詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」、久谷雉「物理」

2015-07-05 19:40:54 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」、久谷雉「物理」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 私は「魂」とか「精神」というものが苦手だ。「精神」ということばは「方便」としてつかうが、「魂」ということばはつかわない。存在するとは思えないからである。「こころ」というものも、存在するかどうか、あやしい。
 で、「どこにいても幽霊だ」とはじまる暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」の詩は、最初からとまどってしまうのだが。

血の通わなくなった心臓のなか
一瞬で凍ってしまったきり
もう変わることのない感情が
せめて開きかけたくちびるみたいに
きれいであるよう

 この部分が好きだなあ。
 「精神」も「こころ」も苦手だから「感情」というのも苦手なのだが、「開きかけたくちびる」という具体的な肉体が「感情」なのだな、と感じる。「せめて」は「いのり」のように、強い。強い感情が「いのり」であり、それが「くちびる」と「ひらきかけた(る)」という動詞といっしょに動いているところへ、私の肉体は自然に動いていく。「きれいであるよう」は「いのり」を別のことばで言ったものだろう。
 後半の、

血と肉が蓮の色に開け
山肌を染める時間、
一日が、闇のなかから切開され、
生み落とされる瞬間、
いなくなったすべてのわたしを
抱くことができる時間に、

 この朝の描写が張り詰めていて美しい。「ロータスマウンテン」(チベットにあるのだろう)の朝を知っているわけではないが、あ、こんなふうなのか、と思ってしまう。「蓮の色に開け」の「開く」という動詞のつかい方が、人間の肉体を超え、絶対的というか、宇宙的というか、強烈だ。
 朝という新しい時間のなかに、過去(いなくなったすべてのわたし)を抱くというのは、そういう絶対的な時間と人間(暁方)がしっかり向き合っている感じがして、壮大な感じ(肉体がひろがる感じ)がする。「抱く」という動詞が強い。

平らな
平らな世界を
頭の上を流れていく
冷やかな空気の
匂いで知るよ

 最後の「匂いで知る」というもの、とても印象に残る。「嗅覚」が生きている。目覚めている。



 久谷雉「物理」の後半。

草の上にしゃがむ人よ
立つ力よりも
しゃがむ力に
ゆがめられた足を
わたしくは愛する

 「立つ」と「しゃがむ」を比べ、そこに「ゆがめられた(る)」という動詞を組み合わせているところが魅力的だ。「足」のことを書いているのだが、足を超えて肉体全体の存在を感じる。「ゆがみ」は肉体全体をつたわって、支配する。



ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社
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長田弘『最後の詩集』(6)

2015-07-05 08:56:20 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(6)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「冬の金木犀」は、「詩って何だと思う?」のつづきで言うと、「発見された」金木犀である。
 私は「冬の金木犀」がどんなものか知らなかった。私の知っている金木犀は「甘いつよい香りを放つ」花である。いや、その強い匂いである。
 しかし長田は、「甘いつよい香りを放つ」と書くことで、その金木犀(誰もが知っている金木犀)を捨てる。そして、世界のどこかに隠れていた金木犀を書く。そのことばといっしょに、新しい金木犀が「現れる」。その「現れ」を描写することばを通して、私は新しい金木犀を「知る」。そして、「目覚める」。

秋、人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる。

 「新しいもの(発見されたもの)」は最初はわかりにくい。いままで知っていたものと違うからだ。「静かな緑の沈黙の長くつづく/金木犀の日々」。これは金木犀を描いているのだが、すぐには何かわからない。金木犀が「緑の沈黙」をつづけている、って、どういうこと? 金木犀は常緑樹だ。いつも緑。「沈黙」ということばからは、私は何か「存在しない」という印象をもつ。「不在」の感じ。何かに反論したいけれど、ことばを発せずに沈黙する。そのとき、反論が「不在」になる……という感じ。だから、常緑樹なのに「緑の沈黙」は奇妙。何か、違和感がある。
 その私の違和感を解きほぐすように、長田のことばはつづいてゆく。「緑の沈黙」を長田は言い直している。

金木犀は、実を結ばぬ木なのだ。
実を結ばぬ木にとって、
未来は達成ではない。
冬から春、そして夏へ、
光をあつめ、影を畳んで、
ひたすら緑の充実を生きる、
歯の繁り、重なり。つややかな
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 「緑の沈黙」とは、実を結ばず、「ひたすら緑の充実を生きる」と言い直されている。「実を結ばぬ」ことが「沈黙」。「達成(実を結ぶ)」を求めない。「ひたすら」緑を充実させる。緑は「実」のためではなく、「甘いつよい香りを放つ/金色の小さな花々」のために生きている。きっと、「緑の充実」(太陽から栄養を吸収し、ためこむこと)が、あの花の香りに結びついているのだろう。「光をあつめ、影を畳んで」の「集める」「畳む」という動詞に、そういうことを感じる。「畳む」は「畳み込んで、しまう、蓄積する」というイメージにつながる。
 「ひたすら」というのは、「夏、秋、冬、そして春」に出てきた、

ただに、日々の気候を読む

 の「ただに」ということばを連想させる。長田は「ただ、ひたすらに」何かをするということを「生き方(思想)」としていたのだ。それが、こんなふうことばになってあらわれている。

 最後の二行は、「意味」をつかみとるのが難しい。長田にはわかりきっていることなので、ぱっと言ってしまっている。説明しようとしていない。
 「行為じゃない」は「達成ではない」ということかもしれない。「実を結ぶ」ことではない、と言い換えることもできるかもしれない。「未来(生き方)」を私たちはおうおうにして、何かを達成すること(何らかの結果を出すこと、実を結ぶこと)の先にあると考える。しかし「生きる」ということは、必ずしも「実り」とは関係がない。「実を結ばぬ」ことがあっても、人は生きている。「存在している」。
 長田は、この「存在」を「自由」と結びつけている。
 「実を結ばない」、けれど「緑の充実を生きる」。そこに金木犀の「自由」がある。その「自由」こそが、金木犀の「存在」。「散って/金色の雪片のように降り積もる」花、そしてその花の放つ「甘くつよい香り」、消えていくものを支える生きる緑。でも、そんなことは「言わない」。何のために生きているか、こざかしいことは言わない。「沈黙」をまもり、知らん顔している。そこに長田は「自由」を感じている。

 長田の「哲学/思想」(生き方)の静かな主張を感じた。長田の「肉体」を感じた。


最後の詩集
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みすず書房
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