水無田気流「ニセモノガエリ」(「現代詩手帖」2012年06月号)
水無田気流「ニセモノガエリ」はことばのリズムがおもしろい。
何を書いてあるのかな? 意味は? ということは、関係ないなあ。「にせもの」をめぐるあれこれを書いているのだと思う。タイトルに「ニセモノ」ということばがあるし、詩のなかにも出てくる。
にせもの、というのは、変な言い方だけれど、何かほんものに似ているんだね。ほんものに似ていないとにせものにならないね。
その、「似る」の微妙な感じが、音のなかにある。「オオカラズ」「カゲナラズ」「ホカナラズ」。で、この音の「ずれ(?)」の締め(?)が「ホカナラズ」が、なぜか、不思議に納得がいく--というのは奇妙な言い方だが、「にせもの」にぴったり。
「にせもの」は「にせものにホカナラズ」ということばが、ふいに浮かんでくる。「ホカ」は「他」「外」、どっちだろう。どっちでもいいが、そこには「ふたつ」が存在する。ふたつの存在が、一方が「ほんもの」、他方が「にせもの」という関係をつくる。
対のおもしろさ。
これは、対であるからこそ、非常におもしろい。「カタリ」「マイリ」のなかにある音、「流行します」「通行します」のなかにある音と文字の対。対であることによって、どちらかがほんもの、他方がにせものになる--のかどうかわからないが、そうか、対がなければこういう感覚は生まれないのか、と思う。
この早口ことばのような音の揺らぎ。意味ではなく、そのことばの音、そしてそれを声にするときの肉体の動き(私は音読はしないが、自然に喉や口、舌が動いてしまう)。そこに反復が生み出す快感がある。
反復が生み出す快感というのは、セックスに似ている、と思う。--というのは、余分なことなのか。大切なことなのか。きっと大切なことなのだと思う。
ここには対の代わりに、呼吸がある。しだいに1行の長さが長くなっていくのだが、最後の「とびだすひとかげ すぐさらいます」は、1字あきの呼吸によって長さを調整している。
あ、すごいなあ。
この呼吸の巧みさによって、それまでの対そのものが、意味ではなく呼吸、つまり肉体の反応であることがとても強く実感できる。
これは音をあわせているではない。いや、音もあっている。音によってリズムが印象づけられてはいるのだが、それよりも呼吸があわせられているのだ。
でも音はあっているのだが、何かが違う。
呼吸をあわせるために、音があわせられている。呼吸があってこそ、音はスムーズに動きはじめる。
途中で呼吸しちゃダメだよ。改行さえ1字あきよりすばやく移行した方がおもしろい。「としを/としととしとを」。うーん、英語のm とn とr を筆記体で書くと、でこぼこの山になって、どれがm n r かわからなくなるが、それに似ているね。どれが「とし」の「と」、どれが助詞の「と」? どれだっていいや。
音の変化であると同時に、呼吸の変化というものがあるね。それが、ことばを意味ではなく肉体の反応として動かしていく。
ここには意味もあるけれど、意味なんか気にしないなあ。おもしろいことばを、意味もなくくりかえして遊ぶ。
ちっとうまい例が思いつかないのだけれど。
「岩波文庫」を、唇の両側を指でひっぱって声にするとと「いわなみうんこ」になる。頭のなかでは「岩波文庫」なのに、声は「うんこ」になって飛び散る。このときの、耳の裏切られたよろこび。いや、耳はびっくりし、脳がよろこぶのかな? ということは、どうでもいいのだが、何かしら肉体の刺激になる。快感になる。
思いもかけないものが接近し、そこから快感がはじまる。それが肉体の、内部の変化となって、わけのわからない広がりをする。
これって、セックスだよね。--と、私は、またいいかげんなことを書いてしまう。
水無田気流「ニセモノガエリ」はことばのリズムがおもしろい。
ソラノオト
からかみつづりの夏至線を
たどるは はかなき相克花
マダ トオカラズ タダ カゲナラズ
マダ ミエモセズ デモ ホカナラズ
にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します
にせものにもにたはかなきとしを
としととしとをかたむすびします
何を書いてあるのかな? 意味は? ということは、関係ないなあ。「にせもの」をめぐるあれこれを書いているのだと思う。タイトルに「ニセモノ」ということばがあるし、詩のなかにも出てくる。
