三井喬子『岩根し枕ける』(「思潮社」2012年06月30日発行)
三井喬子『岩根し枕ける』は、タイトルがふたつあるような作品群で構成されているが、タイトルがひとつしかない巻頭の「水」の最初の部分がおもしろい。
「春の水」と「柳の新芽の柔らかな命」が並列でおかれている。「春の水」と「柳の新芽の柔らかな命」がそのとき一体になるのだが、この一体、融合が「動詞」を仲介にしていないところが、とてもおもしろい。「動詞」があれば、たぶん、「水」は「柳」と対応しているのか、「新芽」と対応しているのか、あるいは「柔らかな」か、それとも「命」か、あることばに焦点がしぼりこまれると思うのだけれど、「動詞」がないので、どのことばと結びつけて考えるかは読者に任される。(学校文法的な意味では、最後の「命」だろうけれど。)
この感じは2連目で補足される。
「動詞」があふれる。氾濫する。
「動き出す」「受胎する」「解きほぐす」「満ち(る)」「ふるえる」--これは、すべて1連目の「春の水/柳の新芽の柔らかな命」という2行のことばのなかに隠されている「動詞」である。
隠れていた動詞を春の雪解け水のようにあふれさせている。
それが三井にとっての「いのち」というものなのだろう。
「動き出す」と「受胎する」は紋とちがう言い方があると思うけれど、ことばと肉体がまだ動きはじめたばかりでうまくなじめず(?)、ことばが肉体をひっぱる形で動いてしまうのだろう。
「解きほぐす」と「満ちる」というのは、一見、矛盾した動詞のようにも見える。というのは、「解きほぐ」されるまえの「もの」は硬く結びついている。それがぼどかれるとき、「もの」は水平に広がる。これは、「もの」の嵩が小さくなるという印象がどこかに残る。そのため、えっ、「解きほぐされて、満ちるのか……」と思うのだけれど、すぐ、そうか解きほぐされたものは水平にどこまでも広がり、その広さを覆っていく。だから、「満ちる」か、と納得できる。解きほぐされ、どこまでもどこまでも「満ち」潮のように広がる「もの」。その「もの」たちは、「もの」自身の、固く結ばれていた状態から自由になって「ふるえる」。ふるえている。
それが「いのち」といえば、「いのち」だろう。
ほーっと、溜息がもれる。
美しい光景だなあ、と思う。
「ゆるゆる」も私の肉体には自然に響いてくる。「まぶしい」も明るくていいなあと思う。
「ふるえる」がひらがななのもとてもいい。
ただ、その印象が、後半、がらりと変わってしまう。
三井の書きたいのは、私がいま引用した部分の行、そのことばが乱反射させる「いのち」ではなく、どうも死んでしまった「命」らしい。その「命」を掘り起こし、揺さぶり、いま/ここを突き動かすものとして利用する--というのが詩集全体のテーマにつながっていく。
うーん。
だとすれば(なにが、だとすればなのか、論理が乱れているね)。
最初の「いのち」の描き方は、ちょっと違うんじゃないかなあと思う。まあ、これは私の「感覚の意見」というもの。
「暗い水」(聖運河)、あるいは「聖運河/暗い水」の冒頭である。
学校文法では、たぶん
「臭い」ではなく「臭くなる」、「なる」がないと、「捨てたままにしておくと」という「時間」が生きてこない。
まあ、それは詩だからどうでもいいことなんだけれど--実は、ここが詩のポイントなんだなあ。
「記憶(主語)」は「臭くなる(述語)」、「記憶」は「臭い(述語)」は似ているようでも、違う。特に、間に「捨てたままにしておくと」が入ると、それは完全に違う。
だれかが(主語--私がでもいい)、記憶を(補語)捨てたままにしておくと、記憶は(主語--重複するので省略されるのが一般的)臭くなり、私は(冒頭の主語)それを臭いと感じる。
主語が「記憶」と「私」とふたつある。そして、そのふたつが「臭い」という述語のなかで結びつき、その結びつきのなかに「感じる」という肉体(感覚)が入り込んでくる。感覚をとおして、「対象(もの、この詩の場合、記憶)」は「私(と、仮に呼んでおく)」が融合する。あるいは、「肉体」が解きほどかれて、対象と混じり合う。
こういう肉体があいまいになる一瞬(それは肉体が対象に覆いかぶさり、飲み込み、消化する一瞬と言ってもいいのかもしれない--私は時と場合に応じて、その両方を適当につかいわけているといういいかげんな態度だけれど)、
