長田弘『最後の詩集』(2)(みすず書房、2015年07月01日発行)
「カタコンベで考えたこと」という作品は「シチリア、パルレモのカプチン派修道院の地下墓地で」という後注がついている。地下墓地で「むくろ」を見たときのことを書いている。
緊張感にあふれる書き出しの二行。
「むくろ」だから「生きていない」は当然である。けれど、その「むくろ」を見ながら「死んでいない」と感じる。「死者」なのに「死んでいない」。この「矛盾」について考えている。
「考える」とはことばをととのえて、「矛盾」を「矛盾」ではないものにするということかもしれない。考えようととする石の強さが、二行に強い響きを与えている。
「生きていない」「死んでいない」。そのことばの最後の「ない」という「否定」のなかで、何かが出会っている。それを見つめようとしている力を感じる。
「ない」ということと、人間の関係を考えようとしているように思える。「ない」の繰り返しに、そう感じる。
「ない」をつきつめる前に、長田は、いま見ている「むくろ」を別のことばで言い直している。「死」について、いままで考えてきたことを修正すること(ことばをととのえなおすこと)からはじめる。
「死ぬ」は「この世から姿を消すこと」、この世から姿が「ない」という状態になること。「ない」が「ある」として存在するという「矛盾」が「死」である。言い換えると姿が「ない」が、死が「ある」ということ。けれど、それが「間違い」であると長田は気がついた。
姿は「むくろ」という形になって「ある」。「むくろ」が「ある」が、それは生きては「いない」。そして、その「ない」ということばに誘われて、「死んでいない」という反対のことばが瞬間的にあらわれてくる。何か、いままで感じていたこととはちがうものが動き、そのために「矛盾」した表現が出てきてしまう。「ない」があらわれて、長田を突き動かしている。矛盾した「ない」がある、という緊張をつくり出している。
ここから、少しずつことばを動かすのだ。
「生きていない」の「ない」が「ある」のか、「死んでいない」の「ない」が「ある」のか。区別がつかないが、その「ない」が結びついた形になっている。「むくろ」という存在のなかに、ふたつの「ない」が「ある」。
その「ない」には、「ない」を覆い隠すように「ある」がまとわりついてもいる。
ことばは行をまたいで「むくろ」と結びついている。そのとき、そこには「赤い服」「白いズボン」「とんがった帽子」などが「ある」。この「ある」は、しかし、ほんとうに「ある」のではない。そこに「ある」ものを描写しても、「生きていない」「死んでいない」という「矛盾」を解消することはできない。
長田は、そこに「ある」ものをことばにすることで、少しずつ自分の知っていることばを捨てるのだ。これから考えることを整理するために、余分なことばを捨てるのだ。
これは「表面」を描写しながら、徐々に存在の「内部」へと進んで行くことばの運動なのだが、長田の描写を読んでいると、ときどき「内部(本質)」へ進む運動というよりも、「内部」へ迫るために不要なことばを捨てるという感じがする。正確に、正確に「存在」を描写することば。描写することで、その「存在」から不要な「ことば」を捨ててしまう。長田自身が持っていることばを捨てて、新しいことばを探す。そうやって、先へ先へとことばを動かしていく、その烈しい強さを感じる。
「むくろ」のまとっている衣服を描写し終わると、長田は「骨」と向き合いはじめる。「衣服」を描写することばを捨ててしまって、「骨」にたどりつく。そこに「ある」衣服は、もう、「ない」。本質ではないものをことばにすることで捨て去って、本質に近づいていく。それは遠回りだが、遠回りをしなければたどりつけないほんとうがある。ほんとうに「ある」のは「骨」だ。
そして「骨」だけが「ある」ことを確認したとき、そこに「ない」が「ある」ことに気がつく。「ない」が何だったかが、わかる。そうして、やっと書き出しの、
を、「考え」として言い直すことができる。「むくろ」を見たとき、なぜそう感じたのか、「考え」として言い直すことができる。
次のように。
「凝視している」という「動詞」が「ある」。しかし、眼は「ない」。
「聴いている」という「動詞」は「ある」。しかし、耳は「ない」。
「話そうとしている」という「動詞」はある。しかし、舌は「ない」。
「動詞」は「ある」。「動詞」は「生きている」。けれど、その「動詞」を具体的に表現するための「肉体」が「ない」。
「動詞」と「肉体」の齟齬。それが「死」なのだ。
逆に言うと、肉体「ない」けれど、その「ない」を超えて、そこに「見る」「聞く」「話す」という「動詞」を感じるとき、その「動詞」を「ある」と受け止めるとき、「死」は「実感」になる。死んでもなお「ある」をつづける「動詞」に、長田は共感している。その共感が死を実感にかえる。
長田は、「見つめたい」「聞きたい」「話したい」という欲望が「死んでいない」と感じたからこそ、そこに「生がない」(生きていない)と強く感じた。
