったときのことを書いている。なぜ、前の大学の卒業式に? 「ゼミを持つ筈だった学生が卒業するので」、ということらしい。ふーん、大学というのは、というか、教授と学生というのはそんなふうに濃密な関係なのか、と私はちょっと驚いてしまった。こういう関係をていねいに生きるところに、たぶん高岡の正直の基本があるんだな、とも思った。
 ということよりも。
 この詩では、私にはわからないことがあった。わからないことばがあった。

東京への異動に先立って、足下にあることで
さまざまな誤解、さまざまな無関心、
さまざまな行き違い、さまざまな開き直りがあった
足下にあることを理由に話しを元には戻せない、と
自分を納得させてことを進め、引っ越しの寸前に震災が起きた

 この「足下」がわからない。「あしもと?」「あしした?」読み方もわからない。
 「足下にあることで」「足下であることを理由に」は同じ意味だろう。「足下にあることで」の「で」は「理由に」と同じになると思う。
 で、わからないのは「足下にある」の「ある」だね。
 主語は? 「私」、つまり高岡? そうするとそこに書かれている「足」はだれの足?省略されているものがわからない。いったい、何?

 私は高岡の詩で、はじめて「不正直」に出合ったと思った。とても驚いた。
 わからないことばに出合い「不正直」と言われても、たぶん高岡は困惑するだろうけれど、1連目と比較すると、私の書いている「不正直」がわかるかもしれない。

上空からは、富士山の火口がよく見えた
撮影して後でツイッターに投稿したら
フジツボのような富士山ですね、というコメントがついた

 主語は書かれていないが、富士山の火口を見たのは「私(高岡)」である。ツイッターに投稿したのも高岡である。コメントを寄せたのはフォロアー(で、よかったかな?)である。省略されていてもわかるのは、そこに「隠されたもの」がないからである。
 でも2連目の「足下」には隠されていることが「ある」ね。
 で、この「隠し事」を高岡は、ちょっと不思議なことばで描いている。

これで良かったのだろうか、という感情、
自分は賭をして、無理をして、失敗したのではないか、という思い、
これは永劫に回帰する一点だ、その一点を抱えて一年を過ごしてきた
それを、クダラナイ、という人たちの声や
もっと苦しい思いをしている人が黙っているのだからお前は黙れ、という声には
耳を塞いで過ごしてきた
いいから、私にも、私の歌を歌わせろ

 「感情」「思い」--こういうものを「これで良かったのだろうか」とか「自分は賭をして、無理をして、失敗したのではないか」という形で、高岡は、いわば「正直」に書いているのだが。
 うーん。
 この「正直」が、私のなじんできた「正直」とはかなり違っている。
 人とのあいだ、他人とのあいだで動いてない。
 高岡のなか(こころのなか?)だけで動いている。
 おかしいなあ。

 高岡の「正直」は他人と出会い、他人と私が違うということをはっきりさせた上で、他人はこう動くけれど、私はこう動く、という具体的なものだった。それをきちんと書ける「正直」だった。そこには自分に対する尊敬(?)と同時に他人に対する尊敬があった。1連目にもどっていえば、「フジツボのような富士山ですね」とコメントを寄せる人への尊敬というか、そのひとを自分と同じ人間なのだという思いがつないでいる。
 それが「これで良かったのだろうか、という感情、」からはじまる行では、何かが違う。うまくいえないけれど、

足下

 そのことばの「下」という文字がもっている「意味」が正直を縛っている。正直を動かせないようにしている。
 私の考えすぎかもしれないけれど。

 と、書きながら、それでも私はここにも高岡の「正直」を別の形で感じている。

足下

 その「足」に。ここに、こういう肉体をあわらすことばを動かすところに高岡の「正直」がある。人間はみな肉体を持っている。なによりも肉体でつながっている。そういう人間に対する信頼関係のようなものがここにある。

足下

 は、したがって、何かしら矛盾したものを含んでいる。矛盾している。だから、そこに今回の高岡の詩の「思想」そのものが動いているといえるのだが--ちょっと、私には、その「ほんとうのところ」がつかみきれない。たどりきれない。
 で、ああ、一度会いたかったなあ、とまた思うのである。
 私は実際にあったことのある詩人というのは非常に少ないのだが、会うと、そのひとの肉体の記憶が残る。池井昌樹はデブだ、ラーメンを食べると腹が丼鉢のように膨らむというような、どうでもいいことだけれど、その記憶が私の肉体の何かを動かす。こんなにデブだったら、ぼーっと動かずにいるしかないよなあ、というようなところから、池井の「放心」に対する接近がはじまったりする。--そういうことは、詩にとって、幸福か不幸かわからないけれど、何か接近の材料になる。詩はことばだけれど、ことばだけではないのかもしれないなあ。

 脱線した。

 何かしら、不透明で「不正直」なところがある。人間だれでも「正直」だけでは生きてはいけない。そういう意味では、高岡は、非常に人間らしくなったのかもしれない。これまで私にとって高岡は「正直」のかたまりで、会いたいけれど、会うとどきどきしてしまうだろうな、という、不思議な人だった。

 で、またまた余分なことを書いたが……。

十一時半頃にはいつもの先生たちと学食で落ち合い食事をするのを楽しみにしていた
同僚の一人と一年間口をきかなっかた折には
話詩を聞いてくれる人とは、どの話しをしてもその話しになって、
金太郎飴みたい、と考えたこともある

 あ、この部分いいなあ。「正直」が復活している。高岡はどうしたって「正直」にもどるしかないのだね。
 他人がいて、自分がいて、その関係のなかで動いているもの--それを「金太郎飴」と具体的なものにして見つめなおす瞬間。他人とは私が、とてもすっきりするね。そして、そこに「笑い」が生まれる。「笑い」とは客観的なものなのだ。人間は客観的に見れば、滑稽で、笑うしかない生き物なのだ。
 真剣なセックス、なんて、傍から見ればおかしなことだよねえ。笑いだしちゃうよね。そのあとの失恋騒ぎなんて、もっとおかしいかもしれないなあ。ばかみたいなことかもしれないなあ。でも、人間は客観的にはなれない。そこにおもしろさがあるのだけれど。
 
 また脱線した。

 で、このあと、文体が変わります。不思議なおだやかさがことばに広がる。この変化--ああ、変わるために、高岡は東京からもどってきた。そして、変わって、東京へ帰っていくのだということがよくわかる。
 とても安心した。「足下」という、私の知らないことばをつかっていた高岡は、そのことばから「卒業した」と感じた。

父兄席に向かうつもりだった。どうぞ前へ、と促されて
壇上の席に近づくと
話しを聞いていた人たちは頷き、知らなかったひとは驚いた様子でした
みなさんのお顔のほころびが嬉しかったのです
あの人も、この人も、みなさんが私を見る目がやさしかったのです
心配してくれていたのだ、と感じ入りました
私は、東京で努力して、幸せにならないといけないのだと思いました
ようやく、そう思えました







おやじは山を下れるか?
高岡 淳四
思潮社
コメント (2)
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