いろんなことを「誤読」したくなる。
つまり、そこから考えたくなる。
で、そういう一瞬が、私はとてもとても好きなのだけれど……。
これは、好みの問題になってしまうのかなあ、と思うのだけれど。そういう一種の幸福な瞬間のあと、私は、三井のことばに、しばしばつまずいてしまう。
「物語」が入ってくる。「そんな理由」の「そんな」は「埋めるか沈めるかが手っ取り早い」という理由。その説明が「物語」の入り口で、「身元を詮索するのはやめてください」の「詮索する」がストーリーの展開ということになる。
そういう「枠」を利用してことばが動きはじめると、そのときから、あの「肉体と対象の融合」が消えてしまって、何やら「構造物」のようなものが動きはじめる。そこには「肉体」はない。
「声が<肉>に属するからだろうか」はとても魅力的なことばだが、「属する」ということばは「頭」のことばであって、「肉体」のことばではないし(と、私は思う)、「紐が太い頸部を圧迫したとき」というのは、首を絞められたということをわざわざ複雑に言っただけの--そして,その「わざわざ」に「物語」への指向が強く反映しているのだけれど--いやあなことばだ。
私には、どうも三井のやっていることは、三井の感覚を裏切っているように思える。「物語」を捨てると、肉体自体の物語が始まると思う。そこからが三井の詩なのではないか、という予感があって、それにじゃまされて(?)、どうにも読みながら違和感を感じてしまうのである。
これは、またしても私の「感覚の意見」。
うまく説明できないんだけれどねえ……。
三井喬子『岩根し枕ける』は、タイトルがふたつあるような作品群で構成されているが、タイトルがひとつしかない巻頭の「水」の最初の部分がおもしろい。
水、
わたしが生まれたその町の
はずれの小川の
春の水
柳の新芽の柔らかな命
「春の水」と「柳の新芽の柔らかな命」が並列でおかれている。「春の水」と「柳の新芽の柔らかな命」がそのとき一体になるのだが、この一体、融合が「動詞」を仲介にしていないところが、とてもおもしろい。「動詞」があれば、たぶん、「水」は「柳」と対応しているのか、「新芽」と対応しているのか、あるいは「柔らかな」か、それとも「命」か、あることばに焦点がしぼりこまれると思うのだけれど、「動詞」がないので、どのことばと結びつけて考えるかは読者に任される。(学校文法的な意味では、最後の「命」だろうけれど。)
この感じは2連目で補足される。
水、ゆるゆると動き出す春の匂い
受胎する夜のために
解きほぐされる畑
まぶしい期待が満ち
野はふるえる
水よ 水!
「動詞」があふれる。氾濫する。
「動き出す」「受胎する」「解きほぐす」「満ち(る)」「ふるえる」--これは、すべて1連目の「春の水/柳の新芽の柔らかな命」という2行のことばのなかに隠されている「動詞」である。
隠れていた動詞を春の雪解け水のようにあふれさせている。
それが三井にとっての「いのち」というものなのだろう。
「動き出す」と「受胎する」は紋とちがう言い方があると思うけれど、ことばと肉体がまだ動きはじめたばかりでうまくなじめず(?)、ことばが肉体をひっぱる形で動いてしまうのだろう。
「解きほぐす」と「満ちる」というのは、一見、矛盾した動詞のようにも見える。というのは、「解きほぐ」されるまえの「もの」は硬く結びついている。それがぼどかれるとき、「もの」は水平に広がる。これは、「もの」の嵩が小さくなるという印象がどこかに残る。そのため、えっ、「解きほぐされて、満ちるのか……」と思うのだけれど、すぐ、そうか解きほぐされたものは水平にどこまでも広がり、その広さを覆っていく。だから、「満ちる」か、と納得できる。解きほぐされ、どこまでもどこまでも「満ち」潮のように広がる「もの」。その「もの」たちは、「もの」自身の、固く結ばれていた状態から自由になって「ふるえる」。ふるえている。
それが「いのち」といえば、「いのち」だろう。
ほーっと、溜息がもれる。
美しい光景だなあ、と思う。
「ゆるゆる」も私の肉体には自然に響いてくる。「まぶしい」も明るくていいなあと思う。
「ふるえる」がひらがななのもとてもいい。