その死んでしまった人間の「欲望/本能」の「強さ」を、長田は「凝視」の「凝」、「じっと」、さらに「懸命」ということばでつかみとっている。「動詞」よりも先立って、その「本能」こそが「ある」のかもしれない。
「凝(視)」「じっと」「懸命」は「真剣」ということかもしれない。
長田は「むくろ」と向き合い、長田自身の「真剣」を発見している。「真剣」に、考え、ことばをととのえようとしている。
長田が死んでしまったいま、そのことを強く感じる。
ここにも「ない」があふれている。
人間は生きるために「激情」も「驚怖」も「追憶」も必要とする。「激情」が「ある」。「驚怖」が「ある」。「追憶」が「ある」。そのとき、人間は「生きている」。人間(いのち)が「ある」。
けれども「むくろ(死)」は、それを必要とし「ない」。
そういうものは「むくろ」には「ない」。
「ない」はずだけれど、生きている長田には、それが「ある」ように感じられる。
「むくろ」は「激情」か「驚怖」のためかわからないが、「凝視している」「聴いている」「話そうとしている」。そういう「動詞」を感じさせる形で、そこに「ある」。
こういうことを、長田は、さらに言い直す。
死んでも「ない」は「ない」。この世を去ることができ「ない」。この世に存在しつづける「孤独」。
そう「定義する」(そんなふうに「考え」をととのえる)ことで、長田は、長田自身の「生」を「死」に向けてととのえたのかもしれない。
長田が死んでしまったいま、そんなふうに思える。
この最後の四行を、私は正確につかみとることはできない。
だが「受けいれる」「愛する」という「動詞」がそこにあることを、しっかりとおぼえておきたい。長田は、「未完の人生」を「受けいれ」、そうすることで「完全な人生」を「愛する」ことができたのだと思う。
詩を繰り返し読んでいるうちに、私にも少しはそのことがわかるようになるかもしれない。わからないままでも、繰り返し読んでいれば、そのことばは私の肉体になじむだろう。詩は、わからないまま、そのことばになじむしかないものかもしれない。
「カタコンベで考えたこと」という作品は「シチリア、パルレモのカプチン派修道院の地下墓地で」という後注がついている。地下墓地で「むくろ」を見たときのことを書いている。
誰一人、生きていない。
けれども、誰一人、死んでいない。
緊張感にあふれる書き出しの二行。
「むくろ」だから「生きていない」は当然である。けれど、その「むくろ」を見ながら「死んでいない」と感じる。「死者」なのに「死んでいない」。この「矛盾」について考えている。
「考える」とはことばをととのえて、「矛盾」を「矛盾」ではないものにするということかもしれない。考えようととする石の強さが、二行に強い響きを与えている。
「生きていない」「死んでいない」。そのことばの最後の「ない」という「否定」のなかで、何かが出会っている。それを見つめようとしている力を感じる。
「ない」ということと、人間の関係を考えようとしているように思える。「ない」の繰り返しに、そう感じる。
「ない」をつきつめる前に、長田は、いま見ている「むくろ」を別のことばで言い直している。「死」について、いままで考えてきたことを修正すること(ことばをととのえなおすこと)からはじめる。
ここにいるのは、すべて
死者たちだった。死ぬとは、
この世から、姿を消すことである。
ずっと、そう思っていた。
けれども、ここでは違っていた。
「死ぬ」は「この世から姿を消すこと」、この世から姿が「ない」という状態になること。「ない」が「ある」として存在するという「矛盾」が「死」である。言い換えると姿が「ない」が、死が「ある」ということ。けれど、それが「間違い」であると長田は気がついた。
姿は「むくろ」という形になって「ある」。「むくろ」が「ある」が、それは生きては「いない」。そして、その「ない」ということばに誘われて、「死んでいない」という反対のことばが瞬間的にあらわれてくる。何か、いままで感じていたこととはちがうものが動き、そのために「矛盾」した表現が出てきてしまう。「ない」があらわれて、長田を突き動かしている。矛盾した「ない」がある、という緊張をつくり出している。
ここから、少しずつことばを動かすのだ。
「生きていない」の「ない」が「ある」のか、「死んでいない」の「ない」が「ある」のか。区別がつかないが、その「ない」が結びついた形になっている。「むくろ」という存在のなかに、ふたつの「ない」が「ある」。
その「ない」には、「ない」を覆い隠すように「ある」がまとわりついてもいる。
赤い服を着たむくろ。白いズボンを穿いた
むくろ。とんがった帽子を
目深にかむったむくろ。麻の僧服を
まとったむくろ。両手を組んで
ことばは行をまたいで「むくろ」と結びついている。そのとき、そこには「赤い服」「白いズボン」「とんがった帽子」などが「ある」。この「ある」は、しかし、ほんとうに「ある」のではない。そこに「ある」ものを描写しても、「生きていない」「死んでいない」という「矛盾」を解消することはできない。
長田は、そこに「ある」ものをことばにすることで、少しずつ自分の知っていることばを捨てるのだ。これから考えることを整理するために、余分なことばを捨てるのだ。
