北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』(思潮社、2015年06月30日発行)
北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』を読みながら、「なぜ詩をよみつづけるのか、と問われたとき」どう答えようかと考えた。
私の場合は単純である。私がどんなことばを読んできたかを知るためである。詩に限らないが、何かを読むということは、それまで私がどんなことばを読んできたかを知ることである。そこに書かれていることがまったく新しいことであっても、私は新しいものと向き合っているのではなく、そこに書かれている古いことば、知っていることばと向き合っている。知っていることばが、書き手によってどう変わっていくのか、それを読んでいる。そして、そのとき私自身のことばがどんなふうに変わっていけるのかを読んでいる。
こんな抽象的なことは、書いても書いたことにはならない。具体的に作品を読んでみる。「道具愛」のなかの「嘘つき機械」。
ここには私の知らないことばはない。つまり、ここに書かれていることばは北川が書いているにもかかわらず、「単語」そのものとしては北川のものではない。新しいことばではなく、既存のことばである。私は、ここに書かれていることばを、すべて読んできている。あるいは、おぼえていると言った方がいいのか。おぼえているということは、それを「つかえる」ということである。
しかし。
ここからが詩の不思議(文学の不思議)なのだが、知っていて、つかえるはずなのに、私は北川の書いているように、そこに書いていることばをつかったことがない。そういうことに気がつく。言い換えると、あ、ことばはこんなふうに「つかえる」のだと、「つかい方」を知る。こんなふうに「つかう」とことばは変わっていく。変わっていけると教えられる。こんなふうに「つかう」と楽しいぞ、とわくわくする。
「真実を告白します」とひとは言うが、それは「真実」ではない。誰もがそう思っている。「真実を告白します」と言うとき、ひとは「嘘」をついている。全部を語っているわけではない。何かを選択しながら語っている。「真実を告白します」は「嘘つき」の始まりなのである。で、それが「ひとり」がやることなら「嘘つき」の始まりですむのだが、何人もがやってしまうと、それは「ひと」がやったことではなく、「真実を告白します」という言い方(ツール)そのものが「機械」になって「嘘」を生み出すのである。「機械」はここでは嘘の「自動(無意識)生産機械」ということである。言い換えると、「機械的に」という比喩で語られるときの「機械」である。(「機械」ということばを、こんなふうに「つかう」ということを、北川のことばを読みながら、私は思い出すのである。)
そして、北川は「機械」そのものになって、つまり「機械的に」、「真実を告白します」の例をならべて見せる。
ドストエフスキイが少女を犯した、というのは「真実」かもしれない。しかし「嘘」かもしれない。たとえば、犯した場所は「浴場」ではないかもしれない。なぜ、「浴場で」と言ったのか。その方が「犯す」という暴力を印象づけることができると考えたからかもしれない。「ベッドで」では「犯した」という印象が弱くなる。「物置小屋で」もつまらない。「浴場で」ということは、少女はあらかじめ裸だったかもしれない。そうすると、ほんとうに「犯した」のか。セックスをしたということを「犯した」と言っているだけなのではないのか、というような疑問が紛れ込む。でも、同意の上でセックスしたのだとしても「犯した」と言った方が劇的で、刺激的だ。ドストエフスキイには「浴場で少女を犯しました」が「似合う」。
私たち(私だけ?)は「真実」など求めていない。何かを語るのにふさわしいことば、「似合う」ことばを求めている。「似合う」ことを「真実」と思いたがっている。「真実」に「似合う」ことばのつかい方を求めている。「似合う」と思うとき、きっと、そこには読者(私)の欲望(本能)が含まれている。あ、私も少女を浴場で犯してみたい。そういう体験をすればドストエフスキイのなれるのだ、と欲望のなかで錯覚する。これが、何か、わくわくする。ことばを読みながら、そこに「書かれていることば=真実」以外のものを、そこに読み取り、余分なことを思う。ことばはきっと「真実」のためにあるのではなく、「余分なこと(妄想)/まだことばにならない本能」を具体的に感じるためにあるのだろう。