ただ、その印象が、後半、がらりと変わってしまう。
三井の書きたいのは、私がいま引用した部分の行、そのことばが乱反射させる「いのち」ではなく、どうも死んでしまった「命」らしい。その「命」を掘り起こし、揺さぶり、いま/ここを突き動かすものとして利用する--というのが詩集全体のテーマにつながっていく。
うーん。
だとすれば(なにが、だとすればなのか、論理が乱れているね)。
最初の「いのち」の描き方は、ちょっと違うんじゃないかなあと思う。まあ、これは私の「感覚の意見」というもの。
すべて記憶というものは
捨てたままにしておくと臭い
「暗い水」(聖運河)、あるいは「聖運河/暗い水」の冒頭である。
学校文法では、たぶん
すべて記憶というものは
捨てたままにしておくと臭くなる
「臭い」ではなく「臭くなる」、「なる」がないと、「捨てたままにしておくと」という「時間」が生きてこない。
まあ、それは詩だからどうでもいいことなんだけれど--実は、ここが詩のポイントなんだなあ。
「記憶(主語)」は「臭くなる(述語)」、「記憶」は「臭い(述語)」は似ているようでも、違う。特に、間に「捨てたままにしておくと」が入ると、それは完全に違う。
だれかが(主語--私がでもいい)、記憶を(補語)捨てたままにしておくと、記憶は(主語--重複するので省略されるのが一般的)臭くなり、私は(冒頭の主語)それを臭いと感じる。
主語が「記憶」と「私」とふたつある。そして、そのふたつが「臭い」という述語のなかで結びつき、その結びつきのなかに「感じる」という肉体(感覚)が入り込んでくる。感覚をとおして、「対象(もの、この詩の場合、記憶)」は「私(と、仮に呼んでおく)」が融合する。あるいは、「肉体」が解きほどかれて、対象と混じり合う。
こういう肉体があいまいになる一瞬(それは肉体が対象に覆いかぶさり、飲み込み、消化する一瞬と言ってもいいのかもしれない--私は時と場合に応じて、その両方を適当につかいわけているといういいかげんな態度だけれど)、
いろんなことを「誤読」したくなる。
つまり、そこから考えたくなる。
で、そういう一瞬が、私はとてもとても好きなのだけれど……。
これは、好みの問題になってしまうのかなあ、と思うのだけれど。そういう一種の幸福な瞬間のあと、私は、三井のことばに、しばしばつまずいてしまう。
すべて記憶というものは
捨てたままにしておくと臭くなる
埋めるか沈めるかが手っ取り早い
水の底には暗い墓場があって
男が沈められたのはそんな理由からで
身元を詮索するのはやめてください
「物語」が入ってくる。「そんな理由」の「そんな」は「埋めるか沈めるかが手っ取り早い」という理由。その説明が「物語」の入り口で、「身元を詮索するのはやめてください」の「詮索する」がストーリーの展開ということになる。
そういう「枠」を利用してことばが動きはじめると、そのときから、あの「肉体と対象の融合」が消えてしまって、何やら「構造物」のようなものが動きはじめる。そこには「肉体」はない。
とても長いあいだかかったが
骨だけになったよ骨だけには
ときおり大きな声や小さな声で呼んでみたが
返事がないのは 声が<肉>に属するからだろうか
紐が太い頸部を圧迫したとき
発されたのは
声だったろうか音だったろうか
質問に答えず
白骨はつらねられて横たわっている
「声が<肉>に属するからだろうか」はとても魅力的なことばだが、「属する」ということばは「頭」のことばであって、「肉体」のことばではないし(と、私は思う)、「紐が太い頸部を圧迫したとき」というのは、首を絞められたということをわざわざ複雑に言っただけの--そして,その「わざわざ」に「物語」への指向が強く反映しているのだけれど--いやあなことばだ。
私には、どうも三井のやっていることは、三井の感覚を裏切っているように思える。「物語」を捨てると、肉体自体の物語が始まると思う。そこからが三井の詩なのではないか、という予感があって、それにじゃまされて(?)、どうにも読みながら違和感を感じてしまうのである。
これは、またしても私の「感覚の意見」。
うまく説明できないんだけれどねえ……。
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