これは「表面」を描写しながら、徐々に存在の「内部」へと進んで行くことばの運動なのだが、長田の描写を読んでいると、ときどき「内部(本質)」へ進む運動というよりも、「内部」へ迫るために不要なことばを捨てるという感じがする。正確に、正確に「存在」を描写することば。描写することで、その「存在」から不要な「ことば」を捨ててしまう。長田自身が持っていることばを捨てて、新しいことばを探す。そうやって、先へ先へとことばを動かしていく、その烈しい強さを感じる。
「むくろ」のまとっている衣服を描写し終わると、長田は「骨」と向き合いはじめる。「衣服」を描写することばを捨ててしまって、「骨」にたどりつく。そこに「ある」衣服は、もう、「ない」。本質ではないものをことばにすることで捨て去って、本質に近づいていく。それは遠回りだが、遠回りをしなければたどりつけないほんとうがある。ほんとうに「ある」のは「骨」だ。
頭蓋骨。朽ちた歯。頸椎。胸骨。指骨。
尺骨。大腿骨。下肢骨。骨だけだ。
そして「骨」だけが「ある」ことを確認したとき、そこに「ない」が「ある」ことに気がつく。「ない」が何だったかが、わかる。そうして、やっと書き出しの、
誰一人、生きていない。
けれども、誰一人、死んでいない。
を、「考え」として言い直すことができる。「むくろ」を見たとき、なぜそう感じたのか、「考え」として言い直すことができる。
次のように。
凝視しているが、眼はない。眼窩だけ。
じっと聴いているが、耳はない。沈黙だけ。
懸命に話そうとしているが、舌はない。
「凝視している」という「動詞」が「ある」。しかし、眼は「ない」。
「聴いている」という「動詞」は「ある」。しかし、耳は「ない」。
「話そうとしている」という「動詞」はある。しかし、舌は「ない」。
「動詞」は「ある」。「動詞」は「生きている」。けれど、その「動詞」を具体的に表現するための「肉体」が「ない」。
「動詞」と「肉体」の齟齬。それが「死」なのだ。
逆に言うと、肉体「ない」けれど、その「ない」を超えて、そこに「見る」「聞く」「話す」という「動詞」を感じるとき、その「動詞」を「ある」と受け止めるとき、「死」は「実感」になる。死んでもなお「ある」をつづける「動詞」に、長田は共感している。その共感が死を実感にかえる。
長田は、「見つめたい」「聞きたい」「話したい」という欲望が「死んでいない」と感じたからこそ、そこに「生がない」(生きていない)と強く感じた。
その死んでしまった人間の「欲望/本能」の「強さ」を、長田は「凝視」の「凝」、「じっと」、さらに「懸命」ということばでつかみとっている。「動詞」よりも先立って、その「本能」こそが「ある」のかもしれない。
「凝(視)」「じっと」「懸命」は「真剣」ということかもしれない。
長田は「むくろ」と向き合い、長田自身の「真剣」を発見している。「真剣」に、考え、ことばをととのえようとしている。
長田が死んでしまったいま、そのことを強く感じる。
時の波紋のような、静寂。
激情はない。驚怖も。追憶も。
人が生きるのに必要としてきたものを、
むくろは、何一つ必要としない。
ここにも「ない」があふれている。
人間は生きるために「激情」も「驚怖」も「追憶」も必要とする。「激情」が「ある」。「驚怖」が「ある」。「追憶」が「ある」。そのとき、人間は「生きている」。人間(いのち)が「ある」。
けれども「むくろ(死)」は、それを必要とし「ない」。
そういうものは「むくろ」には「ない」。
「ない」はずだけれど、生きている長田には、それが「ある」ように感じられる。
「むくろ」は「激情」か「驚怖」のためかわからないが、「凝視している」「聴いている」「話そうとしている」。そういう「動詞」を感じさせる形で、そこに「ある」。
こういうことを、長田は、さらに言い直す。
死んでなお、この世を去ることができない、
怖しいほどの孤独。未完の人生を、
死んでも「ない」は「ない」。この世を去ることができ「ない」。この世に存在しつづける「孤独」。
そう「定義する」(そんなふうに「考え」をととのえる)ことで、長田は、長田自身の「生」を「死」に向けてととのえたのかもしれない。
長田が死んでしまったいま、そんなふうに思える。
死んでなお、この世を去ることができない、
怖しいほどの孤独。未完の人生を、
受けいれられなければ、惨めなだけだ、
完全な人生を、人が愛そうとすることは。
この最後の四行を、私は正確につかみとることはできない。
だが「受けいれる」「愛する」という「動詞」がそこにあることを、しっかりとおぼえておきたい。長田は、「未完の人生」を「受けいれ」、そうすることで「完全な人生」を「愛する」ことができたのだと思う。
詩を繰り返し読んでいるうちに、私にも少しはそのことがわかるようになるかもしれない。わからないままでも、繰り返し読んでいれば、そのことばは私の肉体になじむだろう。詩は、わからないまま、そのことばになじむしかないものかもしれない。
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