イエスが湖上を歩いたというのは「真実」かどうか。湖上を歩いた、というのは「嘘」である。人間にそんなことはできない。だから「神」なのだという「論理」も成り立つが、そういうものは「論理のための論理」、完全な「嘘」にすぎない。では、イエスが湖上を歩いたということばに「真実」はないのか、とういと、そうでもない。ひとはイエスは湖上を歩いた、歩くことができた、と思いたいのである。ことばには、ひとが思いたい「真実」がある。ひとがそう思いたいと願った「真実」がある。「真実」はことばを読んだひとの方にある。イエスの方にあるのではない。イエスは湖上を歩くことができる。その方がイエスに「似合う」。「似合う」とひとは感じることができる。
だから、ドストエフスキイが少女を浴場で犯した、というのも「ドストエフスキイの真実」というよりも、「読者の方の真実」である。読者は、ドストエフスキイが少女を浴場で犯したと思いたい。そういう一種の異様な行動があったからこそ、ああいう傑作が書けたのだと思いたいのだ。少女を浴場で犯す、というのはドストエフスキイに「似合う」。こう考えるとき「わが嘘つき機械」の「わが」は「私たち人間の」という意味になるだろう。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。
一緒に寝た女の数は/記憶にあるものだけで百六十人。鮎川信夫。
それが「真実」かどうか、どうでもいい。そういうことばが谷川俊太郎に「似合う」。鮎川信夫に「似合う」。谷川や鮎川には、そういうことばを言ってもらいたい。そして、谷川や鮎川のまねをして、そういうようなことばを自分も言ってみたい。肉親の死を谷川のよう語れば、悲しみのなかに笑いをふくませることができる。笑いによって、悲しみがいったん遠ざけられ、もういちど押し寄せてくる。その、もう一度押し寄せてくるとき「着実さ」のようなもののなかに、悲しみの本質があるとわかる。ああ、そんなふうに言えたらいいなあ、と思う。谷川の「真実」ではなく、私自身の「欲望」を知るのである。
北川が私のように感じたかどうかは、わからない。しかし、私は北川のことばを読みながらそう感じたのだから、きっとその「感じ」は北川と重なるだろうなあ、と思う。重ならなくても、私は、これが北川の「感じていること」なのだと思い込む。イエスが湖上を歩いた、ということを「真実」と思い込むひとのように。
あ、この感想を書きはじめたとき、書こうとしたことを私はまだ書いているのかな? それとも書こうと思っていたことからずれてしまって、違うことを書きはじめているのかな? 違うことを書きはじめているけれど、どこかでつながっている、のかもしれない。書こうとしていることは、いつでも書きはじめると違ってしまうものだ。
でも、そんなに違っていないかもしれない。
最初に私は、「知っていることばが、書き手によってどう変わっていくのか、それを読んでいる。そして、そのとき私自身のことばがどんなふうに変わっていけるのかを読んでいる。」と書いた。
そのことばに戻っていままで書いてきたことをととのえなおすと、「真実を告白します」と言うときひとは「嘘」をついていると、私はうすうす感じていたが、それが北川のことばを読むことで「確信」のようなものに変わった。「真実の告白はみんな嘘」。これが、私の変化だ。
そして、嘘なのにそれを「真実」と思うのは、そのひとにはそうあってほしいと私たちが思うからだ。きっとその「嘘」がそのひとに「似合う」からだと考えた。この「似合う」ということばは北川はつかっていない。これは北川の詩を読むことで私が完全に変わってしまったことの「証拠」のようなものになると思う。
と、何か「結論」めいたものを書いたら……。
「おや、月見草」という詩がある。これは北川の知人の「K・T」が太宰治『富嶽百景』(富士には月見草がよく似合う)について書いたものを「全面的に引用した」作品。
有名な場面について、
という行がある。
これまで書いたことを「真実を告白します」と言って語られたことば、それは真実なんかであるものか。嘘だからこそ、その嘘を心の深くに焼きつけて、自分の欲望を確かめた、と書き直すと、私はずーっと北川のことばのなかを歩き回って、北川が書いていることを自分が書いたと思い込んでいたことになる。あるいは「K・T」のことばのなかを。「似合う」というのも、この詩を読んだから出てきたんだな。自分で考え出したことばではないぞ、と気づく。
なぜ読むか。きっと、こういうことに気づくために読むのだ、と思う。
北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』を読みながら、「なぜ詩をよみつづけるのか、と問われたとき」どう答えようかと考えた。
