季村敏夫『豆手帖から』(書肆山田、2012年06月25日発行)
季村敏夫は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた」と書いた。そのことばの衝撃を私はいまも忘れることができない。阪神大震災のことを書いた詩集だ。その季村は、この詩集では東日本大震災に向き合っている。
「出来事は遅れてあらわれた」は「ことばは遅れてあらわれた」「出来事は、遅れてことばになってあらわれた」ということだと私は思っているが、そうしたことばと現実の関係を震災をとおして体験した季村にとってさえ、東日本大震災は衝撃だった。そのことが、ことばになろうとしてなりきれないもののように、うごめいている。
「しじま」という作品のなかほど。
「うずく」。この動詞の「主語」は何か。「そよ風」か、ありえない散乱のただなかに投げ出された「私(季村)」か、あるいは「男」か。
それは、区別ができない。主語が重なり合う。主語が単独では「あらわれる」ことができない。
ああ、こんなときにまで、「そよ風」というものがある。
その衝撃。
自然は、人情とは無縁の、非情なものである。そして非情であることによって、しかし、「うずく」のだ。非情だからほんとうはうずかないのだが、人間は「うずく」と感じてしまう。そして、「うずく」のなかで重なってしまう。
人間だって、非情さ。だって、何をしていいのかわからないのだから。こういうとき、人情あふれる行為とは何か、そういうことがわからない。人として、人につながるときに、何をしていいのか、わからない。
うなだれている男がいる。
ここへ来いよ。おおいかぶさろうよ。でも、何に? この散乱したものたちに? それとも空き地に? あるいは、「私」に?
もし、男が「私」におおいかぶさるのなら、その瞬間、「私」は男になって、男におおいかぶさることになるだろう。区別がなくなる。
人情というのは、たぶん、私がこれまで考えていたものと違って、他人に対する思いやりのようなものではないのだ。「他人」というものが存在しないのが人情なのだろう。他人になれないのが人情なのだろう。
自然が、「私」と「男」を区別しない。その非情、その非人情。そういうこころの動きが人間のなかにうまれるとき、それが人情になる。これは、もともとこころをもっているものと、もっていないものの、ちょっとしたアンチ・パラレルなのだ。
こういう「場」を通って、ことばは出来事として、おくれてやってくるのかもしれない。
「名前を明かすと もう戻って来ない気がする」。でも、呼ぶには、その「名前」が必要だ。探すには、その「名前」が必要だ。
--ここに矛盾がある。
ことばになろうとして、ことばになれないものがある。つまり、思想、そして肉体がある。
何かが「遅れている」、遅れてしまって、「あらわれる」ことができない。
そして、そこには「あらわれていない」にもかかわらず、私は「あらわれ」を感じる。「あらわれない」が、そこにおおいかぶさり、「あらわれる」まで「うずく」、その「うずき」がここにある。
「逝ぐべぇ」。私はこれをどう読んでいいのか、わからない。
主語は?
ここにいても仕方がない、未練が残るだけだ、「いこう」なら「行く」ではないのか。それとも、亡くなったひとの声なのか。ここまで会いに来てくれた人に感謝し、あの世へ「逝ぐべぇ」と仲間に語りかけているのか。そこに何人いるのか。
「ひとの数、よみとることができない」--この主語は?
「私」? 「名前を……」と言った人? それとも亡くなった人?
ここでも「主語」は重なり合う。区別がつかない。だからこそ、悲痛である。
「し、島々」の言いよどみ。「うしなわれた 名前」とは、どういうことか。うしなわれたのは「名前」ではない。でも、「名前」である。「名前」とともに、私たちは「あらわれる」。「あらわれ」は「名前」をともなう。
だからこそ、主語は?