にせもの、というのは、変な言い方だけれど、何かほんものに似ているんだね。ほんものに似ていないとにせものにならないね。
その、「似る」の微妙な感じが、音のなかにある。「オオカラズ」「カゲナラズ」「ホカナラズ」。で、この音の「ずれ(?)」の締め(?)が「ホカナラズ」が、なぜか、不思議に納得がいく--というのは奇妙な言い方だが、「にせもの」にぴったり。
「にせもの」は「にせものにホカナラズ」ということばが、ふいに浮かんでくる。「ホカ」は「他」「外」、どっちだろう。どっちでもいいが、そこには「ふたつ」が存在する。ふたつの存在が、一方が「ほんもの」、他方が「にせもの」という関係をつくる。
対のおもしろさ。
にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します
これは、対であるからこそ、非常におもしろい。「カタリ」「マイリ」のなかにある音、「流行します」「通行します」のなかにある音と文字の対。対であることによって、どちらかがほんもの、他方がにせものになる--のかどうかわからないが、そうか、対がなければこういう感覚は生まれないのか、と思う。
にせものにもにたはかなきとしを
この早口ことばのような音の揺らぎ。意味ではなく、そのことばの音、そしてそれを声にするときの肉体の動き(私は音読はしないが、自然に喉や口、舌が動いてしまう)。そこに反復が生み出す快感がある。
反復が生み出す快感というのは、セックスに似ている、と思う。--というのは、余分なことなのか。大切なことなのか。きっと大切なことなのだと思う。
ゆきさきつげぬはなみちを
びんらんしゃんとはこびます
こえをひそめてさけぶこどもら
あっさくきかいのながいかげから
とびだすひとかげ すぐさらいます
ここには対の代わりに、呼吸がある。しだいに1行の長さが長くなっていくのだが、最後の「とびだすひとかげ すぐさらいます」は、1字あきの呼吸によって長さを調整している。
あ、すごいなあ。
この呼吸の巧みさによって、それまでの対そのものが、意味ではなく呼吸、つまり肉体の反応であることがとても強く実感できる。
にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します
これは音をあわせているではない。いや、音もあっている。音によってリズムが印象づけられてはいるのだが、それよりも呼吸があわせられているのだ。
にせものカタリが流行します
にせものマイリが通行します
でも音はあっているのだが、何かが違う。
にせもの(呼吸)カタリが(呼吸)流行します
にせもの(呼吸)マイリが(呼吸)通行します
呼吸をあわせるために、音があわせられている。呼吸があってこそ、音はスムーズに動きはじめる。
にせものにもにたはかなきとしを
としととしとをかたむすびします
途中で呼吸しちゃダメだよ。改行さえ1字あきよりすばやく移行した方がおもしろい。「としを/としととしとを」。うーん、英語のm とn とr を筆記体で書くと、でこぼこの山になって、どれがm n r かわからなくなるが、それに似ているね。どれが「とし」の「と」、どれが助詞の「と」? どれだっていいや。
音の変化であると同時に、呼吸の変化というものがあるね。それが、ことばを意味ではなく肉体の反応として動かしていく。
ご先祖がえりのふりをした 偽物がえりがはやります
ここには意味もあるけれど、意味なんか気にしないなあ。おもしろいことばを、意味もなくくりかえして遊ぶ。
ちっとうまい例が思いつかないのだけれど。
「岩波文庫」を、唇の両側を指でひっぱって声にするとと「いわなみうんこ」になる。頭のなかでは「岩波文庫」なのに、声は「うんこ」になって飛び散る。このときの、耳の裏切られたよろこび。いや、耳はびっくりし、脳がよろこぶのかな? ということは、どうでもいいのだが、何かしら肉体の刺激になる。快感になる。
思いもかけないものが接近し、そこから快感がはじまる。それが肉体の、内部の変化となって、わけのわからない広がりをする。
これって、セックスだよね。--と、私は、またいいかげんなことを書いてしまう。
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