私の場合は単純である。私がどんなことばを読んできたかを知るためである。詩に限らないが、何かを読むということは、それまで私がどんなことばを読んできたかを知ることである。そこに書かれていることがまったく新しいことであっても、私は新しいものと向き合っているのではなく、そこに書かれている古いことば、知っていることばと向き合っている。知っていることばが、書き手によってどう変わっていくのか、それを読んでいる。そして、そのとき私自身のことばがどんなふうに変わっていけるのかを読んでいる。
こんな抽象的なことは、書いても書いたことにはならない。具体的に作品を読んでみる。「道具愛」のなかの「嘘つき機械」。
真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
ここには私の知らないことばはない。つまり、ここに書かれていることばは北川が書いているにもかかわらず、「単語」そのものとしては北川のものではない。新しいことばではなく、既存のことばである。私は、ここに書かれていることばを、すべて読んできている。あるいは、おぼえていると言った方がいいのか。おぼえているということは、それを「つかえる」ということである。
しかし。
ここからが詩の不思議(文学の不思議)なのだが、知っていて、つかえるはずなのに、私は北川の書いているように、そこに書いていることばをつかったことがない。そういうことに気がつく。言い換えると、あ、ことばはこんなふうに「つかえる」のだと、「つかい方」を知る。こんなふうに「つかう」とことばは変わっていく。変わっていけると教えられる。こんなふうに「つかう」と楽しいぞ、とわくわくする。
「真実を告白します」とひとは言うが、それは「真実」ではない。誰もがそう思っている。「真実を告白します」と言うとき、ひとは「嘘」をついている。全部を語っているわけではない。何かを選択しながら語っている。「真実を告白します」は「嘘つき」の始まりなのである。で、それが「ひとり」がやることなら「嘘つき」の始まりですむのだが、何人もがやってしまうと、それは「ひと」がやったことではなく、「真実を告白します」という言い方(ツール)そのものが「機械」になって「嘘」を生み出すのである。「機械」はここでは嘘の「自動(無意識)生産機械」ということである。言い換えると、「機械的に」という比喩で語られるときの「機械」である。(「機械」ということばを、こんなふうに「つかう」ということを、北川のことばを読みながら、私は思い出すのである。)
そして、北川は「機械」そのものになって、つまり「機械的に」、「真実を告白します」の例をならべて見せる。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
ドストエフスキイが少女を犯した、というのは「真実」かもしれない。しかし「嘘」かもしれない。たとえば、犯した場所は「浴場」ではないかもしれない。なぜ、「浴場で」と言ったのか。その方が「犯す」という暴力を印象づけることができると考えたからかもしれない。「ベッドで」では「犯した」という印象が弱くなる。「物置小屋で」もつまらない。「浴場で」ということは、少女はあらかじめ裸だったかもしれない。そうすると、ほんとうに「犯した」のか。セックスをしたということを「犯した」と言っているだけなのではないのか、というような疑問が紛れ込む。でも、同意の上でセックスしたのだとしても「犯した」と言った方が劇的で、刺激的だ。ドストエフスキイには「浴場で少女を犯しました」が「似合う」。
私たち(私だけ?)は「真実」など求めていない。何かを語るのにふさわしいことば、「似合う」ことばを求めている。「似合う」ことを「真実」と思いたがっている。「真実」に「似合う」ことばのつかい方を求めている。「似合う」と思うとき、きっと、そこには読者(私)の欲望(本能)が含まれている。あ、私も少女を浴場で犯してみたい。そういう体験をすればドストエフスキイのなれるのだ、と欲望のなかで錯覚する。これが、何か、わくわくする。ことばを読みながら、そこに「書かれていることば=真実」以外のものを、そこに読み取り、余分なことを思う。ことばはきっと「真実」のためにあるのではなく、「余分なこと(妄想)/まだことばにならない本能」を具体的に感じるためにあるのだろう。