私は問いかけてみる。そして、その答えが見つからない。何もかもが重なり合う。おおいかぶさっている。そうして、うずいている。
この共感をほどいて分析することは意味がない。この共感には、私たちは、おおいかぶさるしかできない。おおいかぶさるとき、私たちは、おおいかぶさられて、そこにことばにならない鼓動を聞く。
季村敏夫は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた」と書いた。そのことばの衝撃を私はいまも忘れることができない。阪神大震災のことを書いた詩集だ。その季村は、この詩集では東日本大震災に向き合っている。
「出来事は遅れてあらわれた」は「ことばは遅れてあらわれた」「出来事は、遅れてことばになってあらわれた」ということだと私は思っているが、そうしたことばと現実の関係を震災をとおして体験した季村にとってさえ、東日本大震災は衝撃だった。そのことが、ことばになろうとしてなりきれないもののように、うごめいている。
「しじま」という作品のなかほど。
ありえない散乱に投げ出されると、そよ風まで、うずく。
うなだれる 男よ
ここへ 来て
おおいかぶさればよい
「うずく」。この動詞の「主語」は何か。「そよ風」か、ありえない散乱のただなかに投げ出された「私(季村)」か、あるいは「男」か。
それは、区別ができない。主語が重なり合う。主語が単独では「あらわれる」ことができない。
ああ、こんなときにまで、「そよ風」というものがある。
その衝撃。
自然は、人情とは無縁の、非情なものである。そして非情であることによって、しかし、「うずく」のだ。非情だからほんとうはうずかないのだが、人間は「うずく」と感じてしまう。そして、「うずく」のなかで重なってしまう。
人間だって、非情さ。だって、何をしていいのかわからないのだから。こういうとき、人情あふれる行為とは何か、そういうことがわからない。人として、人につながるときに、何をしていいのか、わからない。
うなだれている男がいる。
ここへ来いよ。おおいかぶさろうよ。でも、何に? この散乱したものたちに? それとも空き地に? あるいは、「私」に?
もし、男が「私」におおいかぶさるのなら、その瞬間、「私」は男になって、男におおいかぶさることになるだろう。区別がなくなる。
人情というのは、たぶん、私がこれまで考えていたものと違って、他人に対する思いやりのようなものではないのだ。「他人」というものが存在しないのが人情なのだろう。他人になれないのが人情なのだろう。
自然が、「私」と「男」を区別しない。その非情、その非人情。そういうこころの動きが人間のなかにうまれるとき、それが人情になる。これは、もともとこころをもっているものと、もっていないものの、ちょっとしたアンチ・パラレルなのだ。
こういう「場」を通って、ことばは出来事として、おくれてやってくるのかもしれない。
「名前を明かすと もう戻って来ない気がする」、春の到来を
待つこともなく、「逝ぐべぇ」、この世をあとにしたひとの数、
よみとることができない。
「名前を明かすと もう戻って来ない気がする」。でも、呼ぶには、その「名前」が必要だ。探すには、その「名前」が必要だ。
--ここに矛盾がある。
ことばになろうとして、ことばになれないものがある。つまり、思想、そして肉体がある。
何かが「遅れている」、遅れてしまって、「あらわれる」ことができない。
そして、そこには「あらわれていない」にもかかわらず、私は「あらわれ」を感じる。「あらわれない」が、そこにおおいかぶさり、「あらわれる」まで「うずく」、その「うずき」がここにある。
「逝ぐべぇ」。私はこれをどう読んでいいのか、わからない。
主語は?
ここにいても仕方がない、未練が残るだけだ、「いこう」なら「行く」ではないのか。それとも、亡くなったひとの声なのか。ここまで会いに来てくれた人に感謝し、あの世へ「逝ぐべぇ」と仲間に語りかけているのか。そこに何人いるのか。
「ひとの数、よみとることができない」--この主語は?
「私」? 「名前を……」と言った人? それとも亡くなった人?
ここでも「主語」は重なり合う。区別がつかない。だからこそ、悲痛である。
し、島々
うしなわれた 名前
「し、島々」の言いよどみ。「うしなわれた 名前」とは、どういうことか。うしなわれたのは「名前」ではない。でも、「名前」である。「名前」とともに、私たちは「あらわれる」。「あらわれ」は「名前」をともなう。
だからこそ、主語は?
私は問いかけてみる。そして、その答えが見つからない。何もかもが重なり合う。おおいかぶさっている。そうして、うずいている。
この共感をほどいて分析することは意味がない。この共感には、私たちは、おおいかぶさるしかできない。おおいかぶさるとき、私たちは、おおいかぶさられて、そこにことばにならない鼓動を聞く。
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