イエスが湖上を歩いたというのは「真実」かどうか。湖上を歩いた、というのは「嘘」である。人間にそんなことはできない。だから「神」なのだという「論理」も成り立つが、そういうものは「論理のための論理」、完全な「嘘」にすぎない。では、イエスが湖上を歩いたということばに「真実」はないのか、とういと、そうでもない。ひとはイエスは湖上を歩いた、歩くことができた、と思いたいのである。ことばには、ひとが思いたい「真実」がある。ひとがそう思いたいと願った「真実」がある。「真実」はことばを読んだひとの方にある。イエスの方にあるのではない。イエスは湖上を歩くことができる。その方がイエスに「似合う」。「似合う」とひとは感じることができる。
だから、ドストエフスキイが少女を浴場で犯した、というのも「ドストエフスキイの真実」というよりも、「読者の方の真実」である。読者は、ドストエフスキイが少女を浴場で犯したと思いたい。そういう一種の異様な行動があったからこそ、ああいう傑作が書けたのだと思いたいのだ。少女を浴場で犯す、というのはドストエフスキイに「似合う」。こう考えるとき「わが嘘つき機械」の「わが」は「私たち人間の」という意味になるだろう。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。
一緒に寝た女の数は/記憶にあるものだけで百六十人。鮎川信夫。
それが「真実」かどうか、どうでもいい。そういうことばが谷川俊太郎に「似合う」。鮎川信夫に「似合う」。谷川や鮎川には、そういうことばを言ってもらいたい。そして、谷川や鮎川のまねをして、そういうようなことばを自分も言ってみたい。肉親の死を谷川のよう語れば、悲しみのなかに笑いをふくませることができる。笑いによって、悲しみがいったん遠ざけられ、もういちど押し寄せてくる。その、もう一度押し寄せてくるとき「着実さ」のようなもののなかに、悲しみの本質があるとわかる。ああ、そんなふうに言えたらいいなあ、と思う。谷川の「真実」ではなく、私自身の「欲望」を知るのである。
北川が私のように感じたかどうかは、わからない。しかし、私は北川のことばを読みながらそう感じたのだから、きっとその「感じ」は北川と重なるだろうなあ、と思う。重ならなくても、私は、これが北川の「感じていること」なのだと思い込む。イエスが湖上を歩いた、ということを「真実」と思い込むひとのように。
あ、この感想を書きはじめたとき、書こうとしたことを私はまだ書いているのかな? それとも書こうと思っていたことからずれてしまって、違うことを書きはじめているのかな? 違うことを書きはじめているけれど、どこかでつながっている、のかもしれない。書こうとしていることは、いつでも書きはじめると違ってしまうものだ。
でも、そんなに違っていないかもしれない。
最初に私は、「知っていることばが、書き手によってどう変わっていくのか、それを読んでいる。そして、そのとき私自身のことばがどんなふうに変わっていけるのかを読んでいる。」と書いた。
そのことばに戻っていままで書いてきたことをととのえなおすと、「真実を告白します」と言うときひとは「嘘」をついていると、私はうすうす感じていたが、それが北川のことばを読むことで「確信」のようなものに変わった。「真実の告白はみんな嘘」。これが、私の変化だ。
そして、嘘なのにそれを「真実」と思うのは、そのひとにはそうあってほしいと私たちが思うからだ。きっとその「嘘」がそのひとに「似合う」からだと考えた。この「似合う」ということばは北川はつかっていない。これは北川の詩を読むことで私が完全に変わってしまったことの「証拠」のようなものになると思う。
と、何か「結論」めいたものを書いたら……。
「おや、月見草」という詩がある。これは北川の知人の「K・T」が太宰治『富嶽百景』(富士には月見草がよく似合う)について書いたものを「全面的に引用した」作品。
有名な場面について、
こんな場面が、事実の描写なんかであるものか。
つくりものだからこそ、わたしは
この月見草のイメージを、心の不覚に焼きつけて、
これまで生きてこられたのでありました。
という行がある。
これまで書いたことを「真実を告白します」と言って語られたことば、それは真実なんかであるものか。嘘だからこそ、その嘘を心の深くに焼きつけて、自分の欲望を確かめた、と書き直すと、私はずーっと北川のことばのなかを歩き回って、北川が書いていることを自分が書いたと思い込んでいたことになる。あるいは「K・T」のことばのなかを。「似合う」というのも、この詩を読んだから出てきたんだな。自分で考え出したことばではないぞ、と気づく。
なぜ読むか。きっと、こういうことに気づくために読むのだ、と思う。
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